診療案内

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9時~12時 × ×
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18時~20時 × × × ×
整形外科
 
9時~12時 × × × × × ×
14時~16時 × × × × × 〇(※)
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がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第12回、第13回

◎京洛五条世継地蔵 家康…阿茶局…忠輝」

 今日の次郎と友子の「びっくり史跡巡り」は京都市下京区の塩竈山上徳寺に来ている。京阪電車「五条駅」西に10分の所にある。
 由来には「慶長八年(一六〇三)徳川家康によって建立された。開基は上徳院殿(阿茶局)であり、開山は伝誉蘇生上人(阿茶局の叔父)である。当山建立にあたり、家康公は本尊に江州鞭崎八幡宮の中尊である安阿弥快慶の作、阿弥陀如来を招来し本尊とした。また、上徳寺の地蔵堂に安置し奉る世継地蔵は、明暦三年(一六五六)当山に建立されたものである。本堂の霊験あらたかな本尊に篤く帰依していた。
 一族の中に、八幡の清水氏という人がいた。一子を失い世継の子が恵まれますように念じて堂に参籠した結果、夢中に等身大の地蔵尊が現れ『我を石に刻み祈念すべし』と告げられた。早速にその尊像を石に刻み寺内に安置したところ、やがて立派な子が授かり、家運長久し子孫は繁栄した。以来、『世継地蔵』と称し信心の人々利生を受けることが多かった。今では『京のよつぎさん』と親しまれ各地より参拝者がある」と記されている。
 次郎が語る「今日のコースは友ちゃんが選んでくれたものだが『家康・阿茶局・世継』とあってびっくりした。でも、世継地蔵の建立が家康没(一六一六)後なので安心した」
 「なぜ?阿茶局は家康の側室なのでしょう」と友子。
 「家康は正妻築山殿の裏切りの後は正妻はもたず、側室は何人か居たがその中でも阿茶局は別格の扱いであった」
 次郎はつづける。彼女は元は今川家の家臣の未亡人で、大変な美人だったという。そもそも家康の側室達の主な任務は情報収集であり、阿茶局がその総括責任者であった。
 阿茶局《あちゃのつぼね》は家康の死後も秀忠の側近として活動しており、大坂冬の陣では使者として大坂城に乗り込んでいる。
 「また、彼女は家康の子を二人生んでいる」と友子。
 「そう、特に上の子忠輝は江戸城にて生まれ、年わずか十八歳にして高田五十五万石の領主となった。何の戦功もない彼には異例ともいえる禄高《ろくだか》で、家康はかれを少し偏愛していたらしい。その彼が、幕府旗本の弟を無礼だと言って殺した。家康はこれを怒り忠輝を上州藤岡に蟄居《ちっきょ》を命じ、その領地を没収した。家康が死の床にあるとき、忠輝の母の阿茶局がその罪を許してくれと頼んだが、家康は涙を流しながらも、結局は許さなかつた」と次郎は語った。
 「家康は身内に厳しかったのね。初めて知った」と友子。
 「家康は人気はなかったが、人々から信頼されていた。信長や秀吉に見られるような理屈にならない残虐な行為はなかった。理由なき処罰はしていない。全て法に基づいてやっている」と次郎はつづけた。
 「昔の法とは各家の『式目《しきもく》』のことね」と友子が問う。「たとえ殿様でも切り捨て御免とはいかなかったの?」「相手は直参《じきさん》旗本、家康の直属の家臣の弟だから、あいまいにはできなかったのだろう」と次郎が答える。
 「式目を専門につくる、今でいえば法律専門家もいた。式目の扱い如何によってはその家の運命も変わっていくわけだ。それにしても、家康も阿茶局も居なくなってから『世継地蔵《よつぎじぞう》』が由来の寺に現われるとは…」と次郎。「阿茶局が一番願っていたことの因縁か」
 今日の二人はお互いに子を持つ親として、手を合わせただ念ずるばかりなり。
 認知症の兄が最近よく次郎を息子と錯覚して、用事を言い付けるのでストレスがたまると、友子に愚痴る次郎。兄は今年で八十八歳の米寿《べいじゅ》。「六歳下の子どもってないわね」と友子がからかう。
 「…」と次郎。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」 2017年3月、4月号掲載

参考:Wikipedia 上徳寺

今昔木津川物語(023)

西成—大正歴史のかけ橋シリ—ズ(一)

◎木津(中村)勘助《かんすけ》の実像《じつぞう》

 木津勘助、天正《てんしょう》十四年(一五八六)相州足柄山で新田義貞八代の孫として生まれる。姓は中村、父母とともに木津村(現在の浪速区大国町付近)へ移り住み、木津勘助と呼ばれる。

勘助島(三軒家《さんげんや》)で新田づくり

 慶長《けいちょう》十五年(一六一〇)豊臣《とよとみ》、徳川《とくがわ》両家の間に風雲《ふううん》ただならぬものが漂《ただよ》いはじめ、豊臣方は木津川両岸一帯の防備《ぼうび》と軍船《ぐんせん》繋留場《けいりゅうば》の建設を行うこととし、勘助にその工事を命じる。
 勘助は、大勢の人夫を指揮して早々に工事を終え、豊臣方は勘助に感状をさずけ、以後、勘助の整備したこの島を勘助島と命名、また、民家三軒から出発したこの地を三軒家(現在の大正区)と呼び今に至っている。
 慶長十九年(一六一四)十月の大坂冬の陣、翌|元和《げんわ》元年五月の夏の陣により豊臣方は滅亡《めつぼう》。

東照宮《とうしょうぐう》創建《そうけん》の大役《たいやく》も

 徳川幕府は、家康《いえやす》の孫婿《まごむこ》にあたる伊勢亀山《いせかめやま》城主|松平忠明《まつだいらただあき》を十万石の大名として大坂に転封《てんぽう》させ、大坂復興に当らせた。
 忠明は勘助を呼び、直々《じきじき》に東照宮創建の大役を命じる。二年前にこの世を去《さ》った家康の威光《いこう》を大坂へ残すためである。
 命を受けた勘助は、候補地《こうほち》となった天満川崎村の住民を説得《せっとく》し、自《みずか》らが開発《かいはつ》した勘助島へ田地《でんち》を与えて移《うつ》らせ忠明の要請《ようせい》に応えた。

義人《ぎじん》勘助は実話か

 寛永《かんえい》十八年(一六四一)この年は天候のせいで大|凶作《きょうさく》。飢死《うえじに》する者道をふさぐありさまであったという。この窮状《きゅうじょう》を何とか救わんものと、勘肪は各村の庄屋《しょうや》らと奉行に日参《にっさん》して、貯蔵米《ちょぞうまい》の放出を陳情《ちんじょう》するも、奉行は、幕府の許しがないと応じてくれない。
 勘助はついに死を覚悟《かくご》して米蔵《こめぐら》を襲《おそ》い、五千余|俵《ひょう》を奪《うば》って窮民《きゅうみん》に分け与えるという最後の手段に出た。
その後勘助は、奉行所へ自首《じしゅ》。これまでの勘助の業績《ぎょうせき》があまりにも多いため、幕府に決裁《けっさい》を伺《うかが》う、それまで勘助島に蟄居《ちっきょ》という軽い処分《しょぶん》。しかし、米蔵破りから十九年経過した万治《まんじ》三年(一六六〇)幕府は、勘助の功績《こうせき》を認《みと》めたうえで、米蔵を破った罪科《ざいか》は極《きわ》めて重いとの理由で、斬死《ざんし》の刑《けい》を宣告《せんこく》、同年十一月二十二日に刑は執行《しっこう》され、七十五|歳《さい》の波乱《はらん》に富《と》んだ生涯を終えた。
 しかし一説には、「いくら勘助の勢力が強大でも、長時間にわたり幕府の貯蔵米五千俵を盗み出すのは不可能《ふかのう》だ、それは当時の役人が、幕府の命令を待《ま》って蔵出《くらだ》ししていたのでは間に合わない、そこで勘助の任侠《にんきょう》を見込んで瓷み出させた、だから勘助島|流刑《りゅう[ママ]る?けい》という味な処置になったのだ、戸籍《こせき》上、形式的には断罪《だんざい》として取り扱われたが、事実は平穏《へいおん》な余生《よせい》を送ったのだ」という。

別にお家|再興《さいこう》の悲願が

 そこで、私の推理《すいり》なのだが、木津川両岸における新田づくりの最盛期《さいせいき》は元禄《げんろく》の頃で、津守・加賀屋などすべて両替商《りょうがえしょう》などで大儲《おおもう》けした商人の新たな投資先《とうしさき》としてやられている。幕府には地代金《ちだいきん》が入ってくるし、後々《あとあと》年貢《ねんぐ》も取れるわけである。
 しかし、戦国《せんごく》の時代の新田づくりは主として隠匿《いんとく》武士の再起の拠点《きょてん》づくりとしてやられることが少なくなく、新田義貞八代目が事実とすれば、当然勘助の一家に従《したが》う一|族《ぞく》があったのではないか。豊臣方や松平忠明らの要請に応えられたのも、この勢力が背後に控《ひか》えていたからに違《ちが》いない。
 死後|没収《ぼっしゅう》された田地《でんち》は二十三町余、二百十五石で、当時の中位の村のほぼ一村の広さに近いというものであり、とうてい勘助一人でどうこうできるものではない。また当時、新田をつくっても一年にー、二戸位しか人が集まらなかったそうで、勘助が東照宮創建にあたって川崎村の住民をそっくり勘助島に移らせたことなどは、権力に便乗《びんじょう》しての住民集めともみられ、したたかな勘助のお家再興|戦略《せんりゃく》の一端《いったん》がかいまみられる。そんな勘助が、幕府の米蔵破りなどの暴挙《ぼうきょ》を血気《けっき》にはやってやるはずがない、と私は推理する。おそらく後世《こうせい》の芝居《しばい》の筋がつけ加えられて語りつがれてきたのだろう。
勘助が処刑《しょけい》された時代は幕府は慶安《けいあん》二年(一六四九)検地条例《けんちじょうれい》を出し、太閤検地《たいこうけんち》が六尺三寸平方を一歩としていたのを六尺一分平方にあらため、一層の年貢とりたてをねらい「慶安の触書《ふれがき》」を定《さだ》めている。
 勘助の処刑は、幕府による勘助島の田地没収と一族への弾圧が本当のねらいではなかったのではないか。
 江戸で起こった「慶安の変《へん》」(一六五一)の首謀者《しゅぼうしゃ》由井正雪《ゆいしょうせつ》も楠木正成《くすのきまさしげ》の子孫と称していた。封建《ほうけん》社会の秩序《ちつじょ》が強化され、浪人《ろうにん》が立身出世《りっしんしゅっせ》する余地《よち》のなくなってきたことへの不満は、大坂でも同じことであったはずだ。

【編者注】
同じテーマを扱った文章は、今昔西成百景(017)「木津勘助ゆかりの―敷津松之宮神社」 にもあります。

今昔西成百景(032)

◎天下茶屋の仇討

 「この地で慶長十四年備前の人林源次郎が父・兄の怨敵当麻三郎衛門を討ち本意を遂げたことは、後世天下茶屋の仇討として人口に膾炙されたものである。源次郎の父玄蕃は城主宇喜多秀家に主家の安危を諌めたが、奸臣長船紀伊守の忌むところとなり、長船は当麻三郎衛門をして夜ひそかに玄番の帰途を要して殺害せしめた。長船の悪計は露れて切腹を命ぜられたが、三郎衛門は出奔した。玄番に重三郎・源次郎のニ子あり、父の仇を報ぜんがため、母と下僕二人をつれて仇を求めて国を出たが、母は病んで没し、兄もまた下僕の裏切りから三郎衛門のために殺害された。源次郎は嘗て母の情けにより助命せられたもと同藩の士で、伏見の人形師幸右衛門に頼った。幸右衛門はひそかに木村重成に訴えた。重成これを憐れみ、たまたま淀君の住吉神社参拝の挙あり、大野治長これに従い、その臣となっていた三郎衛門もこれに倍していたので、その知らせを受けた源次郎は幸右衛門とともにその帰路を要して天下茶屋の地に父・兄の仇を報じたものであると伝えられている」(西成区政誌)

武士の「美徳」

 かたち討ち、あだ討ちとも呼ぶが、江戸時代は忠孝の精神にもとづく慣習として手続きをふめば公認された。儒教の影響で、武士の道徳的義務にもなっていた。江戸時代だけでも件数は百件以上に達したといわれているが、実際にははるかに多かったと思われる。
 天下茶屋の仇討ちは、関ヶ原の合戦で西軍が敗北して、豊臣家は二百万石から六十五万石に転落し、一方徳川家康は朝廷から征夷大将軍を贈られ、江戸に幕府を開いて六年目に起こっている。木村重成と大野治長は共に慶長一九年の大阪冬の陣慶長二十年の夏の陣でも一貫して豊臣方の総大将となり、淀君・秀頼と運命を同じくした最も忠実な西国大名である。

豊臣家の復権に

 天下茶屋の仇討ちのあった時は、豊臣家は転落はしたものの、関ヶ原の合戦はいちおう豊臣家は無関係ということで逃げられたとしており、お家再興に幻想をまだもっていたころであった。木村重成と大野治長はこの仇討ちを最大限に利用して、豊臣秀吉ゆかりの殿下茶屋-天下茶屋の名を一世に風靡させると同時に、仇討ちに実質的に助太刀した豊臣グループのイメージアップを計ろうとしたことは、十分考えられることだと思う。事実天下茶屋の名は仇討ち事件によ って一層有名になったといわれている。

仇役が立派な墓に

 ところが意外なことに、今日現場に残されているのは悪人・当麻三郎右衛門の墓だと伝えられる立派な宝塔なのである。場所は天神の森天満宮の境内だが、説明によれば、昭和三十三年まで南へ五 十米の住吉街道沿い「くやし橋」のたも とに建てられていたのが、道路拡張のた め移転したとのこと。「くやし」というのも、当麻三郎右衛門が思わず叫んだ言葉から由来しているとのことだ。
 しかも不思議なことに、「墓」の建立されたのは文政十二(一八二八)と文政十三年のことであり、事件からは実に二二〇年後なのである。

庶民こそ被害者

 結局徳川幕府としては、天下茶屋の仇 討ちが豊臣グループによって演出されたことが、気にいらないということなのだろう。仇討ちは美徳なり、が徳川幕府の 方針だとすれば矛盾は余計に大きくなってくる。
 徳川側による豊臣の残党にたいする追討は、徹底して冷酷なものだった。豊臣びいきは大阪に多く残った。弱いものに 味方する判官びいきの感情は、庶民に共通するものである。しかし、織田・豊臣・ 徳川という三人の独裁者によって命を奪われた、無数の名もなき人々にこそ、哀悼の意が表されるべきではないか。

今昔西成百景(031)

◎幻の緑地公園ー五十年前にあった西成大公園建設の計画

 「本市の緑地計画としては昭和二十二年一月十四日内閣の認可を受けた都市計画公園大小併せて百十二ケ所(八二一八平方粁)がある。その数・面積・配置・連絡・機能をひとまとめにして有機的組織として計画されている。本区内の都市計画公園の予定地としては、北加賀屋公園(桜井町・津守町)の三千七百二十坪・玉出公園(玉出新町通二丁目)の八百四十七坪・西成公園(梅通四・五丁目、梅南通四・五丁目、松通五・六丁目)のー万四千三百九十九坪・津守公園(津守町)の三千六百九十一坪がある」(西成区政誌)

西成にも大規模な公園が必要

 西成区には、住吉公園や住之江公園のような大規模な公園が一つもない。スポ—ツするにも、花見に行くにも、地元を出なければならないということは、街づくりの点ではもちろん、区民の意識の面でも大きな問題だと思う。緑地や災害時の避難場所でも他区と差が生じている。
 ちなみに、私が日頃から声を大にして訴えているところだが、大阪市内二十四行政区中公営のスポーツ施設がゼロというのは、西成区だけなのである。
 それではなぜ、西成には大公園がないのか。先日、南海天下茶屋工場跡地の利用問題で市役所の担当課長と交渉したが、開口 一番彼が言ったことは、「そんな駅前の一等地に公園などは無理です」ということだった。

「集客都市」づくりで地元は無視

 しかし、住吉公園も住之江公園も私鉄や地下鉄の駅前にあり、交通至便で利用者が多いのである。結局、担当課長の考え方は、現磯村市長の提唱する「集客都市づくり」に貢献するような施設なら良い、ということらしい。
 地元にはたいして関係もないマンモス施設を、交通至便な「一等地」に持ち込んで、「西成区民にとっての街づくりの最後のチャンス」を奪ってしまう。そしてみずからは市長のごきげんをとり、出世コ—スに乗ろうとする。そんな役人根性が丸見えで、こっちの気分まで悪くな
ったものである。

現市政は最低の支持率

 昨年秋の大阪市長選挙では、自社公民才—ル与党にかつがれた現市長が当選したとはいえ、わずか有権者比一七・六四%しか得られなかった。もちろん史上最低である。
 忘れもしないことは、投票日の前日の早朝、土曜日で区役所は休みなのに、区長以下の管理職が一丸となって区役所横の地下鉄の駅前に立ち、棄権防止運動をしていた姿である。投票率を相当上げなければ、オ—ル与党候補といえども楽観は許されないとの、新聞報道があったあとのことである。

区民を踏み台にすることは許せない

 歴代区長が最重要課題としてきた、南海天下茶屋工場跡地利用問題、いよいよ具体化の段階にきているのに、だんまりをきめ、一切情報を公開しない。若手のエリ—卜といわれる現区長に、市役所の担当課長らと共通する住民無視の姿勢が感じられて、怒りがわいてくる。区民を踏み台にしての保身は断じて許せない。

区政史の謎

 西成区においても、区の中央部に大規模な緑地公園が必要なことは、五十年も以前から行政も認めてきたことなのである。都市計画公園として、梅南から松にかけて、一辺二百数十米の正方形の大緑地公園が西成公園として建設が計画されていたことからみても、明らかだ。
 せっかくの街づくりの機会を逃してきた、その原因は一体なになのか。西成区政史にも不可解なことが多い。「幻の緑地計画」を何としても、南海天下茶屋エ場跡地で実現しなければと、改めて決意をする。

今昔西成百景(030)

◎「聖天さん」——海照山正円寺

 「聖天山公園内に存在する聖天山古墳は、昭和二十六年に石室が見つかり埴輪や土器・直刀・馬具などの副葬品が出土した確実な古墳である。造営時期は古墳時代の後期、六世紀代と考えられるという。
 この古墳の南側にある、「聖天さん」で名高い正円寺の丘陵は、西向きの前方後円墳の可能性も考えられる。もしそうだとすれば、墳丘長は一〇〇メ —トルを超えるであろう」(大阪市史)
 「聖天さん」と親しまれているのは、西成区と阿倍野区の境にあり、町名としては阿倍野区松虫通三丁目にあたるが、西成区民に長年地元のお寺として馴染まれてきた正円寺のことである。急な階段を昇ると山門にも「海照山天下茶屋天尊」と掲げられている。
 寺伝によると、天慶二年(九三九)権化光道大和尚の開基で般若山阿部寺のー坊で、現在は真言宗東寺派に属する。本尊の大聖歓喜天皇は慈覚大師の作だと伝えられる。

現世利益の「聖天さん」

 聖天山奥の院には、鎮守堂・寄松塚・石切分祠,波切不動明王・弁財天祠・などがあり、そのほかにも、ぼけ封じ地蔵・水子地蔵・水掛け不動明王が参拝者の願いを逃がさじとかまえている。因みにこれら神仏のご利益を挙げてみると商売繁盛・家内安全・産業振興・海上安全・開運出世・芸能上達を願うものであった。
 「聖天さん」はまさに千年このかた、庶民の祈りと願いの場であったといえよう。

遠ざかる海辺

 百度石を廻り疲れて、お寺の庭から西をみれば夕日が海に沈んでいく。人々はここで再び手を合わせる。
 はじめは目の下にあった海岸線も住吉街道ができる頃から遠ざかり始め、江戸時代には十三間堀川の西に迄のびたという。
 海を望見できるところから海照山正円寺と命名されたのだが、「聖天さん」はまた落日信仰の場でもあったのだ。

「聖天さん」ゆかりの人

 以前に毎日新聞の「女の創作」によく入選されていた脇田澄子さんが、千本から「聖天さん」の近くに転宅されてから、もう何年になるか。脇田さんは原稿用紙四枚程度の「掌小説」を作品集にして、毎年手作りで出版されていたが、すでに十号に達するという。先日知人から借りて読ませていただき、感動した。庶民の日常の哀歓がにじみでていて、読み出したら止められない。
 小犬を連れて聖天山公園をよく散歩されている脇田さんの胸のなかに、こんな思いがかくされているのかと、微笑ましい限りである。
 「聖天さん」と民謡をこよなく愛し、三味線教室を開いておられた井佐原幸子さんが、この二月に急逝されたことは、かえすがえすも残念でならない。
 天下茶屋民主診療所を中心にして、西成医療生活協同組合の理事、日本共産党後援会の活動家として永年奮闘されてきた伊佐原さんは、私に民謡の手ほどきをして下さったり、また「現代西成百景」の出版を励ましてくれた得がたい友であった。
 伊佐原さんは、「聖天さん」の坂を登りながら、何を願っていたのだろうか。「もっと心を豊かに、もっとやさしく」を先輩からのメッセ—ジとして受けとめて、「聖天さん」の坂を私は下った。

編者追加】
・「『聖天さん』——海照山正円寺」は、「今昔木津川物語(005)」と「今昔木津川物語(020)」でも案内しています。ぜひご覧ください。
・2024年9月9日9時9分に、組合員の皆さんと「平和のつどい・鐘つき」を聖天さんで行いました。スナップと動画を掲載します。

動画 →

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第18回、第19回

◎極楽浄土即成院と那須与一

 次郎と友子の二人は、今日は京阪電車「東福寺」駅から徒歩約十分の即成院《そくじょういん》に来ている。東福寺と共に有名な泉涌寺《せんにゅうじ》の総門前であり、「極楽浄土へ導く阿弥陀如来《あみだにょらい》と二十五菩薩は宇治の平等院と同じように、現世の極楽を目の当たりにする法悦《ほうえつ》にひたるもの」と由来に。
 友子は「関白の藤原頼通は宇治に平等院を建て極楽往生を願ったが、その子、橘俊綱《たちばなのとしつな》も伏見桃山に山荘を造り、恵心《えしん》僧都《そうず》源信《げんしん》が伏見に建立していた光明院《こうみょういん》を阿弥陀堂として移設し、以後、さまざまな変遷を経て明治時代に現在の地に移りました。と書かれているけど、阿弥陀如来の高さは五・五メ—トル、居並ぶ二十五菩薩もそれぞれ像高が一五〇センチあり、全て国の重要文化財に指定さ
れている。平等院よりも近々と拝観できるし、庶民的で親しみがもてるわね」と早速、ファンになったようだ。
 次郎も「千年以上も前から、あちらこちらに移動しながらも、ほぼ、無傷で保存されていたことも奇跡的だ」とひとしきりに感心している。
 「しかし、即成院は鎌倉時代の武将、那須与一《なすのよいち》ゆかりの寺院としても知られているとか。与一は一七歳の時、源義経にしたがい屋島の合戦に加わり、平家の指した兽の日輪の扇を落とした」友子も「本堂の隣に突然、高さ三メートルもあり巨大な樽のような那須与一の墓なるものが迫ってくるのにはびっくりしたわ」と。義経の奇跡的な大活躍で平家は一ノ谷で負け、中立派の水軍の一部が源氏に味方するという変化が生まれはじめた。しかし、平家は海軍であり海がホームグランドだ。ところが屋島でも義経の意表を突いた作戦で敗れ、平家は屋島を捨て海上に逃れた。
 「日暮れ近くになつて平家の軍船から1艘の船が漕ぎ出され、美しく着飾った女性が竿の先の扇を指差した。『これを射れるか』という挑戦だ。平家は距離を遠ざけ、射落とすのがまずは不可能にしておいて源氏を挑発したのだ。源平両軍が、かたづを呑んで見守っている。源氏としては逃げれば全体の士気が損なわれる。射損じても源氏は武神の加護が無くなったと平家は勇気百倍するだろう。平家の誰が考えついたのか、見事な一発勝負である。今までの義経の奇襲作戦による連勝が、余りにも続きすぎたので、その反動が恐ろしい。選ばれた那須与一《なつのよいち》は若冠、十七歳、『南無八幡大菩薩、願わくば、あの、扇の真中、射させ給ばせ給え。これを射損ずるものならば、弓切折り自害して、人に二度と面を向かふべからず』と祈って波打際に馬を乗り入れ、ちょうとばかりに放った矢は見事、的を射抜き、扇はばらばらに砕けて波間に消えた」
 「次郎ちゃんの話を聞いてるだけで手に汗にぎるわ」
 「突然の指名で結果的には日本の歴史を左右した那須与一は、その後は即成院《そくじょういん》に庵を結び没したということだろう」「浦島太郎みたいになってしまったのかな…」
 「友ちゃん、それはないよ」「認知症のお兄さんの調子はどうなの」
 「有り金残らず懐に入れて旅に出たいと」「次郎さんと弥次喜多道中ね」「いや、それが独りでいきたいと…」「大丈夫なの」「?」「今日は講談ありがとう」「いや、那須与一は伝説ではなく史実なんだけど。本当に」

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」 2017年9月、10月号

編者追加】
 当方が研修医だった頃、小児の難しいがどうしても習得しなければならない検査の一つに、腰椎から髄液を採取する、腰椎穿刺(ルンバール)があります。そういった場面で、指導医(オーベン)曰く「那須与一が扇の的を射る如く、子どもが泣いた時の体動と必ずシンクロナイズする一瞬があるものだ。それを根気よく待って、その一瞬に針を入れるのがコツ」と示唆されました。ものの見事で、それが的中、一回で検査が終了したのを覚えています。その後、検査の時には、与一のごとく「南無八幡大菩薩!願わくば針を的に当たらせ給え!」と心のなかで念じ検査を行ったのは言うまでもありません(笑)。近年、ワクチンの普及のお陰で、ルンバールの機会は少なくなり、こうしたテクニックや「念仏」もすっかり「なまくら」になったのは喜ばしい限りです。

西成子ども食堂(キッズダイニング)開催

 3回目の「キッズダイニングティクアウト版(お持ち帰り)」を開催いたします。今回は住之江区の「味平」さんのご協力をえて、子どもさんに人気のお弁当をご用意しています。お気軽にお越しください。今回もネット・題話での申し込み予約を受け付けしております。(10日の夕刻5時までに事前申し込みをお願いします)

・日時:9月11日(水)午後4時半から7時
・ところ:こつまの里1階(大阪市西成区松2-1-35)

 今回はテイクアウト(持ち帰り)です。是非、ご参加よろしくお願いいたします。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第16回、第17回

◎仏光寺《ぶっこうじ》と後醍醐《ごだいご》天皇の思惑

 今日は京都市の中心地にある大寺、仏光寺《ぶっこうじ》にやって来ました。「真宗仏光寺の本山。建暦二年(一ニニ二)越後|流罪嗷免《るざいほうめん》後の親鸞聖人《しんらんしょうにん》が山科にー宇《いちう》を創建。順徳天皇より興隆正法寺の勅額《ちょくがく》を賜ったのが起こり。嘉歴《かりゃく》二年(一三二七)七世了源の時、本尊が端光《ずいこう》を放って時の後醍醐《ごだいご》天皇の皇居を照らした、という縁から、阿弥陀仏光寺の勅額を賜り、寺名を仏光寺と改め東山渋谷に移したという。天正十四年(一五八六)豊臣秀吉が、大仏殿方広寺を建てるため、寺地を請われて現在地に移った。境内地は約二万平方メートル、境内の諸堂宇は幕末の兵火以後の再建である」と資料参照。
 友子「ひとつ気になるのが、後醍醐天皇に『寺の本尊が端光を放って皇居を照らした』と申し出て、仏光寺という勅額を賜り寺名を改めたと云うのだけど。なにか裏があるの」
 次郎「瑞光とは、目出度い事の兆しを現わす光。当時は後醍醐天皇が無謀にも天皇親政の復活を夢観て、最初の倒幕計画は事前に発覚して失敗したが再度の計画を立て、奈良東大寺、比叡山、円城寺、高野山、播磨の大山寺、伯耆の大山、越前の平泉寺などに檄をとばし非常に備えていた時期だ。了源の動きもそれらの情勢とは無関係であるまい」
 「なんだか生臭い話なのね」「時の権力者にとっては神社仏閣はその大小を問わず、全て『出城』の感覚だかね。一旦事あれば兵舎に早変わりするんだよ」
「昔はね…」「いや、昭和二十年八月十五日(ー九四五)の敗戦時まで基本的には同じ扱いだったと思うよ」友子が「だから憲法上の政教分離の原則は大切なことなのね」とうなづく。
 次郎「この際京の通り名について勉強しておこう。碁盤の目のように整然と区画されている洛中(市の中心部)は、一般に町名より東西と南北の通称名で云われることが多く、また慣れてくれば通称名の方がわかりやすい。例えば仏光寺の場合、高倉通仏光寺下ル新開町とあるが新開町が正式な町名。髙倉通仏光寺下ルが通称である。高倉通が南北の通り、仏光寺が東西の通り、下ルは南に行くこと。反対は上ルで北に行くこと。これは市中を流れる鴨川のながれによっている」
 なお、東西の通りは京都駅から北に、塩小路・七条・北小路・正面・花屋町・六条・五条・万寿寺・松原・高辻・仏光寺・綾小路・四条・錦小路・蛸薬師・六角・二条・姉小路・御池・押小路・二条。
 南北の通りは、東から西へ、寺町・御幸町.越屋町・富小路・柳馬場・堺町・高倉・間之町・東洞院・東屋町・烏丸・両替町・室町・衣棚・新町となっている。
 「お兄さんの認知症の症状はどうなの」「最近は三日に一度は『暴言』を吐いている。突然に激怒するのでおどろくよ」「何のことで?」「衣食住全般」「どうしてるの」「冷静に話合つて最後は八グするけど…」「また話、聞かせて」「ありがとうバイバイ」

大阪きづがわ医療福祉機関紙「みらい」2017年7月、8月号掲載

編者追加】
 京都は、東西は「通り」、南北は「筋」と称します。町筋の名前をわらべうた(てまりうた)にしたものが、

まるたけえびすにおしおいけ(丸・竹・夷・二・押・御池)
あねさんろっかくたこにしき(姉・三・六角・蛸・錦)
しあやぶったかまつまんごじょう(四・綾・仏・高・松・万・五条)
せきだちゃらちゃらうおのたな(雪駄・魚棚)
ろくじょうさんてつとおりすぎ(六条・三哲)
ひっちょうこえればはちくじょう(七条・八・九条)
じゅうじょうとうじでとどめさす(十条)

です。南北もあることはありますが、略します。
 因みに、当方が生まれた所(母が亡くなるまで本籍)東中筋五条上がる天使突抜二丁目でした。東中筋は、筋と言っても西洞院通の西にある狭い路地でした。生誕記念碑が建つ?(わきゃないわな、てんごいうたら、あかしまへんえ 笑)