がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第6回、第7回

◎田辺の酬思庵―一休寺

 水田地帯に丘陵がのびてきて、程よい高さで尾根が横たわっている。その中腹の、松と 杉と雑木林のこんもりと茂った一角に一休寺はある。町の家々や国道から適当な距離をとり、静寂そのものを味わえる。こんな風格のある禅寺がかくされていたのかと、次郎と友子はわくわくとした気分で総門をくぐった。
 酬恩庵一休寺の沿革には「当寺の元の名は妙勝寺であって、鎌倉時代、臨済宗の髙僧南浦紹明が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後、禅の道場をここに建てたのが始めである。然るその後、元弘の戦火にかかり復興もならずにいたるものを、六代の法孫に当たる一休禅師が康正年中(一四五五)宗祖の遺風を慕って堂宇を再興した。師恩にむくいる意味から『酬恩庵』と命名した。禅師はここで後半の生涯を送り八十一歳で大徳寺住職となった時もこの寺から通われたのであり、文明十三年(一四八ー)十一月二十八日、八十八歳の高齢を以て当寺において示寂され遺骨は当所に葬られたのである」と。
 本堂・方丈・一休禅師木像・肖像画は全て重要文化財、庭園は名勝指定である。墓所は一休禅師が後小松天皇の皇子であったので、宮内庁の管轄である。
 次郎が語る「一休の母は後小松天皇の側室となっていたが、天皇が彼女を寵愛されたので他の女官が『南朝のまわし者でいつも刀を忍ばせて、天皇を狙っている』と讒言したことから、御所を出て宿下がりさせられた。追放といっても、供侍や乳母をつけてのものだったかも知れない。その後一休はわづか六歳で出家をする。当時、禅は宋から入ってきた新仏教として、朝廷・幕府・地方武将の帰依をうけて隆昌を極め、京五山をもじって『大徳寺の茶人づら』『相国寺の唱名づら』『建仁寺の学問づら』『南禅寺のソロバンづら』と言ったそうだ」。

文化サロンの一休寺

 名聞、地位を嫌う一休は十七歳で建仁寺を出てあちこちの小庵で師と仰げる人をさがし求め転々とする。真実の仏徒として苦しみ悩む庶民と接化しなければならない気持ちから出た行動だった。京都・大津・堅田・堺・豊中と放浪した一休は自由禅、風流禅を破れ家を借りて日がな座禅を組んだり、街頭に出て骸骨を担いで説教しているあいだにすでに七十七歳になっていた。
 大阪の住吉神社は町中にある広大な神社で、鎌倉時代から神仏混淆となって、神社の中に薬師如来・阿弥陀如来・大日如来をまつるようになっていた。この薬師如来の前で一休は盲女の流しの艷歌を聞く。一休はわれを忘れたようにその美貌に見入っていた。
 一休が八十一歳で大徳寺の住職になったときに、酬恩寺からの通勤を条件にしたというのも、この住吉から酬恩寺に移り住んだ森女との暮らしが楽しくて、離れられなかったからだと
いわれている。七十七歳の一休が三十五歳の美女を人前をはばからず見せて能楽や連歌の会や、謡の会に出席し、一休寺はいつのまにか静々たる顔ぶれの揃う文化サロンのようになっていた。文明十三年(一四八ー)八十八歳で多くの弟子や森女らに見守られ、安らかに座禅をしてー休は亡くなった。森女は一休十三回忌の香典帳に名をつらね銀何文かを寄進している。
 これら森女や文化人との一休とのつながりを酬恩庵の『沿革』は一切無視している。
 「先日、認知症の兄が『おもしろないなあ』と叫んだ。義姉が六年前に亡くなって、女性の居ない生活の淋しさを感じているのだろう」
 「かつて友ちゃんが急病の夫を背負って医者に走った話を聞いて僕は泣いた」
 「本当、泣いてくれたね」
 「今日は笑って別れよう」
 「なんのこっちゃ…」

大阪きづがわ医療福祉生協機関「みらい」 2016年8月、9月号
写真は、「Wikipedia 酬思庵 本堂(重要文化財)」より

今昔西成百景(039)

◎天下茶屋跡

 岸里東二丁目十番地に天下茶屋跡がある。
 昭和五六年八月、西成区役所区民室発行の「あるいて知ろう西成区」では、「旧住吉街道沿いにある天神の森天満宮から西へ約五十m入ったところに、天下茶屋の地名の発祥となった天下茶屋跡がある。今は昔をしのばせるくすのきの大樹の下に、天下茶屋跡の石碑と、だれが供養するのか季節の花に飾られた太閤さんの石像が忘れられたように建っている。太閤さんが今から約四百年前の天正年間(一五七三—九〇)住吉神社への参拝や、堺政所(奉行所)への往来の途中、天満宮付近の茶店で休息、茶の湯を楽しみ風景を賞したことについて、世人この地を天下茶屋と称するに至ったと伝えられている。その由来を示す太闇さんが休息した建物などは戦災で焼失し、今は一体の石像のみが当時をしのばせている。天下茶屋跡は大阪市顕彰史跡に指定されている」と記されている。
 平成七年三月西成区コミュ二ティ協会(区役所が事務局)が発行した「わたしたちの西成区コミュニティマップ」によると、「今から四百年も余り昔、太閤秀吉が住吉大社参拝や堺への往来の際、ここの茶店で休息、茶の湯を楽しみ付近の風景を賞したことからこの茶店を天下茶屋と呼ぶようになった。その由来を示す建物(芽木家)は戦災で焼失し、現在は天下茶屋跡として、くすのきの大樹と土蔵、石像だけが残っている。昭和六十二年に現在のものに修復された。この土蔵は屋敷の北西隅に位置し、恵方にむかって建てられ太閤さんを祀った祠で、くすのきと共に往時をしのぶものである一大阪市顕影史跡」となっている。天下茶屋公園(是斉屋跡)の場合とちがって両方の案内文に基本的な相違はない。

芽木家対津田家の本家争い

 しかし、明治三十二年発行の「南海鉄道旅客案内」のなかには是斉屋について、「又この家には昔太閤が立寄られたという伝えがありまして、遺物などがあります」とあり、大正八年に出された東成郡史にも天王寺村の旧家として「芽木家の外、橋本氏(旧津田氏)の天下茶屋は宝暦年間初めて戯曲(祇園祭礼信仰記)に仕組まれたる和中散是斉の薬店として世に聞こえたり。(攝津名所図会)に引く所の安永八年(一七八〇)の(壷天閣記)によれば、此薬店は寛永中津田氏の祖宗本、これを創め、次男総左衛門別號是斉、別舗を江州梅の本村に開く。この家亦芽本家と同じく豊太閤御茶の水とて「蟠龍水」の址あり。千利休これを汲みて太閤に侑めたりと伝えられ、又豊公の小祠あり。庭宅今は大阪市某の所有に帰し、其旧形を改めたれども、明治十年明治天皇御駐輩所建物は、今も門内正面の庭中に保存せらる。…当日橋本尚四郎、同久五郎はお茶を献したり。翌十五日玉座拝観の衆庶雑踏したり」と記されている。
 昭和二六年にだされた西成区政誌には「戦災前に天下茶屋と賞するものにニヶ所があった。その一つは明治元年四月、明治天皇の休憩所に充てられた壷天閣のある所と、今一つは秀吉の茶屋と称する小亭のある所で、傍の古井戸を『恵の水の井戸』と称え、秀吉の点茶の水であったと伝えていたが、何も戦災にあって今はない」となっている。

密室での歴史のぬりかえ

 以上みてきたように、永年の間、二つの「天下茶屋」として激しい本家争いを行ってきたこの一件も、今度の市が天下茶屋公園から太閤にまつわる一切の看板類を撤去したことにより、また区内各所案内書から、天下茶屋跡を芽本家一本にしぼったことで、落着したということになるのか。
 いずれにしても、区民不在の密室のなかでやられたことであり、別にどちらの肩をもつわけでもないのであるが、「現代西成百景」としては、もう少しこだわって、掘り下げてみたいと思う。

今昔西成百景(038)

◎天下茶屋公園

 旧住吉街道沿いにある現在の天下茶屋公園が、是斎(ぜさい)屋の跡である。
 昭和五六年八月、西成区役所区民室発行の「歩いて知ろう西成区」には、「この地は今から約四〇〇年前の天正年間(一五七三—九十)、太閤さんが旧主で遠州の豪士松下嘉兵治の恩義に報いるため、約ー〇八九〇㎡(三三〇〇坪)の広大な邸宅と名園を贈った。のちに松下姓を是斎と改める。太閤さんはこの縁で大阪城中からしばしば来遊、茶をたて名園を楽しんだと伝えられている。公園内には、太閤さん愛好の井戸や灯ろうがあり、中央にあるくすのきの大樹には、天下茶屋守護の鎮八大竜王が祭られている。現在は大阪市の萩の花名所公園になっている」と記されている。

「恩義の秀吉」実証のはずが

 豊臣秀吉との関係などは極めて具体的で全国的にみても貴重なものにまちがいないと、西成区民の自慢の一つであった。恩義にあつい秀吉とよくいわれるが、歴史的にみて実際の恩返しで有名なのは放浪時代に世話になった野武士の蜂須賀小六と、最初の武家奉公をした今川家の家臣松下嘉兵治の二人である。その松下の子孫が明治時代までこの地で「和中散」という薬を売り、茶店を営んでいたというのだから、大閤さんを身近に感じる「物的証拠」といってもいいはずであった。「はずであった」となぜ過去形で書くのかといえば、実はその「史蹟」が最近になってこつぜんとして消えてしまったからである。

歴史のすりかえがやられた

 平成七年(ー九九五)西成区コミュニティ協会(区役所が事務局)が発行した「わたしたちの西成区コミュニティマップ」によると「現在の天下茶屋公園が是斎屋の跡であり、薬屋是斎屋は寛永年間(一六二四—四四)近江の国の津田宗衛門が住吉街道に面した当地に『和中散』という薬を商ったのが起こりで、街道の商人たちで大いに繁盛したという。また茶店としても有名であった」と記すのみで、太閤の名前はまったく出てこないのである。
 それもそのはず、寛永といえば世は徳川三代将軍家光の時代で、秀吉の死後二十六年、大阪城落城し秀頼・淀君らの自害により豊臣家が滅亡してから九年、徳川家康による徹底した豊臣の残党狩りが行われ、この世から豊臣色を一掃してしまった後のことである。豊臣秀吉が茶店へ来遊するどころか、だれかが秀吉愛好の井戸や灯ろうをかくしもっているだけでも首がとぶ。秀吉を神として祭った豊国神社や秀吉の廟墓まで家康によって破却処分され、影もかたちもないようにされたというのが歴史的事実なのである。

市教委による証拠いんめつ

  三月二十三日、中央区の「街づくりネットワ—ク」が主催する「連続テレビ小説『ふたりつ子』の世界、今もかつての大阪の下町がある西成天下茶屋かいわいから通天閣へ」というウォッチングに私もガイド役として参加した。天下茶屋の由来を説明するために天下茶屋公園へ行けば、案の定、コミュニティマップにつじつまを合わせるように今まであった太閤秀吉とのゆかりを説明する表示類は一切撤去されていた。大阪市教育委員会は何を思ったのか。同公園内の阿部寺塔心礎石(約ーー〇〇年前白凰時代の五重の塔の礎石。大阪府指定文化財考古資料第十二号)の表示板までなくしていったので、中央に舎利穴がある柱穴にはブロツクの破片が投げ込まれ、貴重な文化財がまるで大型ゴミのように扱われており、無残であった。
 大阪市が今頃になってひそかに「歴史の訂正」をやる必要がはたしてあったのかという疑問がわいてくるが、実はそれがあったのである。

今昔木津川物語(030)

◎続西成と京都のつながり

 西成区の地名に京都の地名と同じものがいくつかあり、旧今宮村と京都とのつながりを考えさせるきっかけとなった。旧今宮村とは現在でいえば、岸の里交叉点を南北に分ける松虫通(木津川平野線)から北側へ、浪速区の南側の一部にも入り込んだ地域で、その中で例えば、今は町名改称のためなくなってしまったが、「東四条」とは今の今宮中学校辺りで「西四条」とは今宮工業高校辺りで、「油|小路《こうじ》」とは今宮高校辺りのことであった。これらは、難波江のー漁村であった旧今宮村がかかわっていた、朝役・神役の故事と深く関係している。すなわち、朝役とは朝廷に日々の魚を奉ずる役で、この起源は平安初期にまでさかのぼるという。神役とは毎年六月の祇園祭に今宮村から百六十人が上洛《じょうらく》して神輿《しんよ》を担ぐ役を奉ずるものである。朝役のために、京都四条通り油小路西へ入る南側に間口十三間、北側に間口二十二間の地を詰め所として使用していたというから、「四条・油小路」の地名のでどころははっきりしている。

花園・今宮の関係は

 そしてそれでは、今も西成で地名として使われている「花園」と、地名として西陣の宮・今宮神社は使われていないが、学校などの名前として残っている「今宮」は京都とどう結びつくのか、興味しんしんというところである。
 今宮は今宮戎神社から由来するかのようなかきかたを、戦後の浪速区史はしているが、戦前の西成区政誌には、「洛北|紫野《むらさきの》大徳寺付近に今宮と称する地ある」とあり、私は西成区政誌の立場から、残暑きびしい八月のある日、家族と共に京都に探求の旅を行った次第である。
 大徳寺近くの今宮神社は大きな神社であり、古めかしい社も多く、歴史を感じさせる予想以上のものであった。

西陣の宮・今宮神社

 神社で分けていただいた「今宮神社由緒略記」から次に少し引用させていただく。
 「京都市北区紫野今宮町にある今宮神社は平安建都(七五四)以前からこの地に、疫病《えきびょう》(はやり病)を鎮《しず》めるために、疫神《えきじん》を祀った社があったといわれる。ところが平安建都以後、京都は諸国からの来往がはげしくなり、次第に都市として栄えていったものの、疫病や災害がしばしば起こり、このため人心は安らかでなかった。そこで疫災をはらうよう「御霊会」(ごりょうえ)が、八坂神社の祇園会(祭)など各地でやられ、紫野御霊会もそのひとつである。

人形を難波の海へ

 すなわち、一条天皇の正暦五年(九九四)疫病は都で猖獗(しようけつ)をきわめ、四月頃には洛中洛外に病者の行倒れがおおく、六月になると洛中を疫神が横行するという流言で家々は門戸を閉して、通行人の影も見られなくなった…。
 そこで、同年六月二十九日朝廷では神輿二基を造らせ、病魔の憑《つ》く人形を人間に見たて神輿様のものに乗せ難波江に流したという。
 ところが、それから数年もたたない長保年 (一〇〇一)にまたも疫病が流行し都の人々を大いに悩ました。そこでそれまであった疫社を現在の当社の地に奉還しこれを今宮社と名付けた。当時この地は花園とよばれていた」と、あらすじはこうである。
 人形の流す海はそれまで「朝役」で縁のあった、難波の漁村の人々が案内したのであろう。そして一層京都とのつながりが深まり、今宮・花園の地名をもらったのではないか。

現代の厄災は消費税とリストラ

 さて、地名のなぞはなんとか解決できたが、海に流しようのない現代の厄災はやはり消費税とリストラではないか。これの退治は神頼みでなく、人頼みあるのみ。共にがんばろう。

今昔木津川物語(029)

◎西成と京都のつながり

 西成区の中央部は道路が碁盤《ごばん》の目のようになっていて、東西の通りには北から梅・松・橘・桜・柳の名前がつけられている。「まるで京都のようだ」という人もいるが、京都には花の名前の通りはない。西成の通りのこの華やかな名前は、一体いつどうして付けられたのか。

命名は明治に夢描いて

 明治三八年一月、日露戦争において、旅順要塞に籠城していたロシアの兵士約二万人が俘虜《ふりょ》として日本へ送られてきた。その収容所が、第五回内国勧業博覧会が終了した浜寺公園と、西成天下茶屋に急きよ設けられた。天下茶屋俘虜収容所は、南海天下茶屋駅の北西側の畑の中で、 敷地は約六万坪もあり、その周囲は杉板塀をはりめぐらし、庁舎は平家建六十棟の中に各種の付属庁舎があり、水道・電灯・電話を装置した大規模なものであった。
 明治四一年十一月、その使用が廃止されたので地主に返還されたが、元通りの畑地とするには境界も不明で困難であった。この頃天下茶屋駅の東側は、流行の郊外生活むけの別荘地として急速に発展していた。
 そこでこの際とばかり、今宮耕地整理組合の結成が認可され四四年四月そのエ事を完成させた。これは当時の周辺町村では類例のない画期的なことで、勝田村長の英断と努力の結果であった。耕地整理といってはいるが、最初から清新な住宅地とする計画の下での区画整理であり、大きな夢をえがいてその時に、梅・松・橘・桜・柳の各通りが命名された。

西成になぜ四条や花園が

 明治四三年十—月に第二耕地整理組台結成の認可がされたが、その範囲は第一回の約四倍の大きさであった。その完成をみたのは大正九年三月末であり、旭・鶴見橋・長橋・出城・開・四条・花園の各通りが誕生した。
 ここで、昔から今宮村の字名にある「四条ケ辻・花園・油小路」のうち二つが残ったわけだが、これらの古くからの地名の由来を調べてみると面白いことがわかる。
 今宮村は古来は津江《つえ》の庄《しょう》と称し、その後今宮荘となり今宮村になったが、当時は一漁村であった。そしていつの頃からか朝役・神役という故事があった。朝役とは、朝廷に日々の魚を奉る役で、平安|遷都《せんと》の際には四条通り、油小路西へ下るところに詰め所がつくられてあったという。
 一方、花園は京都御室の妙心寺近くにあり、洛北紫野大徳寺近くに今宮神社があるが、今宮村との関係はそれぞれどうなっているのか……

自転車置き場の増設を

 地下鉄堺筋線の延伸により、天下茶屋と京都は直通で結ばれた。一日京都を歩いて西成との関係を訪ねてみたいものだ。
 それにしても、天下茶屋駅周辺の放置自転車の状況は、最近ますます深刻になつている。このままではせっかくの、西成の新しい玄関口も台無しになつてしまう。この際駅の南と東に自転車置き場を新設すべきだと思う。駅前のスペ—スは十分にあるので、市は決断をくだすべきだ。そして、地下鉄花園町駅西側と同じく玉出駅北口にも新設が必要ではないか、ー駅一ヶ所では矛盾が続出している。

今昔西成百景(037)

◎汐見橋線

 NHKの朝の連続テレビ小説「ふたりっ子」もいよいよ終盤に入っているが、話は二転三転していったいどこに落ち着くのやら、最後にどんなどんでん返しがあるのか、毎日目がはなせない状況である。
 「ふたりつ子」の舞台となっている「野田豆腐店」のある商店街の背後に、ときどき二両連結の電車が走るが、なんという名のロ—カル線かと、疑問に思っておられる視聴者も多いことだと推測される。
 この電車こそわが西成区を終点とし、隣の浪速区を始点とするも五駅中三駅は地元にあるという、十五分に一台づつ発車している歴史と伝統のある、南海汐見橋線なのである。

もとは汐見橋駅が高野線の始発駅

 かって真言密教の霊場、高野山に参拝するには徒歩に頼るしかなかった。そこで明治三十一年一月に高野鉄道が大小路(現堺東)から狭山間に鉄道を敷設、つづいて狭山—長野(現河内長野)間を延伸、そしてその二年後の明治三十八年八月に大小路—汐見橋間が開通し、汐見橋が高野線の始発駅となった。全線単線で重量三〇トンの小さな蒸気機関車をもって運行が始まった。

幾多の変遷の後念願の高野山へ

 今の高野山行きの電車は難波が始発駅だが、変更になったのは大正十四年。高野鉄道がその後「高野登山鉄道」となり、またその後「大阪高野鉄道」となり大正十一年九月に南海鉄道と合併して、南海高野線となった。
 トンネル二十五ケ所、急カーブ四十ケ所を超えた難工事であったが、昭和四年二月にやっと極楽橋まで開通、高野山頂までの路線はケ—ブルカ—が昭和五年六月になって完成、ついに汐見橋—高野山が全通した。

戦後さびれた汐見橋線

 戦前までは田園地帯を走る高野詣での路線でしかなかった高野線も、昭和三十年代以降は大きく変わり、いまや朝夕は通勤客でこみあい、休日ともなれば観光とレジャ—ににぎわう路線となつた。
 駅が開設された頃の汐見橋周辺は、大阪市内の交通の要衝であった。汐見橋駅のすぐ近くには国鉄(現JR)の終着駅・湊町(現JR難波)駅があり、また道頓堀の川筋をひかえ貨物の集散も多いところであった。
 汐見橋—岸の里間がいまのようにすっかりさびれてしまったのは、戦後の市電廃止・地下鉄の整備・貨物の営業活動廃止・沿線企業の移転・廃業などによる。

三十年前の雰囲気残るタイムトンネル

 先日久しぶりに汐見橋線に乗車してみた。沿線は民家や工場の裏手に当たるためか、その風景は昔とあまり変わっておらず、三十数年前に青年連動や労働連動のオルグとして毎日のように大正区や港区にこの電車で通い、よく終電車でかえっていた日々を思い出し感無量であった。
 汐見橋駅に降りたってめずらしいものを発見した。それは壁面いっぱいに描かれた、南海電車沿線名所-旧跡を紹介する大地図である。海水浴場がずらりと並んでいるのも、いまは無残に埋め立てられてしまったこれら白砂青松の地の無言の訴えと感じられた。

汐見橋線の今後の運命にどんでん返しはあるか

 「汐見橋線はやがて廃線になるのですか」とよく聞かれる。西成区民としては十数年前に、南海天王寺線が廃線になつた苦い経験があるから不安になるのだろう。しかしいま、汐見橋線の運命は西成区民の思惑をこえたところで論議され、計画が進められているのである。次に大阪市建設局理事仙石泰輔氏のある座談会での発言の一部を紹介しておく。
 「新しい鉄道計画がございます。運輸政策審議会の答申でこれは整備路線ということで、なにわ筋線というものを二〇〇五年までにやろうと考えております。新大阪からなにわ筋を南下しまして、ー方は湊町の関西線に接続し、もう一方は途中で別れて南海高野線の汐見橋につなぎます。これができますと完全に空港と直結できるようになります。こ.ついうことをぜひともすすめていきたいというふうに思っております」
 汐見橋線がどのような形で脚光を浴びるのか、それが西成の街づくりにどのようなかかわりがでてくるのか、はたしてどんでんがえしはあるのかないのか。しっかりとみきわめていかなければと思う。

今昔西成百景(036)

 西成区で火事でもあれば新聞やテレビは必ずといってよいほど、「住宅密集地で」と報道する。西成といえば緑の少ない、道のせまい、乱開発の典型のようにみられているふしもある。
しかし例えば、潮路二丁目五番地にある西成民主診療所の前から北を望めば、道が一直線に伸びて、約二千メ—トル先の浪速区の丁芦原橋駅前辺りまで見通せるということを、知っている西成区民は案外少ないのではないだろうか。
他からきた人の方が区内中央部で街路が碁盤の目のようになっているのをみて「まるで小京都だ」とおどろくのである。
事実北から北開・中開・南開・出城・長橋・鶴見橋北・鶴見橋・旭北・旭南・梅・梅南・松・橘・桜・柳という十五の東西の通りと八つの南北の筋がそれぞれ等間隔で交差している。

三十年間で八百人が九万四千四百人に

 この地域は旧今宮村にあたり、北は関西線、南はほぼ柳通り、東はほほ紀州街道、西は十三間掘川(現阪神高速道路)に接し、明治三十年の新たに村が形成されたときには、人家はわずかに紀州街道付近に百七十戸あるていど、人口は八百内外であった。面積こそ玉出町に比してやや大きなものはあるが、村役場さえ単独で維持できないー寒村にしか過ぎなかったのである。それが三十年後の大正十三年十月一日には人口が百十倍以上の九万四千四百人と、全国的にも比類のない激増により全国第三位の大きな町となっていた。この間大正六年には町政を敷き今宮町と改称していた。

俘虜収容所が耕地整理のきっかけに

 明治三十七、八年の今宮村には未だ耕地とならない広大な地域があり、小松がまばらに生えた平野となつていた。そこへ当時日露戦役において必要となった口シアの俘虜収容所がつくられることになった。六千人余を収容する敷地六万坪の巨大施設であった。これはその後一時、陸軍第十六師団の仮営舎にあてられたが明治四一年には全部返還された。しかしそのときには各地主の前の境界が全く判明されず、これを旧に復することはきわめて困難な状態となっていた。そこで時の村長勝田愼太郎氏は将来の発展のために耕地整理を断行することを決意。同年十一月発起人会を発足させ、四三年より工事に着工し大正九年まで十年の歳月をかけて完成させた。同時に幅二間ないし三間の整理した道路もできたが、最初は田畑や荒地の間に区画されただけで、雨ともなれば泥だらけで歩行にも困難をきたすものであったという。尚、今宮の耕地整理は大阪市内では初めてのもの。

勝田村長らの功績は偉大

 この事業は字地域の変更や地番の整理はもちろんさまざまな苦心と多額の経費を要したが、勝田村長等は第一期工事をなすにあたり寝食を忘れて熱中したと伝えられている。この先人たちの英断と努力によって、その後の人口の急増による地域の乱開発が奇跡的にまぬがれたのである。耕地整理は現在の区画整理。
 勝田氏は一期で村長の職を退き、晩年は不幸にして不遇な境遇に終わったというが、この地における功績は実に偉大であったと記録されている。

西成へなにわ筋が延伸

 さて今度この地域を二分する形で、北から南へ幅員二十五メ—トルの道路が千二百メ—トルにわたり建設されることになった。終戦直後に都市計画された加島天下茶屋線(なにわ筋)の西成区内への延伸計画が約五十年ぶりに実施されるはこびとなったのである。今年から八年間で用地買収がなされ、その後二年間で道路が完成するという。長橋から南へ柳通りをこえて南海汐見橋線に接し、あとは道路に沿って新開通りまで進んで終点となる。
 立退を要求される世帯約一千。今までは大きな車も入ってこず、夜間の通行もまばらという静かな環境が今後は大変な交通公害に悩まされることになり、市の計画のままでは、便利さを差し引きしても、事態は深刻である。先人の英知に学びつつ、住民の立場にたった西成の街づくりも、これからいよいよ正念場をむかえる。

今昔木津川物語(028)

◎玉出遺跡(西成区玉出西ー)

 昭和三十二年十月五日の「サンケイ新聞」は、地下鉄三号線延長工事現場(岸之里駅から玉出駅間の地下四㍍〜五㍍)の土砂の中から、土器やカイ類を集めていた中学生の成果が四日、専門家から貴重なものと評価されたと報じている。

玉中の生物クラブが発掘

 西成区玉出中学校の生物クラブでは担任の教師の指導で、二十数名の生徒が学校東側の地下鉄工事現場で掘り出される土砂の中に、土器やカイ類があるのに目をつけ、昭和三十一年から一年がかりで、毎日放課後バケツを持って、工事現場の地下にもぐり、自分たちで、それぞれの深さの土砂をスコップで掘りバケツに入れて学校に持ち帰り、水洗いして選び出した。寒い中、工事現場の泥にまみれて収集する生徒の熱心さにうたれて、現場の労働者も協力してくれたという。
 当時の資料によれば、発掘したカイ類は約八十種類で、中には現在の日本ではすでに死滅しているものもあり、その他シカの角、たこつぼ、網のおもり、水さしなど紀元前一〜二世紀から、奈良時代までの土器が三十数点あり、その中に考古学上貴重な墨書人面土器があったとのこと。

謎の土器

 墨書《ぼくしょ》人面土器とは、人の顔が書かれた土器で、大阪では森之宮遺跡など三点しかない貴重品。人面図の表情は両眼は目尻の上がった特異な形で、口はへの字形で右端に長く伸びた滑稽味のある表現で、一見戯画的な性格を表現したもので、祭祀《さいし》に用いられたものではないかと想像されている。
 報道では専門家が、「この辺りに住んでいた人の遺跡が、鎌倉時代にいったん三㍍位下がって一時海中となり、その後また上かったものではないかと考えられる」と話していた。

太古大阪は風かおる高原

 今からおよそ三万年から一万年前頃の間、後期旧石器人が活躍していた時期、地球の海水は現在より百五十㍍も下がつたといわれ、その後しだいに気候も温暖化して、縄文時代前期には海水面が最高に上昇し「縄文海進」とよばれた。この頃大阪平野のほとんどが海中に没する。海水が下がった時期には、日本列島は大陸とつながり、陸地を伝ってナウマン象、オオツノジカなどの大型獣が日本列島に移動し、これらの動物を追って人々がやってきたことは確かであろうといわれている。
 この当時大阪は海抜百五十㍍以上の高地になっており、現在の大阪湾の中心部には古淀川が流れていて、紀伊水道辺りが海岸線となっていたという。

玉出の古代人はどんな人

 玉出に土器が出土したときけば、どうせ海水に押し流されて来たのだろう、と思いがちであるが、このようにかっては玉出も、尾瀬や北海道の沼沢地にみられる水草が咲き乱れ、現在の札幌市辺りの気候に類似した、針葉樹・広葉樹が混生して繁茂する緑豊かな高原であったと知れば、どんな先住の大阪人が住んでいたのかと興味はつきない。
 昭和三十二年といえば戦後の復興から経済の高度成長がさけばれ始めた頃、もし玉出中学校の先生と生徒の熱意と、エ事現場の人々の理解と協力がなければ、「玉出遺跡」も闇から闇へ葬り去られていたことはまちがいない。

神の国でなく人間の国

 今度の総選挙で「日本は天皇中心の神の国」といいはなち、批判をうけても撤回しようとしない森首相ひきいる、自民・公明・保守の与党は大敗した。日本の昔話を天皇中心の「神話」にすり替えていった時よりもっと大昔から、日本は人間と自然が共存していた平和な国だったことを、本当に理解しなければ、またすぐに失言しそれが政権の命取りになりかねないであろう。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第2回、第3回

◎鈴虫の寺は下町ロケット

 西芳寺(苔寺)の百メートルほど北、延郎寺山の中腹にある華厳寺(鈴虫の寺)は、正徳五年(一七ー五)に創建された華厳宗の寺だが、明治元年(一八六八)に臨済宗永源寺派に改めた。本堂に本尊の大日如来座像があり、堂前の「華厳寺」の額は陰元禅師の筆である。
 当寺を「鈴虫の寺」とよぶのは、本堂の四つの箱で、約八千匹の鈴虫が一年中鳴いていることから。当時の住職が二十三年かけて鈴虫の習性をかえ、一年中、しかも昼間に鳴くようにしたもの。さわやかな鈴虫の音とともに、住職の「鈴虫説法」も聞ける。
 秋晴れのもと、今日も次郎と友子は手をとりあって、ゆるやかな坂道を登りながら、例によっておしゃべりを始めた。
 「私は以前にひとりで来たことがあるけど、先に苔寺に回り庭園をうづめつくした苔の美しさに圧倒されてきた後だったから、鈴虫の音もテ—プぐらいにしか思わず、住職の説法も若い人達でいっぱいだったので、最後まで聞いていなかった。中年のお坊さんが熱弁をふるい、聴衆からも質問があったりしていい雰囲気だなあと、好感を持った記憶がある」
 「鈴虫の飼育の改良に社運ならぬ寺運をかけてとりくんだのね」と友子。
 「苔寺と松尾大社に囲まれ何かしなければ素通りされかねないと、お寺のこれこそまさに、『下町口ケツト』だ」と次郎は人気の髙い、奮闘している中小企業をモデルにしたドラマから例を持ってきた。
 「それに『鈴虫説法』も加えて」と、あいづちを打つ友子。
 「友ちゃんどう思う。せっかくお寺に来ているのだから、お坊さんから説法のひとつも聞かせてほしい、とは…」
「楽しくて元気の出る話なら半時間位でも聞きたいわ」
 「ところが、私も京都と奈良のお寺だけでもここ数年間で数百カ所はお参りしている。しかし実際に私達に説法してくれたのは奈良の薬師寺とここだけ。後は単なる観光客扱い」
 「外国のお客さんも爆買いだけでなく、寺社巡りもせっせとやってくれている。日本の文化にも関心があると思う」
 「友ちゃんそこなんや。世界三大宗教であるキリスト教とイスラム教は、うちこそ本家と争っている。しかし仏教は、人間に命令する神の観点はない。あくまで視点は自分の内部にある悟りへの道なんだ。ひとりひとりの人間の努力でこそ世界平和が実現できるという、唯一合理的な道を寛容の心できりひらこうというのだ」
 「次郎ちゃん今日は格調高いね」
 「私の兄は敗戦のとき少年工として大阪の軍需工場にいた。八月十四日、最後の空襲でートン爆弾の猛爆を受け多くの犠牲者が出た。その時陸軍の最高幹部らだけ厚さニメートルのコンクリートで固めて造った防空壕に入ったが全員圧死。兄はその時のことを永久に忘れないと、ことあるごとに人に話している。今こそ戦争の無益さを訴えなければ」
 次郎と友子は戦中派最後の世代として、史跡巡りにも反戦の意識がにじみ出る。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」 2016年4月、5月号

今昔西成百景(035)

◎鶴見橋

 明治四十二年に大日本紡績(現ユニチ力)津守工場が、今の府立西成高校と西成公園のあたりに新設された。再盛時には従業員約四千人の、当時としては東洋ーの規模を誇る紡織工場であった。
 しかし太平洋戦争で、昭和二十年三月十三日と同年六月一日の大阪大空襲による、米軍機B29の格好の攻撃目標となり、ノコギリ歯型の屋根の日紡津守工場は徹底的に破壊され、灰塵に帰した。

風光明媚な五本松

 実は、この日紡津守工場と、昭和四一五年二月に開通した、 阪神高速道路堺線の敷地となって埋立られた十三間掘川にかつてかかっていた「鶴見橋」とは、深いかかわりがあったのである。
 日紡従業員の通勤用として、南海電車萩之茶屋駅とを結ぶ道であると同時に、寄宿舎の数多くの女工さん達が、買物に行く道でもある十三間掘川の堤に、樹齢二三百年もするふたかかえもあるような、大きな松の木が五本伸びていた。この通称「松のハナ(端)」からちよつと南のところへ、煉瓦づくりで基礎は鉄筋の本格的な橋が大小ふたつ、日紡の負担で、津守工場開設まもなく建設された。
 「鶴見橋」という橋の名前は、津守新田の開発者白山家の時の支配人が依頼を受けて、鶴が舞い降りてくるような風光明媚なところだ、という意味で付けたものだと伝えられている。

地場産業と共に栄えた商店街

 鶴見橋商店街は、日紡の従業員と旭や橘の社宅に住む、その家族を常連客として、区内随一の商店街に発展していくが、戦後も、日紡の後から津守へやってきた、セメント・鉄鋼・造船.金属などの企業の労働者の通勤道として、また地域の商店街としてにぎわった。NHKの紅白歌合戦の番組が開始された頃には、紅白が終わってからでも、商店街はひと商売できたといわれている。
 しかし、大手ス—パ—の進出と製造業の不振による企業の倒産、廃業、移転などによる影響、それに加えて無計画で乱脈な同和行政による「空地」の続出での人口の減少などにより、かってのにぎわいはない。

消費税の増税は不況に追い打ち

 自民党政治の「規制緩和政策」により、大手ス—パ—の出店が容易になったということで、いま西成でも数ヶ所が噂されている。消費税の増税は、業者泣かせに追い討ちをかけるようなものである。商店街や市埸の不況は地域の経済や社会の衰退につながり、地元で文化の支え手をなくすことになるなど、深刻な影響を及ぽすものなのである。地域住民の職場の確保、地元商店街、市場の営業をまもるということは、真剣に考えねばならない、全区的な緊急の重要課題だ。

街を歩けば福井氏らの思い出が

 私は二十三才で「赤旗」西成分局員と成り、鶴見橋界隈を故福井由数氏や、昨年まで区の選挙管理委員をされていた永田勇氏ら先輩と共に「赤旗」読者拡大のためよく歩きまわった。戦前から解放運動をなされていた福井氏らの話は貴重なものであり、故坂市巌氏が小説「雑草」としてまとめておられた。街は大きく変わったが、鶴見橋商店街にはまだかっての家並みも残っている。心がなごむ場所のひとつとして、時間をかけて歩いてみるのも楽しい。

編者注】
桜田さんからのコメントから
「坂市巌さんの著作は,正しくは『育ちゆく雑草』(上・下)1976年。下には「部落の母」というサブ・タイトルがつけられています。」