今昔西成百景(036)

 西成区で火事でもあれば新聞やテレビは必ずといってよいほど、「住宅密集地で」と報道する。西成といえば緑の少ない、道のせまい、乱開発の典型のようにみられているふしもある。
しかし例えば、潮路二丁目五番地にある西成民主診療所の前から北を望めば、道が一直線に伸びて、約二千メ—トル先の浪速区の丁芦原橋駅前辺りまで見通せるということを、知っている西成区民は案外少ないのではないだろうか。
他からきた人の方が区内中央部で街路が碁盤の目のようになっているのをみて「まるで小京都だ」とおどろくのである。
事実北から北開・中開・南開・出城・長橋・鶴見橋北・鶴見橋・旭北・旭南・梅・梅南・松・橘・桜・柳という十五の東西の通りと八つの南北の筋がそれぞれ等間隔で交差している。

三十年間で八百人が九万四千四百人に

 この地域は旧今宮村にあたり、北は関西線、南はほぼ柳通り、東はほほ紀州街道、西は十三間掘川(現阪神高速道路)に接し、明治三十年の新たに村が形成されたときには、人家はわずかに紀州街道付近に百七十戸あるていど、人口は八百内外であった。面積こそ玉出町に比してやや大きなものはあるが、村役場さえ単独で維持できないー寒村にしか過ぎなかったのである。それが三十年後の大正十三年十月一日には人口が百十倍以上の九万四千四百人と、全国的にも比類のない激増により全国第三位の大きな町となっていた。この間大正六年には町政を敷き今宮町と改称していた。

俘虜収容所が耕地整理のきっかけに

 明治三十七、八年の今宮村には未だ耕地とならない広大な地域があり、小松がまばらに生えた平野となつていた。そこへ当時日露戦役において必要となった口シアの俘虜収容所がつくられることになった。六千人余を収容する敷地六万坪の巨大施設であった。これはその後一時、陸軍第十六師団の仮営舎にあてられたが明治四一年には全部返還された。しかしそのときには各地主の前の境界が全く判明されず、これを旧に復することはきわめて困難な状態となっていた。そこで時の村長勝田愼太郎氏は将来の発展のために耕地整理を断行することを決意。同年十一月発起人会を発足させ、四三年より工事に着工し大正九年まで十年の歳月をかけて完成させた。同時に幅二間ないし三間の整理した道路もできたが、最初は田畑や荒地の間に区画されただけで、雨ともなれば泥だらけで歩行にも困難をきたすものであったという。尚、今宮の耕地整理は大阪市内では初めてのもの。

勝田村長らの功績は偉大

 この事業は字地域の変更や地番の整理はもちろんさまざまな苦心と多額の経費を要したが、勝田村長等は第一期工事をなすにあたり寝食を忘れて熱中したと伝えられている。この先人たちの英断と努力によって、その後の人口の急増による地域の乱開発が奇跡的にまぬがれたのである。耕地整理は現在の区画整理。
 勝田氏は一期で村長の職を退き、晩年は不幸にして不遇な境遇に終わったというが、この地における功績は実に偉大であったと記録されている。

西成へなにわ筋が延伸

 さて今度この地域を二分する形で、北から南へ幅員二十五メ—トルの道路が千二百メ—トルにわたり建設されることになった。終戦直後に都市計画された加島天下茶屋線(なにわ筋)の西成区内への延伸計画が約五十年ぶりに実施されるはこびとなったのである。今年から八年間で用地買収がなされ、その後二年間で道路が完成するという。長橋から南へ柳通りをこえて南海汐見橋線に接し、あとは道路に沿って新開通りまで進んで終点となる。
 立退を要求される世帯約一千。今までは大きな車も入ってこず、夜間の通行もまばらという静かな環境が今後は大変な交通公害に悩まされることになり、市の計画のままでは、便利さを差し引きしても、事態は深刻である。先人の英知に学びつつ、住民の立場にたった西成の街づくりも、これからいよいよ正念場をむかえる。

今昔木津川物語(028)

◎玉出遺跡(西成区玉出西ー)

 昭和三十二年十月五日の「サンケイ新聞」は、地下鉄三号線延長工事現場(岸之里駅から玉出駅間の地下四㍍〜五㍍)の土砂の中から、土器やカイ類を集めていた中学生の成果が四日、専門家から貴重なものと評価されたと報じている。

玉中の生物クラブが発掘

 西成区玉出中学校の生物クラブでは担任の教師の指導で、二十数名の生徒が学校東側の地下鉄工事現場で掘り出される土砂の中に、土器やカイ類があるのに目をつけ、昭和三十一年から一年がかりで、毎日放課後バケツを持って、工事現場の地下にもぐり、自分たちで、それぞれの深さの土砂をスコップで掘りバケツに入れて学校に持ち帰り、水洗いして選び出した。寒い中、工事現場の泥にまみれて収集する生徒の熱心さにうたれて、現場の労働者も協力してくれたという。
 当時の資料によれば、発掘したカイ類は約八十種類で、中には現在の日本ではすでに死滅しているものもあり、その他シカの角、たこつぼ、網のおもり、水さしなど紀元前一〜二世紀から、奈良時代までの土器が三十数点あり、その中に考古学上貴重な墨書人面土器があったとのこと。

謎の土器

 墨書《ぼくしょ》人面土器とは、人の顔が書かれた土器で、大阪では森之宮遺跡など三点しかない貴重品。人面図の表情は両眼は目尻の上がった特異な形で、口はへの字形で右端に長く伸びた滑稽味のある表現で、一見戯画的な性格を表現したもので、祭祀《さいし》に用いられたものではないかと想像されている。
 報道では専門家が、「この辺りに住んでいた人の遺跡が、鎌倉時代にいったん三㍍位下がって一時海中となり、その後また上かったものではないかと考えられる」と話していた。

太古大阪は風かおる高原

 今からおよそ三万年から一万年前頃の間、後期旧石器人が活躍していた時期、地球の海水は現在より百五十㍍も下がつたといわれ、その後しだいに気候も温暖化して、縄文時代前期には海水面が最高に上昇し「縄文海進」とよばれた。この頃大阪平野のほとんどが海中に没する。海水が下がった時期には、日本列島は大陸とつながり、陸地を伝ってナウマン象、オオツノジカなどの大型獣が日本列島に移動し、これらの動物を追って人々がやってきたことは確かであろうといわれている。
 この当時大阪は海抜百五十㍍以上の高地になっており、現在の大阪湾の中心部には古淀川が流れていて、紀伊水道辺りが海岸線となっていたという。

玉出の古代人はどんな人

 玉出に土器が出土したときけば、どうせ海水に押し流されて来たのだろう、と思いがちであるが、このようにかっては玉出も、尾瀬や北海道の沼沢地にみられる水草が咲き乱れ、現在の札幌市辺りの気候に類似した、針葉樹・広葉樹が混生して繁茂する緑豊かな高原であったと知れば、どんな先住の大阪人が住んでいたのかと興味はつきない。
 昭和三十二年といえば戦後の復興から経済の高度成長がさけばれ始めた頃、もし玉出中学校の先生と生徒の熱意と、エ事現場の人々の理解と協力がなければ、「玉出遺跡」も闇から闇へ葬り去られていたことはまちがいない。

神の国でなく人間の国

 今度の総選挙で「日本は天皇中心の神の国」といいはなち、批判をうけても撤回しようとしない森首相ひきいる、自民・公明・保守の与党は大敗した。日本の昔話を天皇中心の「神話」にすり替えていった時よりもっと大昔から、日本は人間と自然が共存していた平和な国だったことを、本当に理解しなければ、またすぐに失言しそれが政権の命取りになりかねないであろう。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第2回、第3回

◎鈴虫の寺は下町ロケット

 西芳寺(苔寺)の百メートルほど北、延郎寺山の中腹にある華厳寺(鈴虫の寺)は、正徳五年(一七ー五)に創建された華厳宗の寺だが、明治元年(一八六八)に臨済宗永源寺派に改めた。本堂に本尊の大日如来座像があり、堂前の「華厳寺」の額は陰元禅師の筆である。
 当寺を「鈴虫の寺」とよぶのは、本堂の四つの箱で、約八千匹の鈴虫が一年中鳴いていることから。当時の住職が二十三年かけて鈴虫の習性をかえ、一年中、しかも昼間に鳴くようにしたもの。さわやかな鈴虫の音とともに、住職の「鈴虫説法」も聞ける。
 秋晴れのもと、今日も次郎と友子は手をとりあって、ゆるやかな坂道を登りながら、例によっておしゃべりを始めた。
 「私は以前にひとりで来たことがあるけど、先に苔寺に回り庭園をうづめつくした苔の美しさに圧倒されてきた後だったから、鈴虫の音もテ—プぐらいにしか思わず、住職の説法も若い人達でいっぱいだったので、最後まで聞いていなかった。中年のお坊さんが熱弁をふるい、聴衆からも質問があったりしていい雰囲気だなあと、好感を持った記憶がある」
 「鈴虫の飼育の改良に社運ならぬ寺運をかけてとりくんだのね」と友子。
 「苔寺と松尾大社に囲まれ何かしなければ素通りされかねないと、お寺のこれこそまさに、『下町口ケツト』だ」と次郎は人気の髙い、奮闘している中小企業をモデルにしたドラマから例を持ってきた。
 「それに『鈴虫説法』も加えて」と、あいづちを打つ友子。
 「友ちゃんどう思う。せっかくお寺に来ているのだから、お坊さんから説法のひとつも聞かせてほしい、とは…」
「楽しくて元気の出る話なら半時間位でも聞きたいわ」
 「ところが、私も京都と奈良のお寺だけでもここ数年間で数百カ所はお参りしている。しかし実際に私達に説法してくれたのは奈良の薬師寺とここだけ。後は単なる観光客扱い」
 「外国のお客さんも爆買いだけでなく、寺社巡りもせっせとやってくれている。日本の文化にも関心があると思う」
 「友ちゃんそこなんや。世界三大宗教であるキリスト教とイスラム教は、うちこそ本家と争っている。しかし仏教は、人間に命令する神の観点はない。あくまで視点は自分の内部にある悟りへの道なんだ。ひとりひとりの人間の努力でこそ世界平和が実現できるという、唯一合理的な道を寛容の心できりひらこうというのだ」
 「次郎ちゃん今日は格調高いね」
 「私の兄は敗戦のとき少年工として大阪の軍需工場にいた。八月十四日、最後の空襲でートン爆弾の猛爆を受け多くの犠牲者が出た。その時陸軍の最高幹部らだけ厚さニメートルのコンクリートで固めて造った防空壕に入ったが全員圧死。兄はその時のことを永久に忘れないと、ことあるごとに人に話している。今こそ戦争の無益さを訴えなければ」
 次郎と友子は戦中派最後の世代として、史跡巡りにも反戦の意識がにじみ出る。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」 2016年4月、5月号

今昔西成百景(035)

◎鶴見橋

 明治四十二年に大日本紡績(現ユニチ力)津守工場が、今の府立西成高校と西成公園のあたりに新設された。再盛時には従業員約四千人の、当時としては東洋ーの規模を誇る紡織工場であった。
 しかし太平洋戦争で、昭和二十年三月十三日と同年六月一日の大阪大空襲による、米軍機B29の格好の攻撃目標となり、ノコギリ歯型の屋根の日紡津守工場は徹底的に破壊され、灰塵に帰した。

風光明媚な五本松

 実は、この日紡津守工場と、昭和四一五年二月に開通した、 阪神高速道路堺線の敷地となって埋立られた十三間掘川にかつてかかっていた「鶴見橋」とは、深いかかわりがあったのである。
 日紡従業員の通勤用として、南海電車萩之茶屋駅とを結ぶ道であると同時に、寄宿舎の数多くの女工さん達が、買物に行く道でもある十三間掘川の堤に、樹齢二三百年もするふたかかえもあるような、大きな松の木が五本伸びていた。この通称「松のハナ(端)」からちよつと南のところへ、煉瓦づくりで基礎は鉄筋の本格的な橋が大小ふたつ、日紡の負担で、津守工場開設まもなく建設された。
 「鶴見橋」という橋の名前は、津守新田の開発者白山家の時の支配人が依頼を受けて、鶴が舞い降りてくるような風光明媚なところだ、という意味で付けたものだと伝えられている。

地場産業と共に栄えた商店街

 鶴見橋商店街は、日紡の従業員と旭や橘の社宅に住む、その家族を常連客として、区内随一の商店街に発展していくが、戦後も、日紡の後から津守へやってきた、セメント・鉄鋼・造船.金属などの企業の労働者の通勤道として、また地域の商店街としてにぎわった。NHKの紅白歌合戦の番組が開始された頃には、紅白が終わってからでも、商店街はひと商売できたといわれている。
 しかし、大手ス—パ—の進出と製造業の不振による企業の倒産、廃業、移転などによる影響、それに加えて無計画で乱脈な同和行政による「空地」の続出での人口の減少などにより、かってのにぎわいはない。

消費税の増税は不況に追い打ち

 自民党政治の「規制緩和政策」により、大手ス—パ—の出店が容易になったということで、いま西成でも数ヶ所が噂されている。消費税の増税は、業者泣かせに追い討ちをかけるようなものである。商店街や市埸の不況は地域の経済や社会の衰退につながり、地元で文化の支え手をなくすことになるなど、深刻な影響を及ぽすものなのである。地域住民の職場の確保、地元商店街、市場の営業をまもるということは、真剣に考えねばならない、全区的な緊急の重要課題だ。

街を歩けば福井氏らの思い出が

 私は二十三才で「赤旗」西成分局員と成り、鶴見橋界隈を故福井由数氏や、昨年まで区の選挙管理委員をされていた永田勇氏ら先輩と共に「赤旗」読者拡大のためよく歩きまわった。戦前から解放運動をなされていた福井氏らの話は貴重なものであり、故坂市巌氏が小説「雑草」としてまとめておられた。街は大きく変わったが、鶴見橋商店街にはまだかっての家並みも残っている。心がなごむ場所のひとつとして、時間をかけて歩いてみるのも楽しい。

編者注】
桜田さんからのコメントから
「坂市巌さんの著作は,正しくは『育ちゆく雑草』(上・下)1976年。下には「部落の母」というサブ・タイトルがつけられています。」

今昔木津川物語(027)

西成—大正歴史のかけ橋シリ—ズ(五)

◎三軒家|女工哀史《じょこうあいし》

 「区史」というものは、各区の発足《ほっそく》何十周年等を記念して、地元の実行委員会から発行されるものがほとんどであるが、実際はお役所ペースでやられる。従《したが》って行政や大企業の都合《つごう》の悪いことは、「区史」が再発行される際に、書き替えられたり、抹殺《まっさつ》されてしまい面白《おもしろ》くも何もない、ちょうちんもち記事と資料だけが残る。

昔の「区史」は面白い

 昔のといっても、明治・大正・昭和なら敗戦直後の頃の発行のものは、ある事柄《ことがら》に違《ちが》った言い伝えがあれば、それを共に紹介して、読者に考えさせる余裕《よゆう》があった。最近の「区史」はその逆で、お役所と関係の深い学者が、一方的に断定《だんてい》して疑問点《ぎもんてん》は後世に残さない、というやり方をわざととっているのかと、思わせることが多い。

「大正区史」のなぞ

 しかし「大正区史」の中には、他区のものとは違った数行があつて、それが区史にまつわる”なぞ“となっている。
 それは、明治十六年から三軒家村で操業《そうぎょう》を始《はじ》めた、大阪紡績会社の創設《そうせつ》という部分から始まる。
 同社の創業者は国立第一銀行頭取渋沢栄一で、輸入《ゆにゅう》綿糸《めんし》の為替《かわせ》が巨額《きょがく》なのに目を付け、国内にー万|錘《すい》以上の大工場の建設を目標《もくひょう》とした。
 経営者には、当時|英国《えいこく》に留学《りゅうがく》していた山辺丈夫に白羽《しらは》の矢《や》を立て、研究資金を送った。明治十五年工場完成、三軒家村は都心から離れているが古くから船着き場としてにぎわい、石炭《せきたん》や原料等の運搬《うんぱん》に便利なため選ばれたという。明治二十二年に増築された時には、れんがづくり四階建てで、六万錘を備え、工員数四千人を擁《よう》する業界の最大手《さいだいて》となった。

紡績史上最初の重大事件

 明治二十五年十二月二十日、大阪紡績工場から出火した火事は、多くの女子エ員を犠牲《ぎせい》にする大|惨事《さんじ》になった。火は壊《こわ》れた窓《まど》から吹き込んだ風によって一度に燃えひろがり、逃げ遅《おく》れ主に三階のかすり場にいた女子工員達は、階段《かいだん》で折《お》り重《かさ》なって倒《たお》れていた。
 九十六人のうら若い乙女《おとめ》の命を奪《うば》い、二十二人を負傷《ふしょう》させたこの出来事は、紡績史上|見過《みす》ごすことの出来ない、最初の重大事件であった。
 大阪紡績はこの火事で、工場と紡機《ぼうき》三万千三百二十|錘《すい》を消失、四十万八千百九十一円余の大きな損害を受けた。しかし、同社はこの被災《ひさい》によって、古い紡機を一挙《いっきょ》に二万四千錘の最新式リング精《せい》紡機に更新した。
 山辺はその後も増錘《ぞうすい》と企業合併《きぎょうがっぺい》を繰《く》り返し、大正三年、三重《みえ》紡績と合併して東洋紡績となるころには、約十五万錘に達する盛況《せいきょう》を示し、山辺は東洋紡社長を最後に大正九年五月十四日、六十九オで没《ぼっ》したが、同社は昭和六年、大阪紡績と合併して世界最大の紡績会社に発展した。

タヌキのたたりで済《す》みか

 「大正区史」は同時に、明治二十一年山辺社長の一人息子が、工場内であそんでいるときに機械に巻き込まれ、惨死《ざんし》する事件が生じた。葬儀《そうぎ》は盛大《せいだい》なもので、岩崎の火葬場《かそうじょう》へ行列の先頭が着いたとき、しんがりはまだ自宅前だったということ。
 山辺社長はまた、愛児の死を悼《いた》んで小学校に多額の寄付を行ったこと等を、「美談《びだん》」として今に伝えている。
 そして「大正区史」は、つぎに「この悲劇は、明治二十五年十二月の大阪紡績の大火とともに工場建設の際タヌキの巣《す》をつぶしたたたりといわれている」と、はっきりと書いているのである。公文書《こうぶんしょ》のように、あたらずさわらずになってきている「区史」に、迷信《めいしん》としか言いようのない「タヌキのたたり」説《せつ》をわざわざ紹介する裏《うら》に一体何があるのか。私は筆者《ひっしゃ》がただ単《たん》に無神経《むしんけい》に書いたとは思えない。三軒家が発祥の地となった大企業が、犠牲となつた乙女たちになにを報いたのか、何の記録も残っていない。この惨事を伝えるのも、今ではここしかない。しかも山辺社長の「美談」の方が大きく伝えられてきていることへの疑問。「タヌキのたたり」という世間の、うわさは、会社の責任を少しでもあいまいにしてしまったとしたら、得《とく》をしたのは一体誰か…。うわさを流したのは一体誰か…。
 区史の筆者は後世のわれわれに本当は何を伝えたかったのか、それは”なぞ“であるが、多くのことを考えさせてくれたことだけは間違《まちが》いない。

今昔木津川物語(026)

西成—大正歴史のかけ橋シリ—ズ(四)

◎渡船《とせん》と私

 大正区での渡船の歴史は江戸時代までさかのぼる。西成郡史によれば明治時代のはじめには、木津川筋には三軒家村の西側町渡、三軒家|上《かみ》ノ渡、三軒家渡、材木|置場《おきば》町の筋違渡、中口新田の中口渡、炭屋新田の落合《おちあい》下《しも》ノ渡、宮の前渡。尻無川筋には甚兵衛《じんべえ》渡。昭和七年の渡船場|見取図《みとりず》によれば木津川筋に千本松渡と五番渡が、尻無川筋に中ノ渡と福崎渡が加わっている。

昔は民営《みんえい》、世襲《せしゅう》・有料

 もともと渡船は、民営、有料で世襲の家業《かぎょう》とされていた。
 大阪府は明治二十四年、渡船業営業規則を定め、営業時間や料金の統一《とういつ》をはかった。同四十年に安治《あじ》川・木津川・尻無川及び淀《よど》川筋の市内二十八渡船は危険防止《きけんぼうし》のため大阪|市営《しえい》となった。
 大正九年|旧《きゅう》道路法の施行《しこう》により渡が道路の付属物《ふぞくぶつ》として、有料を廃止《はいし》して無料とした。
 さらに昭和七年|請負制《うけおいせい》から直営方式《ちょくえいほうしき》に切《き》り替《か》えられたが、その当時市内の渡船三十二カ所、一日の利用者四万人、牛馬《ぎゅば》百七十|頭《とう》、自転車ー万七千台、乳母車《うばぐるま》百二十台、人力車《じんりきしゃ》十九台、 荷車《にぐるま》八百台との記録《きろく》が残っている。この頃、船頭《せんどう》が組合《くみあい》を結成《けっせい》し、待遇改善《たいぐうかいぜん》を市に要求している。
 その後|戦時下《せんじか》での利用状況の激変《げきへん》や道路・橋梁《きょうりょう》の整備により減少《げんしょう》し、現在では市建設|局《きょく》管理七ヵ所、市|港湾《こうわん》局管理一ヵ所の合計八渡船になっている。大正区にはその内七カ所あり、あとの一ヵ所は港区の天保山《てんぽうさん》渡である。

木津川と三軒屋川の落合

 落合上ノ渡と下ノ渡は共にながい歴史をもっているが、私は乗船《じょうせん》するたびになぜか、与謝蕪村《よさのぶそん》の「やぶ入りや浪花《なにわ》を出て長柄《ながら》川」「春風や堤《つつみ》長《なご》うて家《いえ》遠《とお》し」の句《く》がうかんでくるのである。高校を卒業してすぐに、店員見習いのような仕事で、毎日重い自転車を走らせていた体験からかもしれない。
 今はその道も大変な「ダンプ銀座《ぎんざ》」に変わり、平日は危なくて歩けない状態《じょうたい》である。

名勝《めいしょう》千本松《せんぼんまつ》の名を残す

 千本松渡船に乗れば、何か小林|多喜二《たきじ》の小説「工場《こうじょう》細胞《さいぼう》」や「オルグ」の主人公になったような気になって、身構《みがま》えてしまうから不思議《ふしぎ》である。私|自身《じしん》が三十才代は、日本共産党の専従《せんじゅう》活動家となり当時西成区南津守にあった木津川地区委員会の事務所から、大正区の工場にオル
グに出かけるのに、よくこの渡船を利用したからであろう。

かってはカ—フェリ—が

 木津川渡船にはめったに行ったことがない。地下鉄北|加賀屋《かがや》駅から西へ二十分ほど歩いたところにあるが、注意が必要なのは、休日には一時間に一回位しか運行《うんこう》しないことである。他の渡船は平日・休日を問わず十五分毎に動くのに、そのつもりでいれば予定がずれてしまう。しかしそれだけに生活のにおいは薄《うす》く、時間つぶしにぼんやりと、幅《はば》広い木津川の河口《かこう》と海の入り交じるようすを眺《なが》めていると、磯《いそ》のかおりもただよってくる。対岸《たいがん》の工場|群《ぐん》や倉庫の列も静まりかえっている。小野|十三郎《とさぶろう》の詩に、ここ柴谷《しばたに》町をよんだのがいくつかあった。私が小野十三郎の「詩の教室」に通っていたのは二十才《はたち》前後のこと。詩人というのをはじめてみてあこがれたものだった。
 木津川渡が現在、唯一《ゆいいつ》の市港湾局管理の渡船だが、かってはカーフェリーが就航《しゅうこう》にあたり、乗客と共にトラツクや乗用車も乗せていたという。

スリルとサスペンス

 千歳《しとせ》渡がある尻無川の河口と大正|内港《ないこう》のぶつかるところは、ほとんど大阪港である。そこを約四百メートルにわたり小さな渡船が横断《おうだん》するのだから、風の強い日などは相当《そうとう》にスリルがある。大阪|平野《へいや》をとりまく山々もはるかに見えるし、大きな貨物船《かもつせん》が目の前を通り過ぎると、その後をカモメの群が追っていく。
 頭上《ずじょう》はるかに、高速道路の工事中の橋ケタが顔をのぞかせている。
 南港側には、いま大阪市がかかえこんでいる巨大な赤字ビルが、突っ立っている。その横に港区の大|観覧車《かんらんしゃ》がカラフルな姿《すがた》を見せているが、何か蜃気楼《しんきろう》のようにも映《うつ》る。
 子供の帽子《ぼうし》が風で吹き飛《と》ばされて、それからなにか大事件が起こりそうな雰囲気《ふんいき》がする、不思議な空間《くうかん》。
 森村|誠一《せいいち》の「政《せい》・官《かん》・財《ざい》癒着《ゆちゃく》」の小説の舞台《ぶたい》になりそうな渡船。などと勝手に空想《くうそう》していると船は早くも鶴町側に着いた。
 歩いて約五時問、自転車で約三時間の「渡船と私の一人旅」、あなたもやってみませんか。