西成・浪速歴史のかいわいシリ—ズ(四)
◎願泉寺・唯専寺(大国ニーニ・敷津西ニー十三)
願泉寺はその伝によると開祖永証は小野妹子の八男多嘉丸と称し、聖徳太子の守屋征討に加わって功があり、太子四天王寺を造営のとき、運河を開削して諸国よりの木材の運搬を容易にした。
定龍が地域を統一
その後二十七世乗教の時蓮如上人に帰依し本願寺に加わる。天正年間本願寺門徒、織田信長と戦った時、時の願泉寺住職定龍は極めて武略な人で木津一難波・今宮・高津・勝間・三軒家等の門徒を指揮して一方の将となり、摂河泉の間に転戦し大いに軍功を上げた。その功により、本願寺の願の一字を賜って願泉寺と称したという。
唯泉寺もその伝によると用命天皇の御宇天種命の裔である跡見赤摂が、聖徳太子の四天王寺建立に際し木津浦に来たりて住し草庵を構えていたが三十三世跡目光重に至って蓮如上人の弟子となって真宗に転じた。本願寺と信長の合戦の際抜群の功をあげ、夭正八年四月顕如上人石山退去の時当寺に一泊の上雑賀に出発したとのこと。
手をたずさえ「魔王」信長とたたかう
願泉寺、唯泉寺共に聖徳太子と四天王寺造営にゆかりがあり、またその後の石山合戦でも手をたずさえて「魔王」信長と戦い、空襲で焼失したのも一緒で、それぞれ戦後再建された。
足利時代より木津川口の陸地化がすすむとともに、海浜であり大坂に入る軍事上の要衝の地として、この辺りの争奪戦が盛んに行なわれたのである。
反戦の伝統生かして
ガイドライン法という名の戦争法が国会で強行採決されると、待っていたとばかりに、海上自衛隊が艦船二十五隻、航空機二十一機を出動させて、大阪湾での戦後最大規模の軍事演習を実施した。
歴史に学んで今こそ地域ぐるみの、戦争法反対の発動をゆるさない大運動が必要なのではではないか。

