今昔西成百景(048)

◎あとがき

 「がもう健府政ニュース」は、一九七九年四月の府会初当選時からほぼ毎月発行し、昨年の九月で二百号に達した。このニュースに断続的にエッセ—を掲載していたが、九十七号より「郷土史エッセ—」として継続するようになり、それが現在百三回目である。
 その中から今回は、特に西成区に関する話をまとめて、「今昔西成百景」として発行した。百話分になっていないのは、今後を乞うご期待としたい。すでに発行した「今昔木津川物語」とは姉妹編となり、西成百景の方が郷土史エッセーとしては先に生まれたので姉になる。
 この本の中には、ゆがめられた郷土史を批判したもの、住民運動のたたかいの記録、あまり知られていない歴史の特ダネ、にまじって私の恥多き青春のひとこまも、もぐりこませてある。
 郷土史研究の役割とは何か、と改めて問われてみると、私はやはり「日本史との関連で地方の歴史をみること」だと答える。そしていま日本史が古代を含めて大きく見直されているなかで、その地方史である郷土史も、 厳しくかつ全面的に再検討されるべきである。
 「地獄極楽この世にござる」「神も仏もないものか」と云いたくなるような話が、每日のようにとびこんでくる今日この頃。遠い祖先より人々はこの地で、一体何をしてきたのか、またそれが歴史上どうなのか。このことを探求する以外に確信のもてるものはないのではないか。戦争とか災害とか貧困とかが、「暗い話」としてその資料が抹殺され、記録が歪曲され、人々の記憶からも消し去られようとしているときに、あえて「後向き思考」でいろんなことを再検討してみることでこそ、本当の意味での「明日への展望」が生まれる。郷土史がただ単なる「故郷自慢」ではなく、地方史として真剣な再検討がもし全国で始められたならば、世直しのうねりと必ずなりうる。こんな大きな希望をもつて、こんな小さな本をまた出した次第です。
2004年2月発行

編者注】
これで、がもう健の郷土史エッセー集「今昔西成百景」編は、完結です。引き続き、「今昔木津川物語」編と「がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記」編を投稿します。関係各位の資料提供などに感謝するとともに、今後のご愛読をお願いします。「今昔西成百景」全編は、リンクをクリックしてください。

今昔西成百景(047)

◎汐見橋線「木津川駅」

 かって、南海・電車の玉出駅と岸ノ里駅の間が極めて短く、不思議に思ったものであったが、これは運転手泣かせでもあったらしく、ベテランでも嫌がっていたと聞いたことがあった。

元南海各駅建設で地元貢献

 「西成区史」では、玉出駅の配置は地元勝間村からの熱心な希望があり、明治三九年駅舎設置の際には、駅敷地八四〇坪が村から南海に寄付された、としている。
 また、大正二年に設置された岸ノ里駅汐見橋線「木津川駅」についても、同村北部の発展上必要であるとし、付近地主が六千余円を南海に寄付したと記している。
 玉出駅も岸ノ里駅も共に地元からの熱心な要望により設置したもので、両駅の間が狭いのはあくまでも地元の事情で、南海としての責任はないということなのか。

本来は南海の絶対必要な駅

 しかし、もしあの岸ノ里駅がなかったとして、それでも電車はスムーズに運行ができたかといえば、それは大いに疑問だったと言わざるをえない。
 何となれば、岸ノ里駅の北方には高野線が急カーブしながら、上町台地を龍のように昇降する複線の線路があり、その間に大きな踏み切りもあった。また、汐見橋線から南海本線に下りてくる貨車専用の引き込み線が、駅の西側に複線で加わる。客車にも特急・急行・準急・各停・住吉公園までの各停などがそれぞれのダイヤで目まぐるしく走るというこの地点は、南海電鉄の総合的な司令塔が絶対に必要だったはずである。
 そもそも、岸ノ里駅が出来た当時には、汐見橋線はすでに今日のような、立体交差が出来るように高架化されていたのかどうかも、疑問である。どう考えてもあの岸ノ里駅が、地元からの強い要望がなければ、不必要な駅であったとは思えない。我々乗客も、岸ノ里駅のホー厶で、急行や貨車の列を優先させるための長い時間待ちを每回やらされていたが、あれがホー厶もないすし詰め電車の中でやれない事ぐらいは、誰にでもわかることである、岸ノ里駅建設当時の地元住代の巨額な南海への寄付は:歴史的に見れは、南海に大きな貸しをつくったことになるのではないか。

郷土史を知れば当然の要求

 今の岸里玉出駅は、今度は極めてホー厶の長い駅として、事情を知らない乗客に不審がられているが、実は、元の玉出駅と岸ノ里駅に新駅の南北の改札口を設けたからそうなっているのであり、西成区の住民にとってはあまり違和感はない。郷土史を知っておればこその、当然の住民の要求であった。
 最近、「南海電気鉄道百年史」という南海電鉄発行の社史を読む機会があったが、大企業というものは会社にとって不利なことは、記録としては残さないらしい。社史も「勝者の歴史」なのかと改めて認識させられた。もちろん、玉出駅、岸ノ里駅設置に際しての地元の貢献など
は一切書かれていない。

南海百年史にない貨物輸送

 「南海電気鉄道百年史」を読んで抱いた疑問の一つは、 南海の貨物輸诺の歴史については、資料以外には全くふれていないという点である。南海電鉄の発足は、乗客と貨物の輸送の二本足だったはずである。特に高野線と汐見橋線は貨物の比重は多かった。
 真つ黒に塗った大きな貨車が二十台も三十台も連結されて、電気機関車に引かれガタゴトと踏み切りを越えていく様子は、なにか不気味でさえあった。しかも、下りがやっと終われば今度はそれ以上に長い上りの貨車が来る。「開かずの踏み切り」は、このようにして戦前から存在していたのである。

戦争協力の歴史を抹殺か

 南海電鉄の貨車も、戦時中は当然のこととして、あらゆる軍需物資を頻繁に輸送していたはずである。
 私たち子供が、踏み切りで無邪気に貨車の数を読んでいたその中に、補充兵として最後に召集されて行ったお父さんの兵隊達が、閉じこめられていなかったであろうか。現に旧国鉄ではそうしていた。敗戦の年には「スパイ防止」の名目でこっそりと出征させて、家族の「千人ぱり」さえ許さなかったという。南海が社史の中に「貨車」については書かなかった裏には、戦争協力の歴史が存在するからではないのかと思わずにはいられない
 「歴史は繰り返される」ことのないように沿線住民の日常的な平和運動が重要になるのではないか。

貨物輸送の五十年を見た駅

 先日、 汐見橋線の木津川駅を紡れた。ホ—厶に立って西側の木津川の方を見てみれば、 川は見えないが川風は感じる。駅前の広場に雑草も含めた草花が生い茂りあちこちに、高さ二缶もあるようなカンナの緑の葉の中に黄色や紅色の大きな花が満開となっているのが印象的だつた。
 かってこの地は、木津川の土手を掘り、貨物船専用のバース(船繫ぎ場)をつくり、高野線と南海本線を木津川を上ってくる大・小の貨物船と結びつける、貨物の拠点基地として大いに賑わった街であった。明治三三年汐見橋駅と同時に開業し、敗戦後まての約半世紀を、 軍需品を含めてあらゆる物資を流通させてきた歴史のある埸所である、 今もホ—厶から目をこらして見てみると、パースからの引っ込み線のレールと、手動のポイント切り替えのレバーが残っているのを発見した。今はバースも埋め立てられ、落合上の渡船埸への連絡駅のような、「西成区でー番ひとけの少ない静かな場所」になっているが、郷土の歴史をしみじみと感じさせるところでもある。

今昔西成百景(046)

◎西成区名の由来に新説

 新たに行政区が誕生する場合に、地元で常に問題になるのが「新区名の選定」である。
 大正十四年の住吉区の埸合は、昔からの住吉大社があり問題はなかった、 同年の浪速区の時は、 最初に大阪市が示してきたのは「難波区」であった。しかし地元では、「字画複雑にして鼻音『ン』を挟みて発音不正確に流れ易き」として反対し、対案として「戎区」と「浪速区」の名をあげて再検討を求めた。戎神社と古事記にいう「浪速之渡」を根拠にしてのことだった。

「古事記」が由来の浪速区

 昭和七年の大正区の場合は、最初に市助役の提案として「新港区」という名が出された。住民は最初「三軒屋区」と「大正区」に変えて対案とした。
 一方、関市長は「市が道路名を付けるときその時の年号をとって、大正通りとか昭和通りとかすることはあるが、区名としてはどうか」ということであったが、最後にはみなが賛成するならと、大正区案に決定した,大正四年に完成していたァーチ型の名橋「大正橋」にちなんだ区名が定められたものであり、大正区にあるから大正橋ではないのである。

ア—チ型の名橋大正橋から

 さて大正十四年の西成区の場合は、最初の市当局の提案は「住江区」もしくは「住之江区」であったが、旧郡名の東成を残した「東成区」が生まれたために、西成郡名も残すべきだということで「西成区」の名となり、これが最終的に決定された。住民からは「今宮区」と「玉出
区」の二案が出され、相当争われていたのに、発表されたのはどちらでもなかったので意外であったという。
 「元来東成・西成の郡名は、奈良時代の元明天皇の和銅六年(七一三)郡郷の名は好字であらわしかつ二字を用うべしとされたことによって、これまでの難波大郡、難波小郡が東成・西成の郡名に改められたものである。そしてその際の境界はおおむね上町台地の屋稜線であった。しかし、当時の西成郡は小郡の名が示すように、その区域は未だ小であったが、年月が経るに従い、陸地造成並びに市街地の形成は屋稜線の東側より甚だしく、今日の大阪市の殆ど全区がこの地域に発達した。従って西成郡の区域としては必ずしも現在の西成区域にとどまらなかったが、大正十四年の大阪市編入当時、北部の西成郡諸町村が、東淀川区、西淀川区の両区に分割され、南部の諸町村においてこの由緒ある酉成の名を残すべしとされたためであった」と「西成区史」には記されている。

西方浄土を意味すると推理

 西成区史は現在の西成区が、西成郡の名を引き継いだ経過については述べているが、西成そのものの言葉の意味や歴史的背景などについては何も語っていない。住吉や浪速、大正の区名については、区名そのものの由来がある程度理解できるのに「西成」にはそれがない。そこで私はかって「西成とは西方浄土のことではないか」と推理をしたこともあった。

古代外国と往来した西の門

 ところが今回、大阪府史第二巻の中から「郡編成の諸類型」の一つとして「王権によって外交、交通、軍車などの要地に渡来氏族が配置され、それとの関連で渡来氏族を中心として編成された郡がある。その代表的な事例は、難波の中心地にある東生<ママ 成?>・西成の両郡である この地が外交上の要地であることはいうないが、六世紀代に朝鮮三国等との外交の必要から、この地に『吉士』一族を中心とする渡来一族が配置されたが、彼らはその後の郡大領・小領の地位を独占的に世襲している」との一文を発見した。
 これを根拠にして西成の由来を考えてみると、西成とは古代において内外の要人が出入りした、西の門ということになる。西方浄土という「あの世」ならぬ、「この世」での目的意識的につくられた政治的ゲートであったわけである。すなわち、例えば「新羅の国の特使西からの
お成り」ということだったのである。もちろん軍事上の要所という面もあり、事実「西城」とかかれたこともあったという。

みなおし郷土史の必要痛感

 これは「好字二字」どころではない。西成は古代における最重要地名の一つということになるのである。
 こんな大事な、そして地元にとっては面白そうなことを、長年にわたり行政の郷土史の担当者はなぜ発見できなかったのか。職務怠慢ではないかと、怒りさえ覚えるのである。
 「大阪の歴史」という、大阪市史編纂所長や大学教授等が執筆者になっている郷土史の本がある。教科書的にも使われ、相当数普及している。ところがちよっと見てみると、古代の大阪の章で天平二年(七三〇)に行基が建立した善源寺の所在地が西成郡津守村となっており興味をもったが、所在地の現在地名が大阪市西成区津守町となっているのをみて、腰が抜けるほどおどろいた。他の行基が同時期に建てた尼院、難波度院、枚松院、作蓋部院もすべて所在地は西成津守村で、所在地の現在地名が西成区津守町になっている。
 大阪市西成区津守町は天平年間にはいまだ海底にあり、元禄時代(一六八八)にやっと新田として造成されたところであるということ位は、大阪の郷土史の最低の常識ではないのか。奈良・天平時代に津守郷とよばれたところは淀川河口の大阪湾岸一帯を指し、現在の西成区津守町とは位置も範囲も別なものである。やはり「みなおし郷土史」の必要性が改めて痛感させられた次第である。

今昔西成百景(045)

◎阿部寺搭心礎石

 「阿倍野区松崎町二丁目三丁目の境界線近く、庚申街道西に現在松長大明神の小祠があるが、この付近にはかって側南北線上にニケ所の土壇があり、北の方形土壇には長さ三尺余(約九〇センチ)、幅二尺五寸余(約七六センチ)、厚さ一尺二寸(約三六センチ)の円形の凹穴を持つ礎石があって、南の土壇上には巨大な塔心礎が残っていたという。この地から白凰時代の複弁八葉蓮華文軒丸瓦と三重弧文軒平瓦が出上していること、付近に『阿部寺』『東・南阿部寺』などの小字名が残っていることから、従来、四天王寺式伽藍配置を持つ阿部寺跡に比定されている。この地に住んだ阿倍(安倍、阿部)氏の氏寺であろう。

一時不明に

 塔心礎は、昭和十年(一九三五)その地の所有者である高津久右衛門邸(当時は住吉区天下茶屋三丁目、現在は西成区岸里東一丁目)に移されたが、高津邸は第二次大戦後大阪市に寄付され天下茶屋公園となった。塔心礎は一時不明となったが再発見され、大阪府指定の考古資料として現在天下茶屋公園内に保存されている。
 心礎は、長径二・〇七メートル、短径ー・五メ—トル、高さ二〇センチ以上の花崗石の上面中央に径六一センチ、深さ一三・五センチの円孔を割り、さらにその中に径ー〇・ーセンチ、深さ八・ニセンチの舎利孔をうがったものである」(大阪市史 第一巻)
 「阿部寺は四天王寺の末寺で、礎石は約千百年前の白凰時代の五重の塔の礎石と思われる。大規模な上代寺院のおもかげを伝える重要な資料礎石である。(昭和四九年三月大阪府指定文化財考古資料第十二号)」(あるいて知ろう西成区)

安倍仲麻呂、 安保<ママ ?>晴明らの氏寺

 安倍家の先祖には「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」で知られる、唐で客死した安倍仲麻呂や、「恋しくばたづねきてみよいずみなる信太の森のうらみくずのは」で有名な、平安時代の中頃、阿倍野に住んでいた安倍保名や救った白狐が葛の葉という女になり、男の子を生み、安倍童子と名づけられ、やがて成長して安倍晴明という陰陽師になり、宮仕えして重用されるという話の主人公らがいる。晴明屋敷跡は現在、安倍野晴明神社になっている。
 大阪市は天下茶屋公園(是斉屋屋敷跡)にあった太閤秀吉愛用の井戸とか燈ろうが、ニセ物であったことがわかり、こっそりと看板をはずしていったのだが、ついでにこの阿部寺塔心礎石の表示板まで持っていってしまったから、今ではこの重要文化財も、無残にも大型ゴミ扱いされているのである。「太闇さん愛用の井戸」なるニセ物には、看板はないか今でも鉄のくさりでかこいをしているのだがそんな無意味なことはやめて、とりあえずそのかこいを、西成区で最古のしかも有型の文化遺産であるこの礎石にこそして守るべきである。
 大阪府指定の考古資料だから、大阪市の公園だからとつまらぬセクトを出して押しつけ合いをしていると、又、行方不明になりかねない。もうこれ以上のだまし合いはやめてくれ、が率直な市民の声だ。

今昔西成百景(044)

◎萩の茶屋

 今宮戎神社(浪速区恵美須西一丁目)は浜市での魚座の人々や近郷漁民たちに信仰された戎神社を祀る社である。一月十日の戎祭はこの神社の一年一度の大祭日。前日九日は宵えびす、翌日十一日を残り福といって昔から大いに賑わった。
 「浪華の賑ひ」(暁鐘成、一七九三— 一八六一)に、「四季の茶屋 白酒屋 卯の日餅 朝日野茶漬 又は菓 饅頭菓子 饂飩蕎麦 切酢 煮売屋其余種々の食物小間物あげて枚ふるに隙なし」と、十日戎の人出のさまを記している。
明治の初めころまでの今宮戎参拝は、萩の茶屋で知られた広田神社(浪速区日本橋西二丁目)への参拝でもあり、また、隣接する木津村の大国社参拝をもって、七福神信仰ともつながっていた。
 広田神社は、かって四天王寺の鎮守であり今宮一帯の土産神(うぶすな)であった。江戸時代から桜と萩が多く、なかでも紅白二種の萩は有名であった。「おとしものひろたの森の萩のはな人の袂にうつりこそせめ」の狂歌とともに、「摂津名所図会大成」(暁金成)に「近年境内に桜樹を多く植て殊更に美景なり」とある。

西成は萩の茶屋南店

 広田神社前の茶屋は淡路西浦の八太夫という人が始めたと伝わるが、こうした境内の景観や庭内の萩によって大いに繁昌したという。この茶屋がのちに紀州街道の南、現在の西成警察署のある通りに「萩の茶屋南店」をだし、いずれも庭園に萩が植えられ、旅する人の目を楽しませたという。
 「摂津名所図会大成」に、「茶屋には萩あまたありて、中秋の花盛りには貴賤うちむれて甚だ賑わし、今宮の萩とて年久しくこれを賞せり」とある。
 南海萩の茶屋駅から国道二十六号線まで、東西にのびている花園北通りは、また萩の茶屋商店街と鶴見橘商店街を結ぶ花園北通商店街ところでもあった。かって津守一帯での造船、鋼鉄、金属の各企業が盛況であったころには、商店もめじろ押しにあってにぎわっていた。

萩の茶屋ゆかりのひと

 今から十年位前までは、この商店街の、国道から東へ四・五軒入った北側に、津田古本屋があり、名物の主人が丸顔をほころばせていつも出向えてくれた。日本共産党の演説会にもよく来て下さった津田氏は、貴重な古本がいまどこの図書館や大学の研究室にあるかをよく知っていて、生字引だと、開店前から関係者が待っているとの伝説の主だが、親類に著名な文学者もおられたことだから、うなづける面もある。生前にもっといろいろと教えてもらっておけばと、いつもくやまれる。
 津田古本屋の東へ十軒程いったところで、私の父が三十年位前まで、小さなすし屋をやっていた。「いずみずし」といって、当時一皿二十円で西成で最後まで
がんばったうちの一軒だった。ネタはうすいが、味はよかった。
 父は戦前は公務員をやっていたが、恩給がつくようになるとさっさと脱サラして、戦後は最初の十年間は飛田遊廓の北門近くでくしかつ屋をやり、次の十数年は萩の茶屋ですし屋をやった。器用貧乏であった。
 私は親子二代にわたって西成でお世話になっているわけだが、少年時代に体験したこの地域での思い出が、今でも鮮明だ。

区役所の指示通り団結せよとは

 さて、西成区の区花は「萩」と決まった。萩の茶屋にちなんでだが、萩は小さな花が団結しているのがよい、というのが区側の説明であった。
 区役所か学校に申請して認定されると、小・中学校で必要な学資の一部が支給される就学援助制度について、今年から市は窓口を学校長のみに限るやり方を一方的に押しつけてきた。二十年来の慣行を破るものである。そして区役所に寄せられた千件近い申請書をそれぞれの申請者へ、一通八百円の配達証明付で不当にも送り返してきた。異例、異常な行政の姿勢である。これでは「団結」をだしにされた萩の花もしぼんでしまうというものである。

今昔西成百景(043)

◎天神の森天満宮

 阪堺線天神の森停留所の西側に、天神の森天満宮はある。線路にそってひろがる境内のもう一方のはしは旧住吉街道に面しているが、数軒の商店などが道路ぎわにあるので、神社は少し入りこんでいる。

樹齢六百年の森

 境内にある樹齢六百年と推定されるくすのき(十三本が大阪市保存樹林に指定されている)は、大きなもので高さ十八メートル、幹回り四メートルあまりもあり、西成区における唯一の森である。
 拝殿の前に立っていると、聞こえてくるのは鳥の声と神社の人が落葉をはきよせる音。ときたまに阪堺線のレールのひびき、チンチンという発車の合図。踏切の警報機の音は高いが、それがやむと静けさがかえって前より深く感じるのが不思議だ。ゆっくりとすぎてゆく時間に合わせて、境内を散策すると、落ち葉焚きの匂いと煙が不意に昔のことを思い出させる。

阪電のたたずまい

 ここは京都の嵐電(京福電鉄嵐山線)や鎌倉の江ノ電(江ノ島鎌倉観光電鉄)の沿線にある古い神社や佛閣のたたずまいにひってきするものがあり、こんな貴重な環境を残してくれている人々に、心から感謝したいと思う。
 大阪市は保存樹の指定はするが、後の管理は個人まかせにされる。毎日の落葉の処理だけでも大変な仕事になる。普通の樹木とはひとけたもふたけたも、落葉の量がちがうのである。
 森林浴の関係もあるのか、つかれたときに十分か十五分、こもれびの中に身をひたすだけでも、心身共ににリフレッシュできる。都会のどまんなかで、オアシスの役割を果たしてくれるこの天神の森天満宮を、地域の宝として大切にしなければと思う。

秀吉の空手形

 「大阪史蹟辞典」(清文堂)によれば「紹鴻の森の天満宮は祭神は菅原道真。社前に子安石のあるところから子安天満宮ともいわれ安産祈願で有名だった。淀君が懐妊したとき、堺の政所(奉行所)に往来していた豊臣秀吉も立ち寄り、無事男子秀頼の出産のため大喜びで寄進し、淀君もお礼参りに訪れたといわれる」となっているが、神社の由緒略記によれば「安らかに秀賴公の出産を見られたことにより、社地一町四方その他神田]を寄進されたが、大阪の陣で御朱印焼失し、延宝検地改めのとき申し出たが認められず、現在の境内地となった」と記されているのもおもしろい。
 「大阪史蹟辞典」は「社前の石牛は住吉の名工細井丈助の作。明治四十二年
(一九〇九)南区法祐寺にあった火除天神を合祀している。境内西の大鳥居傍に建つ「紹鴎の森碑」は芽木家が建てたもの。字は芽木四世昌包の筆。また傍に宝塔が二つ並んでいて、大きい方が「天下
茶屋仇討」の悪人、当麻三郎右衛門の墓だと伝えられるが、これは単なる風説である」
 神社の由緒略記にはまた「茶道中輿の祖、武野紹鴎がこの森の一隅に茶室をつくり、風月を友として暮らしたので『紹鴎杜』と云われている。紹鴎は若くして京都にでて歌道を学び、歌道の奥義をきわめることによって、茶道の極意を感得し、茶名を紹鴻と定め、わびの境地をもって茶道の理想とした。晩年の門人に千利休がいる。秀吉公が堺政所への往来の途中、天満宮西側の茶店で休息、この付近の風景を賞したことからこの地を殿下の茶屋—天下茶屋と称するようになり、当社も『天下茶屋天満宮』と呼ばれるようになった」
 「中世には、天神の御霊神としての性格はうすれ、学問の神として各地に天神さまをまつる天満宮・天神社がつくられた。

菅原道真休息の地

 天神の森天満宮は、道真公が筑紫へ左遷されるおり、住吉明神へ参拝の途中この地に休息され、その後村人によって祠が建立され、応永年間(一三九四— 一四二八)に京都北野天満宮の御分霊を奉斉したと伝えられている。
 現在の本殿は元禄十五年(一七〇二年)七月、拝殿は昭和十二年に建設されたものである」とある。

今昔木津川物語(031)

◎天下茶屋俘虜収容所百年

 明治三七年(ー九〇四)二月、日露《にちろ》戦争が勃発したが、この戦争は、朝鮮と中国東北部の支配をめざす、日露双方の側からの帝国主義戦争であった。
 日本軍の主力である乃木希典《のぎまれすけ》のひきいる第三軍は、八月中に旅順を陥落《かんらく》させるはずであったが、一五五日間の戦争で、日本軍一三万のうち、約五万九千人が死傷し、旅順|要塞《ようさい》は屍《しかばね》で埋まるという激戦となった。
 旅順が一月一日に陥落したのち、旅順要塞に籠城《ろうじょう》していたロシア兵二万人余が俘虜として日本に送られ、大阪は浜寺の南、高石村と西成郡天下茶屋に収容された。

ロシア兵六千人を収容

 元陸軍予備病院今宮分院に、大阪天下茶屋俘虜収容所との標札を掲げたが、その場所は、南海天下茶屋停留所のやや北斜向い、即ち軌道の西側畑の中の約六万坪、その周囲は杉板塀をめぐらし、庁舎は平家建六十棟の他に事務所、繃帯《ほうたい》交換室、調剤室、手術室、厨房《ちゅうぼう》、衛兵、憲兵等の附属庁舎があり、飲料には上水道を用い、電灯、電話もひいたという。

自炊か給食かで騒動

 三千名の先着隊が入所して数日後に、一つの騒動が起こった。最初のうちは給食を出していたが、二月十五日より俘虜中二十名を料理人として、自炊させることとなった。ところが、料理人にされた者の中から不満が出て、ついには申し合わせて自炊を拒否。監督将校は通訳を通して種々説得するも頑《がん》として聞かず、俘虜中班長も料理人に殴打されるありさまで、四十三名が営倉《えいそう》に入れられたが、尚自炊を聞き入れず、やむなく従来の通り給食を行わざるをえなかった。日本軍の中には、彼らが自炊するまでは干乾《ひぼ》しにせよと云う者もあり、一時は騒然となった。

名通訳が現れ一件落着

 三千名の先着隊が入所して数日後に、一つの騒動が起こった。最初のうちは給食を出していところが、問題解決のカギは軍の中に存在した。歩兵第八聯隊補充大隊より、同収容所に派遣した衛兵中十三才の時よりロシアに在留した一兵卒がいることがわかった。試みに同人に通訳させることにし、先ず彼らに自炊させる目的を明らかにさせた。俘虜自らが炊事をすれば、口に合ったものが食べられる。人件費が節約できその分分量も多くなる。いずれは食パンも俘虜の中で心得のある者につくらせる。などくわしく説明させたところ、彼等一同は日本側の意図を了解し、自炊を快諾《かいだく》した。今まで執拗に自炊を拒否していた五百名の者も翌朝自炊を申し出て、今後我等への連絡は今回のように、詳細明瞭《しょうさいめいりょう》に通知されたしとの意味を加えて解決したという。

祖国の革命情勢が影響

 しかし当時、俘虜達の祖国ロシアでは、首都ペテルブルグの労働者が、皇帝に生活の苦しみを訴えるために宮殿にむかって行進すると、軍隊は無抵抗の民衆に突然発砲し、雪の広場を血で染めた。「血の日曜日」とよばれたこの事件はロシア第一次革命のきっかけとなった。農民は各地で蜂起し、労働者はゼネストでたたかった。六月にはオデッサで、工場のゼネストに呼応し、戦艦《せんかん》ポチョムキンの水兵が革命旗をかかげた。俘虜となった口シア兵たちが、この祖国での革命的情勢に影響を受けていないはずはない。いやむしろ、旅順要塞の攻防戦にかりだされ、厭戦《えんせん》・反戦の気持ちは一層高まっていたのではないか。
 彼等は組織的に収容所での待遇改善闘争に立ち上がり、上手な通訳の出現をきっかけにして、ここらがしおどきとばかりに、闘争の終結をはかったのではないか。犠牲者を出さずに、日本軍を交渉に引き出し、今後の交渉も約束させた。一方、俘虜の中での兵士の力を強めることも出来て、闘争は成功した。
 天下茶屋では三月に入り俘虜の数は、六千人余となった。

国内は増税と不況の嵐

 一方日本の国内では、政府は開戦直後の三月に、地租、所得税をはじめ、たばこ、砂糖、塩への税にいたるまでの増税を行い、十一月には印紙税、相続税などをつけくわえて第二次の増税をした。政府はさらに国債を発行して強制的に割り当て、それでも足りない分は米・英での外国債でまかなった。増税につぐ増税、献金や公債わりあて、物価の上昇で不況が深刻化し、京都西陣では 五千人もの窮民《きゅうみん》がでた。

君死にたもうことなかれ

 夫や肉親を戦争にかりたてられたものの悲しみは大きかった。歌人与謝野晶子は旅順口包囲軍に在る弟によせて「君死にたもうことなかれ」という詩をつくり「旅順の城がほろびずとも何事ぞ」とうたい、 国家のために命をささげよという宣伝に反発する女性の心を示した。
 百年も前にここ西成で、こんな国際的な事件のあったことを知る人は少ない。

編者注】
 カラー写真は、現在(2024年10月撮影)の天下茶屋駅西口にある「俘虜収容所」跡の碑。文面の「人道上の立場を踏まえ俘虜を手厚く扱」ったかどうかは定かではありません。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第8回、第9回

◎「北野天満宮」道真も権力闘争の当事者

 「菅原道真は清廉で有能な正義の人。政治的陰謀によって左遷されその地で死んだという、神社の沿革が正確なものかどうか」大鳥居をくぐって次郎はさっそく友子に話しかけた。「道真は官僚としてだけでなく、父祖の経営してきた私学の長でもあった。この学校から官吏登用試験の合格者が多数出たので、学会の連中にとっては大いに目障りだった」
 次郎はつづける「彼は在任十年にして、突然讃岐守として四国に転勤させられる。妻子を京都に残して単身赴任した。そして現地は旱魃《かんばつ》で苦しんでいるのに、彼の顔は常に京都の方を向いていた。四年の任期をおえて帰京すると、新帝の宇多天皇は文人を重用し、道真は目覚ましい出世をしてゆく。そして五十五歳でついに左大臣に次ぐ要職である右大臣にまで昇りつめた。その間に彼は私学の一門を各官庁に配置し、一方帝の後宮には女御として娘たちを入れ、藤原家に匹敵する政治的な布陣をひき、次の醍醐天皇の治世になると左大臣、藤原時平と並んで政権を二分するに至った」
 「しかし道真は負けた」と友子。
 「道真の大宰府への左遷は天皇と時平で秘密に決めた。名目的には降等であって、処罰処置ではあるが、高級官僚であることには違いはなく、流罪とは違う」次郎はつづける。「自分たちの派閥で中央をかためてしまうことが目的で、道真だけでなく彼の息子たちや派閥の代表たちも一斉に追放された。しかしそれでは仕事が進まないので、数年後には追放者たちを都に戻して前官に復帰させたが、この時期まで生き長らえなかった道真は甚だ不運だったことになる」次郎はつづける。
 「実は、前の天皇である上皇は現天皇に反感をもち、帝位を天皇の弟の親王にゆずらせようと秘密で計画を立て、その計画の中心人物が親王の夫人の父親である道真であった。天皇からすれば道真は謀反人ということになる」「しかも、時平の反対派だった時平の弟の忠平は神経戦として盛んに道真の悲惨な末路の宣伝を行い、これが効を奏したのか時平は三十九歳の若さで病死。天下は忠平に移る。忠平の妻は道真の姪であり道真が実子同様に育てた女だったことを考えれば、一方的に時平の陰謀に乗せられた正義の士、菅原道真というイメージも大きくかわってくるのではないか」
 「どっちもどっちだったのね」
 最後に次郎が結論的に「なぜこれだけ天満宮がひろまったのか。怨霊に対する恐れもあると同時に、怨霊を手厚く祀りこれを己の庇護神とすることができれば、その恩恵もまた絶大であるとする、きわめて、特色ある考え方が日本にはあつた。忠平の例がその典型であろう」
 「怨霊も利用されるのね」と友子。
 「梅林の蕾もまだまだ固そう。認知症の兄が『もう一度、北野の梅が見たい』とせがむのだが。草津からの電車の旅を思うと不安があるし…」
 「一緒に行きましょう」と友子はいつもやさしい。

大阪きづがわ医療福祉生協機関「みらい」 2016年10月、11月号
写真は、「Wikipedia 「北野天満宮」より

今昔西成百景(042)

◎仮説、殿下茶屋の前からあった天下茶屋

 紹鴎別荘跡地という、すでに解明済の解釈を読売新聞がもち出してきたということは、市が発表に際して「二つの天下茶屋跡」問題を避けるため、あえて紹鴎別荘跡地として発表したのか、新聞社が独自の調査で明らかにしたのかは不明だが、もし新聞社の独自調査の結果ということになれば、大変おもしろい問題がでてくることになる。
 紹鴎別荘地といってももちろん紹鴎の二代目武野宗瓦の時代のことである。

武野宗瓦の受難

 「大阪史蹟辞典」(清文堂)には「しかし武野家は紹鴎が五十四オで没してからは、数奇な運命をたどる。武野宗瓦は、父の門人らに支えられ茶道の才能も父優りといわれ気骨と品位に恵まれた人だが、坊ちゃん育ちにつけこまれ、まず二十五才のとき織田信長に父の遺品「紹鴎茄子」と「松島茶壷」の名器をとりあげられた上に追放処分となり、紹鴻の森に隠棲する。本能寺の変で信長が急死したため、二十九オでやっと茶道の宗家を継いだものの、天正十六年には豊臣秀吉に「備前水こぼし」「茄子盆」など父の秘蔵品すべてを没収され、再び追放となる。宗瓦は不遇のまま慶長十九年(一六一四)六十五オ病没するが、その場所は定かではないという」とかかれている。

城一つ茶器一つ

 宗瓦は二十九オより秀吉に追放される四十オまでの十一年間、紹鴻の森で父の跡を継ぎ茶店をだしていたのか。この間、秀吉は大阪城の築城を始め、太政大臣となり、九州を平定、北条氏をほろぼし全国を統一し、名実共に天上人となつていくわけだが、千利休を通じて武野紹鴎の茶店(当時の当主は宗瓦)へは一度も行かず、近くの芽木家にのみ足を止めていたとはとうてい考えられない。むしろ紹鴎の茶店(別荘)にしばしば立ち寄っているなかで、何かで秀吉が宗瓦に因縁をつけ追放し、全財産を没収した。それは城一つに匹敵するといわれていた茶器の名品の数々であったはずである。数年後、秀吉は同じようなやり口で千利休に切腹を命じている。
 秀吉が芽木家で、井戸に「恵水」の名と玄米三十俵を与えるという人気とりを行ったのは、恐らく紹鴎の森との名前までつけ、地元で人望の厚かった武野家を取りつぶした悪評をごまかすための、手のこんだ作戦であったと思われる。

日本一とは不遜なり

 それではいったい、秀吉は武野宗瓦の何に因縁をふっかけていったのであろうか。私はそれは当時すでに紹鴎の茶店が、世間では「天下茶屋」と呼ばれていたことではないかと推測する。紹鴎は茶の大衆化をはかるため、往来の人に無料でふるまったので「布施茶」といわれ大評判となり「日本一の茶店」といわれていた、と伝えられている。
 日本一、すなわち天下一、天下茶屋とは何ごとか、不遜なり、と何も紹鴎や宗瓦が自ら名乗ったわけでもないのに、追放処分・茶器没収である。独裁者のよく使う手である。

殿下茶屋否定説もあった

 明治三十二年発行の「南海鉄道旅客案内」のなかにこんな文章がある。「紹鴎の森ともうしまして、茶人紹鴎の旧棲の地であって、豊臣秀吉が堺の政所へ往来の時、この紹鴎の茶店に輿をとめ、風景を賞したことから天下茶屋の名が残っているという伝へですが、否、その以前すでにこの地名があったのだという両説があって定かではありません」以上。
 天下茶屋という地名は、正式なものとしては明治の頃まではなく、その後も先の地名の大規模な変更まではごく限られた地域の名称であったのに、通称としては江戸時代から、今の西成区のほとんどをもうらするものになってきたのは次の三つの要因があったと考えられる。
一、紹鴎の茶店の「日本一」
二、太閤秀吉の「殿下茶屋」
三、そして全国的にひろげたのは、後世、歌舞伎や映画、吉川英治の小説にもなった「天下茶屋の仇討」である。新しくつくられる天下茶屋史跡公園が、ゆめゆめ太閤秀吉一色にならないよう、厳しく注文を付けておきたい。

編者注】
 これで、「天下茶屋」の地名の由来をめぐる話題をひとまず終了します。また、武野紹鴎、是斉屋をめぐる「なぞ」が、すべて解けたわけではありません。より大胆な仮説が提起され、検証されることを期待します。

今昔西成百景(041)

◎天下茶屋史跡公園

 読売新聞平成八年四月十七日付夕刊に「天下茶屋に史跡公園、大阪市計画、日本庭園や茶室,太閤さんしのぶ茶会も」という見出しで次の記事がのっていた。
 「大閤さんが茶の湯を楽しみ、にぎわったことから地名がついたとされる大阪市西成区天下茶屋地区に、大阪市が史跡公園をつくる計画をすすめている。茶室を建てて市民に利用してもらうほか、当時をしのぶ茶会も開く予定だ。世は期せずして豊臣秀吉ブーム。市は『数年来の計画で、ブ—ムに便乗したのではないが、新名所にできれば』と期待している。
 天下茶屋地区は、西成区天下茶屋一-三、岸里東一ーニなどの一帯にあたり、江戸時代の地誌などによると、茶の湯の大成者、千利休(一五二ニー九一)の師である武野紹鴎(一五〇四—五五)の別荘が岸里東二の旧紀州街道近くにあった。秀吉も住吉大社や堺に出向く際にここに立ち寄って、茶の湯を楽しんだとされ、一帯には茶屋が集まっていたことから、その後、天上人と呼ばれ秀吉にちなんで『天下茶屋』の地名が付いたという。計画は、地域の茶道愛好家らが年一回、野だてを楽しんでいる紹鴎の別荘跡地周辺約千五百平方メートルを公園にする。一帯は、空き地や文化住宅で、市は所有者と交渉を進め、今年度中に買収する予定。公園には日本庭園や茶室を作り、別荘のそばには秀吉が『恵みの水』と名づけた泉があったとされることから、茶室前に池を配置して再現、三年後の完成を目指す」というものである。

市の史跡公園第二号に

 最近、市建設局公園課に確かめたところ、用地は七三〇平方メ—トルと新聞発表より小さくなっていたが、今年度中に用地買収をおわり、平成十年度には完成するとのことであった。大阪にゆかりのあった人物の跡地を整備する計画の一環で、天下茶屋が市の史跡公園第二号になるだろうとのことだ。
 「天下茶屋史跡公園」をつくるために、市は天下茶屋公園の「史跡的部分」がじゃまになって、この際とばかりまっさつしたのであろう。公園ができることは結構なことであり、ぜひとも天神森天満宮の縁とつながる、紹鴎の森を思いおこさせるものにしてほしいもの である。

武野紹鴎別荘跡地か…

 新聞発表で気になったことに、用地の面積がその後の市の話とちがうことと、史跡公園予定地が芽木家跡ではなく、武野紹鴎の別荘跡地となっている点である。
 「大阪史蹟辞典(清文堂)には「室町時代末期の茶匠、武野紹鶴は北勝間新家に良水を求め茶室を設けた。その頃大阪から住吉大社へ通じる住吉街道はこの付近で大きな森に妨げられていた。そこで紹鴎は私財を投げ売ってこの森を二つに裂き街道を通すことに成功。人々は感謝してこの社を紹鴎の森と呼ぶようになった。紹鴎は茶の眼目に『和敬静寂』の理念を説いた反面、雪舟や一休の筆墨はじめ高麗茶碗や天目茶碗などの名器を収集し、その鑑識眼は大変なものだったという。また門人に千利休など茶道史の傑物がいた」とかかれている。
 武野紹鴎は弘治元年(一五五五)五十四オで没したとされているが、当時秀吉は十八才、まだ足軽の時代で、茶の湯を楽しむには早すぎる。今までも攝津名所図会大成に「住吉名所図会に豊臣秀吉公此茶店において茶人紹鴎をめして御茶きこしめされしより天下茶屋の名はじまれり、とあるが誤りなり。秀吉公世を治め給ふ天正の中頃より三十年も前に紹鴎は亡き人となれり。紹鴎森があるので作ったもので信用すべからず」とくぎをさされているのである。
 読売新聞の記事が、現場をみれば「芽木家跡」であることは一目瞭然に判るはずで、わざわざカラー写真までのせているのに、あえて「武野紹鴎別荘跡地」としたのには別に何か意図があるのか。私がひそかに抱いてきた一つの疑問と、それは関係づけられるものか。