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9時~12時 × ×
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18時~20時 × × × ×
整形外科
 
9時~12時 × × × × × ×
14時~16時 × × × × × 〇(※)
18時~20時 × × × × ×
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今昔西成百景(043)

◎天神の森天満宮

 阪堺線天神の森停留所の西側に、天神の森天満宮はある。線路にそってひろがる境内のもう一方のはしは旧住吉街道に面しているが、数軒の商店などが道路ぎわにあるので、神社は少し入りこんでいる。

樹齢六百年の森

 境内にある樹齢六百年と推定されるくすのき(十三本が大阪市保存樹林に指定されている)は、大きなもので高さ十八メートル、幹回り四メートルあまりもあり、西成区における唯一の森である。
 拝殿の前に立っていると、聞こえてくるのは鳥の声と神社の人が落葉をはきよせる音。ときたまに阪堺線のレールのひびき、チンチンという発車の合図。踏切の警報機の音は高いが、それがやむと静けさがかえって前より深く感じるのが不思議だ。ゆっくりとすぎてゆく時間に合わせて、境内を散策すると、落ち葉焚きの匂いと煙が不意に昔のことを思い出させる。

阪電のたたずまい

 ここは京都の嵐電(京福電鉄嵐山線)や鎌倉の江ノ電(江ノ島鎌倉観光電鉄)の沿線にある古い神社や佛閣のたたずまいにひってきするものがあり、こんな貴重な環境を残してくれている人々に、心から感謝したいと思う。
 大阪市は保存樹の指定はするが、後の管理は個人まかせにされる。毎日の落葉の処理だけでも大変な仕事になる。普通の樹木とはひとけたもふたけたも、落葉の量がちがうのである。
 森林浴の関係もあるのか、つかれたときに十分か十五分、こもれびの中に身をひたすだけでも、心身共ににリフレッシュできる。都会のどまんなかで、オアシスの役割を果たしてくれるこの天神の森天満宮を、地域の宝として大切にしなければと思う。

秀吉の空手形

 「大阪史蹟辞典」(清文堂)によれば「紹鴻の森の天満宮は祭神は菅原道真。社前に子安石のあるところから子安天満宮ともいわれ安産祈願で有名だった。淀君が懐妊したとき、堺の政所(奉行所)に往来していた豊臣秀吉も立ち寄り、無事男子秀頼の出産のため大喜びで寄進し、淀君もお礼参りに訪れたといわれる」となっているが、神社の由緒略記によれば「安らかに秀賴公の出産を見られたことにより、社地一町四方その他神田]を寄進されたが、大阪の陣で御朱印焼失し、延宝検地改めのとき申し出たが認められず、現在の境内地となった」と記されているのもおもしろい。
 「大阪史蹟辞典」は「社前の石牛は住吉の名工細井丈助の作。明治四十二年
(一九〇九)南区法祐寺にあった火除天神を合祀している。境内西の大鳥居傍に建つ「紹鴎の森碑」は芽木家が建てたもの。字は芽木四世昌包の筆。また傍に宝塔が二つ並んでいて、大きい方が「天下
茶屋仇討」の悪人、当麻三郎右衛門の墓だと伝えられるが、これは単なる風説である」
 神社の由緒略記にはまた「茶道中輿の祖、武野紹鴎がこの森の一隅に茶室をつくり、風月を友として暮らしたので『紹鴎杜』と云われている。紹鴎は若くして京都にでて歌道を学び、歌道の奥義をきわめることによって、茶道の極意を感得し、茶名を紹鴻と定め、わびの境地をもって茶道の理想とした。晩年の門人に千利休がいる。秀吉公が堺政所への往来の途中、天満宮西側の茶店で休息、この付近の風景を賞したことからこの地を殿下の茶屋—天下茶屋と称するようになり、当社も『天下茶屋天満宮』と呼ばれるようになった」
 「中世には、天神の御霊神としての性格はうすれ、学問の神として各地に天神さまをまつる天満宮・天神社がつくられた。

菅原道真休息の地

 天神の森天満宮は、道真公が筑紫へ左遷されるおり、住吉明神へ参拝の途中この地に休息され、その後村人によって祠が建立され、応永年間(一三九四— 一四二八)に京都北野天満宮の御分霊を奉斉したと伝えられている。
 現在の本殿は元禄十五年(一七〇二年)七月、拝殿は昭和十二年に建設されたものである」とある。

今昔木津川物語(031)

◎天下茶屋俘虜収容所百年

 明治三七年(ー九〇四)二月、日露《にちろ》戦争が勃発したが、この戦争は、朝鮮と中国東北部の支配をめざす、日露双方の側からの帝国主義戦争であった。
 日本軍の主力である乃木希典《のぎまれすけ》のひきいる第三軍は、八月中に旅順を陥落《かんらく》させるはずであったが、一五五日間の戦争で、日本軍一三万のうち、約五万九千人が死傷し、旅順|要塞《ようさい》は屍《しかばね》で埋まるという激戦となった。
 旅順が一月一日に陥落したのち、旅順要塞に籠城《ろうじょう》していたロシア兵二万人余が俘虜として日本に送られ、大阪は浜寺の南、高石村と西成郡天下茶屋に収容された。

ロシア兵六千人を収容

 元陸軍予備病院今宮分院に、大阪天下茶屋俘虜収容所との標札を掲げたが、その場所は、南海天下茶屋停留所のやや北斜向い、即ち軌道の西側畑の中の約六万坪、その周囲は杉板塀をめぐらし、庁舎は平家建六十棟の他に事務所、繃帯《ほうたい》交換室、調剤室、手術室、厨房《ちゅうぼう》、衛兵、憲兵等の附属庁舎があり、飲料には上水道を用い、電灯、電話もひいたという。

自炊か給食かで騒動

 三千名の先着隊が入所して数日後に、一つの騒動が起こった。最初のうちは給食を出していたが、二月十五日より俘虜中二十名を料理人として、自炊させることとなった。ところが、料理人にされた者の中から不満が出て、ついには申し合わせて自炊を拒否。監督将校は通訳を通して種々説得するも頑《がん》として聞かず、俘虜中班長も料理人に殴打されるありさまで、四十三名が営倉《えいそう》に入れられたが、尚自炊を聞き入れず、やむなく従来の通り給食を行わざるをえなかった。日本軍の中には、彼らが自炊するまでは干乾《ひぼ》しにせよと云う者もあり、一時は騒然となった。

名通訳が現れ一件落着

 三千名の先着隊が入所して数日後に、一つの騒動が起こった。最初のうちは給食を出していところが、問題解決のカギは軍の中に存在した。歩兵第八聯隊補充大隊より、同収容所に派遣した衛兵中十三才の時よりロシアに在留した一兵卒がいることがわかった。試みに同人に通訳させることにし、先ず彼らに自炊させる目的を明らかにさせた。俘虜自らが炊事をすれば、口に合ったものが食べられる。人件費が節約できその分分量も多くなる。いずれは食パンも俘虜の中で心得のある者につくらせる。などくわしく説明させたところ、彼等一同は日本側の意図を了解し、自炊を快諾《かいだく》した。今まで執拗に自炊を拒否していた五百名の者も翌朝自炊を申し出て、今後我等への連絡は今回のように、詳細明瞭《しょうさいめいりょう》に通知されたしとの意味を加えて解決したという。

祖国の革命情勢が影響

 しかし当時、俘虜達の祖国ロシアでは、首都ペテルブルグの労働者が、皇帝に生活の苦しみを訴えるために宮殿にむかって行進すると、軍隊は無抵抗の民衆に突然発砲し、雪の広場を血で染めた。「血の日曜日」とよばれたこの事件はロシア第一次革命のきっかけとなった。農民は各地で蜂起し、労働者はゼネストでたたかった。六月にはオデッサで、工場のゼネストに呼応し、戦艦《せんかん》ポチョムキンの水兵が革命旗をかかげた。俘虜となった口シア兵たちが、この祖国での革命的情勢に影響を受けていないはずはない。いやむしろ、旅順要塞の攻防戦にかりだされ、厭戦《えんせん》・反戦の気持ちは一層高まっていたのではないか。
 彼等は組織的に収容所での待遇改善闘争に立ち上がり、上手な通訳の出現をきっかけにして、ここらがしおどきとばかりに、闘争の終結をはかったのではないか。犠牲者を出さずに、日本軍を交渉に引き出し、今後の交渉も約束させた。一方、俘虜の中での兵士の力を強めることも出来て、闘争は成功した。
 天下茶屋では三月に入り俘虜の数は、六千人余となった。

国内は増税と不況の嵐

 一方日本の国内では、政府は開戦直後の三月に、地租、所得税をはじめ、たばこ、砂糖、塩への税にいたるまでの増税を行い、十一月には印紙税、相続税などをつけくわえて第二次の増税をした。政府はさらに国債を発行して強制的に割り当て、それでも足りない分は米・英での外国債でまかなった。増税につぐ増税、献金や公債わりあて、物価の上昇で不況が深刻化し、京都西陣では 五千人もの窮民《きゅうみん》がでた。

君死にたもうことなかれ

 夫や肉親を戦争にかりたてられたものの悲しみは大きかった。歌人与謝野晶子は旅順口包囲軍に在る弟によせて「君死にたもうことなかれ」という詩をつくり「旅順の城がほろびずとも何事ぞ」とうたい、 国家のために命をささげよという宣伝に反発する女性の心を示した。
 百年も前にここ西成で、こんな国際的な事件のあったことを知る人は少ない。

編者注】
 カラー写真は、現在(2024年10月撮影)の天下茶屋駅西口にある「俘虜収容所」跡の碑。文面の「人道上の立場を踏まえ俘虜を手厚く扱」ったかどうかは定かではありません。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第8回、第9回

◎「北野天満宮」道真も権力闘争の当事者

 「菅原道真は清廉で有能な正義の人。政治的陰謀によって左遷されその地で死んだという、神社の沿革が正確なものかどうか」大鳥居をくぐって次郎はさっそく友子に話しかけた。「道真は官僚としてだけでなく、父祖の経営してきた私学の長でもあった。この学校から官吏登用試験の合格者が多数出たので、学会の連中にとっては大いに目障りだった」
 次郎はつづける「彼は在任十年にして、突然讃岐守として四国に転勤させられる。妻子を京都に残して単身赴任した。そして現地は旱魃《かんばつ》で苦しんでいるのに、彼の顔は常に京都の方を向いていた。四年の任期をおえて帰京すると、新帝の宇多天皇は文人を重用し、道真は目覚ましい出世をしてゆく。そして五十五歳でついに左大臣に次ぐ要職である右大臣にまで昇りつめた。その間に彼は私学の一門を各官庁に配置し、一方帝の後宮には女御として娘たちを入れ、藤原家に匹敵する政治的な布陣をひき、次の醍醐天皇の治世になると左大臣、藤原時平と並んで政権を二分するに至った」
 「しかし道真は負けた」と友子。
 「道真の大宰府への左遷は天皇と時平で秘密に決めた。名目的には降等であって、処罰処置ではあるが、高級官僚であることには違いはなく、流罪とは違う」次郎はつづける。「自分たちの派閥で中央をかためてしまうことが目的で、道真だけでなく彼の息子たちや派閥の代表たちも一斉に追放された。しかしそれでは仕事が進まないので、数年後には追放者たちを都に戻して前官に復帰させたが、この時期まで生き長らえなかった道真は甚だ不運だったことになる」次郎はつづける。
 「実は、前の天皇である上皇は現天皇に反感をもち、帝位を天皇の弟の親王にゆずらせようと秘密で計画を立て、その計画の中心人物が親王の夫人の父親である道真であった。天皇か
らすれば道真は謀反人ということになる」「しかも、時平の反対派だった時平の弟の忠平は神経戦として盛んに道真の悲惨な末路の宣伝を行い、これが効を奏したのか時平は三十九
歳の若さで病死。天下は忠平に移る。忠平の妻は道真の姪であり道真が実子同様に育てた女
だったことを考えれば、一方的に時平の陰謀に乗せられた正義の士、菅原道真というイメージも大きくかわってくるのではないか」
 「どっちもどっちだったのね」
 最後に次郎が結論的に「なぜこれだけ天満宮がひろまったのか。怨霊に対する恐れもあると同時に、怨霊を手厚く祀りこれを己の庇護神とすることができれば、その恩恵もまた絶大であるとする、きわめて、特色ある考え方が日本にはあつた。忠平の例がその典型であろう」
 「怨霊も利用されるのね」と友子。
 「梅林の蕾もまだまだ固そう。認知症の兄が『もう一度、北野の梅が見たい』とせがむのだが。草津からの電車の旅を思うと不安があるし…」
 「一緒に行きましょう」と友子はいつもやさしい。

大阪きづがわ医療福祉生協機関「みらい」 2016年10月、11月号
写真は、「Wikipedia 「北野天満宮」より

今昔西成百景(042)

◎仮説、殿下茶屋の前からあった天下茶屋

 紹鴎別荘跡地という、すでに解明済の解釈を読売新聞がもち出してきたということは、市が発表に際して「二つの天下茶屋跡」問題を避けるため、あえて紹鴎別荘跡地として発表したのか、新聞社が独自の調査で明らかにしたのかは不明だが、もし新聞社の独自調査の結果ということになれば、大変おもしろい問題がでてくることになる。
 紹鴎別荘地といってももちろん紹鴎の二代目武野宗瓦の時代のことである。

武野宗瓦の受難

 「大阪史蹟辞典」(清文堂)には「しかし武野家は紹鴎が五十四オで没してからは、数奇な運命をたどる。武野宗瓦は、父の門人らに支えられ茶道の才能も父優りといわれ気骨と品位に恵まれた人だが、坊ちゃん育ちにつけこまれ、まず二十五才のとき織田信長に父の遺品「紹鴎茄子」と「松島茶壷」の名器をとりあげられた上に追放処分となり、紹鴻の森に隠棲する。本能寺の変で信長が急死したため、二十九オでやっと茶道の宗家を継いだものの、天正十六年には豊臣秀吉に「備前水こぼし」「茄子盆」など父の秘蔵品すべてを没収され、再び追放となる。宗瓦は不遇のまま慶長十九年(一六一四)六十五オ病没するが、その場所は定かではないという」とかかれている。

城一つ茶器一つ

 宗瓦は二十九オより秀吉に追放される四十オまでの十一年間、紹鴻の森で父の跡を継ぎ茶店をだしていたのか。この間、秀吉は大阪城の築城を始め、太政大臣となり、九州を平定、北条氏をほろぼし全国を統一し、名実共に天上人となつていくわけだが、千利休を通じて武野紹鴎の茶店(当時の当主は宗瓦)へは一度も行かず、近くの芽木家にのみ足を止めていたとはとうてい考えられない。むしろ紹鴎の茶店(別荘)にしばしば立ち寄っているなかで、何かで秀吉が宗瓦に因縁をつけ追放し、全財産を没収した。それは城一つに匹敵するといわれていた茶器の名品の数々であったはずである。数年後、秀吉は同じようなやり口で千利休に切腹を命じている。
 秀吉が芽木家で、井戸に「恵水」の名と玄米三十俵を与えるという人気とりを行ったのは、恐らく紹鴎の森との名前までつけ、地元で人望の厚かった武野家を取りつぶした悪評をごまかすための、手のこんだ作戦であったと思われる。

日本一とは不遜なり

 それではいったい、秀吉は武野宗瓦の何に因縁をふっかけていったのであろうか。私はそれは当時すでに紹鴎の茶店が、世間では「天下茶屋」と呼ばれていたことではないかと推測する。紹鴎は茶の大衆化をはかるため、往来の人に無料でふるまったので「布施茶」といわれ大評判となり「日本一の茶店」といわれていた、と伝えられている。
 日本一、すなわち天下一、天下茶屋とは何ごとか、不遜なり、と何も紹鴎や宗瓦が自ら名乗ったわけでもないのに、追放処分・茶器没収である。独裁者のよく使う手である。

殿下茶屋否定説もあった

 明治三十二年発行の「南海鉄道旅客案内」のなかにこんな文章がある。「紹鴎の森ともうしまして、茶人紹鴎の旧棲の地であって、豊臣秀吉が堺の政所へ往来の時、この紹鴎の茶店に輿をとめ、風景を賞したことから天下茶屋の名が残っているという伝へですが、否、その以前すでにこの地名があったのだという両説があって定かではありません」以上。
 天下茶屋という地名は、正式なものとしては明治の頃まではなく、その後も先の地名の大規模な変更まではごく限られた地域の名称であったのに、通称としては江戸時代から、今の西成区のほとんどをもうらするものになってきたのは次の三つの要因があったと考えられる。
一、紹鴎の茶店の「日本一」
二、太閤秀吉の「殿下茶屋」
三、そして全国的にひろげたのは、後世、歌舞伎や映画、吉川英治の小説にもなった「天下茶屋の仇討」である。新しくつくられる天下茶屋史跡公園が、ゆめゆめ太閤秀吉一色にならないよう、厳しく注文を付けておきたい。

編者注】
 これで、「天下茶屋」の地名の由来をめぐる話題をひとまず終了します。また、武野紹鴎、是斉屋をめぐる「なぞ」が、すべて解けたわけではありません。より大胆な仮説が提起され、検証されることを期待します。

今昔西成百景(041)

◎天下茶屋史跡公園

 読売新聞平成八年四月十七日付夕刊に「天下茶屋に史跡公園、大阪市計画、日本庭園や茶室,太閤さんしのぶ茶会も」という見出しで次の記事がのっていた。
 「大閤さんが茶の湯を楽しみ、にぎわったことから地名がついたとされる大阪市西成区天下茶屋地区に、大阪市が史跡公園をつくる計画をすすめている。茶室を建てて市民に利用してもらうほか、当時をしのぶ茶会も開く予定だ。世は期せずして豊臣秀吉ブーム。市は『数年来の計画で、ブ—ムに便乗したのではないが、新名所にできれば』と期待している。
 天下茶屋地区は、西成区天下茶屋一-三、岸里東一ーニなどの一帯にあたり、江戸時代の地誌などによると、茶の湯の大成者、千利休(一五二ニー九一)の師である武野紹鴎(一五〇四—五五)の別荘が岸里東二の旧紀州街道近くにあった。秀吉も住吉大社や堺に出向く際にここに立ち寄って、茶の湯を楽しんだとされ、一帯には茶屋が集まっていたことから、その後、天上人と呼ばれ秀吉にちなんで『天下茶屋』の地名が付いたという。計画は、地域の茶道愛好家らが年一回、野だてを楽しんでいる紹鴎の別荘跡地周辺約千五百平方メートルを公園にする。一帯は、空き地や文化住宅で、市は所有者と交渉を進め、今年度中に買収する予定。公園には日本庭園や茶室を作り、別荘のそばには秀吉が『恵みの水』と名づけた泉があったとされることから、茶室前に池を配置して再現、三年後の完成を目指す」というものである。

市の史跡公園第二号に

 最近、市建設局公園課に確かめたところ、用地は七三〇平方メ—トルと新聞発表より小さくなっていたが、今年度中に用地買収をおわり、平成十年度には完成するとのことであった。大阪にゆかりのあった人物の跡地を整備する計画の一環で、天下茶屋が市の史跡公園第二号になるだろうとのことだ。
 「天下茶屋史跡公園」をつくるために、市は天下茶屋公園の「史跡的部分」がじゃまになって、この際とばかりまっさつしたのであろう。公園ができることは結構なことであり、ぜひとも天神森天満宮の縁とつながる、紹鴎の森を思いおこさせるものにしてほしいもの である。

武野紹鴎別荘跡地か…

 新聞発表で気になったことに、用地の面積がその後の市の話とちがうことと、史跡公園予定地が芽木家跡ではなく、武野紹鴎の別荘跡地となっている点である。
 「大阪史蹟辞典(清文堂)には「室町時代末期の茶匠、武野紹鶴は北勝間新家に良水を求め茶室を設けた。その頃大阪から住吉大社へ通じる住吉街道はこの付近で大きな森に妨げられていた。そこで紹鴎は私財を投げ売ってこの森を二つに裂き街道を通すことに成功。人々は感謝してこの社を紹鴎の森と呼ぶようになった。紹鴎は茶の眼目に『和敬静寂』の理念を説いた反面、雪舟や一休の筆墨はじめ高麗茶碗や天目茶碗などの名器を収集し、その鑑識眼は大変なものだったという。また門人に千利休など茶道史の傑物がいた」とかかれている。
 武野紹鴎は弘治元年(一五五五)五十四オで没したとされているが、当時秀吉は十八才、まだ足軽の時代で、茶の湯を楽しむには早すぎる。今までも攝津名所図会大成に「住吉名所図会に豊臣秀吉公此茶店において茶人紹鴎をめして御茶きこしめされしより天下茶屋の名はじまれり、とあるが誤りなり。秀吉公世を治め給ふ天正の中頃より三十年も前に紹鴎は亡き人となれり。紹鴎森があるので作ったもので信用すべからず」とくぎをさされているのである。
 読売新聞の記事が、現場をみれば「芽木家跡」であることは一目瞭然に判るはずで、わざわざカラー写真までのせているのに、あえて「武野紹鴎別荘跡地」としたのには別に何か意図があるのか。私がひそかに抱いてきた一つの疑問と、それは関係づけられるものか。

今昔西成百景(040)

◎明治天皇駐蹕(ひつ)遺址碑

 現在の芽本家当主、芽本正弘氏が平成五年六月に雑誌「大阪春秋」に発表しているものに「徳川末期維新前になると、津田是斉が近江梅木から出店を出して対抗し、芽本家の軍散中に対して和中散を売り広めた。全く模倣して、贋物を集めいかにも豊太閤が休んだ休憩所のように自筆の書などを揃えて、世の人々をまやかした。又甚だしくは、儒者や戯作者までも動員し、宣伝・広告に努めたために、如何せん、人気はこの津田家に集まり、一時期の間芽木家は第二者になってしまう。結果、津田『ぜさい』が本家のようになって千客万来となり、諸種の書物や天下茶屋公園内(是斉屋跡)にある案内書にも本家芽木家を圧倒した姿になって天下茶屋の名をほしいままにしました」というのがあるが、ある程度事実を反映しているのではないかと思う。
 太閤とのかかわりをはがされ裸にされた天下茶屋公園に、いま唯一異彩を放っているのが、明治天皇駐蹕遺跡碑である。西成区コミュニティマップによれば「大正八年建、藤沢南岳が裏面に見事な漢字で由来を誌している。明治元年四月二十日、同十年二月十四日、明治天皇が駐輦臨幸した地である。館主は仮殿を造り奉迎したが、五十年の星霜が経ち、主人高津津久右衛門は荒廃した仮殿を撤去し、この碑を建てることにした。不朽の美挙である」と説明されている。

是斉屋に箔をつけたのは

 是斉屋が太閤との「ゆかり」をいいだしたのは、徳川幕府の権力が弱まり、ある程度豊臣家についてもものがいえるようになりだした、幕末の頃からであろう。商才にたけた是斉屋は、落日の徳川よりも、徳川に無残なつぶされ方をした豊臣秀吉に庶民の同情が集まっていることを見抜き「天下茶屋」を売り出していったのではあるまいか。
 しかし、是斉屋の「天下茶屋」に絶対的な箔をつけたのは、二度にわたる明治天皇の是斉屋への来訪である。「明治天皇この旧跡に臨幸し英雄秀吉をしのんだ」の立て札が立ちもうこれで少なくとも敗戦までの八十年間、是斉屋を疑うことはできなくされてしまった。
 戦前明治天皇の碑のまわりには、がんじような鉄さくをめぐらし、まるで一見御陵のようなふんいきをつくりだし、区民を威かくしていた。
 戦後になり民主憲法の下で、明治天皇碑の鉄さくは除去されて、昭和二六年四月三十日旧是斉屋跡地は、西成区での児童公園第一号として、紹鷗の森の緑の名残りをくすのきの大木にとどめて区民に解放された。

変身をくりかえす「秀吉像」

 絶対主義的天皇制の下での「畏敬」の地から、緑したたる憩いの場への大変身をとげたこの公園に、太閤も「国家の英雄」から「庶民の英雄」としてそっと帰ってきていた。
 有名な江戸時代の文献「攝津名所図会」をみれば、「名産和中散・津田氏という寛永年間先祖宗本の時よりここに初て売りひろむとぞ、薬店の間口数十間をひらき床椅数脚をならべ往来の人を憩わし、薬を湯に立て施す事四時間断なし、庭前に草亭ありこれを壷天閣という」と寛永年間より始められたことが明らかにされている。三十年も前に死亡した秀吉がのこのこと大阪城から通ってくることなど、誰が考えてもおかしいと思うはずのところが、戦後四十年近くも「太閤秀吉ゆかりの公園」として生きつづけた秘密は、児童公園なのでおとぎ話のつもりできいていた、というところかも知れない。「天下茶屋跡が二つあってもええや
ないか」
 「時代が多少ずれてもええやないか、今更固いこといわんでも」という気持ちの方が強いのが率直なところだが、今度のように市が構えてくると、何か背後にあるのではないかとかんぐりたくもなるものである。
 「信長」「秀吉」ブ—ムがマスコミを通じて、いま起こっている。東欧・ソ連の社会体制の崩壊・他方の資本主義の混迷からくる見通しの不確かさから、信長や秀吉のような先見性、果断な行動力を求める空気があるからだといわれている。英雄、天才は何万人殺そうが許されるというのは、ヒトラ—や日本の軍閥と同じことである。様々に使われてきた「秀吉像」に注目せざるをえない。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第6回、第7回

◎田辺の酬思庵―一休寺

 水田地帯に丘陵がのびてきて、程よい高さで尾根が横たわっている。その中腹の、松と 杉と雑木林のこんもりと茂った一角に一休寺はある。町の家々や国道から適当な距離をとり、静寂そのものを味わえる。こんな風格のある禅寺がかくされていたのかと、次郎と友子はわくわくとした気分で総門をくぐった。
 酬恩庵一休寺の沿革には「当寺の元の名は妙勝寺であって、鎌倉時代、臨済宗の髙僧南浦紹明が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後、禅の道場をここに建てたのが始めである。然るその後、元弘の戦火にかかり復興もならずにいたるものを、六代の法孫に当たる一休禅師が康正年中(一四五五)宗祖の遺風を慕って堂宇を再興した。師恩にむくいる意味から『酬恩庵』と命名した。禅師はここで後半の生涯を送り八十一歳で大徳寺住職となった時もこの寺から通われたのであり、文明十三年(一四八ー)十一月二十八日、八十八歳の高齢を以て当寺において示寂され遺骨は当所に葬られたのである」と。
 本堂・方丈・一休禅師木像・肖像画は全て重要文化財、庭園は名勝指定である。墓所は一休禅師が後小松天皇の皇子であったので、宮内庁の管轄である。
 次郎が語る「一休の母は後小松天皇の側室となっていたが、天皇が彼女を寵愛されたので他の女官が『南朝のまわし者でいつも刀を忍ばせて、天皇を狙っている』と讒言したことから、御所を出て宿下がりさせられた。追放といっても、供侍や乳母をつけてのものだったかも知れない。その後一休はわづか六歳で出家をする。当時、禅は宋から入ってきた新仏教として、朝廷・幕府・地方武将の帰依をうけて隆昌を極め、京五山をもじって『大徳寺の茶人づら』『相国寺の唱名づら』『建仁寺の学問づら』『南禅寺のソロバンづら』と言ったそうだ」。

文化サロンの一休寺

 名聞、地位を嫌う一休は十七歳で建仁寺を出てあちこちの小庵で師と仰げる人をさがし求め転々とする。真実の仏徒として苦しみ悩む庶民と接化しなければならない気持ちから出た行動だった。京都・大津・堅田・堺・豊中と放浪した一休は自由禅、風流禅を破れ家を借りて日がな座禅を組んだり、街頭に出て骸骨を担いで説教しているあいだにすでに七十七歳になっていた。
 大阪の住吉神社は町中にある広大な神社で、鎌倉時代から神仏混淆となって、神社の中に薬師如来・阿弥陀如来・大日如来をまつるようになっていた。この薬師如来の前で一休は盲女の流しの艷歌を聞く。一休はわれを忘れたようにその美貌に見入っていた。
 一休が八十一歳で大徳寺の住職になったときに、酬恩寺からの通勤を条件にしたというのも、この住吉から酬恩寺に移り住んだ森女との暮らしが楽しくて、離れられなかったからだと
いわれている。七十七歳の一休が三十五歳の美女を人前をはばからず見せて能楽や連歌の会や、謡の会に出席し、一休寺はいつのまにか静々たる顔ぶれの揃う文化サロンのようになっていた。文明十三年(一四八ー)八十八歳で多くの弟子や森女らに見守られ、安らかに座禅をしてー休は亡くなった。森女は一休十三回忌の香典帳に名をつらね銀何文かを寄進している。
 これら森女や文化人との一休とのつながりを酬恩庵の『沿革』は一切無視している。
 「先日、認知症の兄が『おもしろないなあ』と叫んだ。義姉が六年前に亡くなって、女性の居ない生活の淋しさを感じているのだろう」
 「かつて友ちゃんが急病の夫を背負って医者に走った話を聞いて僕は泣いた」
 「本当、泣いてくれたね」
 「今日は笑って別れよう」
 「なんのこっちゃ…」

大阪きづがわ医療福祉生協機関「みらい」 2016年8月、9月号
写真は、「Wikipedia 酬思庵 本堂(重要文化財)」より

今昔西成百景(039)

◎天下茶屋跡

 岸里東二丁目十番地に天下茶屋跡がある。
 昭和五六年八月、西成区役所区民室発行の「あるいて知ろう西成区」では、「旧住吉街道沿いにある天神の森天満宮から西へ約五十m入ったところに、天下茶屋の地名の発祥となった天下茶屋跡がある。今は昔をしのばせるくすのきの大樹の下に、天下茶屋跡の石碑と、だれが供養するのか季節の花に飾られた太閤さんの石像が忘れられたように建っている。太閤さんが今から約四百年前の天正年間(一五七三—九〇)住吉神社への参拝や、堺政所(奉行所)への往来の途中、天満宮付近の茶店で休息、茶の湯を楽しみ風景を賞したことについて、世人この地を天下茶屋と称するに至ったと伝えられている。その由来を示す太闇さんが休息した建物などは戦災で焼失し、今は一体の石像のみが当時をしのばせている。天下茶屋跡は大阪市顕彰史跡に指定されている」と記されている。
 平成七年三月西成区コミュ二ティ協会(区役所が事務局)が発行した「わたしたちの西成区コミュニティマップ」によると、「今から四百年も余り昔、太閤秀吉が住吉大社参拝や堺への往来の際、ここの茶店で休息、茶の湯を楽しみ付近の風景を賞したことからこの茶店を天下茶屋と呼ぶようになった。その由来を示す建物(芽木家)は戦災で焼失し、現在は天下茶屋跡として、くすのきの大樹と土蔵、石像だけが残っている。昭和六十二年に現在のものに修復された。この土蔵は屋敷の北西隅に位置し、恵方にむかって建てられ太閤さんを祀った祠で、くすのきと共に往時をしのぶものである一大阪市顕影史跡」となっている。天下茶屋公園(是斉屋跡)の場合とちがって両方の案内文に基本的な相違はない。

芽木家対津田家の本家争い

 しかし、明治三十二年発行の「南海鉄道旅客案内」のなかには是斉屋について、「又この家には昔太閤が立寄られたという伝えがありまして、遺物などがあります」とあり、大正八年に出された東成郡史にも天王寺村の旧家として「芽木家の外、橋本氏(旧津田氏)の天下茶屋は宝暦年間初めて戯曲(祇園祭礼信仰記)に仕組まれたる和中散是斉の薬店として世に聞こえたり。(攝津名所図会)に引く所の安永八年(一七八〇)の(壷天閣記)によれば、此薬店は寛永中津田氏の祖宗本、これを創め、次男総左衛門別號是斉、別舗を江州梅の本村に開く。この家亦芽本家と同じく豊太閤御茶の水とて「蟠龍水」の址あり。千利休これを汲みて太閤に侑めたりと伝えられ、又豊公の小祠あり。庭宅今は大阪市某の所有に帰し、其旧形を改めたれども、明治十年明治天皇御駐輩所建物は、今も門内正面の庭中に保存せらる。…当日橋本尚四郎、同久五郎はお茶を献したり。翌十五日玉座拝観の衆庶雑踏したり」と記されている。
 昭和二六年にだされた西成区政誌には「戦災前に天下茶屋と賞するものにニヶ所があった。その一つは明治元年四月、明治天皇の休憩所に充てられた壷天閣のある所と、今一つは秀吉の茶屋と称する小亭のある所で、傍の古井戸を『恵の水の井戸』と称え、秀吉の点茶の水であったと伝えていたが、何も戦災にあって今はない」となっている。

密室での歴史のぬりかえ

 以上みてきたように、永年の間、二つの「天下茶屋」として激しい本家争いを行ってきたこの一件も、今度の市が天下茶屋公園から太閤にまつわる一切の看板類を撤去したことにより、また区内各所案内書から、天下茶屋跡を芽本家一本にしぼったことで、落着したということになるのか。
 いずれにしても、区民不在の密室のなかでやられたことであり、別にどちらの肩をもつわけでもないのであるが、「現代西成百景」としては、もう少しこだわって、掘り下げてみたいと思う。

今昔西成百景(038)

◎天下茶屋公園

 旧住吉街道沿いにある現在の天下茶屋公園が、是斎(ぜさい)屋の跡である。
 昭和五六年八月、西成区役所区民室発行の「歩いて知ろう西成区」には、「この地は今から約四〇〇年前の天正年間(一五七三—九十)、太閤さんが旧主で遠州の豪士松下嘉兵治の恩義に報いるため、約ー〇八九〇㎡(三三〇〇坪)の広大な邸宅と名園を贈った。のちに松下姓を是斎と改める。太閤さんはこの縁で大阪城中からしばしば来遊、茶をたて名園を楽しんだと伝えられている。公園内には、太閤さん愛好の井戸や灯ろうがあり、中央にあるくすのきの大樹には、天下茶屋守護の鎮八大竜王が祭られている。現在は大阪市の萩の花名所公園になっている」と記されている。

「恩義の秀吉」実証のはずが

 豊臣秀吉との関係などは極めて具体的で全国的にみても貴重なものにまちがいないと、西成区民の自慢の一つであった。恩義にあつい秀吉とよくいわれるが、歴史的にみて実際の恩返しで有名なのは放浪時代に世話になった野武士の蜂須賀小六と、最初の武家奉公をした今川家の家臣松下嘉兵治の二人である。その松下の子孫が明治時代までこの地で「和中散」という薬を売り、茶店を営んでいたというのだから、大閤さんを身近に感じる「物的証拠」といってもいいはずであった。「はずであった」となぜ過去形で書くのかといえば、実はその「史蹟」が最近になってこつぜんとして消えてしまったからである。

歴史のすりかえがやられた

 平成七年(ー九九五)西成区コミュニティ協会(区役所が事務局)が発行した「わたしたちの西成区コミュニティマップ」によると「現在の天下茶屋公園が是斎屋の跡であり、薬屋是斎屋は寛永年間(一六二四—四四)近江の国の津田宗衛門が住吉街道に面した当地に『和中散』という薬を商ったのが起こりで、街道の商人たちで大いに繁盛したという。また茶店としても有名であった」と記すのみで、太閤の名前はまったく出てこないのである。
 それもそのはず、寛永といえば世は徳川三代将軍家光の時代で、秀吉の死後二十六年、大阪城落城し秀頼・淀君らの自害により豊臣家が滅亡してから九年、徳川家康による徹底した豊臣の残党狩りが行われ、この世から豊臣色を一掃してしまった後のことである。豊臣秀吉が茶店へ来遊するどころか、だれかが秀吉愛好の井戸や灯ろうをかくしもっているだけでも首がとぶ。秀吉を神として祭った豊国神社や秀吉の廟墓まで家康によって破却処分され、影もかたちもないようにされたというのが歴史的事実なのである。

市教委による証拠いんめつ

  三月二十三日、中央区の「街づくりネットワ—ク」が主催する「連続テレビ小説『ふたりつ子』の世界、今もかつての大阪の下町がある西成天下茶屋かいわいから通天閣へ」というウォッチングに私もガイド役として参加した。天下茶屋の由来を説明するために天下茶屋公園へ行けば、案の定、コミュニティマップにつじつまを合わせるように今まであった太閤秀吉とのゆかりを説明する表示類は一切撤去されていた。大阪市教育委員会は何を思ったのか。同公園内の阿部寺塔心礎石(約ーー〇〇年前白凰時代の五重の塔の礎石。大阪府指定文化財考古資料第十二号)の表示板までなくしていったので、中央に舎利穴がある柱穴にはブロツクの破片が投げ込まれ、貴重な文化財がまるで大型ゴミのように扱われており、無残であった。
 大阪市が今頃になってひそかに「歴史の訂正」をやる必要がはたしてあったのかという疑問がわいてくるが、実はそれがあったのである。

今昔木津川物語(030)

◎続西成と京都のつながり

 西成区の地名に京都の地名と同じものがいくつかあり、旧今宮村と京都とのつながりを考えさせるきっかけとなった。旧今宮村とは現在でいえば、岸の里交叉点を南北に分ける松虫通(木津川平野線)から北側へ、浪速区の南側の一部にも入り込んだ地域で、その中で例えば、今は町名改称のためなくなってしまったが、「東四条」とは今の今宮中学校辺りで「西四条」とは今宮工業高校辺りで、「油|小路《こうじ》」とは今宮高校辺りのことであった。これらは、難波江のー漁村であった旧今宮村がかかわっていた、朝役・神役の故事と深く関係している。すなわち、朝役とは朝廷に日々の魚を奉ずる役で、この起源は平安初期にまでさかのぼるという。神役とは毎年六月の祇園祭に今宮村から百六十人が上洛《じょうらく》して神輿《しんよ》を担ぐ役を奉ずるものである。朝役のために、京都四条通り油小路西へ入る南側に間口十三間、北側に間口二十二間の地を詰め所として使用していたというから、「四条・油小路」の地名のでどころははっきりしている。

花園・今宮の関係は

 そしてそれでは、今も西成で地名として使われている「花園」と、地名として西陣の宮・今宮神社は使われていないが、学校などの名前として残っている「今宮」は京都とどう結びつくのか、興味しんしんというところである。
 今宮は今宮戎神社から由来するかのようなかきかたを、戦後の浪速区史はしているが、戦前の西成区政誌には、「洛北|紫野《むらさきの》大徳寺付近に今宮と称する地ある」とあり、私は西成区政誌の立場から、残暑きびしい八月のある日、家族と共に京都に探求の旅を行った次第である。
 大徳寺近くの今宮神社は大きな神社であり、古めかしい社も多く、歴史を感じさせる予想以上のものであった。

西陣の宮・今宮神社

 神社で分けていただいた「今宮神社由緒略記」から次に少し引用させていただく。
 「京都市北区紫野今宮町にある今宮神社は平安建都(七五四)以前からこの地に、疫病《えきびょう》(はやり病)を鎮《しず》めるために、疫神《えきじん》を祀った社があったといわれる。ところが平安建都以後、京都は諸国からの来往がはげしくなり、次第に都市として栄えていったものの、疫病や災害がしばしば起こり、このため人心は安らかでなかった。そこで疫災をはらうよう「御霊会」(ごりょうえ)が、八坂神社の祇園会(祭)など各地でやられ、紫野御霊会もそのひとつである。

人形を難波の海へ

 すなわち、一条天皇の正暦五年(九九四)疫病は都で猖獗(しようけつ)をきわめ、四月頃には洛中洛外に病者の行倒れがおおく、六月になると洛中を疫神が横行するという流言で家々は門戸を閉して、通行人の影も見られなくなった…。
 そこで、同年六月二十九日朝廷では神輿二基を造らせ、病魔の憑《つ》く人形を人間に見たて神輿様のものに乗せ難波江に流したという。
 ところが、それから数年もたたない長保年 (一〇〇一)にまたも疫病が流行し都の人々を大いに悩ました。そこでそれまであった疫社を現在の当社の地に奉還しこれを今宮社と名付けた。当時この地は花園とよばれていた」と、あらすじはこうである。
 人形の流す海はそれまで「朝役」で縁のあった、難波の漁村の人々が案内したのであろう。そして一層京都とのつながりが深まり、今宮・花園の地名をもらったのではないか。

現代の厄災は消費税とリストラ

 さて、地名のなぞはなんとか解決できたが、海に流しようのない現代の厄災はやはり消費税とリストラではないか。これの退治は神頼みでなく、人頼みあるのみ。共にがんばろう。