今昔木津川物語(022)

西成・浪速歴史のかいわいシリ—ズ(五)

◎篠山《ささやま》神社 (元町二—九)

 大坂における常設市場としては、古くは天満《てんま》の青果市場《せいかいちば》、靭《うつぼ》の干魚《かんぎょ》市場、雑喉場《ざこば》の生魚《せいぎょ》市場、木津難波の青物《あおもの》市場が有名であるが、その中でももっとも木津難波《きづなんば》市場が新しい。

金で買った特権《とっけん》ふりかざし

 徳川時代には、青果は天満、干魚は靭、生魚は雑喉場と限定《げんてい》され、市場は年々幕府《ばくふ》に巨額《きょがく》の上納金《じょうのうきん》を差《さ》し出し、その代《か》わり取扱品《とりあつかいひん》独占《どくせん》の特権をもらい、生産者の直売《ちょくばい》などは厳《きび》しく禁止されていた。
 しかしそのためには、すべての青果物はわざわざ天満まで搬出《はんしゅつ》せねばならず、その手間《てま》や費用の点で、難波・木津・今宮の百姓《ひゃくしょう》たちは永年にわたり苦しんできた。

子守歌《こもりうた》が今も証言《しょうげん》

 大坂の子守歌に「ねんねんころいち天満の市よ、大根《だいこ》揃《そろ》へて船に積む、船に積んだらどこまでいきやる、木津や難波の橋の下」というのがあるが、大根の生産地である木津村・難波村の人も、わざわざ天満市場を経由《けいゆ》した大根を買わねばならなかったということを、歴史的《れきしてき》に証言したものになっている。

畑場《はたば》八ヵ村の悲願《ひがん》・宿願《しゅくがん》

 かつて畑場八ヵ村と称《しょう》された、勝間《こつま》・中在家《なかざいけ》・今在家《いまざいけ》・今宮《いまみや》・木津《きづ》・難波《なんば》・西高津《にしたかつ》・清堀《きよぼり》の村々は村内|水利《すいり》に乏しく、全面畑場にして水田《すいでん》は全く存在《そんざい》しないという状態だった。また、この辺りの地質《ちしつ》が砂《さ》質であり根菜類《こんさいるい》の栽培《さいばい》には適《てき》していたということもいえる。いずれにしてもこれらの村々の百姓としては、市場《いちば》問題は自らの死活《しかつ》問題として、自然《しぜん》立ち上がらざるをえなかったわけである。
 かくて難波・木津・今宮の百姓たちは、道頓堀《どうとんぼり》南側や湊町《みなとまち》大通りなどで立ち売りをおこなったが、そのつど天満市場からの苦情《くじょう》で幕府も弾圧《だんあつ》に出てきたため、なかなか地元での市場の設置《せっち》は認《みと》められなかった。

人情《にんじょう》代官《だいかん》篠山|十兵衛《じゅうべい》の奮闘《ふんとう》

 難波|八阪《やさか》神社に残る古文書《こもんじょ》によれば、正徳《しょうとく》四年(一七一四)より文化《ぶんか》六年 (一八〇九)まで実に九十五年の間《かん》にわたり、苦情《くじょう》の出るたびに地《ち》を替《か》えながら、密《ひそ》かに立ち売りをつづけ、度々《たびたび》の嘆願書《たんがんしょ》を出し、遂《つい》に、代官篠山十兵衛の尽《じん》力によって文化《ぶんか》六年六月二十七日(一八〇六)次の条件《じょうけん》付《つ》きで立ち売りが許されることになった。
 「市立《いちだち》に似寄《により》の儀致間敷事《いたしまじきそうろうこと》。他所《たしょ》他村《たそん》の荷主《にぬし》青物《あおもの》を持《も》ち来《き》たり候《そうろう》とて決《けっ》して村内《そんない》に立ち入れざる事。十三|品《ひん》(大根・菜類《なるい》・茄子《なす》・人参《にんじん》・冬瓜《とうがん》・白瓜《しらうり》・南瓜《なんか》・西瓜《すいか》・若牛芽《わかごぼう》・葱《ねぎ》・分葱《わけぎ》・芋類《いもるい》蕪《かぶら》)に限り土附《つちつ》きの儘《まま》一荷《いっか》に不足《ふそく》の分だけ村内《そんない》物青<ママ>《あおもの》渡世《とせい》の者へ譲渡《じょうと》し、十三品の儀《ぎ》も一|荷《か》に相成候分《あいなりそうろうぶん》並《ならび》に十三品外の青物は此迄通《これまでどうり》り、天満市場に差し出し申可事《もうしべきこと》。右|聊《いささ》かも違背《いはい》なき様致すべき事」という、大変厳しいものであった。
 しかし、当時としては誠《まこと》に異例《いれい》の出来《でき》事でもあった。

善政《せんせい》の責任《せきにん》を負い自刃説《じじんせつ》も

 「現代西成百景(その二十三)弘治《こうじ》—伊藤村長父子の義侠《ぎきょう》」で、今宮村への朝役《ちょうやく》・神役《しんやく》奉仕《ほうし》に対する課役免除《かやくめんじょ》の恩典《おんてん》を寛政《かんせい》八年(一七九七)に二百数十年ぶりに実現させたという偉業《いぎょう》を紹介したが、その斡旋《あっせん》を行ったのが新代官篠山十兵衛であったのだ。度重《たびかさ》なる住民の立場に立った行政を幕府よりとがめられ、一説《いっせつ》によればその後責任を負い自刃したとの話もある。

今も毎年篠山祭り

 この時に免許《めんきょ》を与えられた難波村百姓市場が、その後木津難波魚青物市場へと発展《はってん》し今日に至っているのである。地元の人は篠山代官の徳《とく》を偲《しの》び、難波八阪神社|境内《けいだい》に篠山神社を建て、今も毎年九月二十六日篠山祭りという祭礼《さいれい》をつづけているという。
 先日、難波八阪神社に参拝《さんぱい》し、神社の人にたずねると、篠山代官は十数年の長きにわたり代官を勤めた後、佐渡《さど》の金山奉行《きんざんぶぎょう》となり五十オで没し墓は佐渡にあるとのことである。