今昔西成百景(011)

◎出城通り

 出城通りという地名は、天正年間、本願寺の一向一揆の門徒が織田信長と戦ったとき、木津川口の防衛のために城を築いたのが由来であるという。

権力とたたかった一向一揆

 天正四年(一五七六年)五月七日、信長は出城通りの戦いで、足に鉄砲を受け、天王寺にかけ入っている。もし、本願寺の門徒の射撃がもう少し正確であれば、出城通りで日本の歴史は大きく変わっていたかもしれない。
 大阪では東西の道路を「〇〇通り」とよび、南北の道路を「〇〇筋」とよぶ、ということは、四十年前に、関目の自動車教習所の教官より聞いた。この教皆所では同時に、警察官である試験官に賄賂を贈らなければ合格をしないことも公然と教えられ、一人反発して退所した思い出がある。
 出城通、長橋通、鶴見橋北通、鶴見橋通、旭北通、旭南通、梅通、梅南通、松通、橘通、桜通、柳通、潮路通、新開通、千本通、田端通、玉出新町通、玉出本通、姫松通、などが西成にあるが、地名の由来からして出城通りが、相当古いのではないかと思う。
 柳通りから浪速区までの北半分は、大正時代にはすでに碁盤の目のように区画整理がされていて、地名も梅、松、桜と華やかで、まるで「小京都」だという人もあれば、その辺に花札の「いの、しか、ちょう」がひそんでいないかと茶化す人もいる。

木津城を築いて織田勢を撃退する

 次に願泉寺(浪速区大国二)に伝わる古文書より、出城砦に関する部分を紹介しておく。
 「信長の本願寺と出入りの節は敵勢を紀州鷺の森の御堂へ推寄せ申さぬ様木津総門葉老若男女は各我家を棄てて西の海の浜に四方八町の埒を結び門戸厳しく小屋建て籠居す高櫓の石垣は飛田墓地の五輪石塔を夜中に引き取りて石垣とす昼は男子は田畑に出でて耕作す其時は刀或は槍を以て用心をす夜は女子番を勤む月の夜は竹の末を切りとぎりて水にひたし立て掛けて城内を守るに月の光に映じて槍と見ゆ夜戦にて其竹にて寄手のもの多数を殺す其他陥穴を以て数百名を殺す寄手は天王寺茶臼山に陣を取り出でて戦ふなりある夜葱び者木津城に入り来る其時大将定龍之を知りて夜半の鐘を明け七つ寅刻に撞きしにより忍びのものとく帰るこの鐘持ち帰りたるに寛永年中火災の早鐘によりて破れ損ず件の城今は畑となれり宇して出城という」
 その後、この辺りより墓石が掘り出されることがあると、木津川城を築いたとき、飛田墓地より運び来て石垣に利用したものではないか、と云われてきていたと伝えられている。

南大阪歴史往来(007)

◎住吉行宮正印殿(墨江二ノ七)

 軍服姿で馬に乗った明治天皇の姿を見て、女官たちは嘆いたという話が残っている。勇ましく荒々しい天子というのは、朝廷の歴史では不吉な記憶につながるからである。

忠臣顕家・正成も犠牲者

 多くの犠牲を払ってつくられた「建武の中興」なるものが鎌倉時代よりも重い年貢、課役、税金で農民を苦しめ、ー方天皇とその寵児たちは、富貴を誇り、贅沢な暮らしをし酒宴、蹴鞠、歌舞遊山にあけくれていることを、厳しく指摘し諫言した北畠顕家は堺の南石津で戦死した。
 同じ頃、楠木正成も、民衆の苦しみを省みず大内裏造営を強行したり、愛妃阿野廉子の云うことばかりをきいて政治の公平性を損なうことをやめよと諫言し、足利尊氏と和睦し以前のように公武一統の政治を行なえば平和になると献策を行なっているが、後醍醐天皇に一笑にふされ、敗北必至の戦いに追いやられ戦死している。
 後醍醐の目指したのは「天皇こそ最高にして唯一の権力者である」という構図による日本国家の改造にあったのだが、北畠顕家や楠木正成という「大忠臣」にさえ、それが認められていなかったという点に、私たちはもっと注目すべきではないだろうか。

後醍醐の横暴で全て失う

 まさに後醍醐の一生は、多数の女子に数十人の子供を生ませ、珍玉、王位に妄執したものであり、臨終に立合った忠雲僧正から「天子の位などはあの世に持っていけませんよ」とさとされても、尚「決してあきらめるな、戦って京都を回復せよ。さもなければわしの子ではない」と言い残した。この遣言により、その後南朝は「死ぬまで」戦うことになり、後醍醐の死後も半世紀にわたり戦争が続き国土は荒廃し、民衆は塗炭の苦しみをなめるのである。
 南北朝内乱の末、今までまがりなりにもあった天皇の統治諸権能は根こそぎ幕府に奪われ、足利幕府は南朝を解消して、北朝の天皇を唯一のものとし、これを自己の王権の一環にとりこんだ。それは後の秀吉・家康に継承されていく。

住吉大社津守氏は南朝支持

 さて、後醍醐の子で南朝の後継者であった後村上天皇が行宮ときめ約九年間にわたり滞在していたところが、住吉大社の南の地にあり今、住吉行宮正印殿として国の史跡に指定されている。
 南朝方の中心人物楠木正成・正行、北畠親房,顕家父子はすでになく、足利尊氏も没し、義詮が替わって南朝方と戦っていた。しかし、足利方も内紛が続き諸将も戦意を失いつつあった。このような時期、河内長野の観心寺にあった後村上天皇は、住吉を行宮ときめ滞在した。正平十五年(一三六〇)九月である。
 正印殿は住吉大社の神主である津守氏の邸内に創建したもので、壮麗な建物で南面の庭園には和歌浦から大小の名石を入れ、典雅であったという。

にわかづくりの十五神社

 明治天皇は、後醍醐天皇以来実に五三三年ぶりに王政復古がとげられたとして、南朝に貢献した人物十五人を神として祭り上げることを行なった。後醍醐天皇を祭神とする吉野神宮をはじめ楠木正成を祭る湊川神社(兵庫県)・北畠親房、顕家を祭る阿部野神社(大阪府)・楠木正行を祭る四条啜神社(大阪府)などである。
 平成四年にこれらの神社により、「建武中興十五社会」が結成され「建武中興の偉業を偲び、その意義を改めて想い起こすと共に、これの宣揚を図るため、祭典及び事業を行なう」と気になる宣言をしていたが、最近、自画自賛の小冊子を参拝者に配り始めている。
 憲法・教育基本法改悪の動きに便乗してのことであろうが、歴史から学んで十分な警戒が必要だと思う。
 最後に、先日新しくなった「大阪春秋」平成十七年新年号を読んでいると、びっくりするような記事に出会った

枚方の「伝王仁墓」に疑い

 それは私も十数年前に、夏休みの家族旅行の際、もっともらしい顔をして妻子に説明したこともある、枚方市にある「伝王仁墓」に関してである。
 「『王仁』とはいわゆる漢字を日本にもたらしたとされる人物で、枚方市は毎年『漢字まつり』をひらくなど、地元市民との連携のもと、官民一体で観光拠点にすべく力を入れており、それに伴い遠く韓国からも多くの観光客が訪れ、日韓交流の場となっている」とのこと。
 ところがこの「伝王仁墓」は「枚方市史」別冊によると、地元で「おに墓」と呼ばれていたものを、享保十六年(一七三一)京都の儒学者並川誠所が、おには王仁の訛りであると単純に決め付け、それを信じた領主が傍らに石碑を建立したものだという。
 領主をたぶらかした並川の「王仁墓」説を、すでに幕末の段階で、当地の文化人グル-プの三浦蘭阪が論破していた。蘭阪は並川の説を疑い、古い書物や領主・村方の古文書、はたまた村に残る伝承に至まで徹底的に調査を行なったが、関係書類は一切見付からなかつたという。蘭阪はそのことを著書「雄花冊子」に記している。
 私がおどろいたのは大阪府が詳細な調査もなく「伝王仁墓」を昭和十三年(ー九三八)に史跡指定し、戦後も指摘解除されることもなく、現在に至っている点だけではない。

阿倍野神社も並川発言が

 実は阿部野神社も、現在の阿倍野区北畠公園にかつて大名塚という塚があり、享保十八年(一七三三)に儒学者並川誠所が突然「これは阿倍野で戦死した北畠顕家の墓だ」といいだし、墓標をたてさせたものである。そしてそれを根拠に明治になり阿部野神社が建立された。
 しかし顕家は大名ではなかったし、戦死したのも堺石津であることは今では歴史の常識である。
 ひよっとしたら並川は、王仁や顕家の墓だけではなく、もっとあちこちで「ニセ墓」づくりをしているのではないか、という疑惑も生まれてくる。やはり郷土史の見直しは必要なことである。

今昔木津川物語(008)

◎西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(三)
生根《いくね》神社(奥《おく》の天神社)(住吉二)


 東粉浜の間魔地蔵堂の前を旧道をたどって東南の方向へ進み、上町線の小高《こだか》くなっている踏切《ふみきり》を越えてしばらく行くと、左手に生根神社、別名奥の天神社の西側の鳥居に出会う。
 神社は上町台地の崖《がけ》上にあるが、その崖の石垣《いしがき》には現在、幕末《ばくまつ》の頃近くの東粉浜小学校の敷地《しきち》を含めて、紀州街道沿いの区域《くいき》から北にかけて約ー万坪の広さであって、明治になり解体《かいたい》された土佐《とさ》藩の石垣が使われている。神社の正面にまわるため坂道を登《のぼ》ると中ほどに旧西成郡と東成郡の境界《きょうかい》を示す石碑が建っている。
 鳥居をくぐって境内にはいると、樹齢《じゅれい》五百年以上のもちの木の大木があり、歴史の古さを感じさせる。
 神社の本殿《ほんでん》は慶長《けいちょう》十一年(一六〇六)九月|淀君《よどぎみ》の寄進による片桐且元《かたぎりかつもと》奉行《ぶぎょう》により造営され、現在大阪府指定の有形《ゆうけい》文化財として、切妻千鳥破風木造桧皮葺《きりづまちどりはふこづくりひわだぶき》うるし塗《ぬ》りの建造で、桃山時代の重要な建築|様式《ようしき》を残しており、旧住吉大社|領内《りょうない》の社殿では、今はもっとも古いものとなっているといわれている。
 秀吉の死から二年後の慶長《けいちょう》五年(一六〇〇)石田三成《いしだみつなり》らの起こした関《せき》ヶ|原《はら》の戦いは東軍《とうぐん》の勝利に終わり、事実上天下の主導権《しゅどうけん》をにぎった家康は慶長八年には征夷大将軍《せいいたいしょうぐん》の宣下《せんげ》をうけて江戸に幕府をひらいた。
 かくして豊臣《とよとみ》氏と徳川氏との地位《ちい》は逆転《ぎゃくてん》し、秀頼《ひでより》は摂津《せっつ》・河内《かわち》・和泉《いずみ》の六十五万七千石の一大名に転落《てんらく》した。
 しかし、おちぶれたとはいえ秀頼は三国無双《さんごくむそう》の名城《めいじょう》大坂城をもち、城内にたくわえられた莫大《ばくだい》な金銀財宝《きんぎんざいほう》(もちろん全国の民百姓からしぼりとったり、朝鮮《ちょうせん》から略奪《りゃくだつ》してきたもの)は徳川打倒のための軍資金《ぐんしきん》として十分なものであった。

軍資金|流出《りゅうしゅつ》を迫られて

 家康はまず豊臣家の財力《ざいりょく》を失《うしな》わせようと計《はか》り、故《こ》太閤(秀吉)の菩提《ぼだい》を弔《とむら》うためと称して、しきりに社寺の修理、造営を秀頼にすすめた。慶長七年から同十五年までの大坂城内の財産が底《そこ》をつくまでの八年間に、有名な社寺《しゃじ》だけでも四、五十ヶ所、それ以外に淀君《よどぎみ》の名で住吉大社の太鼓《たいこ》橋まである。
 生根神社の再建も家康の意図《いと》と企《くわだ》てを見抜けず、家運の挽回《ばんかい》を神仏信仰《しんぶつしんこう》にたよりまんまと軍資金を流失《りゅうしつ》させていつた秀頼母子の悲劇の歴史の証人だと思えば、戦国の世の血なまぐさい風が、今もこの崖の上を吹き抜けているような気がする。
 生根神社の祭神は少彦名命《すくなひこのみこと》で「だいがく」で知られている玉出《たまで》の生根神社はここの分社である。

管公《かんこう》は後から祀《まつ》られた

 現在の地に中世、管原道真《すがわらのみちざね》が祀《まつ》られ、大海神社の奥にあたるところから「奥の天神」として有名になり、元の生根神社の存在が危《あや》うくなったために、明治になつて一時|途絶《とだ》えていた生根神社の名を復活させたという。
 政争にやぶれた文人《ぶんじん》政治家、管原道真の怨霊《おんりょう》は物すごく、それを鎮《しず》めるために日本全国に一万をこえる管原道真を祭神とする、天神さんや天満宮《てんまんぐう》がつくられたというのだから大規模である。大阪府下だけでも約七百の神社のうち百四十社ほどに道真が祀られているという。
 道真の神号《しんごう》が「天満大自在天神《てんまんだいじざいてんじん》」であることから天満宮の名が起こったが、天満とは「道真の瞋恚《しんい》天に満つ」ということだと伝えられている。広辞苑《こうじえん》によれば瞋恚とは「炎《ほのお》の燃《も》え立つような、激《はげ》しい怒《いか》り、恨《うら》み、また憎《にく》しみ」となっており、天満の天神さんとはこの最大級《たいだいきゅう》の反《はん》権力の思いが、天に満つる天の神という意味となり、学問の神や受験の神、歯痛《はいた》の神様だけではすまなくなるのである。
 少彦名命は医療《いりょう》の神といわれているし、今日の自民党内閣や横山府政による医療制度の大改悪などについては、二人の神様でなんとか反対してもらえないかと言えば、それこそ「かなわぬときの神頼《かんだの》み」だと、どこからかお叱《しか》りをうけそうである。

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今昔西成百景(010)

◎南海天下茶屋工場跡地

跡地は緑地公園と震災時の避難場所に

 明治十八年十二月、難波〜大和川北岸の両駅間に開通した南海本線は、わが国最初の私鉄であった。南海鉄道の前身阪堺鉄道は当初大阪堺鉄道会社の名のもとに、藤田伝三郎ほか十八名の有志が発起人となり、大阪南区難波新地を起点とし天下茶屋・住吉を経て堺に至る鉄道敷設を計画し当局に願出、十七年六月その許可を得た。同社は資本金二十五万円で、間もなく社名を阪堺鉄道会社と改め、十八年二月より藤田組の手により起工、同年十二月まず難波・大和川北岸が竣工した。そして十二月二七日に盛大に開業式を挙行し、翌日から営業を開始した。
 以後つぎつぎと路線が延長され、社名も紀摂鉄道、南陽鉄道から南海鉄道となり三十六年三月、紀ノ川橋梁落成を最後として待望の難波〜和歌山市間の全通をみるに至った。当時一般に鉄道電化の声が高まり、南海も三八年六月出力五〇〇キロの火力発電所を新設し、難波〜浜寺間天王寺支線の電化を完成、従来の蒸気鉄道を電車併用に改めた。同時に天下茶駅に電車車庫を設置、逐次電化の区域を広め、四四年十一月ニー日には和歌山市駅までの全電化を完成した。
 また蒸気鉄道時代難波から天下茶屋、住吉と駅数も少なかったが、漸次今宮戎、萩之茶屋、岸ノ里、玉出、粉浜などが新設された。

天下茶屋駅は元来拠点駅

 天下茶屋車庫については、当初の車庫であった難波仮車庫および難波機関庫が焼失したので、三四年五月に天下茶屋西側に天下茶屋客車庫(建坪四五〇坪)の設置をみた。その後三六年六月難波工場を廃止し、天下茶屋工場を開設した。昭和十一年九月、天下茶屋での車庫業務は住之江区に移転され、それ以来工場業務のみとなった。その後名称は車両部工場課・工務部などと改められたが、昭和四十一年六月現在では従業員約四〇〇名、在籍車両六九三を有し、車両の検査と修理を行なっている。(敷地三万七・七九二平方メ—トル)(以上は西成区史より)
 「尚玉出駅設置については、地元勝間村から熱心な希望があり、明治三九年駅舎設置の際には駅敷地八四〇坪が村から南海に寄付されている。また岸ノ里駅についても同村北部の発展上必要であるとし、付近地主が六〇〇〇余円を会社に寄付している」(西成区史)
 今は玉出駅も岸ノ里駅も駅舎ごと消え去り、高架上の新駅が「岸里玉出駅」という名前で横たわっている。

跡地利用は住民本位で

 南海天下茶屋工場跡地が、平成八年三月頃には約四へクタ—ル(甲子園球場位)の更地となって出現するが、跡地利用はあくまでも地元本位でやられるべきで、絶対に南海の営利本位にさせてはならない。その根拠となるものは、今日の南海があるのに、西成区民の貢献と公共の支援が決して少なくないということである。例えば、南海の高架工事の費用は、その九三パ—セントまでが税金でまかなわれ、南海が出しているのは七パ—セントにすぎない。
二、昭和二十年六月という敗戦ニヶ月前に、南海天下茶屋工場隣接の多数の民家に工場を空襲から守るためという口実で、国家権力による家屋の強制撤去(建物疎開)が行われ東皿池町が戦車によつて取りこわされてしまった。
三、先にかいた、「玉出駅」、「岸ノ里駅」設置の経過である。
 西成区にとっては、区民のいこいと安全な街づくりの最後のチャンスでもある。「南海天下茶屋工場跡地は、花見の出来る緑地公園と震災時の避難場所に」という公約実現のためにもがんばろう。
(ー九九五・六)

がもう健の郷土史エッセー集(特別編)

◎3月のある日、蒲生健さんへ特別インタビューをしました。

-西成医療生活協同組合時代と大阪きづがわ医療福祉生活協同組合の理事長を歴任されてきた蒲生健さん。これまで地域の歴史を綴っている郷土史は、地域の歴史や過去のできごとに深く触れており、学びや発見などが多く得られる記事になっている。読者も多く、今回インタビューを行う執筆者もその一人である。郷土史の誕生秘話や蒲生健という人物に迫る-

―なぜ郷土史を書こうと思ったのですか?
 自治体など権力側が編纂した地方史には矛盾が見受けられ、歪曲、削除された部分がある。戦争、災害、貧困などの負の面も含めて、庶民の視点での地方史編纂がしたかった。歴史に向き合うことによって、未来への展望となり、人生の岐路に役に立つ。大阪市は他の自治体に比べて特に地方史、郷土史が軽視されているように思えて、現状を変えたいと考えている。

―いつから郷土史を書き始めたのですか?
 府会議員時代に、府政ニュースを発行していた。
 そこに雑談を書くような形で始めた記事が今の郷土史になる。当時、連載で書いているうちに少しずつファンが増えていき、好評だったので、まとめて発行した。

―若い頃の蒲生さんはどんなことをしていたのですか?
 小さい頃は自転車も乗らず、遠くまで歩いて遊びに行っていた。幼い頃から読書が好きで、小説家を目指していた。佐藤紅緑、サトウハチローに憧れて、ユーモア小説が書きたい、何か作品を残したいと思っていた。兄の助言で、働いてから小説家になることにし、臨時工として造船所に勤め、社会運動にも精を出した。出版に必要だろうと、兄がお金を援助してくれた。小説は2本書いている。

―ご自身の両親との思い出は?
 父は浪速警察の副署長になったが、商才もあり、戦後は飛田で串カツ屋を営んでいた。母は保険会社の営業職をしていた。苦労は多かったと思う。

―郷土史を書いていて印象に残ったもの(人、出来事) は何ですか?
 たくさんの人とふれ合い、たくさんのことがあった。今も色んな人と史跡めぐりをしたり、講演会を年に1、2回開催したりしている。

―これから若い人に郷土史を通して何を期待しますか?
 地方史編纂として自分がやってきたことを継ぐ人がいてほしい。幸い息子が興味を持ってくれている。 息子も含めこれからの人たちには、郷土史に限ったことではないが、歴史に向き合うことによって、未来への展望となり、人生の岐路に役に立つと考えている。過去にもしっかり目を向け、広い視点でこれからの未来をつくっていってほしい。

・当日の和気藹々としたインタビューのハイライトです。二人ともすっかりおじいさんやね。当たり前か 笑い)

南大阪歴史往来(005)

◎荘厳浄土寺(帝塚山東五ノ十一)

 住吉神宮寺、津守寺と共に荘厳浄土寺は住吉三大寺として有名であったが、今は現存する唯一の寺となつている。
 住吉神宮寺は住吉大社文華館付近から東へ通称桜畑とよばれる松林にあった。
 奈良時代に仏教が普及するに従い、仏教から在来の神道に対して接近がはかられ、神前読経が行なわれたり、隣接して神宮寺が建立されるなどした。「本地垂じやく思想」すなわち菩薩(本地)は衆生を救うために仮に神の姿で現われる(垂じやく)、天照大神を大日如来とする、などのことがことに天台・真言両宗によつて教義化された。

住吉神宮寺は十八堂二重塔

 住吉神宮寺は天平宝字ニ年に(七五八)孝謙天皇により建立されたというが、江戸時代の記録によると、仏堂八・僧堂十余あったといい、南大門を入ると東西に二重塔が並ぶ珍しい配置を示していたという。
 しかし、明治元年(ー八五八)の三月に王政復古と祭政一致の精神にもとづく「神仏分離令」が出され、今まで下積みにされていた神社や神官が陽の目をみるようになり、そのいきおいのおもむくところ「排仏き釈」の運動にまで発展した。各地で寺院・仏像・仏具の破壊や焼却が行なわれ、特に神社からの仏教的要素の一掃が徹底してはかられた。住吉神宮寺も例外ではなく’堂宇は破壊され廃寺となった。
 明治政府はまた、全国の神社に社格を新しく付与して系列化し、その頂点.に伊勢神宮をおいた。天照大神を最高位の神と認めない神社は不敬罪や治安維持法で弾圧し、宗教建物は破壊され宗教団体は解散させられた。

排仏き釈と国家神道化で利権

 明治の廃仏き釈と国家神道化によって、多くの寺院・神社が破壊され、建物、仏漂、仏具、宝物、土地、樹木などが掠奪されたが、その器穢は全国で巨大なものになった。各地の権力者達が思わぬ利権にありついたのではないか。
 今に伝わる「住吉おどり」は中世、住吉神宮寺の僧が勧進のためにこれをおどり全国を遍歴ひろめたものという。
 津守寺の跡地は現在、墨江小学校内にある。津守寺は瑠璃寺とも称し、延喜元年(九〇ー)の創建である。住吉大社の本地堂で、そのため大社の造替のときにおなじく造り替えがあったというから関係が深い。本尊薬師如来像は住吉浦からの出現であるとか、あるいは京都の因幡薬師と同体像であるとか。明治初年廃仏き釈により廃寺。

荘厳浄土寺は津守氏が再興

 さて荘厳浄土寺であるが、朝日山と号し、平安時代中期の創建と推定されている。応
徳元年(ー〇八四)住吉大社興隆の基礎を固めたとされる第三十九代神主津守国基が、白河天皇勅命により再興、十三年を費やし、永長元年(一〇九六)完成した。この工事中、土中より「七宝荘厳浄土云々」の銘ある金札が出土したので寺名にした。境内は方八町あったと伝え、現東大禅寺境内の通称弁天塚は、かつて浄土寺山とよばれ当時の庭園の築山であったという。永長元年の落慶法要は勅使と共に、講師に前権少僧都慶朝を迎え盛大に行なわれたが、その時の様子は「当国他国の結縁の輩数千市をなす。男女肩を並べ禅庭隙なし」と記録され、遂に男女数十人が池に落ちて溺死したといい、その池は万代池だという。
 当寺は長い歴史の間に度々罹災し、特に天正年間(一五七三~九二)には織田信長の兵火によりことごとく焼失、慶長八年(一六〇三)に豊臣秀頼により寄進されたが、これも夏の陣、元和元年(一六一五)で焼失、元和六年の復興という。現在、境内地及び伝教大師作の木造不動明王立像、嘉元々年(一三〇三)の胎内銘をもつ木造愛染王座像は、いずれも大阪府指定史跡・文化財に措置されている。

荘厳浄土寺の寺名について

 さて最後に、荘厳浄土寺という寺名についてであるが、これは云うまでもなく浄土経の中の、極楽には金銀で飾られた荘厳な宮殿があり、人々は念仏を唱えることにより、こうした美しい,清らかな世界に生まれ変わることができる、という話からきていると思う。
 昔から、例えば藤原道長や豊臣秀吉などの権力者達は、臨終に際しては国宝級の仏像をいくつも枕元に立て、それらの仏像の手と自分の手とを紐でつなぎ、一方足元には高僧数十人を並べて、声高々に読経を続けさせたという。何故それほどまでのことをしたのか。答えは、あの世での閻魔大王の裁きが恐ろしいからである。
 古今東西を問わず、権力者は独裁者であった。侵略にょり多くの罪なき人々を虐殺してきた。謀略により無数の政敵を落とし入れてきた。それらのツケの支払いが、死に際に迫ってくるのである。
この時に、いくらじたばたしようとも、独裁者は一番哀れな人間となる。庶民は臨終に際して、荘厳な浄土をイメージして自分をごまかす必要など一切いらない。自然のままで十分に成仏できる。
 それに加えて、少しでも世のため人のために何かしたという自覚がありさえすれば、極楽浄土への到着はまず間違いないと、私は確信する。

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今昔木津川物語(007)

西成、住吉歴史の街道シリ—ズ(二)

粉浜《こはま》の閻魔《えんま》地蔵堂《じぞうどう》(東粉浜三-五)


 勝間街道の住吉側からの出発地点は東粉浜三丁目にある、地元では「六道《りくどう》の辻《つじ》の閻魔さん」とよばれて親しまれている、閻魔地蔵尊のお堂であった。場所は上町台地の西の坂を下りたところで、道路が六方向に集中する一角にあったが、戦後|交差《こうさ》部分が拡張《かくちょう》されたため七方向の道路が集まるところになった。
 交通の要所《ようしょ》にもかかわらず、裏道《うらみち》になってしまったために自動車がほとんど通らず、町並みも戦前の建物が八割方を占め、現代の奇跡《きせき》を見ているような、不思議な空間と時間を生んでいる。

四百年間、 勝間を守って

 閻魔|大王《だいおう》という恐ろしい冥界を支配する死の神と、地蔵|菩薩《ぼさつ》という一番優しい仏さんが一体となっている閻魔地蔵尊のお顔は、自然石《しぜんいし》に彫られた大人のそれ位で、黒光りに変色していた。こまごました細工《さいく》は一切なく、粗削りの中にも現代の抽象画《ちゅうしょうが》のような、見る人に様々《さまざま》にかんがえさせるものであった。
 掲示されたものによれば「本尊閻魔地蔵は難波の浜辺におわしましたが、われを住吉大社へとのお告《つ》げにより背負《せお》われて、住吉へはこばれました。ところがこ
の地までくるとどうしたことかにわかに重くなられ、ここにとどめてまつられるようになりました。
 尊像《そんぞう》には天文七年(一五三八)の銘《めい》が刻まれていますから、四百三十五年前で戦国争乱《せんごくそうらん》の世でした。内陣《ないじん》の本尊《ほんぞん》は石造《いしづくり》の座像《ざぞう》で、お姿は閻魔大王の憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》でしやくをもっ ておられ、お地蔵さまというイメージとはちがっていますが、閻魔は地蔵菩薩の化身《けしん》といわれていますので、いつしか近郷近在《きんごうきんざい》の人びとに霊験あらたかな閻魔地蔵として、崇められるようになりました」とある。
 天文七年とは大坂では十一年におよんだ、織田信長と一向宗《いっこうしゅう》の本山石山|本願寺《ほんがんじ》との石山合戦が終わりをつげ、顕如《けんにょ》らが大坂を退去した後、石山本願寺は三日三|晩《ばん》燃《も》えつづけ、すべての堂舎《どうしゃ》が焼《や》け落ちた前の年のことである。この仏像が難波にあったということであれば、当然石山合戦とは無関係ではあり得ず、あわただしい情勢の中で、作者は粗削りな作品の中に後世《こうせい》の平和を願ったとよみとれないだろうか。

心のいやされる時空

 がたがたと戸を開けて中に入ると、右手のちよつとした畳《たたみ》の間に女の方がお堂の守をされていた。近頃は神社でも無人《むじん》のところが多いのに、ここはいつ来てもだれかがおられるので、ローソクや線香《せんこう》のたえることがない。掃除《そうじ》がゆきとどいて柱や板もすべて黒光りしている。床にも打水《うちみず》がされていて気分が落ち着く。白いカバーのかけられた小さな座布団《ざぶとん》に腰掛《こしか》けて、いろいろお聞きすると親切《しんせつ》に答えてくださる。先日も縁起書《えんぎしょ》を少し余分《よぶん》にお願《ねが》いすると、わざわざさがして、追いかけてきて下さった。今時《いまどき》こんなところはちょっとなく、閻魔堂でのひとときは本当に心のいやされる時間だといえる。
 実は私の一家は戦後疎開先から引き上げてきて、この閻魔堂の近くに住み、私はここで少年時代を過《す》ごしたのであった。その家は今も地元のお母さんたちが運営《うんえい》する乳児《にゅうじ》の共同保育所としてそのままの姿で残っている。東粉浜での思い出は語りつくせない程あるが、例えば戦後いち早く地蔵盆が盛大《せいだい》に復活され、この辻で盆踊りや演芸《えんげい》大会が何日もやられ、大人《おとな》たちが目の色をかえて取り組んでいたこと。縁日《えんにち》には数多くの露店《ろてん》も出てにぎやかな中で、お堂の中では山伏《やまぶし》たちが、炎《ほのお》を天井に吹き上げながら護摩をたくのを、石の玉垣《たまがき》にぶらさがって顔を真つ赤にして見ていた子供たち。
 夾竹桃《きょうちくとう》の木の下に毎日来た紙芝居《かみしばい》。タ焼けの中に友達が一人づつ家から「ごはんやでー」とよばれてきえていき、やがてだれもいなくなったお堂の前の小さな広場……。
 堂内に掛けられた地獄絵《じごくえ》は大正時代に信者《しんじゃ》が描《か》いて持ってきたものだそうで、昔と同じところに今もあったが、子供の頃の印象《いんしょう》からすればうんと小さく感じられた。子供心に夢にまで見たこんな絵を、昨今《さっこん》世間を騒がせている官僚《かんりょう》や銀行のエリート・自民党らの政治屋は見て育ったのだろうかと、お参《まい》りに来ていた人たちと話し合った。

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今昔西成百景(009)

先々代の診療所のお話です。写真は、先代。

◎民主診療所

 黒田革新府政誕生の一年前、一九七〇年に西成民主診療所は、潮路二丁目五番地につくられた。「西成にもやっと民主的な医療機関ができた」と、建設委員会の人々や区内各民主団体の代表は、喜びと期待に胸ふくらませて開所式にのぞんだ。

戦前の無産者診療所のたたかいをひきつぐ

 「民診」は医療活動のかたわら、地域活動にも積極的に取り組む方針を生かし、ただちに近くの児童公園廃止反対の運動に参加、四方理事長の市会初当選も力になり公園存続に成功。西成民主診療所「民診」は一挙に地域に根付いた存在となった。今もその公園は子供のあそびば。
 木津川にル—プ橋が架けられることになり、連綿とつづいていた千本松渡船の廃止が市で決定された。しかしこの橋はあくまで自動車中心の橋で、人が歩いたり自転車で渡ったりはできない。「民診」では所長を先頭に総出で現場へ行き、老若男女のモデルに歩いて渡ってもらい、各人の疲労度を測定し科学的デ—タを作成。「橋はできても渡しは残せ」の名文句で広がった住民運動と協力してついに市の決定を撤回させた。今日も多くの人を乗せて渡船は通っている。
 自民党政府は「高齢者社会の到来に備えるため」と称して消費税を導入しておきながら、一方で医療を営利企業の市場にかえる目的をもって医療法改悪を行ない、次いで老人保険法の改悪を矢つぎばやに出してきた。
 「民診」は、厚生省のこのようなやり方は「国が医療を捨てるとき」と、追及バクロし署名や集会、デモで区民に訴えた。
 「民診」のモットーは「いつでも、どこでも、だれでも安心して医療を受けられるように」である。創立以来二十三年の間に「民診」の理事などで地域で奮闘され物故された方々は、西口喜代松(今宮)・松本正堅(南津守)・松本克義(潮路)・佐藤虎喜(橘)・本間のぶえ(梅南)・福井由数(出城)の諸氏である。それぞれの方々と「民診」の結びつきを回想すれば正に走馬燈の感がある。
 今、「民診」もいよいよ建て替えの時期をむかえ、六月末上棟式、十月新設開所のはこびで工事が進められている。その間は医療生協会館で診療はつづく。
 西成になくてはならない存在となった「民診」は、新しい建物でより大きな活動を目指している。(一九九三・六)