診療案内

こんにちは!西成民主診療所です。

看護師/訪問看護/駅チカ/人気の日勤のみ/月給35万円〜可/日祝休み/未経験歓迎|大阪市西成区松|西成民主診療所の求人情報

大阪市西成区松2-1-7

電話:06-6659-1010
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内科
 
9時~12時
18時~20時 × × ×
小児科
 
9時~12時 × ×
14時~16時 × × × × ×
18時~20時 × × × ×
整形外科
 
9時~12時 × × × × × ×
14時~16時 × × × × × 〇(※)
18時~20時 × × × × ×
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☆各種健康診断を行っております。健診の種類、内容、ご予約など健診のご不明点がございましたらお気軽にお問い合わせください。
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☆その他、生活上のお悩みなど何でもご相談ください。

 

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西成民主診療所 〒557-0034 大阪市西成区松2-1-7 1F TEL:06-6659-1010   FAX:06-6651-6663
訪問看護ステーション レインボー 〒557-0034 大阪市西成区松2-1-7 4F

TEL:06-6655-2655  FAX:06-6655-2656

西成民主診療所デイケア室 〒557-0034 大阪市西成区松2-1-7 2F

TEL:06-6653-3799  FAX:06-6653-3797

ヘルパーステーションわかば 〒557-0034 大阪市西成区松2-1-7 4F TEL:06-6659-3320   FAX:06-6655-2656
ケアプランセンターさくら 〒557-0034 大阪市西成区松2-1-7 3F

TEL:06-6659-3633  FAX:06-6653-3797

西成民主診療所レンタルきずな 〒557-0034 大阪市西成区松2-1-7 3F

TEL:06-6659-1010  FAX:06-6653-3797

     
病児保育室まつぼっくり 〒557-0034 大阪市西成区松2-1-35 3F

TEL:06-6656-6105  FAX:06-6656-6201

デイサービスセンターつれづれの里 〒557-0012 大阪市西成区聖天下1-10-26 1F

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組合員活動(西成事務所 〒557-0012 大阪市西成区聖天下1-10-26 2F TEL:06-6658-7400  FAX:06-6658-7500

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今昔西成百景(032)

◎天下茶屋の仇討

 「この地で慶長十四年備前の人林源次郎が父・兄の怨敵当麻三郎衛門を討ち本意を遂げたことは、後世天下茶屋の仇討として人口に膾炙されたものである。源次郎の父玄蕃は城主宇喜多秀家に主家の安危を諌めたが、奸臣長船紀伊守の忌むところとなり、長船は当麻三郎衛門をして夜ひそかに玄番の帰途を要して殺害せしめた。長船の悪計は露れて切腹を命ぜられたが、三郎衛門は出奔した。玄番に重三郎・源次郎のニ子あり、父の仇を報ぜんがため、母と下僕二人をつれて仇を求めて国を出たが、母は病んで没し、兄もまた下僕の裏切りから三郎衛門のために殺害された。源次郎は嘗て母の情けにより助命せられたもと同藩の士で、伏見の人形師幸右衛門に頼った。幸右衛門はひそかに木村重成に訴えた。重成これを憐れみ、たまたま淀君の住吉神社参拝の挙あり、大野治長これに従い、その臣となっていた三郎衛門もこれに倍していたので、その知らせを受けた源次郎は幸右衛門とともにその帰路を要して天下茶屋の地に父・兄の仇を報じたものであると伝えられている」(西成区政誌)

武士の「美徳」

 かたち討ち、あだ討ちとも呼ぶが、江戸時代は忠孝の精神にもとづく慣習として手続きをふめば公認された。儒教の影響で、武士の道徳的義務にもなっていた。江戸時代だけでも件数は百件以上に達したといわれているが、実際にははるかに多かったと思われる。
 天下茶屋の仇討ちは、関ヶ原の合戦で西軍が敗北して、豊臣家は二百万石から六十五万石に転落し、一方徳川家康は朝廷から征夷大将軍を贈られ、江戸に幕府を開いて六年目に起こっている。木村重成と大野治長は共に慶長一九年の大阪冬の陣慶長二十年の夏の陣でも一貫して豊臣方の総大将となり、淀君・秀頼と運命を同じくした最も忠実な西国大名である。

豊臣家の復権に

 天下茶屋の仇討ちのあった時は、豊臣家は転落はしたものの、関ヶ原の合戦はいちおう豊臣家は無関係ということで逃げられたとしており、お家再興に幻想をまだもっていたころであった。木村重成と大野治長はこの仇討ちを最大限に利用して、豊臣秀吉ゆかりの殿下茶屋-天下茶屋の名を一世に風靡させると同時に、仇討ちに実質的に助太刀した豊臣グループのイメージアップを計ろうとしたことは、十分考えられることだと思う。事実天下茶屋の名は仇討ち事件によ って一層有名になったといわれている。

仇役が立派な墓に

 ところが意外なことに、今日現場に残されているのは悪人・当麻三郎右衛門の墓だと伝えられる立派な宝塔なのである。場所は天神の森天満宮の境内だが、説明によれば、昭和三十三年まで南へ五 十米の住吉街道沿い「くやし橋」のたも とに建てられていたのが、道路拡張のた め移転したとのこと。「くやし」というのも、当麻三郎右衛門が思わず叫んだ言葉から由来しているとのことだ。
 しかも不思議なことに、「墓」の建立されたのは文政十二(一八二八)と文政十三年のことであり、事件からは実に二二〇年後なのである。

庶民こそ被害者

 結局徳川幕府としては、天下茶屋の仇 討ちが豊臣グループによって演出されたことが、気にいらないということなのだろう。仇討ちは美徳なり、が徳川幕府の 方針だとすれば矛盾は余計に大きくなってくる。
 徳川側による豊臣の残党にたいする追討は、徹底して冷酷なものだった。豊臣びいきは大阪に多く残った。弱いものに 味方する判官びいきの感情は、庶民に共通するものである。しかし、織田・豊臣・ 徳川という三人の独裁者によって命を奪われた、無数の名もなき人々にこそ、哀悼の意が表されるべきではないか。

今昔西成百景(031)

◎幻の緑地公園ー五十年前にあった西成大公園建設の計画

 「本市の緑地計画としては昭和二十二年一月十四日内閣の認可を受けた都市計画公園大小併せて百十二ケ所(八二一八平方粁)がある。その数・面積・配置・連絡・機能をひとまとめにして有機的組織として計画されている。本区内の都市計画公園の予定地としては、北加賀屋公園(桜井町・津守町)の三千七百二十坪・玉出公園(玉出新町通二丁目)の八百四十七坪・西成公園(梅通四・五丁目、梅南通四・五丁目、松通五・六丁目)のー万四千三百九十九坪・津守公園(津守町)の三千六百九十一坪がある」(西成区政誌)

西成にも大規模な公園が必要

 西成区には、住吉公園や住之江公園のような大規模な公園が一つもない。スポ—ツするにも、花見に行くにも、地元を出なければならないということは、街づくりの点ではもちろん、区民の意識の面でも大きな問題だと思う。緑地や災害時の避難場所でも他区と差が生じている。
 ちなみに、私が日頃から声を大にして訴えているところだが、大阪市内二十四行政区中公営のスポーツ施設がゼロというのは、西成区だけなのである。
 それではなぜ、西成には大公園がないのか。先日、南海天下茶屋工場跡地の利用問題で市役所の担当課長と交渉したが、開口 一番彼が言ったことは、「そんな駅前の一等地に公園などは無理です」ということだった。

「集客都市」づくりで地元は無視

 しかし、住吉公園も住之江公園も私鉄や地下鉄の駅前にあり、交通至便で利用者が多いのである。結局、担当課長の考え方は、現磯村市長の提唱する「集客都市づくり」に貢献するような施設なら良い、ということらしい。
 地元にはたいして関係もないマンモス施設を、交通至便な「一等地」に持ち込んで、「西成区民にとっての街づくりの最後のチャンス」を奪ってしまう。そしてみずからは市長のごきげんをとり、出世コ—スに乗ろうとする。そんな役人根性が丸見えで、こっちの気分まで悪くな
ったものである。

現市政は最低の支持率

 昨年秋の大阪市長選挙では、自社公民才—ル与党にかつがれた現市長が当選したとはいえ、わずか有権者比一七・六四%しか得られなかった。もちろん史上最低である。
 忘れもしないことは、投票日の前日の早朝、土曜日で区役所は休みなのに、区長以下の管理職が一丸となって区役所横の地下鉄の駅前に立ち、棄権防止運動をしていた姿である。投票率を相当上げなければ、オ—ル与党候補といえども楽観は許されないとの、新聞報道があったあとのことである。

区民を踏み台にすることは許せない

 歴代区長が最重要課題としてきた、南海天下茶屋工場跡地利用問題、いよいよ具体化の段階にきているのに、だんまりをきめ、一切情報を公開しない。若手のエリ—卜といわれる現区長に、市役所の担当課長らと共通する住民無視の姿勢が感じられて、怒りがわいてくる。区民を踏み台にしての保身は断じて許せない。

区政史の謎

 西成区においても、区の中央部に大規模な緑地公園が必要なことは、五十年も以前から行政も認めてきたことなのである。都市計画公園として、梅南から松にかけて、一辺二百数十米の正方形の大緑地公園が西成公園として建設が計画されていたことからみても、明らかだ。
 せっかくの街づくりの機会を逃してきた、その原因は一体なになのか。西成区政史にも不可解なことが多い。「幻の緑地計画」を何としても、南海天下茶屋エ場跡地で実現しなければと、改めて決意をする。

今昔西成百景(030)

◎「聖天さん」——海照山正円寺

 「聖天山公園内に存在する聖天山古墳は、昭和二十六年に石室が見つかり埴輪や土器・直刀・馬具などの副葬品が出土した確実な古墳である。造営時期は古墳時代の後期、六世紀代と考えられるという。
 この古墳の南側にある、「聖天さん」で名高い正円寺の丘陵は、西向きの前方後円墳の可能性も考えられる。もしそうだとすれば、墳丘長は一〇〇メ —トルを超えるであろう」(大阪市史)
 「聖天さん」と親しまれているのは、西成区と阿倍野区の境にあり、町名としては阿倍野区松虫通三丁目にあたるが、西成区民に長年地元のお寺として馴染まれてきた正円寺のことである。急な階段を昇ると山門にも「海照山天下茶屋天尊」と掲げられている。
 寺伝によると、天慶二年(九三九)権化光道大和尚の開基で般若山阿部寺のー坊で、現在は真言宗東寺派に属する。本尊の大聖歓喜天皇は慈覚大師の作だと伝えられる。

現世利益の「聖天さん」

 聖天山奥の院には、鎮守堂・寄松塚・石切分祠,波切不動明王・弁財天祠・などがあり、そのほかにも、ぼけ封じ地蔵・水子地蔵・水掛け不動明王が参拝者の願いを逃がさじとかまえている。因みにこれら神仏のご利益を挙げてみると商売繁盛・家内安全・産業振興・海上安全・開運出世・芸能上達を願うものであった。
 「聖天さん」はまさに千年このかた、庶民の祈りと願いの場であったといえよう。

遠ざかる海辺

 百度石を廻り疲れて、お寺の庭から西をみれば夕日が海に沈んでいく。人々はここで再び手を合わせる。
 はじめは目の下にあった海岸線も住吉街道ができる頃から遠ざかり始め、江戸時代には十三間堀川の西に迄のびたという。
 海を望見できるところから海照山正円寺と命名されたのだが、「聖天さん」はまた落日信仰の場でもあったのだ。

「聖天さん」ゆかりの人

 以前に毎日新聞の「女の創作」によく入選されていた脇田澄子さんが、千本から「聖天さん」の近くに転宅されてから、もう何年になるか。脇田さんは原稿用紙四枚程度の「掌小説」を作品集にして、毎年手作りで出版されていたが、すでに十号に達するという。先日知人から借りて読ませていただき、感動した。庶民の日常の哀歓がにじみでていて、読み出したら止められない。
 小犬を連れて聖天山公園をよく散歩されている脇田さんの胸のなかに、こんな思いがかくされているのかと、微笑ましい限りである。
 「聖天さん」と民謡をこよなく愛し、三味線教室を開いておられた井佐原幸子さんが、この二月に急逝されたことは、かえすがえすも残念でならない。
 天下茶屋民主診療所を中心にして、西成医療生活協同組合の理事、日本共産党後援会の活動家として永年奮闘されてきた伊佐原さんは、私に民謡の手ほどきをして下さったり、また「現代西成百景」の出版を励ましてくれた得がたい友であった。
 伊佐原さんは、「聖天さん」の坂を登りながら、何を願っていたのだろうか。「もっと心を豊かに、もっとやさしく」を先輩からのメッセ—ジとして受けとめて、「聖天さん」の坂を私は下った。

編者追加】
・「『聖天さん』——海照山正円寺」は、「今昔木津川物語(005)」と「今昔木津川物語(020)」でも案内しています。ぜひご覧ください。
・2024年9月9日9時9分に、組合員の皆さんと「平和のつどい・鐘つき」を聖天さんで行いました。スナップと動画を掲載します。

動画 →

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第18回、第19回

◎極楽浄土即成院と那須与一

 次郎と友子の二人は、今日は京阪電車「東福寺」駅から徒歩約十分の即成院《そくじょういん》に来ている。東福寺と共に有名な泉涌寺《せんにゅうじ》の総門前であり、「極楽浄土へ導く阿弥陀如来《あみだにょらい》と二十五菩薩は宇治の平等院と同じように、現世の極楽を目の当たりにする法悦《ほうえつ》にひたるもの」と由来に。
 友子は「関白の藤原頼通は宇治に平等院を建て極楽往生を願ったが、その子、橘俊綱《たちばなのとしつな》も伏見桃山に山荘を造り、恵心《えしん》僧都《そうず》源信《げんしん》が伏見に建立していた光明院《こうみょういん》を阿弥陀堂として移設し、以後、さまざまな変遷を経て明治時代に現在の地に移りました。と書かれているけど、阿弥陀如来の高さは五・五メ—トル、居並ぶ二十五菩薩もそれぞれ像高が一五〇センチあり、全て国の重要文化財に指定さ
れている。平等院よりも近々と拝観できるし、庶民的で親しみがもてるわね」と早速、ファンになったようだ。
 次郎も「千年以上も前から、あちらこちらに移動しながらも、ほぼ、無傷で保存されていたことも奇跡的だ」とひとしきりに感心している。
 「しかし、即成院は鎌倉時代の武将、那須与一《なすのよいち》ゆかりの寺院としても知られているとか。与一は一七歳の時、源義経にしたがい屋島の合戦に加わり、平家の指した兽の日輪の扇を落とした」友子も「本堂の隣に突然、高さ三メートルもあり巨大な樽のような那須与一の墓なるものが迫ってくるのにはびっくりしたわ」と。義経の奇跡的な大活躍で平家は一ノ谷で負け、中立派の水軍の一部が源氏に味方するという変化が生まれはじめた。しかし、平家は海軍であり海がホームグランドだ。ところが屋島でも義経の意表を突いた作戦で敗れ、平家は屋島を捨て海上に逃れた。
 「日暮れ近くになつて平家の軍船から1艘の船が漕ぎ出され、美しく着飾った女性が竿の先の扇を指差した。『これを射れるか』という挑戦だ。平家は距離を遠ざけ、射落とすのがまずは不可能にしておいて源氏を挑発したのだ。源平両軍が、かたづを呑んで見守っている。源氏としては逃げれば全体の士気が損なわれる。射損じても源氏は武神の加護が無くなったと平家は勇気百倍するだろう。平家の誰が考えついたのか、見事な一発勝負である。今までの義経の奇襲作戦による連勝が、余りにも続きすぎたので、その反動が恐ろしい。選ばれた那須与一《なつのよいち》は若冠、十七歳、『南無八幡大菩薩、願わくば、あの、扇の真中、射させ給ばせ給え。これを射損ずるものならば、弓切折り自害して、人に二度と面を向かふべからず』と祈って波打際に馬を乗り入れ、ちょうとばかりに放った矢は見事、的を射抜き、扇はばらばらに砕けて波間に消えた」
 「次郎ちゃんの話を聞いてるだけで手に汗にぎるわ」
 「突然の指名で結果的には日本の歴史を左右した那須与一は、その後は即成院《そくじょういん》に庵を結び没したということだろう」「浦島太郎みたいになってしまったのかな…」
 「友ちゃん、それはないよ」「認知症のお兄さんの調子はどうなの」
 「有り金残らず懐に入れて旅に出たいと」「次郎さんと弥次喜多道中ね」「いや、それが独りでいきたいと…」「大丈夫なの」「?」「今日は講談ありがとう」「いや、那須与一は伝説ではなく史実なんだけど。本当に」

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」 2017年9月、10月号

編者追加】
 当方が研修医だった頃、小児の難しいがどうしても習得しなければならない検査の一つに、腰椎から髄液を採取する、腰椎穿刺(ルンバール)があります。そういった場面で、指導医(オーベン)曰く「那須与一が扇の的を射る如く、子どもが泣いた時の体動と必ずシンクロナイズする一瞬があるものだ。それを根気よく待って、その一瞬に針を入れるのがコツ」と示唆されました。ものの見事で、それが的中、一回で検査が終了したのを覚えています。その後、検査の時には、与一のごとく「南無八幡大菩薩!願わくば針を的に当たらせ給え!」と心のなかで念じ検査を行ったのは言うまでもありません(笑)。近年、ワクチンの普及のお陰で、ルンバールの機会は少なくなり、こうしたテクニックや「念仏」もすっかり「なまくら」になったのは喜ばしい限りです。

西成子ども食堂(キッズダイニング)開催

 3回目の「キッズダイニングティクアウト版(お持ち帰り)」を開催いたします。今回は住之江区の「味平」さんのご協力をえて、子どもさんに人気のお弁当をご用意しています。お気軽にお越しください。今回もネット・題話での申し込み予約を受け付けしております。(10日の夕刻5時までに事前申し込みをお願いします)

・日時:9月11日(水)午後4時半から7時
・ところ:こつまの里1階(大阪市西成区松2-1-35)

 今回はテイクアウト(持ち帰り)です。是非、ご参加よろしくお願いいたします。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第16回、第17回

◎仏光寺《ぶっこうじ》と後醍醐《ごだいご》天皇の思惑

 今日は京都市の中心地にある大寺、仏光寺《ぶっこうじ》にやって来ました。「真宗仏光寺の本山。建暦二年(一ニニ二)越後|流罪嗷免《るざいほうめん》後の親鸞聖人《しんらんしょうにん》が山科にー宇《いちう》を創建。順徳天皇より興隆正法寺の勅額《ちょくがく》を賜ったのが起こり。嘉歴《かりゃく》二年(一三二七)七世了源の時、本尊が端光《ずいこう》を放って時の後醍醐《ごだいご》天皇の皇居を照らした、という縁から、阿弥陀仏光寺の勅額を賜り、寺名を仏光寺と改め東山渋谷に移したという。天正十四年(一五八六)豊臣秀吉が、大仏殿方広寺を建てるため、寺地を請われて現在地に移った。境内地は約二万平方メートル、境内の諸堂宇は幕末の兵火以後の再建である」と資料参照。
 友子「ひとつ気になるのが、後醍醐天皇に『寺の本尊が端光を放って皇居を照らした』と申し出て、仏光寺という勅額を賜り寺名を改めたと云うのだけど。なにか裏があるの」
 次郎「瑞光とは、目出度い事の兆しを現わす光。当時は後醍醐天皇が無謀にも天皇親政の復活を夢観て、最初の倒幕計画は事前に発覚して失敗したが再度の計画を立て、奈良東大寺、比叡山、円城寺、高野山、播磨の大山寺、伯耆の大山、越前の平泉寺などに檄をとばし非常に備えていた時期だ。了源の動きもそれらの情勢とは無関係であるまい」
 「なんだか生臭い話なのね」「時の権力者にとっては神社仏閣はその大小を問わず、全て『出城』の感覚だかね。一旦事あれば兵舎に早変わりするんだよ」
「昔はね…」「いや、昭和二十年八月十五日(ー九四五)の敗戦時まで基本的には同じ扱いだったと思うよ」友子が「だから憲法上の政教分離の原則は大切なことなのね」とうなづく。
 次郎「この際京の通り名について勉強しておこう。碁盤の目のように整然と区画されている洛中(市の中心部)は、一般に町名より東西と南北の通称名で云われることが多く、また慣れてくれば通称名の方がわかりやすい。例えば仏光寺の場合、高倉通仏光寺下ル新開町とあるが新開町が正式な町名。髙倉通仏光寺下ルが通称である。高倉通が南北の通り、仏光寺が東西の通り、下ルは南に行くこと。反対は上ルで北に行くこと。これは市中を流れる鴨川のながれによっている」
 なお、東西の通りは京都駅から北に、塩小路・七条・北小路・正面・花屋町・六条・五条・万寿寺・松原・高辻・仏光寺・綾小路・四条・錦小路・蛸薬師・六角・二条・姉小路・御池・押小路・二条。
 南北の通りは、東から西へ、寺町・御幸町.越屋町・富小路・柳馬場・堺町・高倉・間之町・東洞院・東屋町・烏丸・両替町・室町・衣棚・新町となっている。
 「お兄さんの認知症の症状はどうなの」「最近は三日に一度は『暴言』を吐いている。突然に激怒するのでおどろくよ」「何のことで?」「衣食住全般」「どうしてるの」「冷静に話合つて最後は八グするけど…」「また話、聞かせて」「ありがとうバイバイ」

大阪きづがわ医療福祉機関紙「みらい」2017年7月、8月号掲載

編者追加】
 京都は、東西は「通り」、南北は「筋」と称します。町筋の名前をわらべうた(てまりうた)にしたものが、

まるたけえびすにおしおいけ(丸・竹・夷・二・押・御池)
あねさんろっかくたこにしき(姉・三・六角・蛸・錦)
しあやぶったかまつまんごじょう(四・綾・仏・高・松・万・五条)
せきだちゃらちゃらうおのたな(雪駄・魚棚)
ろくじょうさんてつとおりすぎ(六条・三哲)
ひっちょうこえればはちくじょう(七条・八・九条)
じゅうじょうとうじでとどめさす(十条)

です。南北もあることはありますが、略します。
 因みに、当方が生まれた所(母が亡くなるまで本籍)東中筋五条上がる天使突抜二丁目でした。東中筋は、筋と言っても西洞院通の西にある狭い路地でした。生誕記念碑が建つ?(わきゃないわな、てんごいうたら、あかしまへんえ 笑)

今昔西成百景(029)

◎元西成寮(松通り)

 「本寮は近時まで存在していたが、昭和四二年七月廃止となった。はじめ更生施設として昭和二三年三月一日定員二〇〇名として開設をみたが、翌五月二棟を増築し定員四八〇名に増加した。そして二四年九月より病弱対象者専用更生施設となり、毎週火曜日梅田厚生館を経て収容し十分な生活指導を行い、健康回復すれば健康者施設に移すなりあるいは就職退寮等の社会復帰を図るよう指導しつつあった。敷地五八四八平方メートル建物ー八二八平方メ—トル」(西成区史)

跡地に松通保育所・集会所・公園

 元市立西成寮を知らない人は多いが、現在の梅南橘集会所、松通保育所、西成児童舘、松通公園がその跡地に出来ていることを知れば、親しく感ずる人も多いのではないか。
 ー九六〇年代後半から七〇年代前半が、わが国の革新運動の高揚期の一つだどいわれるが、大阪においても黒田革新府政の誕生(ー九七ー)、西成においても日本共産党市会議員の初当選(ー九七一・四方棄五郎氏)を準備するたたかいの時期に、西成寮跡地利用の問題が浮上してきた。
 日本共産党は地方選挙の公約に「西成寮跡地には、保育所・集会所・公園の建設を」とかかげた。私も初めての府会選挙を「ポストの数ほど保育所を」と訴えた。また、それまで西成には公立の集会所は一つもなく、区役所の講堂を借りることなどは至難の業であった。ついには区内の多くの団体からも、ほぼ同じような要望が出されて、大きな区民運動になっていった。

住民運動の先頭に立った人

 その中でも、当時西成民主商工会の事務局の松本武夫氏や、新日本婦人の会の役員で跡地近くに住んでおられた本間のぶえさん等の奮闘ぶりは忘れられない。松本氏はその後、正森成二代議士の在阪秘書として活躍し、現在は旅行会社の社長として健在なり。本間さんは残念ながら平成元年に物故されたが、大きな袋を持って赤旗新聞を町内に配達していた姿を、今でも覚えている方も多いと思う。
 西成寮跡地利用実現から二十何年、市立西成会館はその後梅南・橘集会所と名前を変えたが、それこそ結婚式から葬式まで、各種の会議から文化行事まで、どれだけの区民が利用してきたか、単に数字だけでははかり知れないものがある。
 市立松通保育所は、父母と保母が連帯した西成の保育運動の発祥地となった。
 松通公園は地域住民の憩いの場であると共に、春は花見、夏は盆踊りの会場としてなくてはならないものだ。
 このように、公共の施設の跡地利用はやり方によっては、街づくり人づくりに大いに役立つものである。私は西成寮跡地の場合は完全に成功した、と思っているが、それも最初の計画の段階から、住民の要望が寄せられていたからである。

いまこそ南海天下茶屋工場跡地の利用計画を

 その点からいって、私が今いちばん心配なのは、区役所横の南海天下茶屋工場跡地(約四ヘクタ—ル)の利用計画である。歴代の西成区長は「この跡地利用は街づくりの最後のチャンスとして、広く知恵を借りてやりたい」と云ってきていた。ところが、南海の高架工事も終わり、いよいよ跡地問題が全面に出てくるというときに、現区長は黙して語らず、とは一体どういうことか。このままでは南海資本ペ-スで進められ、空室ビルが林立するバブルの塔の二の舞である。早急に情報公開を行い、白紙段階からの住民参加を保障すべきである。

今昔木津川物語(022)

西成・浪速歴史のかいわいシリ—ズ(五)

◎篠山《ささやま》神社 (元町二—九)

 大坂における常設市場としては、古くは天満《てんま》の青果市場《せいかいちば》、靭《うつぼ》の干魚《かんぎょ》市場、雑喉場《ざこば》の生魚《せいぎょ》市場、木津難波の青物《あおもの》市場が有名であるが、その中でももっとも木津難波《きづなんば》市場が新しい。

金で買った特権《とっけん》ふりかざし

 徳川時代には、青果は天満、干魚は靭、生魚は雑喉場と限定《げんてい》され、市場は年々幕府《ばくふ》に巨額《きょがく》の上納金《じょうのうきん》を差《さ》し出し、その代《か》わり取扱品《とりあつかいひん》独占《どくせん》の特権をもらい、生産者の直売《ちょくばい》などは厳《きび》しく禁止されていた。
 しかしそのためには、すべての青果物はわざわざ天満まで搬出《はんしゅつ》せねばならず、その手間《てま》や費用の点で、難波・木津・今宮の百姓《ひゃくしょう》たちは永年にわたり苦しんできた。

子守歌《こもりうた》が今も証言《しょうげん》

 大坂の子守歌に「ねんねんころいち天満の市よ、大根《だいこ》揃《そろ》へて船に積む、船に積んだらどこまでいきやる、木津や難波の橋の下」というのがあるが、大根の生産地である木津村・難波村の人も、わざわざ天満市場を経由《けいゆ》した大根を買わねばならなかったということを、歴史的《れきしてき》に証言したものになっている。

畑場《はたば》八ヵ村の悲願《ひがん》・宿願《しゅくがん》

 かつて畑場八ヵ村と称《しょう》された、勝間《こつま》・中在家《なかざいけ》・今在家《いまざいけ》・今宮《いまみや》・木津《きづ》・難波《なんば》・西高津《にしたかつ》・清堀《きよぼり》の村々は村内|水利《すいり》に乏しく、全面畑場にして水田《すいでん》は全く存在《そんざい》しないという状態だった。また、この辺りの地質《ちしつ》が砂《さ》質であり根菜類《こんさいるい》の栽培《さいばい》には適《てき》していたということもいえる。いずれにしてもこれらの村々の百姓としては、市場《いちば》問題は自らの死活《しかつ》問題として、自然《しぜん》立ち上がらざるをえなかったわけである。
 かくて難波・木津・今宮の百姓たちは、道頓堀《どうとんぼり》南側や湊町《みなとまち》大通りなどで立ち売りをおこなったが、そのつど天満市場からの苦情《くじょう》で幕府も弾圧《だんあつ》に出てきたため、なかなか地元での市場の設置《せっち》は認《みと》められなかった。

人情《にんじょう》代官《だいかん》篠山|十兵衛《じゅうべい》の奮闘《ふんとう》

 難波|八阪《やさか》神社に残る古文書《こもんじょ》によれば、正徳《しょうとく》四年(一七一四)より文化《ぶんか》六年 (一八〇九)まで実に九十五年の間《かん》にわたり、苦情《くじょう》の出るたびに地《ち》を替《か》えながら、密《ひそ》かに立ち売りをつづけ、度々《たびたび》の嘆願書《たんがんしょ》を出し、遂《つい》に、代官篠山十兵衛の尽《じん》力によって文化《ぶんか》六年六月二十七日(一八〇六)次の条件《じょうけん》付《つ》きで立ち売りが許されることになった。
 「市立《いちだち》に似寄《により》の儀致間敷事《いたしまじきそうろうこと》。他所《たしょ》他村《たそん》の荷主《にぬし》青物《あおもの》を持《も》ち来《き》たり候《そうろう》とて決《けっ》して村内《そんない》に立ち入れざる事。十三|品《ひん》(大根・菜類《なるい》・茄子《なす》・人参《にんじん》・冬瓜《とうがん》・白瓜《しらうり》・南瓜《なんか》・西瓜《すいか》・若牛芽《わかごぼう》・葱《ねぎ》・分葱《わけぎ》・芋類《いもるい》蕪《かぶら》)に限り土附《つちつ》きの儘《まま》一荷《いっか》に不足《ふそく》の分だけ村内《そんない》物青<ママ>《あおもの》渡世《とせい》の者へ譲渡《じょうと》し、十三品の儀《ぎ》も一|荷《か》に相成候分《あいなりそうろうぶん》並《ならび》に十三品外の青物は此迄通《これまでどうり》り、天満市場に差し出し申可事《もうしべきこと》。右|聊《いささ》かも違背《いはい》なき様致すべき事」という、大変厳しいものであった。
 しかし、当時としては誠《まこと》に異例《いれい》の出来《でき》事でもあった。

善政《せんせい》の責任《せきにん》を負い自刃説《じじんせつ》も

 「現代西成百景(その二十三)弘治《こうじ》—伊藤村長父子の義侠《ぎきょう》」で、今宮村への朝役《ちょうやく》・神役《しんやく》奉仕《ほうし》に対する課役免除《かやくめんじょ》の恩典《おんてん》を寛政《かんせい》八年(一七九七)に二百数十年ぶりに実現させたという偉業《いぎょう》を紹介したが、その斡旋《あっせん》を行ったのが新代官篠山十兵衛であったのだ。度重《たびかさ》なる住民の立場に立った行政を幕府よりとがめられ、一説《いっせつ》によればその後責任を負い自刃したとの話もある。

今も毎年篠山祭り

 この時に免許《めんきょ》を与えられた難波村百姓市場が、その後木津難波魚青物市場へと発展《はってん》し今日に至っているのである。地元の人は篠山代官の徳《とく》を偲《しの》び、難波八阪神社|境内《けいだい》に篠山神社を建て、今も毎年九月二十六日篠山祭りという祭礼《さいれい》をつづけているという。
 先日、難波八阪神社に参拝《さんぱい》し、神社の人にたずねると、篠山代官は十数年の長きにわたり代官を勤めた後、佐渡《さど》の金山奉行《きんざんぶぎょう》となり五十オで没し墓は佐渡にあるとのことである。