今昔木津川物語(043)

◎江之子島政府(西区江之子島ニ)

 安政四年(ー八五八)の下田条約締結後ハリスは江戸と大阪の開港を強く迫った。幕府は大阪の開港は皇居のある京都に近いので、海防不備の不安もあり強く拒否しつづけてきた。しかし、日本国土の中心にある兵庫・大阪の開港は何が何でもと列強から強く要求され、幕府はついに慶応四年(一八六八)七月に大阪開港を行なった。同年九月八日をもって明治と改元された。
 初期の大阪港は、安治川左岸の富島にあった河港で川口波止場と呼ばれた。富島と隣接する戎島の剣先には、外国人居留地が建設された。

大阪の文明開化の象徴に

 川口の居留地は二・六万平方㍍の一帯外輪船と居留地が区画され永代借地権が競売され、かなり高額で英米仏蘭の外国人約五十人に売られた。
 居留地は川岸より三食も高く石垣を築き、街区も整ってしだいに洋風建築も建ち始めた。各所に植えられたユーカリ樹や道路際の街灯が、異国情緒をかもしだし、明治四年(ー八七二)に竣工した大川沿いの造幣寮と共に、大阪における文明開化の象徴になった。

初代大阪港は失敗した

 しかしかんじんの航路の方は、淀川が上流から絶えず土砂を運び込んで浅くなっているので、外航船は入りにくく、明治二年に八十九隻入行したのが、三年には二十一隻に、四年には十一隻にと激減し、外国船は神戸に行くようになり大阪港は余り繁盛しなかった。
 外国船が大阪を嫌ったのは、大阪の判事になった五代友厚《ごだいともあつ》が、外国商人の不正行為を厳しく取り締まったことにも関係しているといわれる。隣の兵庫は後に明治政府の中枢をしめた伊藤博文が判事をしていたが、彼は外国人の機嫌を害なわないように、つまくやっていたという。五代は後に大阪財界の発展に大いに寄与した。

居留地は女子教育発祥地へ

 明治三十六年に安治川と木津川の河口部から、沖に向かって二本の防波堤を築き、これに囲まれた海を水深八・五㍍に浚渫《しゅんせつ》した新しい築港は完成した。
 川口居留地はその前に洋館はほとんど神戸に移っていたので、その後にプール女学院・平安女学院・信愛女学院・大阪女学院・桃山学院などが進出し大阪の女子教育発祥の地となった。

府庁は西区から大手前へ

 明治になり大阪府庁は最初木津川橋東南の地、元の西区府産業技術研究所の場所に置かれた。「大阪の発展は、海外にあり」という当時の府知事の考えからであったが、しかし待合室を「人民控所」と呼ぶなど、高圧的な役人風を吹かせていたので府民は「江の子島政府」と呼んでいた。
 大正十五年(一九二六)に今の大阪城西の府庁に移り、元の建物は大阪大空襲で潰された。模型が府庁正面入口にある。

地方自治の原点は府民本位

 大阪府の府民への高圧的な態度は、悪しき伝統として今もうけつがれている。
 複数の報道は「太田知事は最近ごうまんになった」と伝えている。創立五十年の歴史と伝統のある府立貿易専門学校の廃校を一晩で決め、これをトップダウン方式だと自画自賛するなどはほんの一例にすぎない。こんな知事の姿勢こそ「改革」が必要だ。

今昔木津川物語(041)

◎庚申《こうしん》街道

 四天王寺南門から南へ、庚申堂に沿う道は庚申街道と云われているが、明治三十一年に命名されたものでそう古くはない。庚申堂付近は道路も広く、両側の商店のたたずまいから、街道の面影も残っているが、それから南へは右や左に曲がつており、本来は平野や長吉に至る道だが、最近ではこのあたりを庚申街道と知る人も少ない。

正善院は全国庚申の総本山

 庚申堂は俗称で正式には正善院と云い、諸国庚申の本寺であり、明治までは、地方で庚申を祀るにはこの寺の免許を得る必要があった。
 お寺の由来書によれば、「文武天皇の頃、全国に悪疫流行し多くの被害をだした。四天王寺の民部僧都豪範という大徳がこれをなげき、この地に草庵を結んでひたすら祈願したところ、大宝元年(七〇 ー) 正月七日夜、青衣総角の一童子が現われ『われ帝釈天《たいしゃくてん》の使いなり』と青面金剛童子の像を授けた。豪範がその霊像を諸氏に礼拝させると、悪疫たちまち終息《しゅうそく》したので、みんなはよろこんで豪範を当寺の開山とした。霊像を授かった日が庚申だったところから、六十日毎にくる庚申の日には参拝客で賑わうが、毎年正月の初庚申には殊の外雑踏する」と書かれている。
 大空襲により堂宇全焼したが、 昭和四十七年(一九七二)に万国博の印度館を移築してようやく本堂を再建、中に四天王等を安置している。

土塔山超願寺で見たものは

 庚申堂から四天王寺南門までのんびりと歩いていると、西角に土塔山超願寺という古いお寺の墓地があった。浄瑠璃《じょうるり》の名匠竹本義太夫誕生地でお墓もある、との石碑があったので、無人の墓地にそっと入っていった。

通告板下げた無縁墓の隊列

 しかし、私は、竹本義太夫の墓を探す前に、その場で不思議な光景に出くわして、足を止めてしまった。
 お墓には入口から、高さ二㍍位の立派な墓石が続いていて、さすが天王寺のお金持ちのお墓という感じが先ずした。しかし不審に思ったのは、それらの墓石のほとんどに白いブラスチックの板がぶら下げられていたことである。ちかず<ママ づ?>いてみると、その板には、「このお墓にお参りの方は必ずお寺に立ち寄ってください。お届けのない場合は無縁の処置をとらせていただきます」と書いてある。
 これら板を掛けられている墓に共通することは、いずれも昭和十二・三年に中国北部で戦死し、勲章をもらっているニ十歳代前半の兵士のものだということである。側面に経過が細かく刻まれているが、銃弾を受けながら尚も敵兵を刺殺したというのもある。
 おそらく、結婚前の故人等には当然子孫はなく、親兄弟も絶えてしまい、詣る人もなくつ いに無縁仏になってしまったのであろう。下げられていた板は、墓を処分するというお寺の最後通告なのである。
 それにしてもその数のなんと多いこと、私には声無き声が聞こえたような気がした。

庚申の夜を眠れない人々

 庚申の夜は眠らず明かす守り庚申の俗信が、平安朝の貴族社会に広がり、徹夜で詩歌管弦を催す「庚申御遊」の宴が開かれ、中世の武家社会では、これが「庚申講」とも云われた。江戸時代に入ると民間でも行われ「お長い話は庚申の晩に」など云われるようになった。
 土塔山超願寺にお墓を立てた親兄弟は、庚申の夜をどう過ごしたのであろうか。

今昔木津川物語(037)

◎安倍晴明《あべのせいめい》神社 (阿倍野区元町五)

 平安時代という印象からこの辺りで連想される情景は、夕陽を浴びて上町台地の西端の熊野街道を南へ、左右にゆれながら進む、王朝貴族の熊野詣での華やかな行列のそれである。
 眼下には、鏡のように光り果てしなく広がる遠浅の海。その中に姿を現わす無数の島々。帆掛け船が細井川の河口に開けた墨江津の港に出入りしている。目をこらせば白砂青松の霰《あられ》松原も、住吉大社の森も見える。
 「これが天下の絶景勝間浦なのか」と、崖の上から身を乗り出すようにして見とれていた行列の一行も、再び動きだすと間もなく先頭が今夜の宿舎となる、阿倍野王子神社に到着した。
 やがて、空も海も茜色に染まり、巨大な太陽が西に沈むと、一瞬の間に情景は暗転する。ただ、王子神社の客殿だけが、明々と灯をともし、飽食した貴族たちが、供奉《くふ》の公卿《くぎょう》をよんで歌会に興じていた。

阿倍野で生まれた陰陽家

 神社の床下でそっと足を伸ばした従者の一人が、今日が出発であるこれから二十日間の旅路をあんじていると、どこからともなく赤ん坊の泣き声が聞こえた。
 従者は家に残してきた妻子の声かと、はっとしたが「空みみか」つぶやいて、荷物を枕にして、ごろりと横になった。
 延喜ニー年(九二一)の月日は不明。阿倍野王子神社北隣、大膳太夫安倍保名(やすな)の邸に一人の男児が誕生した。後の安倍晴明である。説話によれば母の名は葛葉《くずは》姫といい、その正体は保名が信太の森で命を助けた女狐であったという。
 安倍晴明とは平安中期の陰陽家(おんみょうか)、大文博士、主計|権《ごん》助などを歴任して、大膳|大夫《たいふ》・左京権大夫となる。極位は従四位下。加茂忠行・保徳父子を師として天文道・陰陽道を学び、天皇、貴族の陰陽道諸祭や占いに従事した。その超能力についての神秘的な伝説は、古くから各地で数多く伝えられている。

住民が自らつくった神社

 かつての安倍晴明邸跡に今、安倍晴明神社がある。
 阿倍野区史によれば「当社の創始年代また明らかでないが、治承《じしょう》年間(ーー七七)すでに神祠《しんし》があったことが旧記に見えている。のち、幾変遷《いくへんせん》を重ねて社殿も荒廃し、維新の頃僅かに小社祠と安倍晴明誕生地と刻した一碑が存在したのみであった。よって村民晴明講をつくり復興を府知事に嘆願したが、成就せず、大正十年一月保田伊之助一五〇坪他数十坪の敷地を寄付、漸く阿倍野王子神社飛境内社と公認の許可を得。大正十四年三月鎌倉時代の様式を則とした壮麗の社殿を竣工した。なお社宝として有名な葛之葉子別れの遺書並びに絹本設色の安倍晴明公画像がある」としている。

平安と似ている平成

 平安時代といえば何か王朝文化が繰り広げられ、源氏物語に見るような優雅な時代を想像してしまうが、それは極一部の貴族階級の中でのことで、実際は、度重なる疫病の流行や地震・雷・大火・洪水、旱魅《かんばつ》などに苦しみ、一方、支配階級は自らの行状からくる、怨霊《おんりょう》の祟りに怯え続けていた暗黒の時代でもあった。
 そこでそれらの災厄から逃れるために、陰陽道が発達した。
 当時は陰陽寮という名の役所が、宮内省や兵部省と共に国の重要機関として存在し、情報省的役割を果たしていた訳で、いま国会で問題になっている「乱脈機密費」の元祖だったかもしれない。
 しかし、安倍晴明は単なる「権力の手先」ではなかったようで、それは晴明ゆかりの神社・お寺が全国各地に数十も存在し、その他晴明が関係した橋・井戸などもいたるところにあり、今も人に語り継がれていることからみても云えると思う。
 いずれにしても、われらが地元の晴明神社は、陰陽道ブームが来ようが去ろうが関係なく、「恋しくば訪ね来てみよ和泉なる、信太の森のうらみ葛の葉」で有名な「葛之葉子別れ」の伝説一筋に、都会の中の静寂を保ってくれている事に心から感謝したい。

今昔木津川物語(036)

◎ナニワ企業団地 (西成区南津守五)

 昭和五五年(ー九八〇)九月一七日、私は大阪府議会議員に三度目の挑戦で初当選したものの、府議の仕事についてもあまり知らないままに、府庁別館のせまい会議室での緊迫した交渉に参加し、脂汗の出る午後の時間を過ごしていた。

「西六社」と「木津川筋」

 大阪市此花区にある「西六社」とは、日立造船・汽車会社・大阪ガス・住友金属・住友化学・住友電線などの大工場群のことで、古くから西大阪での雇用の大拠点であった。
 一方、西成区と住之江区にかけてある、佐の安ドツク・名村造船・藤永田造船などの造船所群は「木津川筋」と呼ばれ、南大阪の雇用の一大基地であった。
 七〇年代に入って大阪の大企業は、より安い労働力と広い敷地を求めて、大阪からの脱出を図り始めた。いわゆる産業の空洞化である。当時大阪府も市も、企業の自由だとして、これを野放しにした。

庶民の力で夢の企業団地を

 そんなときに木津川地域六行政区の民主商工会は、造船所跡地を、住工混在で高い賃料、劣悪な現状の工場に悩む、中小零細企業の「理想の企業団地」にしようという、大変なことを決めて立ち上がった。
 九月一七日には、木津川の防潮堤の移設場所をめぐっての、大阪府都市河川課との最終的な交渉が行われていたのである。
 造船所の都合によって、今までは防潮堤は工場正門の道路に沿って造られていたのを、本来の川沿いに造り直さなければ、企業団地は「堤外地」になり、開発許可も困難だという思わぬ情勢になっていた。

団地建設途上最大の山場

 地主には、手付金として二億五千九百万円を入れてある。一三八社がそれぞれ都合してきた血の出るような金である。府の回答がもし「ノー」であれば、夢がつぶれるどころではない。組合員への融資の道は閉ざされ、土地取得は不可能となり手付金も没収されるという、極めて深刻な事態に追い込まれることになるの
である。

組合側の正論を認めた課長

 十人近い代表達はじっと丫課長の口元を見つめていた。云うべきことは全部云った。後は回答を待つのみである。やっと丫課長が重い口を開いた。「皆さんが借入金の中から、巨額の金を出して防潮堤移設費の一部を負担するという話に感銘し、私自身が数回上京し直接に国と協議をすすめた結果、その条件で国の事業として護岸整備をしたい……」
 答えは「イエス」であった。しかも、エリート官僚(丫課長はその後土木部長を経て副知事になつた)らしくない、情のある誠実な言動に、その場にいた全員が感動にふるえた。
 しかし、団地協同組合専務理事の中筋和夫氏は、もうひとつ難問題を抱えていた。彼は思い切って丫課長に云った。「実は工事完成を国の案では、八三年一月となっているが、それを八一年十月としていただきたい」今から一年間でやってほしいという、非常識なことは十分に承知の上での要請であった。
 それでも丫課長の決意は不動であった。府は直ちに国に再度はたらきかけるなどして、三日後の交涉では工期を八一年度にすることで合意した。

今では全国から視察に

 その後、ナニワ企業団地協同組合は南側の名村造船所跡地に第二団地を造成、現在二六〇余社が、深刻な不況の中でも団結を固め、受発注対策と企業団地のイメージアップを目指す「中小企業テクノフェア」「テクノピア」への継続的な出展へと発展している。

二〇周年記念誌を発行

 ナニワ企業団地協同組合は二〇〇〇年四月に創立二〇周年を記念して記念誌を発行した。組合設立以前から携わり、組合専務理事、副理事長として一九年間実践してきた中筋和夫氏が、一年数ヶ月かけた文字通りの労作である。この本は、何度読んでも、時には泣かされ、時にははらはらさせられる、そして人生を生き抜く不屈の勇気を与えてくれる不思議な本である。

「木津川筋」はものづくり

 さて「西六社」は今、大阪市の「集客都市づくり」のモデルになり生産点は半減され、「ユニバ—サル・スタジオ・ジャパン」という、アメリカ映画村に変身させられた。
 「木津川筋」は多くの先覚者達の奮闘により、今も多数の雇用を確保してきている。
 今府議会に太田知事は、法人府民税均等割の倍額という中小企業への増税案を持ち出してきた。自力でがんばるナニワ企業団地の人達にも、全てかぶさってくる。
 大阪の庶民の心を知らない者のなせる業で、同じエリ—卜官僚でも大きな違いがあるものだと思う。
 中小企業家のチャレンジ精神、リーダーの人間像、団結と交流、そして話せば通じる人の情けと誠。多くのことを教え続けてくれるナニワ企業団地である。

今昔西成百景(035)

◎鶴見橋

 明治四十二年に大日本紡績(現ユニチ力)津守工場が、今の府立西成高校と西成公園のあたりに新設された。再盛時には従業員約四千人の、当時としては東洋ーの規模を誇る紡織工場であった。
 しかし太平洋戦争で、昭和二十年三月十三日と同年六月一日の大阪大空襲による、米軍機B29の格好の攻撃目標となり、ノコギリ歯型の屋根の日紡津守工場は徹底的に破壊され、灰塵に帰した。

風光明媚な五本松

 実は、この日紡津守工場と、昭和四一五年二月に開通した、 阪神高速道路堺線の敷地となって埋立られた十三間掘川にかつてかかっていた「鶴見橋」とは、深いかかわりがあったのである。
 日紡従業員の通勤用として、南海電車萩之茶屋駅とを結ぶ道であると同時に、寄宿舎の数多くの女工さん達が、買物に行く道でもある十三間掘川の堤に、樹齢二三百年もするふたかかえもあるような、大きな松の木が五本伸びていた。この通称「松のハナ(端)」からちよつと南のところへ、煉瓦づくりで基礎は鉄筋の本格的な橋が大小ふたつ、日紡の負担で、津守工場開設まもなく建設された。
 「鶴見橋」という橋の名前は、津守新田の開発者白山家の時の支配人が依頼を受けて、鶴が舞い降りてくるような風光明媚なところだ、という意味で付けたものだと伝えられている。

地場産業と共に栄えた商店街

 鶴見橋商店街は、日紡の従業員と旭や橘の社宅に住む、その家族を常連客として、区内随一の商店街に発展していくが、戦後も、日紡の後から津守へやってきた、セメント・鉄鋼・造船.金属などの企業の労働者の通勤道として、また地域の商店街としてにぎわった。NHKの紅白歌合戦の番組が開始された頃には、紅白が終わってからでも、商店街はひと商売できたといわれている。
 しかし、大手ス—パ—の進出と製造業の不振による企業の倒産、廃業、移転などによる影響、それに加えて無計画で乱脈な同和行政による「空地」の続出での人口の減少などにより、かってのにぎわいはない。

消費税の増税は不況に追い打ち

 自民党政治の「規制緩和政策」により、大手ス—パ—の出店が容易になったということで、いま西成でも数ヶ所が噂されている。消費税の増税は、業者泣かせに追い討ちをかけるようなものである。商店街や市埸の不況は地域の経済や社会の衰退につながり、地元で文化の支え手をなくすことになるなど、深刻な影響を及ぽすものなのである。地域住民の職場の確保、地元商店街、市場の営業をまもるということは、真剣に考えねばならない、全区的な緊急の重要課題だ。

街を歩けば福井氏らの思い出が

 私は二十三才で「赤旗」西成分局員と成り、鶴見橋界隈を故福井由数氏や、昨年まで区の選挙管理委員をされていた永田勇氏ら先輩と共に「赤旗」読者拡大のためよく歩きまわった。戦前から解放運動をなされていた福井氏らの話は貴重なものであり、故坂市巌氏が小説「雑草」としてまとめておられた。街は大きく変わったが、鶴見橋商店街にはまだかっての家並みも残っている。心がなごむ場所のひとつとして、時間をかけて歩いてみるのも楽しい。

編者注】
桜田さんからのコメントから
「坂市巌さんの著作は,正しくは『育ちゆく雑草』(上・下)1976年。下には「部落の母」というサブ・タイトルがつけられています。」

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第18回、第19回

◎極楽浄土即成院と那須与一

 次郎と友子の二人は、今日は京阪電車「東福寺」駅から徒歩約十分の即成院《そくじょういん》に来ている。東福寺と共に有名な泉涌寺《せんにゅうじ》の総門前であり、「極楽浄土へ導く阿弥陀如来《あみだにょらい》と二十五菩薩は宇治の平等院と同じように、現世の極楽を目の当たりにする法悦《ほうえつ》にひたるもの」と由来に。
 友子は「関白の藤原頼通は宇治に平等院を建て極楽往生を願ったが、その子、橘俊綱《たちばなのとしつな》も伏見桃山に山荘を造り、恵心《えしん》僧都《そうず》源信《げんしん》が伏見に建立していた光明院《こうみょういん》を阿弥陀堂として移設し、以後、さまざまな変遷を経て明治時代に現在の地に移りました。と書かれているけど、阿弥陀如来の高さは五・五メ—トル、居並ぶ二十五菩薩もそれぞれ像高が一五〇センチあり、全て国の重要文化財に指定さ
れている。平等院よりも近々と拝観できるし、庶民的で親しみがもてるわね」と早速、ファンになったようだ。
 次郎も「千年以上も前から、あちらこちらに移動しながらも、ほぼ、無傷で保存されていたことも奇跡的だ」とひとしきりに感心している。
 「しかし、即成院は鎌倉時代の武将、那須与一《なすのよいち》ゆかりの寺院としても知られているとか。与一は一七歳の時、源義経にしたがい屋島の合戦に加わり、平家の指した兽の日輪の扇を落とした」友子も「本堂の隣に突然、高さ三メートルもあり巨大な樽のような那須与一の墓なるものが迫ってくるのにはびっくりしたわ」と。義経の奇跡的な大活躍で平家は一ノ谷で負け、中立派の水軍の一部が源氏に味方するという変化が生まれはじめた。しかし、平家は海軍であり海がホームグランドだ。ところが屋島でも義経の意表を突いた作戦で敗れ、平家は屋島を捨て海上に逃れた。
 「日暮れ近くになつて平家の軍船から1艘の船が漕ぎ出され、美しく着飾った女性が竿の先の扇を指差した。『これを射れるか』という挑戦だ。平家は距離を遠ざけ、射落とすのがまずは不可能にしておいて源氏を挑発したのだ。源平両軍が、かたづを呑んで見守っている。源氏としては逃げれば全体の士気が損なわれる。射損じても源氏は武神の加護が無くなったと平家は勇気百倍するだろう。平家の誰が考えついたのか、見事な一発勝負である。今までの義経の奇襲作戦による連勝が、余りにも続きすぎたので、その反動が恐ろしい。選ばれた那須与一《なつのよいち》は若冠、十七歳、『南無八幡大菩薩、願わくば、あの、扇の真中、射させ給ばせ給え。これを射損ずるものならば、弓切折り自害して、人に二度と面を向かふべからず』と祈って波打際に馬を乗り入れ、ちょうとばかりに放った矢は見事、的を射抜き、扇はばらばらに砕けて波間に消えた」
 「次郎ちゃんの話を聞いてるだけで手に汗にぎるわ」
 「突然の指名で結果的には日本の歴史を左右した那須与一は、その後は即成院《そくじょういん》に庵を結び没したということだろう」「浦島太郎みたいになってしまったのかな…」
 「友ちゃん、それはないよ」「認知症のお兄さんの調子はどうなの」
 「有り金残らず懐に入れて旅に出たいと」「次郎さんと弥次喜多道中ね」「いや、それが独りでいきたいと…」「大丈夫なの」「?」「今日は講談ありがとう」「いや、那須与一は伝説ではなく史実なんだけど。本当に」

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」 2017年9月、10月号

編者追加】
 当方が研修医だった頃、小児の難しいがどうしても習得しなければならない検査の一つに、腰椎から髄液を採取する、腰椎穿刺(ルンバール)があります。そういった場面で、指導医(オーベン)曰く「那須与一が扇の的を射る如く、子どもが泣いた時の体動と必ずシンクロナイズする一瞬があるものだ。それを根気よく待って、その一瞬に針を入れるのがコツ」と示唆されました。ものの見事で、それが的中、一回で検査が終了したのを覚えています。その後、検査の時には、与一のごとく「南無八幡大菩薩!願わくば針を的に当たらせ給え!」と心のなかで念じ検査を行ったのは言うまでもありません(笑)。近年、ワクチンの普及のお陰で、ルンバールの機会は少なくなり、こうしたテクニックや「念仏」もすっかり「なまくら」になったのは喜ばしい限りです。

今昔西成百景(029)

◎元西成寮(松通り)

 「本寮は近時まで存在していたが、昭和四二年七月廃止となった。はじめ更生施設として昭和二三年三月一日定員二〇〇名として開設をみたが、翌五月二棟を増築し定員四八〇名に増加した。そして二四年九月より病弱対象者専用更生施設となり、毎週火曜日梅田厚生館を経て収容し十分な生活指導を行い、健康回復すれば健康者施設に移すなりあるいは就職退寮等の社会復帰を図るよう指導しつつあった。敷地五八四八平方メートル建物ー八二八平方メ—トル」(西成区史)

跡地に松通保育所・集会所・公園

 元市立西成寮を知らない人は多いが、現在の梅南橘集会所、松通保育所、西成児童舘、松通公園がその跡地に出来ていることを知れば、親しく感ずる人も多いのではないか。
 ー九六〇年代後半から七〇年代前半が、わが国の革新運動の高揚期の一つだどいわれるが、大阪においても黒田革新府政の誕生(ー九七ー)、西成においても日本共産党市会議員の初当選(ー九七一・四方棄五郎氏)を準備するたたかいの時期に、西成寮跡地利用の問題が浮上してきた。
 日本共産党は地方選挙の公約に「西成寮跡地には、保育所・集会所・公園の建設を」とかかげた。私も初めての府会選挙を「ポストの数ほど保育所を」と訴えた。また、それまで西成には公立の集会所は一つもなく、区役所の講堂を借りることなどは至難の業であった。ついには区内の多くの団体からも、ほぼ同じような要望が出されて、大きな区民運動になっていった。

住民運動の先頭に立った人

 その中でも、当時西成民主商工会の事務局の松本武夫氏や、新日本婦人の会の役員で跡地近くに住んでおられた本間のぶえさん等の奮闘ぶりは忘れられない。松本氏はその後、正森成二代議士の在阪秘書として活躍し、現在は旅行会社の社長として健在なり。本間さんは残念ながら平成元年に物故されたが、大きな袋を持って赤旗新聞を町内に配達していた姿を、今でも覚えている方も多いと思う。
 西成寮跡地利用実現から二十何年、市立西成会館はその後梅南・橘集会所と名前を変えたが、それこそ結婚式から葬式まで、各種の会議から文化行事まで、どれだけの区民が利用してきたか、単に数字だけでははかり知れないものがある。
 市立松通保育所は、父母と保母が連帯した西成の保育運動の発祥地となった。
 松通公園は地域住民の憩いの場であると共に、春は花見、夏は盆踊りの会場としてなくてはならないものだ。
 このように、公共の施設の跡地利用はやり方によっては、街づくり人づくりに大いに役立つものである。私は西成寮跡地の場合は完全に成功した、と思っているが、それも最初の計画の段階から、住民の要望が寄せられていたからである。

いまこそ南海天下茶屋工場跡地の利用計画を

 その点からいって、私が今いちばん心配なのは、区役所横の南海天下茶屋工場跡地(約四ヘクタ—ル)の利用計画である。歴代の西成区長は「この跡地利用は街づくりの最後のチャンスとして、広く知恵を借りてやりたい」と云ってきていた。ところが、南海の高架工事も終わり、いよいよ跡地問題が全面に出てくるというときに、現区長は黙して語らず、とは一体どういうことか。このままでは南海資本ペ-スで進められ、空室ビルが林立するバブルの塔の二の舞である。早急に情報公開を行い、白紙段階からの住民参加を保障すべきである。