今昔木津川物語(009)

西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(四)

大海だいかい神社 (住吉二)

 生根神社の正面鳥居を南へ行けば、熊野街道と紀州街道を結ぶために、大正期に元の材木川を埋め立ててつくられた住吉新道しんみちに出る。横切れば、目の前が大海神社の北の門。道路から高い分だけ数段登ると、そこはすでに平安へいあんの昔にかえっている。

浦島うらしま太郎のモデル

 大海神社の祭神は海幸うみさち山幸やまさち神話しんわで知られる豊玉彦命とよたまひこのみこと豊玉姫命とよたまひめのみことの親子で、私の小学生のときには教科書きょうかしょつきでのってあった。
 兄の海幸彦が大切にしていた釣針つりばりを失ってしまった弟の山書は、海底かいていにさがしに行き豊玉姫の協力を受ける。兄弟のあらそいはその後も激しくなり、山幸があやうくなったときに豊玉姫が持参の「潮満珠しおみちのたま」で海潮かいちょうを呼び寄せなんのがれる。
 そのたましずめたところということでこの辺りを玉出島たまでしまとよび、住吉でも古来こらいよりもっとも早くひらけたところといわれている。仁治にんじ二年(一ニ四二)にこの玉出島出身の勝間大連こつまおおむらじが勝間村(こつまむら・現西成区玉出)を開発した。
 大海神社の本殿は住吉大社の本殿と同型同大どうけいどうだいの住吉造りで、重要文化財に指定されている。もともとは住吉大社の神主津守氏つもりし氏神うじがみで、かって境内はふじはぎの名所であった。永年の間住吉大社のかげにかくれていたので、浮世離うきよばなれしたおもむきを残している。人手があまり入らず樹木じゅもくがうっそうとしているのも都会ではめずらしい。
 海幸・山幸の神話はお伽話とぎばなし「浦島太郎」のひとつだといわれており、かって近くに「玉手箱たまてばこ」という地名があったというのもおもしろい。

まぼろしのご本尊は天下茶屋へ

 ここで特に記しておきたいことは、生根神社から大海神社までの間にかって三千佛堂という寺院があり、秘佛ひぶつ阿弥陀如来あみだにょらい安置あんちされていたが、明治初年の廃仏毀釈はいぶつきしゃく廃寺はいじとなった。本尊は天下茶屋の安養あんよう寺に移転されたが、空襲くうしゅう焼失しょうしつしてしまったという、いまでは世間からほとんど忘れさられているひとつの事実である。
 大海神社を南に出ると通称「桜畠さくらばたけ」といわれる広場があり、終戦直後には毎年の様に盛大な盆踊りがやられ、私もよく見物に出かけた。
仮装かそうして踊る人もあり、敗戦の悲惨ひさんさと終戦の喜びとがざりあった複雑な雰囲気ふんいきのなかで、踊りの幾重いくえにもふくらんでいった光景こうけいを今でも、夢のなかの一場面のようにおぼえている。
 実はこの「桜畠」にも明治までは、住吉神宮寺という天平宝字てんぴょうほうじ二年(七五八)に創建された豪壮ごうそうな寺院が存在していたのである。
 本尊には薬師如来やくしにょらいが祀られ「新羅寺」ともいわれ、「古今著聞集こんせきちょぶんしゅう」にも名が見える格の高い寺でもあり、一休禅師いっきゅうぜんじ応仁おうじんらんけ住吉に八年間居住した頃によく参籠さんろうしたという。

廃仏毀釈はいぶつきしゃくは住吉大社にも

 この寺も明治の廃仏毀釈で堂宇どうう破壊はかいされ廃寺となってしまった。「桜畠」の東側の森の中にある住吉大社の末社まっしゃのひとつである招魂社しょうこんしゃが元神宮寺の唯一ゆいいつ遺物いぶつで「旧護摩堂きゅうごまどう」であったという。そのひさしあおいもんきざまれているのが、神宮寺が天台宗てんだいしゅう東叡山とうえいざんに属していたことを物語っているといわれている。
 ちなみに廃仏毀釈とは明治の新政府が、江戸時代における仏教中心の宗教政策をやめ、神道しんどう中心主義を採用さいよう、これにより政府せいふ権威けんいを高めようとしたもの。神仏混淆しんぶつこんこうを排し神社からの仏教的要素ようそ一掃いっそうをはかるため、日吉ひえ神社、石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうをはじめ各地で仏堂や仏像・仏具・仏画の破壊をほしいままにして多くの文化財を抹殺するという歴史に残る暴挙ぼうきょを行ったのであったが、住吉大社でも例外れいがいではなかったというわけである。