がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第16回、第17回

◎仏光寺《ぶっこうじ》と後醍醐《ごだいご》天皇の思惑

 今日は京都市の中心地にある大寺、仏光寺《ぶっこうじ》にやって来ました。「真宗仏光寺の本山。建暦二年(一ニニ二)越後|流罪嗷免《るざいほうめん》後の親鸞聖人《しんらんしょうにん》が山科にー宇《いちう》を創建。順徳天皇より興隆正法寺の勅額《ちょくがく》を賜ったのが起こり。嘉歴《かりゃく》二年(一三二七)七世了源の時、本尊が端光《ずいこう》を放って時の後醍醐《ごだいご》天皇の皇居を照らした、という縁から、阿弥陀仏光寺の勅額を賜り、寺名を仏光寺と改め東山渋谷に移したという。天正十四年(一五八六)豊臣秀吉が、大仏殿方広寺を建てるため、寺地を請われて現在地に移った。境内地は約二万平方メートル、境内の諸堂宇は幕末の兵火以後の再建である」と資料参照。
 友子「ひとつ気になるのが、後醍醐天皇に『寺の本尊が端光を放って皇居を照らした』と申し出て、仏光寺という勅額を賜り寺名を改めたと云うのだけど。なにか裏があるの」
 次郎「瑞光とは、目出度い事の兆しを現わす光。当時は後醍醐天皇が無謀にも天皇親政の復活を夢観て、最初の倒幕計画は事前に発覚して失敗したが再度の計画を立て、奈良東大寺、比叡山、円城寺、高野山、播磨の大山寺、伯耆の大山、越前の平泉寺などに檄をとばし非常に備えていた時期だ。了源の動きもそれらの情勢とは無関係であるまい」
 「なんだか生臭い話なのね」「時の権力者にとっては神社仏閣はその大小を問わず、全て『出城』の感覚だかね。一旦事あれば兵舎に早変わりするんだよ」
「昔はね…」「いや、昭和二十年八月十五日(ー九四五)の敗戦時まで基本的には同じ扱いだったと思うよ」友子が「だから憲法上の政教分離の原則は大切なことなのね」とうなづく。
 次郎「この際京の通り名について勉強しておこう。碁盤の目のように整然と区画されている洛中(市の中心部)は、一般に町名より東西と南北の通称名で云われることが多く、また慣れてくれば通称名の方がわかりやすい。例えば仏光寺の場合、高倉通仏光寺下ル新開町とあるが新開町が正式な町名。髙倉通仏光寺下ルが通称である。高倉通が南北の通り、仏光寺が東西の通り、下ルは南に行くこと。反対は上ルで北に行くこと。これは市中を流れる鴨川のながれによっている」
 なお、東西の通りは京都駅から北に、塩小路・七条・北小路・正面・花屋町・六条・五条・万寿寺・松原・高辻・仏光寺・綾小路・四条・錦小路・蛸薬師・六角・二条・姉小路・御池・押小路・二条。
 南北の通りは、東から西へ、寺町・御幸町.越屋町・富小路・柳馬場・堺町・高倉・間之町・東洞院・東屋町・烏丸・両替町・室町・衣棚・新町となっている。
 「お兄さんの認知症の症状はどうなの」「最近は三日に一度は『暴言』を吐いている。突然に激怒するのでおどろくよ」「何のことで?」「衣食住全般」「どうしてるの」「冷静に話合つて最後は八グするけど…」「また話、聞かせて」「ありがとうバイバイ」

大阪きづがわ医療福祉機関紙「みらい」2017年7月、8月号掲載

編者追加】
 京都は、東西は「通り」、南北は「筋」と称します。町筋の名前をわらべうた(てまりうた)にしたものが、

まるたけえびすにおしおいけ(丸・竹・夷・二・押・御池)
あねさんろっかくたこにしき(姉・三・六角・蛸・錦)
しあやぶったかまつまんごじょう(四・綾・仏・高・松・万・五条)
せきだちゃらちゃらうおのたな(雪駄・魚棚)
ろくじょうさんてつとおりすぎ(六条・三哲)
ひっちょうこえればはちくじょう(七条・八・九条)
じゅうじょうとうじでとどめさす(十条)

です。南北もあることはありますが、略します。
 因みに、当方が生まれた所(母が亡くなるまで本籍)東中筋五条上がる天使突抜二丁目でした。東中筋は、筋と言っても西洞院通の西にある狭い路地でした。生誕記念碑が建つ?(わきゃないわな、てんごいうたら、あかしまへんえ 笑)

今昔西成百景(029)

◎元西成寮(松通り)

 「本寮は近時まで存在していたが、昭和四二年七月廃止となった。はじめ更生施設として昭和二三年三月一日定員二〇〇名として開設をみたが、翌五月二棟を増築し定員四八〇名に増加した。そして二四年九月より病弱対象者専用更生施設となり、毎週火曜日梅田厚生館を経て収容し十分な生活指導を行い、健康回復すれば健康者施設に移すなりあるいは就職退寮等の社会復帰を図るよう指導しつつあった。敷地五八四八平方メートル建物ー八二八平方メ—トル」(西成区史)

跡地に松通保育所・集会所・公園

 元市立西成寮を知らない人は多いが、現在の梅南橘集会所、松通保育所、西成児童舘、松通公園がその跡地に出来ていることを知れば、親しく感ずる人も多いのではないか。
 ー九六〇年代後半から七〇年代前半が、わが国の革新運動の高揚期の一つだどいわれるが、大阪においても黒田革新府政の誕生(ー九七ー)、西成においても日本共産党市会議員の初当選(ー九七一・四方棄五郎氏)を準備するたたかいの時期に、西成寮跡地利用の問題が浮上してきた。
 日本共産党は地方選挙の公約に「西成寮跡地には、保育所・集会所・公園の建設を」とかかげた。私も初めての府会選挙を「ポストの数ほど保育所を」と訴えた。また、それまで西成には公立の集会所は一つもなく、区役所の講堂を借りることなどは至難の業であった。ついには区内の多くの団体からも、ほぼ同じような要望が出されて、大きな区民運動になっていった。

住民運動の先頭に立った人

 その中でも、当時西成民主商工会の事務局の松本武夫氏や、新日本婦人の会の役員で跡地近くに住んでおられた本間のぶえさん等の奮闘ぶりは忘れられない。松本氏はその後、正森成二代議士の在阪秘書として活躍し、現在は旅行会社の社長として健在なり。本間さんは残念ながら平成元年に物故されたが、大きな袋を持って赤旗新聞を町内に配達していた姿を、今でも覚えている方も多いと思う。
 西成寮跡地利用実現から二十何年、市立西成会館はその後梅南・橘集会所と名前を変えたが、それこそ結婚式から葬式まで、各種の会議から文化行事まで、どれだけの区民が利用してきたか、単に数字だけでははかり知れないものがある。
 市立松通保育所は、父母と保母が連帯した西成の保育運動の発祥地となった。
 松通公園は地域住民の憩いの場であると共に、春は花見、夏は盆踊りの会場としてなくてはならないものだ。
 このように、公共の施設の跡地利用はやり方によっては、街づくり人づくりに大いに役立つものである。私は西成寮跡地の場合は完全に成功した、と思っているが、それも最初の計画の段階から、住民の要望が寄せられていたからである。

いまこそ南海天下茶屋工場跡地の利用計画を

 その点からいって、私が今いちばん心配なのは、区役所横の南海天下茶屋工場跡地(約四ヘクタ—ル)の利用計画である。歴代の西成区長は「この跡地利用は街づくりの最後のチャンスとして、広く知恵を借りてやりたい」と云ってきていた。ところが、南海の高架工事も終わり、いよいよ跡地問題が全面に出てくるというときに、現区長は黙して語らず、とは一体どういうことか。このままでは南海資本ペ-スで進められ、空室ビルが林立するバブルの塔の二の舞である。早急に情報公開を行い、白紙段階からの住民参加を保障すべきである。

今昔木津川物語(022)

西成・浪速歴史のかいわいシリ—ズ(五)

◎篠山《ささやま》神社 (元町二—九)

 大坂における常設市場としては、古くは天満《てんま》の青果市場《せいかいちば》、靭《うつぼ》の干魚《かんぎょ》市場、雑喉場《ざこば》の生魚《せいぎょ》市場、木津難波の青物《あおもの》市場が有名であるが、その中でももっとも木津難波《きづなんば》市場が新しい。

金で買った特権《とっけん》ふりかざし

 徳川時代には、青果は天満、干魚は靭、生魚は雑喉場と限定《げんてい》され、市場は年々幕府《ばくふ》に巨額《きょがく》の上納金《じょうのうきん》を差《さ》し出し、その代《か》わり取扱品《とりあつかいひん》独占《どくせん》の特権をもらい、生産者の直売《ちょくばい》などは厳《きび》しく禁止されていた。
 しかしそのためには、すべての青果物はわざわざ天満まで搬出《はんしゅつ》せねばならず、その手間《てま》や費用の点で、難波・木津・今宮の百姓《ひゃくしょう》たちは永年にわたり苦しんできた。

子守歌《こもりうた》が今も証言《しょうげん》

 大坂の子守歌に「ねんねんころいち天満の市よ、大根《だいこ》揃《そろ》へて船に積む、船に積んだらどこまでいきやる、木津や難波の橋の下」というのがあるが、大根の生産地である木津村・難波村の人も、わざわざ天満市場を経由《けいゆ》した大根を買わねばならなかったということを、歴史的《れきしてき》に証言したものになっている。

畑場《はたば》八ヵ村の悲願《ひがん》・宿願《しゅくがん》

 かつて畑場八ヵ村と称《しょう》された、勝間《こつま》・中在家《なかざいけ》・今在家《いまざいけ》・今宮《いまみや》・木津《きづ》・難波《なんば》・西高津《にしたかつ》・清堀《きよぼり》の村々は村内|水利《すいり》に乏しく、全面畑場にして水田《すいでん》は全く存在《そんざい》しないという状態だった。また、この辺りの地質《ちしつ》が砂《さ》質であり根菜類《こんさいるい》の栽培《さいばい》には適《てき》していたということもいえる。いずれにしてもこれらの村々の百姓としては、市場《いちば》問題は自らの死活《しかつ》問題として、自然《しぜん》立ち上がらざるをえなかったわけである。
 かくて難波・木津・今宮の百姓たちは、道頓堀《どうとんぼり》南側や湊町《みなとまち》大通りなどで立ち売りをおこなったが、そのつど天満市場からの苦情《くじょう》で幕府も弾圧《だんあつ》に出てきたため、なかなか地元での市場の設置《せっち》は認《みと》められなかった。

人情《にんじょう》代官《だいかん》篠山|十兵衛《じゅうべい》の奮闘《ふんとう》

 難波|八阪《やさか》神社に残る古文書《こもんじょ》によれば、正徳《しょうとく》四年(一七一四)より文化《ぶんか》六年 (一八〇九)まで実に九十五年の間《かん》にわたり、苦情《くじょう》の出るたびに地《ち》を替《か》えながら、密《ひそ》かに立ち売りをつづけ、度々《たびたび》の嘆願書《たんがんしょ》を出し、遂《つい》に、代官篠山十兵衛の尽《じん》力によって文化《ぶんか》六年六月二十七日(一八〇六)次の条件《じょうけん》付《つ》きで立ち売りが許されることになった。
 「市立《いちだち》に似寄《により》の儀致間敷事《いたしまじきそうろうこと》。他所《たしょ》他村《たそん》の荷主《にぬし》青物《あおもの》を持《も》ち来《き》たり候《そうろう》とて決《けっ》して村内《そんない》に立ち入れざる事。十三|品《ひん》(大根・菜類《なるい》・茄子《なす》・人参《にんじん》・冬瓜《とうがん》・白瓜《しらうり》・南瓜《なんか》・西瓜《すいか》・若牛芽《わかごぼう》・葱《ねぎ》・分葱《わけぎ》・芋類《いもるい》蕪《かぶら》)に限り土附《つちつ》きの儘《まま》一荷《いっか》に不足《ふそく》の分だけ村内《そんない》物青<ママ>《あおもの》渡世《とせい》の者へ譲渡《じょうと》し、十三品の儀《ぎ》も一|荷《か》に相成候分《あいなりそうろうぶん》並《ならび》に十三品外の青物は此迄通《これまでどうり》り、天満市場に差し出し申可事《もうしべきこと》。右|聊《いささ》かも違背《いはい》なき様致すべき事」という、大変厳しいものであった。
 しかし、当時としては誠《まこと》に異例《いれい》の出来《でき》事でもあった。

善政《せんせい》の責任《せきにん》を負い自刃説《じじんせつ》も

 「現代西成百景(その二十三)弘治《こうじ》—伊藤村長父子の義侠《ぎきょう》」で、今宮村への朝役《ちょうやく》・神役《しんやく》奉仕《ほうし》に対する課役免除《かやくめんじょ》の恩典《おんてん》を寛政《かんせい》八年(一七九七)に二百数十年ぶりに実現させたという偉業《いぎょう》を紹介したが、その斡旋《あっせん》を行ったのが新代官篠山十兵衛であったのだ。度重《たびかさ》なる住民の立場に立った行政を幕府よりとがめられ、一説《いっせつ》によればその後責任を負い自刃したとの話もある。

今も毎年篠山祭り

 この時に免許《めんきょ》を与えられた難波村百姓市場が、その後木津難波魚青物市場へと発展《はってん》し今日に至っているのである。地元の人は篠山代官の徳《とく》を偲《しの》び、難波八阪神社|境内《けいだい》に篠山神社を建て、今も毎年九月二十六日篠山祭りという祭礼《さいれい》をつづけているという。
 先日、難波八阪神社に参拝《さんぱい》し、神社の人にたずねると、篠山代官は十数年の長きにわたり代官を勤めた後、佐渡《さど》の金山奉行《きんざんぶぎょう》となり五十オで没し墓は佐渡にあるとのことである。

今昔木津川物語(021)

◎阿弥陀池《あみだいけ》 (西区北堀江三—七)

編者注】今回の投稿は、冊子版「今昔《こんじゃく》木津川物語」に掲載された「阿弥陀池」の部分です。

 先日次回の「百景めぐり」の下見をかねて、再び西区の史跡を訪ねた。南海汐見橋線で終点の汐見橋駅へ着いて、駅の壁を見上げれば南海沿線の名所・観光地などが、地図の上にマンガ的に画かれている大看板があつた。
 かつては各駅にあったものだが、高架化などのために駅が新しくなり、市内ではここだけにしか残っていない、貴重な「文化財」となつてしまった。しかし、痛みも大分すすんでおり、実物を見ておきたい方はお早く、と云っておきたい。

供養碑は後世に警告している

 浪速区の北西端と西区の境、大正橋東北詰に、「安政元年(一八五四)六月十四日の大地震・津波による惨状を記し次いで地震のときの諸注意を述べている碑が建っている。特に「すべて大地震の節は津波起こらん事をかねて心得、必ず船に乗るべからず」といましめている。地震を恐れて船に逃げていた人が津波で多数犠牲になっている。
 大正橋を渡って大阪ド—厶の方へ行くと、地下鉄の駅で「大阪ド—厶前千代崎」というのがある。長い名前だが、千代崎というのはここの土地の名前だ。木津川にかかる千代崎橋からとったらしい。橋の名前が先といえば、大正区の区名も大正橋からもらっている。

千代崎と西成の千本は姉妹町

 千代崎というのは別にお千代さんが住んでいたわけではなく、実は木津川の河口近くにかってあった防波堤に植えられた松並木のことを「千株の竝松蒼々(なみまつそうそう)として千代の栄えの色を現わし」と表現されていたことによると、西区役所は云っている。これは意外であった。千本松は防波堤とともに、大正時代の造船所建設ブームのなかで破壊され、いまは西成区の町名に「千本」として残るだけである。

落語のおち
「阿弥陀が行け」

 あみだ池へ行った。講談・落語・演劇の題材として取り上げられているが「摂津名所図会」にあるように「世の人寺号を唱えずして阿弥陀池というのみ」とあるように、本当は蓮池山智善院和光寺と称した。江戸時代には本堂の他に観音堂・普門堂・愛染堂などを有する大寺であった。
 境内および周辺には講釈の寄席、浄瑠璃の席・大弓や揚弓・あやつり芝居や軽業の見世物や物売りの店がにぎやかに並んでいたという。今はビルに囲まれた大寺で、ひつそりと静まりかえっていた。

三菱のマ—ク
稲荷神社で発見

 以前に来たときには発見できなかった、土佐稲荷神社にあるという三菱のマークを、今回はついに発見した。「土佐稲荷神社には三菱のマークがある」というのは聞いていたが、どこにあるかは聞いていなかったので、今回も大分時間をかけて探した結果、とうとう賽銭箱の正面に野球のボール位の金色の家紋のようにして、稲の束とともに三菱のマークがさんぜんと輝いているのを見つけた。
 土佐稲荷神社と岩崎弥大郎と三菱財団とのなみなみならぬ関係が一層よくわかった。
 最後に艱公園へ行った。
 「うつぼ公園の一帯は、江戸時代以来海産物を取り扱う問屋・仲買が集中していたところであるが、昭和六年十一月に、これら問屋・仲買が大阪市中央卸売市場に吸収統合されたあと、第二次世界大戦のアメリカ空軍の空襲により荒地となった。戦後、この地に目をつけた在日アメリカ軍が整地し、小型飛行機の離発着場となり、昭和二十七年六月に飛行場が返還された後、大阪市は約九万二〇〇〇平方㍍の大公園を三年後に完成させた」(西区役所発行パンフ)とあるが、大公園の割には一般入園者用トイレの貧弱さにおどろいた。直ぐに改善してほしい。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第1回

◎「日本の仏教伝来の地が西区阿弥陀池」

編者注】2016年3月号の大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」に「がもう健の〉次郎と友子の『びっくり史跡巡り』日記」が始まりました。まずは、その1回目の記事からです。出版本の「今昔《こんじゃく》木津川物語」にも同一のテーマでの記事があります。こちらの方も次回に公開予定です。まずは、当時の「新連載の紹介」から…

 今月号より連載開始の”次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記”。郷土史家・がもう健さんの書き下ろし作品です。ぎづがわ往来とは一味違った次郎と友子の史跡巡りや掛け合いをお楽しみください。

 南田次郎は大阪駅の待合室で北山友子を待っていた。ここは金沢行きのサンダ—・ハードの発着ホー厶にあるが、ゆっくりとくつろげる場所になっている。
 次郎は認知症で要介護2の兄太郎を介護するため、既に五年も滋賀県草津市に通っているが、今まで何度もこの待合室を休息に利用してきた。
 友子のすらりとした姿がガラス越しに見えたので、次郎は待合室を出た。
 友子は次郎の高校の同級生で放送部にいた。次郎は相撲部の万年補欠選手、友子の落ち着いた声は憶えているが、個人的には特に接点はなかつた。
 数年前の同窓会で、次郎が兄の介護の話をしたところ、実は友子も両親が認知症になり十年近く介護してきたことがあるとのこと、それで話が合い、以後時々二人でお茶会をするようになった。そして今では、次郎がかねてよりライフワークとしてつづけてきた「南田次郎の史跡巡りの会」のメンバーとして、特に下見活動の欠かせない相棒として大活躍してくれている。
 さて今日の二人の行先は、いま朝の連続テレビ小説「あさがきた」の主人公、明治の初めに大阪で大活躍した女実業家広岡浅子の嫁いだ先が西区にあったとのことで、西区の「びっくり史蹟巡り」となった。
 地下鉄西梅田駅をスタート地点として「阿弥陀池」に行った。講談、落語で取り上げられているが「摂津名所図会」に「世の人寺号を唱えずして阿弥陀池というのみ」とあるように、本当は蓮池山智善院和光寺と称し、江戸時代には本堂の他に、観音堂、普門堂、愛染堂なども有する大寺であったとか。
 かっては境内および周辺には、講釈の寄席、浄瑠璃の席、大弓や揚弓、あやつり芝居や軽業の見世物や物売りの店がにぎやかに並んでいたという。きっと広岡浅子らも通ったであろう。
 元々は、元禄十一年(一六九八)信濃善光寺大本願智善が幕府の命により開設した寺で浄土宗の別格尼寺であった。
 「私達が来たのは単にちょんまげ時代を懐古するためではないわね」
 「もちろんそうだよ。実はこの地が欽明天皇(六二九〜六四一)の時、朝鮮より伝来した仏教について、当時の最高権力者物部氏と蘇我氏がその是非を論争。ついに物部氏が仏像を難波の堀江に投棄し寺に火を放った。そのうえ尼僧にも弾圧を加えた。『あみだ池』がその旧地と伝えられるため、千年後に幕令で寺と堀をつくったという。物部氏と蘇我氏の争いはついに武力抗争に発展して、聖徳太子が加わった蘇我氏の勝利となり、その後の日本の行末に仏教が大きく関わってくる」
 「仏教伝来で時代の先端を切ったのが西区の尼さん達だというのと、広岡浅子の奮闘に通づるものがあるのかなあ」
 「今日もお付き合いありがとう。五時に兄がディサービスから帰宅するのでこれで失礼します」
 「ご苦労さんがんばって」
 「ありがとうまたね」

今昔西成百景(028)

◎津守「新田」ー津守神社

 「新田」とは、近世になって新しく開発された土地のことである。木津川・大和川を中心とした大阪湾沿岸では、江戸時代を通じてこの新田の開発が積極的に行われた。津守新田は元禄期(一六八八 一七〇四)に造成され、同時期の他の新田には、市岡新田・泉尾新田・春日出新田などがある。これらは町人請負新田と云われるもので、当時の町人社会の経済力がいかに大きかったかが偲ばれる。

難工事に袴屋八ケ年の努力

 津守新田の最初の請負者は横井源左衛門、金屋源兵衛の二名であったが、土堤が高波にさらわれることとなり、湊屋九兵衛に譲り、湊屋は石堤としたが、又又大風高波のため堤敷石、浪除けはもちろん百姓家までことごとく流失し、遂に親族の挎屋弥助に再び譲ることになった。弥助の工事は古船に大石を積込み、そのまま沈め五、六尺の基礎の上に亀甲型の石垣堤を築き上げるという大工事で、ハヶ年の努力の後、元文五年(一七四〇)漸く完成をみた。時の代官は弥助こそ津守新田の開発者と激賞し、津守新田はその後永く、袴屋新田と呼ばれた。
 そして天明四年(一七八四)津守新田は再び初代炭屋善五郎に譲渡されるに至った。その元祖は淡路白山から大阪にでて、縁あって炭屋の養子になった後分家した人。初代善五郎は自ら津守に移り新田の経営に専念した。津守新田はその後幾度となく拡張され、一般には一六〇町歩と称され、明治七年の調査では約四〇万坪となっている。
 現在、津守小学校内の北西角に「津守新田会所跡」の碑が立てられており「本校庭の位置には、江戸時代津守新田会所があり、新田地主白山氏の庭園は向月庭といわれ、大阪の代表的名園であった」と記されている。

歴史を見てきた津守神社

 津守神社は新田開発のときに勧請され、初めは五所神社、五所大明神といわれ、元禄時代には単に稲荷神社と呼ばれたが、明治四年津守神社と改称し、同五年村社に列した。祭神は天照大御神・稲荷大神・大歳大神・綿津見大神・住吉大神。
 ある日の昼下がり、境内に入ってみたが、表通りの新なにわ筋の騒音も途絶えて、まるで別世界。大木もある。鳥居や石垣に「紀元二千六百年」の文字が刻みこまれているのをみて、かっての出征軍人を送る埸面を連想していた。

風水害とたたかいつづけた住民

 そこで気がついたのだが昭和十一年建立と記されたものも多いということであった。この謎はすぐに解けた。昭和九年九月二十一日大阪を襲った室戸台風のために、津守町方面は、大阪港から木津川一帯にわたる高潮により各所で堤防が決壊し、濁水氾濫したちまち泥海と化し、全町約三千戸はその殆どが浸水床上に達した。しかも土地が低いため容易に減水せず浸水のまま数日を経過したため、同方面の水禍被害は当区中もっとも激甚を極めた。以上のように記録されている風水害により、津守神社は倒壊していたのである。戦後もジェーン台風、第二次室戸台風と津守地区は大きな被害を受けたが、住民は木津川沿岸防潮堤の完成を要求してたたかった。
 今日津守地区の、町づくりでの最大の問題点は、新なにわ筋のダンプ公害と広大な工場跡地ではないだろうか。区民の切実な公営住宅大量建設の要望に応えられるだけの土地が津守に生まれている。抜本的な公害対策を立てるなどを行いながら、こんどは住民による住民のための「新田」づくりにとりくまなければならないと思う。

今昔木津川物語(020)

【編者注】
 「がもう健の郷土史エッセー集」は、2012年9月以降、大阪きづがわ医療福祉生協の機関紙「みらい」に連載記事として、引き継がれています。今後は、機関紙掲載の記事を底本とし(画像も新たに追加)、旧版(出版本)にあった文章もできる限り追加し投稿したいと思いますのでよろしくお願いします。本投稿は、2013年2月号の「みらい」に掲載された分を編集したものです。

◎吉田兼好《よしだけんこう》の藁打石《わらうちいし》

 聖天山天下茶屋正円寺の南坂参道入口に「兼好法師藁打石《けんこうほうしわらうちいし》」がある。
 吉田兼好《よしだけんこう》とは、鎌倉時代末期の歌人・随筆家で本名は卜部兼好《うらべかねよし》、京都吉田に住んでいたので、この姓を称した。十九オで二条天皇に仕え二十代の半ばに従五位下|左兵衛佐《ひょうえのすけ》(官位)に任じられるなど早い出世で、すでに歌人として、認められていたようである。その後、彼が何故いつ出家したのか、名作「徒然草《つれづれぐさ》」はいつどこで書かれたのかは殆ど判っていない。正平《しょうへい》五年(一三五〇年)六十七オ没といわれる。

兼好が密勅を北畠顕家へ

 通説では南北朝の争いで、当時伊賀でくらしていた兼好が南朝の密勅《みっちょく》を受けて、奥州の北畠顕家《きたばたけあきいえ》のもとに赴いた。その後、顕家が髙師直《こうのもろなお》と戦った阿倍野のほとりに庵を構え、命松丸《めいしょうまる》という童と寂閑《じゃっかん》という僧の三人で、藁《わら》を打ち筵《むしろ》を織って生計を立て、読経三昧に顕家の菩提《ぼだい》をとむらったという。
 そうだとすると、兼好が阿倍野へ来たのは北畠顕家が討死した暦応六年以後となり、五十五オの頃となるが、顕家はこの年の三月に阿倍野で高師直と戦って負けてはいるが討死はしておらず、同年五月二十二日、南へなかり離れた和泉の石津浜で戦死している。顕家を弔うなら当然和泉へ行くべきはず、と、阿倍野に居たことを疑問視する見方もあるが、私はやはり兼好は阿倍野に居たと思う。

兼好阿倍野説を唱える根拠

 当時、兼好の庵の辺りは手(帝)塚山古墳をはじめ大小のさまざまな古墳が丘をなし、西には玉出の浜も近く活きのよい魚もあり、砂地の畠の作物も豊かにある。また、百年程前まではあれほど栄えた、熊野三山への参詣街道であった熊野街道の、今では草原の中にあり往来する人もまばらという、兼好が筆をとるには最高の環境であった。
 「徒然草」の中に一段だけ政治を厳しく批判したものがある。その内容は、後醍醐《ごだいご》天皇の「建武《けんむ》の中興《ちゅうこう》」や「王政復古《おうせいふっこ》」の実態が、庶民のくらしをいかに痛めつけているかということを指摘したもので、権カから弾圧されるおそれのある内容のものである。
 かって、北畠顕家と楠木正成《くすのきまさしげ》が政権の腐敗を知り、農民への増税を止めよ、税金のムダ使いはするなと激しくそれを批判しながらも、結局は人心の離れた朝廷を保守するために負け戦と知りつつ出陣せざるをえなかったときに、それぞれが後醍醐天皇に諫言《かんげん》したものと兼好の一文は同じ立場のものであった。
 伊賀の忍者と関係し、反権力の思いを持っていた兼好が、顕家戦死の石津浜で顕家の菩提を弔う行為をしなかったのは、むしろ当然のことであったと私は推理する。

圧政に悲憤慷慨した兼好

 兼好が四天王寺や住吉大社に反古紙をもらいがてら取材に行ったことが書かれた一文もあり、阿倍野で藁を打ちながら、圧政に悲憤慷慨していたのは事実ではないか。
 「隠棲庵碑」はもとは阿倍野警察署南横を四百㍍ほど西へ入った所にあった。
 「藁打石」は旧松虫通の柘榴塚という小さな古墳の上の、千両松という巨木の根本に置かれており、土地の人は夜啼石とも呼んで触るのも怖がっていたという。

ディサービスセンター「つれづれの里」オープン

 「聖天山さん」の近くにある、私たちのディサービスセンターがその名を公募した結果「つれづれの里」と命名されたことは、兼好の思いをひきついだものといえよう。

今昔木津川物語(019)

西成・浪速歴史のかいわいシリ—ズ(四)

◎願泉寺《がんせんじ》・唯専寺《ゆいせんじ》(大国ニーニ・敷津西ニー十三)

 願泉寺はその伝《でん》によると開祖《かいそ》永証《えいしょう》は小野妹子《おののいもこ》の八男《はちなん》多嘉丸《たかまる》と称し、聖徳太子《しょうとくたいし》の守屋征討《もりやせいばつ》に加わって功《こう》があり、太子四天王寺を造営《ぞうえい》のとき、運河《うんが》を開削《かいさく》して諸国よりの木材の運搬《うんぱん》を容易《ようい》にした。

定龍が地域を統一

 その後二十七世乗教《せじょうきょう》の時蓮如上人《れんにょしょうにん》に帰依《きえ》し本願寺《ほんがんじ》に加わる。天正《てんしょう》年間本願寺|門徒《もんと》、織田信長《おだよぶなが》と戦った時、時の願泉寺|住職《じゅうしょく》定龍《ていりゅう》は極めて武略な人で木津一難波・今宮・高津《たかつ》・勝間《こつま》・三軒家等の門徒を指揮《しき》して一方の将《しょう》となり、摂河泉《せっかせん》の間に転戦《てんせん》し大いに軍功《ぐんこう》を上げた。その功により、本願寺の願の一字を賜《たまわ》って願泉寺と称《しょう》したという。
 唯泉寺もその伝によると用命天皇《ようめいてんのう》の御《おん》宇天種|命《みこと》の裔《すえ》である跡見《あとみ》赤摂が、聖徳太子の四天王寺建立に際し木津浦《きづうら》に来たりて住《すまい》し草庵《そうあん》を構《かま》えていたが三十三世跡目光重に至って蓮如上人の弟子となって真宗《しんしゅう》に転じた。本願寺と信長の合戦の際|抜群《ばつぐん》の功《こう》をあげ、夭正八年四月|顕如《けんにょ》上人石山|退去《たいきょ》の時当寺に一泊の上|雑賀《さいが》に出発したとのこと。

手をたずさえ「魔王《まおう》」信長とたたかう

 願泉寺、唯泉寺共に聖徳太子と四天王寺造営にゆかりがあり、またその後の石山合戦でも手をたずさえて「魔王」信長と戦い、空襲で焼失したのも一緒で、それぞれ戦後再建された。
 足利《あしかが》時代より木津川口の陸地化がすすむとともに、海浜《かいひん》であり大坂に入る軍事上の要衝《ようしょう》の地として、この辺りの争奪戦《そうだつせん》が盛んに行なわれたのである。

反戦の伝統生かして

 ガイドライン法という名の戦争法が国会で強行採決されると、待っていたとばかりに、海上自衛隊が艦船《かんせん》二十五隻、航空機二十一機を出動させて、大阪湾での戦後最大規模の軍事演習を実施した。
 歴史に学んで今こそ地域ぐるみの、戦争法反対の発動をゆるさない大運動が必要なのではではないか。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第20回・第21回

◎岩屋寺(大石寺)良雄の弁証法

 今日の二人は大石良雄の山科の隠宅があった土地に建ったという、岩屋寺に来ている。大石神社南百メートル の所にあり、当時の本尊不動明王は良雄の念持佛という。木像堂には浅野内匠頭《あさのたくみのかみ》と四十七士の像が安置されている。十二月十四日の義士忌には、寺宝の良雄以下四十七士の遺品がー般公開される。
 さて、元禄十四年(一七〇ー)三月十四日、この日、例年のごとく年頭の賀使《がし》として江戸に下った勅使が帰洛するにあたって、幕府側より接待を受けることになっていた。ところが、幕府側の勅使馳走人役を仰せつかっていた浅野内匠頭が、諸儀式を司る役目の高家《こうけ》吉良上野介《きらこうずのすけ》を、こともあろうに殿中松の廊下で「この間の遺恨覚えたか」と背後から肩に斬り付け、振り向くその額めがけて二の大刀を打ち下ろした。
 「当時三十五歳になる内匠頭は小心臆病でひよわな人物、強度のストレスと性格的な欠陥に起因した発作的刃傷であったのではないかと云われている」次郎はつづけて、「そしてこの殿中刃傷事件を裁決した将軍綱吉が、大の気まぐれ物で、即刻内匠頭は切腹、赤穂五万三千石は取潰しと決まった」
 江戸から赤穂まで百五十五里、早くて十七日かかろうという道程を、早駕籠をとばした急使がわずか五日間で赤穂刈家城へ到着した。
 「悲報を受取った国家老大石良雄は、直ちに藩札と現銀の交換に着手した」「取付け騒ぎが起きる前にこれをやったとは、すごい…」と友子感激。「同感」と、次郎は語り続ける。「籠城・殉死・仇討と論議が乱れとんだが、大石の腹は『一応|内匠頭《たくみのかみ》の舎弟大学を擁立しての再興を幕府に認めさせること、これがかなわねば仇討で幕府に一矢酬いたい』ということだった」「終始一貫していたのね」「主家が断絶し、あれが元赤穂の国家老だった男よと、世間から嘲られて過ごす余生など考えられなかった」次郎は厳しくつづける。
 「子供の足に嚙み付いた犬を棒で叩いたということで親子が死罪。犬小屋を建て、八万匹に上る野犬を養うのに年額九万八千両も費やし、一方人間の方は凶作で米も買えず、わずかに雑穀の粥をすすっている。十九歳から四十三歳に至まで、国家老として大過なく過ごしてきた良雄の家庭においても、日に一度はにら雑炊、魚といえば三日に一度鯛を焼くのが関の山というつつましさである」「徳川幕府十五代の将軍中、最も学問に造詣ふかいインテリであったと、綱吉をほめる歴史家もいるけど」と友子。「とんでもない。こんな気紛で狂気染みた将軍を絶対者として仰がなければならない武士たちにとって、武士道だとか忠義の思想という精神主義は、その人間性を重苦しく締め付ける格子なき牢獄であったろう。幕府は変えられないが、自分を変えることで『ピンチをチャンスに』、良雄は主君の仇討によって、人生の最後に大きな花火を上げたいと思ったのだ」
 「認知症のお兄さんその後お元気」「財布がない財布がないと…」「叱らないで『一緒に探そう』と言ってあげて。症状の一部だから」「了解。ありがとう」「またね…」

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2017年11月、12月号