◎鶴見橋
明治四十二年に大日本紡績(現ユニチ力)津守工場が、今の府立西成高校と西成公園のあたりに新設された。再盛時には従業員約四千人の、当時としては東洋ーの規模を誇る紡織工場であった。
しかし太平洋戦争で、昭和二十年三月十三日と同年六月一日の大阪大空襲による、米軍機B29の格好の攻撃目標となり、ノコギリ歯型の屋根の日紡津守工場は徹底的に破壊され、灰塵に帰した。
風光明媚な五本松
実は、この日紡津守工場と、昭和四一五年二月に開通した、 阪神高速道路堺線の敷地となって埋立られた十三間掘川にかつてかかっていた「鶴見橋」とは、深いかかわりがあったのである。
日紡従業員の通勤用として、南海電車萩之茶屋駅とを結ぶ道であると同時に、寄宿舎の数多くの女工さん達が、買物に行く道でもある十三間掘川の堤に、樹齢二三百年もするふたかかえもあるような、大きな松の木が五本伸びていた。この通称「松のハナ(端)」からちよつと南のところへ、煉瓦づくりで基礎は鉄筋の本格的な橋が大小ふたつ、日紡の負担で、津守工場開設まもなく建設された。
「鶴見橋」という橋の名前は、津守新田の開発者白山家の時の支配人が依頼を受けて、鶴が舞い降りてくるような風光明媚なところだ、という意味で付けたものだと伝えられている。
地場産業と共に栄えた商店街
鶴見橋商店街は、日紡の従業員と旭や橘の社宅に住む、その家族を常連客として、区内随一の商店街に発展していくが、戦後も、日紡の後から津守へやってきた、セメント・鉄鋼・造船.金属などの企業の労働者の通勤道として、また地域の商店街としてにぎわった。NHKの紅白歌合戦の番組が開始された頃には、紅白が終わってからでも、商店街はひと商売できたといわれている。
しかし、大手ス—パ—の進出と製造業の不振による企業の倒産、廃業、移転などによる影響、それに加えて無計画で乱脈な同和行政による「空地」の続出での人口の減少などにより、かってのにぎわいはない。
消費税の増税は不況に追い打ち
自民党政治の「規制緩和政策」により、大手ス—パ—の出店が容易になったということで、いま西成でも数ヶ所が噂されている。消費税の増税は、業者泣かせに追い討ちをかけるようなものである。商店街や市埸の不況は地域の経済や社会の衰退につながり、地元で文化の支え手をなくすことになるなど、深刻な影響を及ぽすものなのである。地域住民の職場の確保、地元商店街、市場の営業をまもるということは、真剣に考えねばならない、全区的な緊急の重要課題だ。
街を歩けば福井氏らの思い出が
私は二十三才で「赤旗」西成分局員と成り、鶴見橋界隈を故福井由数氏や、昨年まで区の選挙管理委員をされていた永田勇氏ら先輩と共に「赤旗」読者拡大のためよく歩きまわった。戦前から解放運動をなされていた福井氏らの話は貴重なものであり、故坂市巌氏が小説「雑草」としてまとめておられた。街は大きく変わったが、鶴見橋商店街にはまだかっての家並みも残っている。心がなごむ場所のひとつとして、時間をかけて歩いてみるのも楽しい。
編者注】
桜田さんからのコメントから
「坂市巌さんの著作は,正しくは『育ちゆく雑草』(上・下)1976年。下には「部落の母」というサブ・タイトルがつけられています。」