◎天下茶屋俘虜収容所百年
明治三七年(ー九〇四)二月、日露《にちろ》戦争が勃発したが、この戦争は、朝鮮と中国東北部の支配をめざす、日露双方の側からの帝国主義戦争であった。
日本軍の主力である乃木希典《のぎまれすけ》のひきいる第三軍は、八月中に旅順を陥落《かんらく》させるはずであったが、一五五日間の戦争で、日本軍一三万のうち、約五万九千人が死傷し、旅順|要塞《ようさい》は屍《しかばね》で埋まるという激戦となった。
旅順が一月一日に陥落したのち、旅順要塞に籠城《ろうじょう》していたロシア兵二万人余が俘虜として日本に送られ、大阪は浜寺の南、高石村と西成郡天下茶屋に収容された。
ロシア兵六千人を収容
元陸軍予備病院今宮分院に、大阪天下茶屋俘虜収容所との標札を掲げたが、その場所は、南海天下茶屋停留所のやや北斜向い、即ち軌道の西側畑の中の約六万坪、その周囲は杉板塀をめぐらし、庁舎は平家建六十棟の他に事務所、繃帯《ほうたい》交換室、調剤室、手術室、厨房《ちゅうぼう》、衛兵、憲兵等の附属庁舎があり、飲料には上水道を用い、電灯、電話もひいたという。
自炊か給食かで騒動
三千名の先着隊が入所して数日後に、一つの騒動が起こった。最初のうちは給食を出していたが、二月十五日より俘虜中二十名を料理人として、自炊させることとなった。ところが、料理人にされた者の中から不満が出て、ついには申し合わせて自炊を拒否。監督将校は通訳を通して種々説得するも頑《がん》として聞かず、俘虜中班長も料理人に殴打されるありさまで、四十三名が営倉《えいそう》に入れられたが、尚自炊を聞き入れず、やむなく従来の通り給食を行わざるをえなかった。日本軍の中には、彼らが自炊するまでは干乾《ひぼ》しにせよと云う者もあり、一時は騒然となった。
名通訳が現れ一件落着
三千名の先着隊が入所して数日後に、一つの騒動が起こった。最初のうちは給食を出していところが、問題解決のカギは軍の中に存在した。歩兵第八聯隊補充大隊より、同収容所に派遣した衛兵中十三才の時よりロシアに在留した一兵卒がいることがわかった。試みに同人に通訳させることにし、先ず彼らに自炊させる目的を明らかにさせた。俘虜自らが炊事をすれば、口に合ったものが食べられる。人件費が節約できその分分量も多くなる。いずれは食パンも俘虜の中で心得のある者につくらせる。などくわしく説明させたところ、彼等一同は日本側の意図を了解し、自炊を快諾《かいだく》した。今まで執拗に自炊を拒否していた五百名の者も翌朝自炊を申し出て、今後我等への連絡は今回のように、詳細明瞭《しょうさいめいりょう》に通知されたしとの意味を加えて解決したという。
祖国の革命情勢が影響
しかし当時、俘虜達の祖国ロシアでは、首都ペテルブルグの労働者が、皇帝に生活の苦しみを訴えるために宮殿にむかって行進すると、軍隊は無抵抗の民衆に突然発砲し、雪の広場を血で染めた。「血の日曜日」とよばれたこの事件はロシア第一次革命のきっかけとなった。農民は各地で蜂起し、労働者はゼネストでたたかった。六月にはオデッサで、工場のゼネストに呼応し、戦艦《せんかん》ポチョムキンの水兵が革命旗をかかげた。俘虜となった口シア兵たちが、この祖国での革命的情勢に影響を受けていないはずはない。いやむしろ、旅順要塞の攻防戦にかりだされ、厭戦《えんせん》・反戦の気持ちは一層高まっていたのではないか。
彼等は組織的に収容所での待遇改善闘争に立ち上がり、上手な通訳の出現をきっかけにして、ここらがしおどきとばかりに、闘争の終結をはかったのではないか。犠牲者を出さずに、日本軍を交渉に引き出し、今後の交渉も約束させた。一方、俘虜の中での兵士の力を強めることも出来て、闘争は成功した。
天下茶屋では三月に入り俘虜の数は、六千人余となった。
国内は増税と不況の嵐
一方日本の国内では、政府は開戦直後の三月に、地租、所得税をはじめ、たばこ、砂糖、塩への税にいたるまでの増税を行い、十一月には印紙税、相続税などをつけくわえて第二次の増税をした。政府はさらに国債を発行して強制的に割り当て、それでも足りない分は米・英での外国債でまかなった。増税につぐ増税、献金や公債わりあて、物価の上昇で不況が深刻化し、京都西陣では 五千人もの窮民《きゅうみん》がでた。
君死にたもうことなかれ
夫や肉親を戦争にかりたてられたものの悲しみは大きかった。歌人与謝野晶子は旅順口包囲軍に在る弟によせて「君死にたもうことなかれ」という詩をつくり「旅順の城がほろびずとも何事ぞ」とうたい、 国家のために命をささげよという宣伝に反発する女性の心を示した。
百年も前にここ西成で、こんな国際的な事件のあったことを知る人は少ない。
編者注】
カラー写真は、現在(2024年10月撮影)の天下茶屋駅西口にある「俘虜収容所」跡の碑。文面の「人道上の立場を踏まえ俘虜を手厚く扱」ったかどうかは定かではありません。