今昔西成百景(035)

◎鶴見橋

 明治四十二年に大日本紡績(現ユニチ力)津守工場が、今の府立西成高校と西成公園のあたりに新設された。再盛時には従業員約四千人の、当時としては東洋ーの規模を誇る紡織工場であった。
 しかし太平洋戦争で、昭和二十年三月十三日と同年六月一日の大阪大空襲による、米軍機B29の格好の攻撃目標となり、ノコギリ歯型の屋根の日紡津守工場は徹底的に破壊され、灰塵に帰した。

風光明媚な五本松

 実は、この日紡津守工場と、昭和四一五年二月に開通した、 阪神高速道路堺線の敷地となって埋立られた十三間掘川にかつてかかっていた「鶴見橋」とは、深いかかわりがあったのである。
 日紡従業員の通勤用として、南海電車萩之茶屋駅とを結ぶ道であると同時に、寄宿舎の数多くの女工さん達が、買物に行く道でもある十三間掘川の堤に、樹齢二三百年もするふたかかえもあるような、大きな松の木が五本伸びていた。この通称「松のハナ(端)」からちよつと南のところへ、煉瓦づくりで基礎は鉄筋の本格的な橋が大小ふたつ、日紡の負担で、津守工場開設まもなく建設された。
 「鶴見橋」という橋の名前は、津守新田の開発者白山家の時の支配人が依頼を受けて、鶴が舞い降りてくるような風光明媚なところだ、という意味で付けたものだと伝えられている。

地場産業と共に栄えた商店街

 鶴見橋商店街は、日紡の従業員と旭や橘の社宅に住む、その家族を常連客として、区内随一の商店街に発展していくが、戦後も、日紡の後から津守へやってきた、セメント・鉄鋼・造船.金属などの企業の労働者の通勤道として、また地域の商店街としてにぎわった。NHKの紅白歌合戦の番組が開始された頃には、紅白が終わってからでも、商店街はひと商売できたといわれている。
 しかし、大手ス—パ—の進出と製造業の不振による企業の倒産、廃業、移転などによる影響、それに加えて無計画で乱脈な同和行政による「空地」の続出での人口の減少などにより、かってのにぎわいはない。

消費税の増税は不況に追い打ち

 自民党政治の「規制緩和政策」により、大手ス—パ—の出店が容易になったということで、いま西成でも数ヶ所が噂されている。消費税の増税は、業者泣かせに追い討ちをかけるようなものである。商店街や市埸の不況は地域の経済や社会の衰退につながり、地元で文化の支え手をなくすことになるなど、深刻な影響を及ぽすものなのである。地域住民の職場の確保、地元商店街、市場の営業をまもるということは、真剣に考えねばならない、全区的な緊急の重要課題だ。

街を歩けば福井氏らの思い出が

 私は二十三才で「赤旗」西成分局員と成り、鶴見橋界隈を故福井由数氏や、昨年まで区の選挙管理委員をされていた永田勇氏ら先輩と共に「赤旗」読者拡大のためよく歩きまわった。戦前から解放運動をなされていた福井氏らの話は貴重なものであり、故坂市巌氏が小説「雑草」としてまとめておられた。街は大きく変わったが、鶴見橋商店街にはまだかっての家並みも残っている。心がなごむ場所のひとつとして、時間をかけて歩いてみるのも楽しい。

編者注】
桜田さんからのコメントから
「坂市巌さんの著作は,正しくは『育ちゆく雑草』(上・下)1976年。下には「部落の母」というサブ・タイトルがつけられています。」

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第18回、第19回

◎極楽浄土即成院と那須与一

 次郎と友子の二人は、今日は京阪電車「東福寺」駅から徒歩約十分の即成院《そくじょういん》に来ている。東福寺と共に有名な泉涌寺《せんにゅうじ》の総門前であり、「極楽浄土へ導く阿弥陀如来《あみだにょらい》と二十五菩薩は宇治の平等院と同じように、現世の極楽を目の当たりにする法悦《ほうえつ》にひたるもの」と由来に。
 友子は「関白の藤原頼通は宇治に平等院を建て極楽往生を願ったが、その子、橘俊綱《たちばなのとしつな》も伏見桃山に山荘を造り、恵心《えしん》僧都《そうず》源信《げんしん》が伏見に建立していた光明院《こうみょういん》を阿弥陀堂として移設し、以後、さまざまな変遷を経て明治時代に現在の地に移りました。と書かれているけど、阿弥陀如来の高さは五・五メ—トル、居並ぶ二十五菩薩もそれぞれ像高が一五〇センチあり、全て国の重要文化財に指定さ
れている。平等院よりも近々と拝観できるし、庶民的で親しみがもてるわね」と早速、ファンになったようだ。
 次郎も「千年以上も前から、あちらこちらに移動しながらも、ほぼ、無傷で保存されていたことも奇跡的だ」とひとしきりに感心している。
 「しかし、即成院は鎌倉時代の武将、那須与一《なすのよいち》ゆかりの寺院としても知られているとか。与一は一七歳の時、源義経にしたがい屋島の合戦に加わり、平家の指した兽の日輪の扇を落とした」友子も「本堂の隣に突然、高さ三メートルもあり巨大な樽のような那須与一の墓なるものが迫ってくるのにはびっくりしたわ」と。義経の奇跡的な大活躍で平家は一ノ谷で負け、中立派の水軍の一部が源氏に味方するという変化が生まれはじめた。しかし、平家は海軍であり海がホームグランドだ。ところが屋島でも義経の意表を突いた作戦で敗れ、平家は屋島を捨て海上に逃れた。
 「日暮れ近くになつて平家の軍船から1艘の船が漕ぎ出され、美しく着飾った女性が竿の先の扇を指差した。『これを射れるか』という挑戦だ。平家は距離を遠ざけ、射落とすのがまずは不可能にしておいて源氏を挑発したのだ。源平両軍が、かたづを呑んで見守っている。源氏としては逃げれば全体の士気が損なわれる。射損じても源氏は武神の加護が無くなったと平家は勇気百倍するだろう。平家の誰が考えついたのか、見事な一発勝負である。今までの義経の奇襲作戦による連勝が、余りにも続きすぎたので、その反動が恐ろしい。選ばれた那須与一《なつのよいち》は若冠、十七歳、『南無八幡大菩薩、願わくば、あの、扇の真中、射させ給ばせ給え。これを射損ずるものならば、弓切折り自害して、人に二度と面を向かふべからず』と祈って波打際に馬を乗り入れ、ちょうとばかりに放った矢は見事、的を射抜き、扇はばらばらに砕けて波間に消えた」
 「次郎ちゃんの話を聞いてるだけで手に汗にぎるわ」
 「突然の指名で結果的には日本の歴史を左右した那須与一は、その後は即成院《そくじょういん》に庵を結び没したということだろう」「浦島太郎みたいになってしまったのかな…」
 「友ちゃん、それはないよ」「認知症のお兄さんの調子はどうなの」
 「有り金残らず懐に入れて旅に出たいと」「次郎さんと弥次喜多道中ね」「いや、それが独りでいきたいと…」「大丈夫なの」「?」「今日は講談ありがとう」「いや、那須与一は伝説ではなく史実なんだけど。本当に」

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」 2017年9月、10月号

編者追加】
 当方が研修医だった頃、小児の難しいがどうしても習得しなければならない検査の一つに、腰椎から髄液を採取する、腰椎穿刺(ルンバール)があります。そういった場面で、指導医(オーベン)曰く「那須与一が扇の的を射る如く、子どもが泣いた時の体動と必ずシンクロナイズする一瞬があるものだ。それを根気よく待って、その一瞬に針を入れるのがコツ」と示唆されました。ものの見事で、それが的中、一回で検査が終了したのを覚えています。その後、検査の時には、与一のごとく「南無八幡大菩薩!願わくば針を的に当たらせ給え!」と心のなかで念じ検査を行ったのは言うまでもありません(笑)。近年、ワクチンの普及のお陰で、ルンバールの機会は少なくなり、こうしたテクニックや「念仏」もすっかり「なまくら」になったのは喜ばしい限りです。

今昔西成百景(029)

◎元西成寮(松通り)

 「本寮は近時まで存在していたが、昭和四二年七月廃止となった。はじめ更生施設として昭和二三年三月一日定員二〇〇名として開設をみたが、翌五月二棟を増築し定員四八〇名に増加した。そして二四年九月より病弱対象者専用更生施設となり、毎週火曜日梅田厚生館を経て収容し十分な生活指導を行い、健康回復すれば健康者施設に移すなりあるいは就職退寮等の社会復帰を図るよう指導しつつあった。敷地五八四八平方メートル建物ー八二八平方メ—トル」(西成区史)

跡地に松通保育所・集会所・公園

 元市立西成寮を知らない人は多いが、現在の梅南橘集会所、松通保育所、西成児童舘、松通公園がその跡地に出来ていることを知れば、親しく感ずる人も多いのではないか。
 ー九六〇年代後半から七〇年代前半が、わが国の革新運動の高揚期の一つだどいわれるが、大阪においても黒田革新府政の誕生(ー九七ー)、西成においても日本共産党市会議員の初当選(ー九七一・四方棄五郎氏)を準備するたたかいの時期に、西成寮跡地利用の問題が浮上してきた。
 日本共産党は地方選挙の公約に「西成寮跡地には、保育所・集会所・公園の建設を」とかかげた。私も初めての府会選挙を「ポストの数ほど保育所を」と訴えた。また、それまで西成には公立の集会所は一つもなく、区役所の講堂を借りることなどは至難の業であった。ついには区内の多くの団体からも、ほぼ同じような要望が出されて、大きな区民運動になっていった。

住民運動の先頭に立った人

 その中でも、当時西成民主商工会の事務局の松本武夫氏や、新日本婦人の会の役員で跡地近くに住んでおられた本間のぶえさん等の奮闘ぶりは忘れられない。松本氏はその後、正森成二代議士の在阪秘書として活躍し、現在は旅行会社の社長として健在なり。本間さんは残念ながら平成元年に物故されたが、大きな袋を持って赤旗新聞を町内に配達していた姿を、今でも覚えている方も多いと思う。
 西成寮跡地利用実現から二十何年、市立西成会館はその後梅南・橘集会所と名前を変えたが、それこそ結婚式から葬式まで、各種の会議から文化行事まで、どれだけの区民が利用してきたか、単に数字だけでははかり知れないものがある。
 市立松通保育所は、父母と保母が連帯した西成の保育運動の発祥地となった。
 松通公園は地域住民の憩いの場であると共に、春は花見、夏は盆踊りの会場としてなくてはならないものだ。
 このように、公共の施設の跡地利用はやり方によっては、街づくり人づくりに大いに役立つものである。私は西成寮跡地の場合は完全に成功した、と思っているが、それも最初の計画の段階から、住民の要望が寄せられていたからである。

いまこそ南海天下茶屋工場跡地の利用計画を

 その点からいって、私が今いちばん心配なのは、区役所横の南海天下茶屋工場跡地(約四ヘクタ—ル)の利用計画である。歴代の西成区長は「この跡地利用は街づくりの最後のチャンスとして、広く知恵を借りてやりたい」と云ってきていた。ところが、南海の高架工事も終わり、いよいよ跡地問題が全面に出てくるというときに、現区長は黙して語らず、とは一体どういうことか。このままでは南海資本ペ-スで進められ、空室ビルが林立するバブルの塔の二の舞である。早急に情報公開を行い、白紙段階からの住民参加を保障すべきである。