◎極楽浄土即成院と那須与一
次郎と友子の二人は、今日は京阪電車「東福寺」駅から徒歩約十分の即成院《そくじょういん》に来ている。東福寺と共に有名な泉涌寺《せんにゅうじ》の総門前であり、「極楽浄土へ導く阿弥陀如来《あみだにょらい》と二十五菩薩は宇治の平等院と同じように、現世の極楽を目の当たりにする法悦《ほうえつ》にひたるもの」と由来に。
友子は「関白の藤原頼通は宇治に平等院を建て極楽往生を願ったが、その子、橘俊綱《たちばなのとしつな》も伏見桃山に山荘を造り、恵心《えしん》僧都《そうず》源信《げんしん》が伏見に建立していた光明院《こうみょういん》を阿弥陀堂として移設し、以後、さまざまな変遷を経て明治時代に現在の地に移りました。と書かれているけど、阿弥陀如来の高さは五・五メ—トル、居並ぶ二十五菩薩もそれぞれ像高が一五〇センチあり、全て国の重要文化財に指定さ
れている。平等院よりも近々と拝観できるし、庶民的で親しみがもてるわね」と早速、ファンになったようだ。
次郎も「千年以上も前から、あちらこちらに移動しながらも、ほぼ、無傷で保存されていたことも奇跡的だ」とひとしきりに感心している。
「しかし、即成院は鎌倉時代の武将、那須与一《なすのよいち》ゆかりの寺院としても知られているとか。与一は一七歳の時、源義経にしたがい屋島の合戦に加わり、平家の指した兽の日輪の扇を落とした」友子も「本堂の隣に突然、高さ三メートルもあり巨大な樽のような那須与一の墓なるものが迫ってくるのにはびっくりしたわ」と。義経の奇跡的な大活躍で平家は一ノ谷で負け、中立派の水軍の一部が源氏に味方するという変化が生まれはじめた。しかし、平家は海軍であり海がホームグランドだ。ところが屋島でも義経の意表を突いた作戦で敗れ、平家は屋島を捨て海上に逃れた。
「日暮れ近くになつて平家の軍船から1艘の船が漕ぎ出され、美しく着飾った女性が竿の先の扇を指差した。『これを射れるか』という挑戦だ。平家は距離を遠ざけ、射落とすのがまずは不可能にしておいて源氏を挑発したのだ。源平両軍が、かたづを呑んで見守っている。源氏としては逃げれば全体の士気が損なわれる。射損じても源氏は武神の加護が無くなったと平家は勇気百倍するだろう。平家の誰が考えついたのか、見事な一発勝負である。今までの義経の奇襲作戦による連勝が、余りにも続きすぎたので、その反動が恐ろしい。選ばれた那須与一《なつのよいち》は若冠、十七歳、『南無八幡大菩薩、願わくば、あの、扇の真中、射させ給ばせ給え。これを射損ずるものならば、弓切折り自害して、人に二度と面を向かふべからず』と祈って波打際に馬を乗り入れ、ちょうとばかりに放った矢は見事、的を射抜き、扇はばらばらに砕けて波間に消えた」
「次郎ちゃんの話を聞いてるだけで手に汗にぎるわ」
「突然の指名で結果的には日本の歴史を左右した那須与一は、その後は即成院《そくじょういん》に庵を結び没したということだろう」「浦島太郎みたいになってしまったのかな…」
「友ちゃん、それはないよ」「認知症のお兄さんの調子はどうなの」
「有り金残らず懐に入れて旅に出たいと」「次郎さんと弥次喜多道中ね」「いや、それが独りでいきたいと…」「大丈夫なの」「?」「今日は講談ありがとう」「いや、那須与一は伝説ではなく史実なんだけど。本当に」
大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」 2017年9月、10月号
編者追加】
当方が研修医だった頃、小児の難しいがどうしても習得しなければならない検査の一つに、腰椎から髄液を採取する、腰椎穿刺(ルンバール)があります。そういった場面で、指導医(オーベン)曰く「那須与一が扇の的を射る如く、子どもが泣いた時の体動と必ずシンクロナイズする一瞬があるものだ。それを根気よく待って、その一瞬に針を入れるのがコツ」と示唆されました。ものの見事で、それが的中、一回で検査が終了したのを覚えています。その後、検査の時には、与一のごとく「南無八幡大菩薩!願わくば針を的に当たらせ給え!」と心のなかで念じ検査を行ったのは言うまでもありません(笑)。近年、ワクチンの普及のお陰で、ルンバールの機会は少なくなり、こうしたテクニックや「念仏」もすっかり「なまくら」になったのは喜ばしい限りです。