西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(五)
住吉大社《すみよしたいしゃ》
住吉大社は不思議《ふしぎ》な神社である。「別格|官幣《かんぺい》大社」という評価《ひょうか》をもらっておきながら、権威を押しつけるような雰囲気はあまり感じさせない。初詣《はつもうで》や夏祭りでの雑踏《ざっとう》が庶民的《しょみんてき》な「すみよっさん」のイメージを定着させたということもあるのか。
住吉津の地主神
さて住吉大社の祭神《さいしん》は底筒之男《そこづつのお》・中筒之男《なかづつのお》・表筒之男《うわづつのお》の三|神《しん》と神功皇后《じんぐうこうごう》の四|柱《はしら》であり、住吉|大神《おおかみ》というときは筒之男《つつのお》三柱の総称である。
住吉三神はすべてに「筒男《つつのお》」がつくことから、住吉|津《つ》(港)の地主神《とこぬしのかみ》を意味するものと解釈されている。古代《》こだいに住吉神社と称されるものは、摂津《せっつ》・播磨《はりま》・長門《ながと》・筑前《ちくぜん》・壱岐《いき》・対馬《つしま》・陸奥《むつ》の七ヶ国にある。これは難波《なにわ》から朝鮮半島《ちょうせんはんとう》への海上の道に沿ったものであり、事実、遣唐使《けんとうし》が派遣《はけん》されるときには、その船に、主神《しゅしん》とよばれる摂津の住吉神社の神職《しんしょく》が乗船《じょうせん》するのが例《れい》であり、津守氏《つもりし》が任命《にんめい》されることになっていた。このようにみれば、住吉神社は海上交通を守る神とともに、古代国家の対外政策《たいがいせいさく》と密接に結びついた、軍神という側面も持っていたことになる。
津守氏《つもりし》からも歌人《かじん》が輩出《はいしゅつ》
「遣唐使が停止《ていし》され、難波津《なにわづ》の整備がすすみ、 住吉津が衰退《すいたい》し、平安京《へいあんきょう》遷都《せんと》が行われると、徐々に住吉大神に対する信仰《しんこう》の変化《へんか》がみられ、九世紀中頃には朝廷《ちょうてい》から祈雨《きう》・止雨奉幣《とめうほうへい》の派遣が始まり、後には豊饒祈願《ほうじょうきがん》も併せ行われるようになった。また、王侯《おうこう》・貴族《きぞく》が住吉大社|参詣《さんけい》のとき、広々とした海浜《かいひん》の白砂青松《はくしゃせいしょう》を目《ま》の当《あ》たりにして感動《かんどう》し、その気持ちを歌に託《たく》し競《きそ》いあい、住吉大社に奉納《ほうのう》する習慣《しゅうかん》が生まれるなど和歌《わか》の神として崇敬《すうけい》された。後には和歌だけではなく、社頭《しゃとう》で和歌《わか》・俳句《はいく》も行われ連歌では宗祇《そうぎ》が津守氏の主催《しゅさい》で行った百韻《ひゃくいん》や、 貞亨《じょうきょう》元年《がんねん》(一六八四)井原西鶴《いはらさいかく》が社頭で行った一昼夜ぶっ続けで二万三千五百|句《く》を詠んだ『大矢数俳諧』は有名である」(住吉区史)
住吉神社|神主《かんぬし》津守氏は住吉神社及び住吉地方に、歴代《れきだい》にわたって密接な関係を持ってきた。住吉の津《つ》を守ることから津守という名になったわけだが、十六代目は神主として船に乗り帰国《きこく》できなかったとの記録《きろく》もある。三十九代|国基《くにもと》は和歌の名人であり、当時の権力者たちと和歌の贈答《ぞうとう》で懇意《こんい》となり、息子達を次々と要職《ようしょく》につけている。
南朝《なんちょう》の行宮《あんぐう》や徳川家康《とうがわいえやす》の本陣が
南北朝《なんぼくちょう》の対立では津守氏は南朝方に結びつき、後《ご》村上天皇は住吉神社を行宮とし八年後に住吉行宮で没《ぼつ》した。
戦国《せんごく》時代の争乱《そうらん》では摂津《せっつ》守護職《しゅごしょく》であった細川《ほそかわ》氏の内紛《ないふん》から、住吉も戦地となり以後石山合戦の終結《しゅうけつ》までの約七十年間衰退荒廃《すいたいこうはい》するしかなかった。特に住吉は南の堺と北の天王寺の間に位置し、兵を移動する絶好《ぜっこう》の場所にあることから、いやおうなく被害《ひがい》を被ることになった。
その後も、大坂《おおさか》冬《ふゆ》の陣《じん》では家康は住吉神社神主津守氏の館《やかた》に入って本陣を置《お》いた。大坂城|攻撃《こうげき》の重要拠点《じゅうようきょてん》とみなされたのである。
徳川時代は政治も関東《かんとう》に移り、住吉は農業《のうぎょう》を営《いとな》む寒村《かんそん》になってしまう。大坂からの住吉詣をする人で賑わうのみであった。明治政府は神官《しんかん》や神職《しんしょく》の世襲《せしゅう》を廃止《はいし》し、神社の神主である津守国美も免職《めんしょく》され、改めて少宮司《しょうぐうじ》に任命《にんめい》されている。
住吉大社の変遷《へんせん》をみてみれば、時々《とくどき》の権力《けんりょく》の意向《いこう》に振《ふ》り回《まわ》されながら、何《なん》とか企業努力《きぎょうどりょく》で生き延《の》びようとする、地場産業《じばさんぎょう》を守る中小企業のようで、そこにどことなく親しみを感じさせるものがあるのではないだろうか。
私にとっては、戦時中《せんじちゅう》は第一|本宮《ほんぐう》の前でラジオ体操《たいそう》を、戦後《せんご》は太鼓橋《たいこばし》の下はプールがわり。青年運動では正月や祭りに露店《ろてん》を出して資金《しきん》稼《かせ》ぎ、平和運動をもりあげるための参道《さんどう》での署名《しょめい》とカンパ。子供を、連《つ》れての散歩《さんぽ》。そして今は郷土史《きょうどし》めぐり、と本当にお世話《せわ》になっている。「すみよっさん」これからもたのんまっせ、と手を合わせる次第《しだい》である。