今昔木津川物語(050)

◎「長崎橋」の”なぞ“を解く(西成区玉出西一ー 一七)

 安治川を開削した河村瑞賢は、元禄十一年(一六九八)に再度来阪し、木津川より分岐し南へ向かい堺の北で海に注ぐ、長さ四十四町(約四・八㌔)、幅十三間(約二十三・七㍍)の十三間堀川の設計を行なった。
 十三間堀川の名はその川幅が十三間あったからだと伝えられているが、古文書によれば幅十間とある。津守新田開発を控え、かんがいと舟運の便の為だけでなく、掘り出された土は新田づくりに有効に使われたにちがいない。

十三間堀川は元観光の名所

 十三間堀川は明治の初めころまでは、両岸に松の並木や揚柳があって、たいへん風情に富んだ観光地だった。住吉詣での屋形船が、三弦に盃をめぐらす遊客を乗せてひんぱんに往来し、橋詰には蛤汁を吸わせる茶店もあった。
 しかし戦後は、沿岸一帯の市街地化、工場排水のたれ流し、ゴミの不法投棄などによって、悪臭を放つドブ川と化していた。世間は自動車時代に、全市的に多くの運河は埋め立てられ、大半は自動車の高速道路になった。十三間堀川の場合は万国博に合わせて、阪神高速道路大阪堺線が埋立て跡を利用して、堺市翁橋町に至ることとなり昭和四十四年(ー九六九)三月にその開通をみた。これで地元の地主達が費用を出し合ってつくった十三間堀川は、木津川地域の発展にさまざまに貢献しながら、二七〇年の歴史の幕を下ろした。

橋の名から幕末の歴史が

 さて、十三間堀川にはもちろん多くの橋がかけられていた。西成区内だけで一三ヶ所もあったが、その中で橋の名前の由来が不明なものがいくつかあった。その一つに、玉出本通りからまっすぐ西へ行き、そのまま川を渡って南津守に達する「長崎橋」というのがあった。
 西成区役所主催の座談会「津守を守る会」の記録によれば、地元の方は「幕末に黒船が大阪にやってきて大騒動になり、幕府は安治川・木津川両川口に大砲を据えて防衛することになった。木津川は千本松のところに砲台をつくるのだが、紀州街道の方から大砲を運びこむとして、十三間堀川には大砲を渡らせるような丈夫な橋はない。あるのはせいぜい人が荷物を担いで渡るだけの幅㍍もないような木造の橋である。そこで幕府が、今後はつくらんがこの橋だけは特別だ、と言って造った橋がこの長崎橋だ」と述べているが、その前例のない鉄橋の名がなぜ『長崎』かということについては、残念ながら聞けていない。

先人のメッセ—ジが郷土史

 そこで私は、先日たまたま松本清張の小説「天保図録」を読んでいて知ったことだが、ペリ—来航時の嘉永六年(ー八五三)頃、江戸の江川太郎左右衛門と共に国防の第一線で活躍したのが、長崎の鉄砲方の家に生まれ、その職を世襲した砲術家高島秋帆で、幕末の砲術家の大半は彼の影響を受けたといわれる、という歴史の事実である。
 ここで私は推理するのだが、千本松に据えられた大砲は長崎から運ばれてきたのか、砲台づくりをまかされた高松藩の砲術家が高島秋帆の弟子で、師に敬意を表したか、それとも彼自身が長崎出身であったのではないかということである。
 郷土史には、お国自慢的な、独り善がりのものが中にはある。しかし「史」というからは地方史、中央史との関連で考えなければならない。そうすることによって、実は長年不明であったという謎も、 解明されてくるのではないか。「逆説郷土史」も面白い。

今昔木津川物語(049)

◎大阪港

 大阪湾は紀淡海峡で太平洋に、明石海峡で瀬戸内につながっている。西の方からは強い風が常に吹き付ける。そのため入船にはよかったが、出船は風向きを見なければならなかった。川底は上流からの土砂で常に浅くなっていく。
 昔は船体が大きな船は一旦、河口で停泊し、そこから小船に積み替えて、河岸や掘割りに並ぶ蔵屋敷に持ち込んだ。
 明治に入ってからも、隣の神戸と比べると大阪港には大きな船はほとんど入っていない。大阪港は神戸港におくれをとってしまった。

大阪港の大改造で大阪発展

 大阪港を根本的に改造するには、強い西風を避けるため、海の方に突き出た防潮堤を築いて港のふところを大きくし、接岸設備を思い切って増設しなければならない。
 大阪市は、明治二十五、六年頃から調査にかかったが、日清戦争で中断し、新淀川の完成を控えた三十年にやっと築港事業が議会を通過した。
 工事は予定より遅れて、大正十四年に完了した。昔の天保山は取り払われ公園となり、そこから幅二十七㍍、長さ四百五十㍍の大桟橋が造られた。その他に護岸・上屋・臨港鉄道などが整備された。
 この築港に接する西大阪地域は、その当時まだあまり開かれていない空き地の多い地域であったが、市電が真つ先に敷設され「魚つり電車」といわれながら、がら空きで走っていた。
 その後この地域一体は、工場や住宅の用地として埋め立てられ、「港区」の誕生となる。

大桟橋が「大出征基地に」

 大栈橋から日露戦争に大量”の兵器を船出させたのを皮切りに、その後敗戦までの間全国各地から軍隊が集結、それぞれ戦場に向け船出していった。
 築港工事と共に計画された国鉄臨港線は、関西線今宮駅から分岐し、尻無川沿いに下って港区西端の天保山運河近くまで達し、途中振り分けられた貨車は、そのまま各岸壁のプラットホー厶に直接横付けできるというものであった。
 戦時中は軍事輸送一色となり取扱量も急増、各地から集められた軍隊は、なぜか途中の浪速駅で下車し、人家のあまりない海岸通りを行進して船に乗り込んでいった。

「国防婦人会」発祥の地に

 出征していく夫や息子の無事を祈って、家族が戸別訪問や駅に立って、ひと目ひと目結んでもらった「千人針」をなんとか手渡したいと、近くの旅館に泊り、最後の機会を「海岸迥りの行進」にかける人もあったのではないか。この兵士や家族たちの何か役に立ちたいと、地元港区の女性たちが自然と活躍したのを、軍部は「国防婦人隊」という戦争協力団体につくりかえ全国にひろめさせた。
 後に港区は空襲でほぼ全域が焼きつくされ、港区戦没者慰霊碑の過去帳に記載されているだけで犠牲者は二千八十人にのぼる。この過去帳は西栄寺の住職が昭和三十年頃、港区役所の地下倉庫にあった「埋葬許可書」から丹念に拾いだした貴重なものである。
 港区が「大出征基地」にされたために大空襲の標的になったと、地元では毎年欠かすことなく、反戦平和を誓いあうあつまりをもって、戦争の悲惨さを語り継いでいる。

今昔木津川物語(048)

◎天保山 (港区築港三—二)

 琵琶湖の水は、瀬田川・宇治川・淀川・大川と名称を変え、中之島で堂島川・土佐堀川の二川にわかれて流れ、流末は安治川・尻無川・木津川の三川となり大阪湾に注ぐ。
 文政十三年(ー八三一)自普請による瀬田川浚が湖辺村々から出願され、これに対し幕府は淀川中下流の村々に、このたびの浚は付州の上部を浚えるだけであって、下流の水嵩が増す心配はないと説得し、承諾させている。

町人が負担金の免除を要求

 同年十月、大阪三郷の町々に差し支える有無を糺《ただ》した。各町でこれを検討した結果、大勢としては条件付き承認という線でまとまった。その内容は、つまり瀬田川浚には反対だが、浚を強行するのであれば、今後年間九九五〇両の川浚冥加金は免除してほしいということである。そのかわり川々の浚は自分達で行うという。大阪三郷の町々ではこれを好機に、川浚冥加金《かわざらえ》免除《めんじょ》を実現しようとしたと見ることが出来る。
 大阪奉行所では検討の結果、瀬田川浚の有無及び三郷町々の嘆訴に関係なく、現在淀川筋から安治川・木津川両川口の御救大浚と川堤|嵩《かさ》上などの普請の実施を計画中である。名案のある者は早々に建言せよと、幕府の面目を示す口達《こうたつ》をしている。
 しかし、結局はその費用は、奉行所が銀六〇〇貫目(約ー万両)に対し、三郷町人・株仲間・摂津国村々からの手伝上納金二三五七貫三三三久によってまかなわれた。それ以外にも、島ノ内四〇町が、杭木・竹・縄・人足などを差し出している。
 天保二年(ー八三一)三月八日の安治川浚を皮切りに、六月十三日には淀川、神崎川、中津川国役堤普請が、翌三月中旬には木津川口浚が始まった。

千本松と天保山が両川口に

 このときの木津川の浚土砂によって、木津川口の石波戸、石垣堤、土手堤杭普請が行われた。その位置は現在の千本松大橋東詰あたりから、約ー・七キ口下の現在の住之江区木津川渡船場の辺りまで、川の中程に突き出たかたちでつくられた。その堤防上に植えられたのが千本松で、西からの潮風のためそなれ松になっていたが、樹間がわりあい広く、天橋立のようにつながっていなかった。
 その先端には木造灯台が建てられ、新名所として多くの人が遊んだという。残念なことに、大正五年(ー九一六)に第一次大戦の好況による大小の造船所の乱立により、 跡形もなくつぶされてしまった。
 また同じときに安治川の浚土砂によつて安治川口に目印山(後に天保山と呼ばれるようになる)築立、石垣堤杭普請が行われた。当時は二〇㍍の小山となり桜や松が植えられ「浪華の新名所」としてたいへん賑わいをみせたという。現在の天保山は海抜四・五㍍の日本一低い山(国土地理院の三角点による)として有名である。
 幕府に実力が失われ、町人を抑えることができなくなってきた時代に、 千本松石波戸や天保山がつくられていたことになる。
 四年後には天保の大飢饉(天保七年)その翌年には大塩平八郎の乱が起こる。

港区での町名の由来

(波除)現在の安治川大橋の南詰付近には、明治時代まで波除山という人工山があった。貞享元年(一六八四)河村瑞賢が淀川を直進させる工事で新川(現在の安治川)を掘ったが、その時の土砂を積み上げたもので、航海の目印や行楽地として親しまれていた小山である。大正末期には開発のため完全に姿を消した。
(市岡)元禄十一年(一六九八)伊勢の豪商、市岡与左右衛門宗栄が開いた新田から。
(弁天)市岡新田の会所に祭って信仰を集めていた弁財天からこの名が生まれたという。
(福崎)天保六年(ー八三五)福崎孫四郎が開いた新田から。
(八幡屋)文政十一年(ー八二八)八幡屋忠兵衛が開いた新田から。
(田中)安永五年(一七七六)田中又兵衛が開いた新田から。
(港晴)昭和四十三年区画整理によって付けられた。

今昔木津川物語(047)

◎西区の埋もれた堀と川

 天正十一年(一五八三)四月、豊臣秀吉が大阪城を築きはじめ、城下町の建設に着手したことから、西区は次第に開けてきた。慶長六年(一五九六)には西横堀川が開削され、つづいて阿波堀川も通じた。道頓堀川も元和元年(一六一五)には完成した。
 大阪夏の陣の後、大阪城代に任じられた松平忠明によって、元和三年には土佐堀川の南に江戸堀川、さらにその南に平行して京町堀川も開通した。
 寛永元年(一六二四)には、靱・天満の塩魚商人らは幕府の許可を得て、阿波堀川と京町堀川に通ずる海部堀川を開削、翌寛永二年には長堀川が、同三年には阿波堀川と西長堀川の間に立売堀川が、同七年には薩摩堀川がそれぞれ完成している。
 元禄十一年(一六九八)には、開発のおくれていた長堀川と道頓堀川の中央東西に、堀江川ができた。
 このようにして西区の地域一帯は開けていったが、堀川の沿岸には二十五藩もの蔵屋敷が設置され、「天下の台所大阪」を支えていた。
 小西来山が「すずしさに四橋をよつわたりけり」とよんだのは、旧長堀川・西横堀川に架かっていた炭屋橋・古野屋橋・上繫橋・下繫橋の総称で、四つの橋が東西南北に交差する二つの川に井桁状に架かっている面白さから、浪花の名物であった。天保八年(ー八三七)幕吏に追われた大塩兵八郎父子が、船で逃走中に四つ橋の下で刀を河中に投げ捨てた話は有名である。

やがて時代の波が

 江戸時代から長く地域の交通を支え、水の都の基盤となっていた西区のこれらの堀川も、市電・市バス・地下鉄などの普及と、自動車の急増により、昭和二十六年頃から埋め立てられ、昭和四十八年の旧長堀川を最後としてほとんど姿を消してしまった。
 十二の堀川と百十二の橋も運命を共にした。

大阪大空襲でほぼ全滅

 西区の街の姿は、昭和二十年三月の大阪大空襲で区内がほぼ全滅したことと、戦後の堀川の埋め立てにより大きく変わった。昔の面影を止めているのは、土佐稲荷神社とあみだ池、川口キリスト教会堂と、九条新道商店街西側の路地ぐらいである。
 しかしいずれにしても、この地が過去数百年にわたり、大阪の経済、文化、ものづくりの中心であり、わが木津川のス夕—卜地点であるということを、多くの人に知ってもらいたい。
 休日ともなれば、静かな高層ビルとマンションのこの街に、かって人々のエネルギーが激しくもえさかえていたということを。

西区での町名の由来
靱(うつほ)
 靱という名の由来は、豊臣秀吉がある日、お供を従えて市中巡視をした際、町で魚商人たちが「やすい、やすい」と威勢のよい掛け声で魚を売っているのを耳にして「やす(矢巣)とは靱(矢を入れる道具)のことじゃ」といったので、その言葉にあやかって「靱」という町名が付けられたという。
京町堀(きょうまちほり)
 大阪冬の陣・夏の陣後、大阪城主松平忠明の人口来住政策に呼応して、伏見京町から移住してきた町人らが開発した町域であることに由来する。
土佐堀(とさほり)
 町域が大川の分流である土佐堀川左岸に沿って位置することに由来する。
 この付近は、豊臣期に土佐商人の群居した「土佐座」の地といわれ、これによつて河川名を「土佐堀川」と名付けたと伝えられる。

今昔木津川物語(046)

◎土佐稲荷神社 (西区北堀江四—九)

 土佐稲荷神社は、地下鉄長堀鶴見緑地線西長堀駅下車すぐのところに、高層ビルに囲まれてはいるが、結構広い敷地の中に、社殿や鳥居や灯籠が、ぽつんぽつんとまくばられているようにして建っ ている。ずいぶんぜいたくな神社だなあというのが第一印象だ。近づいてみると、児童公園が隣接していて、その分余分に広く見えるのである。
 しかし、上町台地の端にそびえるように建てられていたり、それぞれ樹齢何百年という巨木にかこまれて森のようになっている、今までの神社・仏閣を見てきた目には、やはり少し物足りない。そのわけは、「西区の史跡案内」に「境内は江戸時代から桜の名所として知られ嘉永四年(一八五ー)に建立された其角の『明星や桜定めぬ山かつら』の句碑がある。社殿及び桜の古木は、太平洋戦争中の空襲で焼失したが、社殿も復興し戦後植えた桜の若木も成長して、夜桜の花見が復活した。また、境内には昭和三十二年西区遺族会が建立した『祈(戦没者慰霊塔)』の像と、四十二年十月『祈』像の十周年記念の時に建てられた石碑がある」との説明がある。

土佐高知藩蔵屋敷内鎮守社

 土佐稲荷神社は明和七年(一七七〇)山城国伏見稲荷神社の分霊を勧請《かんじょう》したと伝え、一般の参拝を許したともいう。
 この神社は、明治維新前にある悲惨な事件に出くわしている。
 慶応四年(ー八六二)二月十五日、堺事件とよばれる不幸な事件が起こった。
 そのころ、大阪の海岸地帯には、土佐(高知)・因幡《いなば》(鳥取)・備前(岡山)などの藩兵が幕府の命により警備についていた。土佐の警備隊は中老山内右近を総指揮に、三百人が派遣され、住吉の紀州街道に面した広大な土地(現在の東粉浜小学校一円)に、堀をめぐらせた二階建の陣屋を新築し、オランダから買い入れたケーベル銃二百と大砲数門もそろえた。同時に木津川河口の守備も受け持たされたので、流れに数十本の丸太を打ち込み、クサリを張り大砲をすえた。

フランス兵らが突然に上陸

 土佐の六番隊と八番隊は堺地区を巡察する任務を与えられ、兵士は筒袖の上着に下がズボン、腰に一刀をさし右手に銃をという和洋折衷の服装であった。
 不祥事件の起きたのは二月十五日、午後四時頃。この日堺沖に停泊したフランス軍艦ヂュプレー号から約二十人の水兵がボートで海岸に近付き、そのまま上陸をはじめた。フランスの水兵たちは町の中を歩きまわり、泥靴で神社や民家に上がり込んだり、女性の姿を見ると奇声を上げるなどの態度に出た。「赤毛のやつらが押し寄せてきた」「女はさらわれるぞ」と住民はあわてて戸を閉めてふるえあがった。
 知らせを聞いて六番隊と八番隊はいきせききって現場へ急行した。兵が二十八人、足軽十数人、トビの者が十人ほど加わった。
フランス兵達は隊員のけわしい形相《ぎょうそう》を見ると、手を振りきって、一斉にボートをめざして逃げ出した。士官が一人土左藩の軍旗を抜き去ったので、足を止めていた巡察隊が追い付いて奪い返した。土佐藩の中からおどしの短銃が放たれた。それをきっかけに、巡察隊の両隊長は「うてうて」とどなった。

一発の銃声が大事件に発展

 フランス兵のボートは銃砲の乱射を浴びて大混乱を呈した。これによりフランス側は銃死二人、、<ママ>水死七人をかぞえ、死者のうち二人の士官がいた。
 外国兵十六人を死傷したことは、わが国ではかつてない大事件であった。和親外交をとなえたばかりの政府は「朝廷の興廃ににかかわる危急の大事件」と緊張しきった。土佐の前藩主と藩主は、さっそく軍艦ヂュブレ—号をおとずれてわびを入れる一方、政府側が先方の要求を全面的に受け入れたことを、苦悩の末に承認した。
 フランス側の要求は「三日以内に土佐兵の下手人全員を暴行の場所で双方立合のもとに処刑すること。遭難した士官・水兵の家族に扶助料十五万ドルを支払うこと。日本大官の謝罪。土佐藩の堺警備の禁止」などであった。

稲荷神社で「死のクジを」

 下手人の二十人は二十三日、堺の妙国寺で処断することに取り決められた。前日、両隊員は藩邸内の稲荷神社に参集を求められ、大監察の前に進んで死者を決めるクジを引いた。両隊長、両小頭を別に両隊から六人づつが犠牲者と決まった。名物の桜の開花にはまだまだであった。
 二月二十三日、土佐藩士二十人は、替わって警備についた肥後(熊本)・安芸
(広島)両藩士に守られてカゴで紀州街道を堺に向かった。カゴのすだれは上げられていた。
 妙国寺での割腹の場は酸鼻《さんび》をきわめた。十一人の自害が終わったとき、フランス人たちは席を立って幕の外に出た。彼らは「残る者の処刑は中止するように」とあえぐように告げてその場を去った。

土佐藩赤字対策に岩崎起用

 土佐藩は、坂本竜馬らの活躍により大政奉還の目的達成という大事業をなしとげたが、幕末には国防や戊辰戦争、堺事件の賠償金などのため多くの経費を必要とし、藩財政は大赤字であった。殖産興業のため起用されたのが、藩直営の商社の下役をしていた岩崎弥太郎であった。彼は後に藩の商社を私の企業にクルリと変え、明治六年に「三菱商会」とした。土佐の後藤、薩摩の大久保などに押され
て海運業に乗り出し、西南戦争では平たん輸送を一手に引き受けて大儲けし、海運業界の覇者となり、その後も政府からさらに無償融資やタダ同然の払下で肥っていく。
 弥太郎に払い下げられたものは、「三菱造船所」となり、薩摩出身の川崎に払い下げられたものは神戸を代表する「川崎造船所」になった。いずれも藩閥政治の手厚い保護で生まれ、後に日本帝国の大陸侵略を後押しする、独占大企業に成長した。
 土佐稲荷神社の比較的新しい玉垣は、三菱銀行・三菱商事を筆頭にして、現在の三菱グループに属す各業界の大企業の社名が誇らしげに連なって、社殿の後方を守っている。
 土佐稲荷神社の見てきたものは、必ずしも「死のクジ」だけではなさそうである。

今昔木津川物語(045)

◎安治川と河村瑞賢

 むかし「水の都大阪」は同時に「洪水の都」でもあった。
 木津川・桂川・大和川を合わせて大阪湾に注ぐ旧淀川は、流出する土砂に湾口は浅くなり、一旦洪水に襲われたら、人家は流され、田畑は砂原と化し、その惨状は目をおおうばかりであった。
延宝二年(一六七四)六月の水害は
 「この時溺死するもの幾万人とも数知れず未曾有《みぞう》也」と「摂陽奇観」にある程、大阪に被害をもたらした。時の将軍綱吉は天保三年(一六八三)二月、若年寄稲葉石見守正休に命じて現地を視察させたが、そのとき下役として河村瑞賢が同行し、河口の開さくによる治水を提案したので、幕府は瑞賢に一切をまかせることにした。

波瀾万丈の人生

 瑞賢は元和四年(一六一八)に伊勢に生まれ貧困の中に育ち、十三才で江戸へ働きに行った。品川の海にうら盆で使つた瓜やナスが捨てられていたので、古おけに塩潰けとして工事場の弁当の菜に売
りあるき、そのうちに工事現場の人足を集める仕事にありついた。明暦のふりそで火事ととなえられた大火では、木曽の材木を資本も乏しいのに買い占め、大儲けをした。当時の史家・新井白石が「天下にならびし富商」と書き残しているぐらいだから、荒稼ぎは事実であろう。
 その後幕府の御用商人となり、四十四オで江戸の両国橋を架橋。多額の運動資金を使って五十四オで旗本に取り立てられ、以後は世のためにと治水工事に乗り出した変わり種。

島の真ん中に川をつくる

 瑞賢がまづ第一に着手したのが、安治川の開さくてあった。それは九条島をたち割って淀川の水を、西南へ直線に引き大阪湾へ流出させる大工事であった。
 貞享元年(一六ハ四)二月十一日起工、四年余を費やし貞亨四年竣工を見た。
 しかし、大和川の開さくがその十数年後にわずか工期八ケ月とい、つスピ—ドで完成しており、安治川に四年は掛かりすぎではないかということから、実は二十日間の突貫工事で完成したとの伝説まで残っている。

瑞賢のダイナミックな工事

 九条島は低湿の砂地であるから少し土を掘ると水が湧き出る。瑞賢はその中央に幅五丈程の深い溝を掘って湧き出る水を集め、その両端に水車を設けて汲み出した。そしておよそ干上がった川底の泥上に板をしいて人夫が働きやすくしたうえで、一気に川を掘りあげたという。使った板数万枚、水車数百機、滑り止めのはしごー万本と語られている。

大阪の洪水対策に半生を

 瑞賢は安治川の開策の他に、曽根崎川・神崎川・中津川の改修などを行い、大和川の付け替えに現地で最終結論を与えたあと、江戸に帰り、元禄十二年(一六九九)六月八十ニオで他界している。この新川に、元禄十一年四月幕府は「安けく治むる」の意味を込めて安治川の名を付けた。
 安治川開さくのあとは、諸国の船舶は、直接大阪湾から安治川をさかのぼって市中の諸川に入ることができ、出船千艘、入船千艘の賑わいをきたい「天下の貨七分は浪華にあり、浪華の貨七分は船中にあり」と書かれた。
 大正四年八月西区国津橋跡の空地に紀功碑が建てられた。この碑石は安治川浚渫の際河底から引き上げた巨石で、大阪城築城のため西国より輸送した石材で当時誤って落としたものであろうといわれている。
 過日、大阪の恩人に敬意を表すべく碑を訪ねたところ、立派な碑が何十台というぼろぼろの放置自動車に取り巻かれ、さびしそうに立っているのをみて心が痛んだ。しかし安治川は異常気象で早咲きの桜の花を川面に映して、ゆっくりと流れていた。

今昔木津川物語(044)

◎川は流れて

 西区は、淀川によって沖積された大阪平野の西部に位置する。面積は五・二〇平方キロメートル。区の東北側を土佐堀川が西流し、堂島川と合流して安治川となり、またこの合流地点から、区の中央を木津川が南北に流れている。川の交差点であり、こんな大河の場合はめずらしい。

近代歴史の開花処

 「西区は、近世には諸藩の物資集散地として『天下の台所』大阪の経済的基盤を支えると共に、多くの文化人を輩出した由緒ある地であり、近代には外国人居留地を通じて新文明流入の門戸となり、造船を中心とした鉄工業の繁栄をもたらし、 わが国工業の発祥の地でもあった」と区長は「西区の史跡」に書いている。西区の史跡は約六十もあり他区と比べても多い。
 しかし、残念ながら、西区は五十六年前の大阪大空襲でほとんどの所が焼け野が原となり、今残っているのは石の碑ということが多い。

変わらない川の流れ

 その中で、唯一変わらないものは、やはり川の流れであろうか。端建蔵橋に立つて中之島の方を見れば、高層ビルを押し退けるようにして、土佐堀川と堂島川が左右から迫ってきて、緊迫感があって面白い。明治の青年たちもここで何かを感じて、激動の歴史の中を自分で歩いて行ったのではないか。
 振り返って、安治川のはるか河口のあたりを見渡せば、西日に映えてなつかしい町工場や商店、二階建ての家並みもあちこちに残っていて心が癒される。

大河の交差点

 土佐堀川と堂島川がここで合流し、安治川と木津川に、そして尻無川がまた分かれていく。いずれも満々と水をたたえている。
 「水の都大阪」という実感が文句なしにする、 そしてこの絶大なエネルギーを誘導し無事に海に帰らせるために、昔から人々がいかに奮闘してきたかが思いやられる。
 西成・木津川百景めぐり西区の巻は、汐見橋線で終点汐見橋駅まで来て、大阪ド—厶前を通って松島公園で休憩して、あとは木津川と安治川に架かる木津川橋・昭和橋・端建蔵橋・船津橋・上船津橋・湊橋などの橋の渡り放題コースがユニークではないか。時期は春か新緑の頃。

西区での町名の由来
阿波座(あわざ)

 古くから阿波(徳島)の商人たちがこの地に住みついて座をつくり商いなどをしていたことに由来する説と、当地が阿波座(西村)太郎助の所領地であったことからだとする説の二説がある。

立売堀(いたちぽリ)
 大阪冬の陣の時に、伊達家がここに濠を掘り陣地としていたが、その跡を掘り進んで川としたことから始めは伊達堀(だてぼり・後に、いたちぼり)と呼んでいた。その後沿岸で材木の立売(たてうり)が許されたため字は立売堀と改められたが、これを今まで通り「いたちぼり」と読ませていた。

江之子島(えのこじま)

 古来、難波江の児島・難波江の小嶋などと呼ばれていたのを、のち難波の冠字を略したという説と、もと犬子島と呼ばれていた所が転じて江之子島となったという説がある。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 六

◎全国に数十社ある安倍晴明神社の本社

 晴明神社は京都市上京区堀川通一条上るにあり、御所にも近い。ここは平安中期の天文陰陽博士安倍晴明(九ニー〜ー〇〇五年)の屋敷址であり、活動の拠点でもあった。
 神社の説明にはこう記されている。
 「安倍晴明公は、朱雀帝から村上、冷泉、円融、花山、ー条の六代の天皇に側近として仕え数々の功績をあげ、そして村上帝に仕えた時は、進んで唐へ渡り、はるか城刑山にて迫道仙人の神伝を受け継ぎ、帰国した後、これを元に日本独自の陰陽道を確立、朝廷の政治、日本人のさまざまな生活の規範を決めた」
 尚、陰陽師とは陰陽五行説に従って吉凶禍福を占い、呪術を施す陰陽寮が置かれ加茂・安倍両氏の支配下にあった。
 次郎と友子は伝説で知っている「一条戻り橋」を渡って、神社の鳥居をくぐった。
 次郎が語る。
 「菅原道真が左遷された太宰府で亡くなったのが九〇三年で、その祟りで京都が揺れに揺れ、緊急対策として道真をなぐさめるための、北野天満宮がつくられたのが九四六年。こんな大変な時代に晴明は六代の天皇に側近として仕え、留学もして、八十五歳で天寿を全うした後も、即座に屋敷址を晴明神社にして、今日まで祭り継がれているということは本当にびっくりであり、奇跡的ではないか」
 次郎の問いに、友子はこう返す。
 「大阪市阿倍野区にも一安倍晴明神社』があり、いつも若い女性らで賑わっているわ」
次郎が頷き、話を続ける。
 「日本列島は地球のプレートが物凄い力でぶつかりあいできた皺のようなものだから、大陸とは違い、山は険しく高く谷は深い。森が多く川は曲がりくねり、入江・湖・池・沼。四方を海に囲まれている。火山・地宸・津波,台風など災害も多い。こんな外国にはない特別な自然環境が、独特な文化を生み出しているのは当然だと思う。晴明が日本型陰陽道をあみだしたのも、それなりの必然性があったからなのだろう」
 今でも陰陽氏はいるのかなあ」と友子。
 「戦国時代には、軍師と共に陰陽師が必ず作戦本部にいたという。家康も重宝したらしいよ。 今は占い師になっているのではないか。そういえば、帝塚山の占い師の邸宅の前に、運転手付きの高級自家用車がよく止まっているが、相談の人らしいよ」
 「判断に迷うときもあるものね…その後お兄さんの調子はどうなの?」
 友子は思い出したように話を変えた。
 「認知症の兄は最近『夜間不穏症』が出てきている」
 「性格が変わったり、暴言を吐いたりするのね。私の両親もそうだった」
 「最初はショツクだったけど『次郎式陰陽道』でかわしてるよ」
 「そのこころは」と友子はつっこむ。
 「ぬらりくらり」と次郎。
 友子は無言のまま、バイバイと手を振った。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」未収載

編者より】
 本編を含む、「次郎と友子のびっくり史跡巡り日記」「南大阪歴史往来」(2024年11月新刊)を、希望者に進呈します。(残部僅少です。)送料は、自己負担でお願いします。ご希望の方は、mitsu@nishinari.or.jp (@を@に変えること)まで送付先など明記の上、ご連絡ください。

今昔木津川物語(043)

◎江之子島政府(西区江之子島ニ)

 安政四年(ー八五八)の下田条約締結後ハリスは江戸と大阪の開港を強く迫った。幕府は大阪の開港は皇居のある京都に近いので、海防不備の不安もあり強く拒否しつづけてきた。しかし、日本国土の中心にある兵庫・大阪の開港は何が何でもと列強から強く要求され、幕府はついに慶応四年(一八六八)七月に大阪開港を行なった。同年九月八日をもって明治と改元された。
 初期の大阪港は、安治川左岸の富島にあった河港で川口波止場と呼ばれた。富島と隣接する戎島の剣先には、外国人居留地が建設された。

大阪の文明開化の象徴に

 川口の居留地は二・六万平方㍍の一帯外輪船と居留地が区画され永代借地権が競売され、かなり高額で英米仏蘭の外国人約五十人に売られた。
 居留地は川岸より三食も高く石垣を築き、街区も整ってしだいに洋風建築も建ち始めた。各所に植えられたユーカリ樹や道路際の街灯が、異国情緒をかもしだし、明治四年(ー八七二)に竣工した大川沿いの造幣寮と共に、大阪における文明開化の象徴になった。

初代大阪港は失敗した

 しかしかんじんの航路の方は、淀川が上流から絶えず土砂を運び込んで浅くなっているので、外航船は入りにくく、明治二年に八十九隻入行したのが、三年には二十一隻に、四年には十一隻にと激減し、外国船は神戸に行くようになり大阪港は余り繁盛しなかった。
 外国船が大阪を嫌ったのは、大阪の判事になった五代友厚《ごだいともあつ》が、外国商人の不正行為を厳しく取り締まったことにも関係しているといわれる。隣の兵庫は後に明治政府の中枢をしめた伊藤博文が判事をしていたが、彼は外国人の機嫌を害なわないように、つまくやっていたという。五代は後に大阪財界の発展に大いに寄与した。

居留地は女子教育発祥地へ

 明治三十六年に安治川と木津川の河口部から、沖に向かって二本の防波堤を築き、これに囲まれた海を水深八・五㍍に浚渫《しゅんせつ》した新しい築港は完成した。
 川口居留地はその前に洋館はほとんど神戸に移っていたので、その後にプール女学院・平安女学院・信愛女学院・大阪女学院・桃山学院などが進出し大阪の女子教育発祥の地となった。

府庁は西区から大手前へ

 明治になり大阪府庁は最初木津川橋東南の地、元の西区府産業技術研究所の場所に置かれた。「大阪の発展は、海外にあり」という当時の府知事の考えからであったが、しかし待合室を「人民控所」と呼ぶなど、高圧的な役人風を吹かせていたので府民は「江の子島政府」と呼んでいた。
 大正十五年(一九二六)に今の大阪城西の府庁に移り、元の建物は大阪大空襲で潰された。模型が府庁正面入口にある。

地方自治の原点は府民本位

 大阪府の府民への高圧的な態度は、悪しき伝統として今もうけつがれている。
 複数の報道は「太田知事は最近ごうまんになった」と伝えている。創立五十年の歴史と伝統のある府立貿易専門学校の廃校を一晩で決め、これをトップダウン方式だと自画自賛するなどはほんの一例にすぎない。こんな知事の姿勢こそ「改革」が必要だ。

今昔木津川物語(042)

◎茶臼山 (大王寺区茶臼山町)

 和気清麻呂(七三三—七九九)とは、奈良時代に朝廷に仕えていた高級官僚の一人で、称徳女帝にとり立てられた僧弓削道鏡が、宇佐八幡の神職と結んで皇位を得ようとしたときに、称徳一道鏡らは自派と思っていた清麻呂を勅使として宇佐八幡へ行かせ、自分等に都合の良い神託を受けさせようとした。ところが清麻呂は期待を裏切ってこれを阻止。そのため道鏡らの怒りをかい、大隅に流されたが、称徳女帝死後道鏡は即失脚。清麻呂は召還され、光仁・桓武天皇に仕え、平安遷都に尽力し、晩年は幸運であった。ということぐらいしか知らなかったが、実は天王寺と係わりのある人物でもあったのである。

清麻呂知事に

 当時、大阪平野や京都・奈良盆地に大雨が降ると、大和川・淀川の下流地域が絶えず洪水に見舞われ、そのつど大きな被害を出していた。
 このような惨状を実際に目にしていた清麻呂は、延暦二年三月に摂津太夫に任命されたので、さっそく治水対策に乗り出した。

失敗したが今も地名に残る

 従来の治水工事である、決壊した堤防の再修策ではなしに、清麻呂の方法は上町台地を掘り開いて、台地東側の滞水を大阪湾に直接排出しようとする、根本的な解決策であった。時の政府も、延べニ十三万人の労力投入を行なった。しかし工事は未完成に終わった。
 砂堆を掘った難波堀江とは違い、上町台地の堅い洪植層の丘陵を開削するのとでは、技術と代用で霎泥の相違があった。清麻呂の思いは、それから約九百年後の大和川付け替え工事の完成によって、ようやく実現されたのである。
 しかし、和気(わけの)清麻呂の事業は今も「河堀口 (こぼれぐち)・堀越」という地名として残っている。

茶臼山は古墳か

 最近、茶臼山の河底池は和気清麻呂の開創した掘り割で、今日の茶臼山はその際の掘り出された土で築き上げられたものであろうという、茶臼山古墳説を否定する意見が出されてきている。
 茶臼山の名前はもちろん後世の俗名で、もとの名は荒陵(あらはか)山。
 荒陵の名が初めて文献に出るのは、四天王寺創建に関する記録で、四天王寺も一名荒陵寺とも称されるのである。
 かって広大な古墳の存在した地に四天王寺が建立されたのであって、「荒陵」は茶臼山ではなく、現在の四天王寺の地が「荒陵」であることがだんだんに明らかにされている、というのである。四天王寺本坊の境内には、立派な長持型石棺の蓋が保存されている。