今昔木津川物語(010)

西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(五)

住吉大社《すみよしたいしゃ》

 住吉大社は不思議《ふしぎ》な神社である。「別格|官幣《かんぺい》大社」という評価《ひょうか》をもらっておきながら、権威を押しつけるような雰囲気はあまり感じさせない。初詣《はつもうで》や夏祭りでの雑踏《ざっとう》が庶民的《しょみんてき》な「すみよっさん」のイメージを定着させたということもあるのか。

住吉津の地主神

 さて住吉大社の祭神《さいしん》は底筒之男《そこづつのお》・中筒之男《なかづつのお》・表筒之男《うわづつのお》の三|神《しん》と神功皇后《じんぐうこうごう》の四|柱《はしら》であり、住吉|大神《おおかみ》というときは筒之男《つつのお》三柱の総称である。
 住吉三神はすべてに「筒男《つつのお》」がつくことから、住吉|津《つ》(港)の地主神《とこぬしのかみ》を意味するものと解釈されている。古代《》こだいに住吉神社と称されるものは、摂津《せっつ》・播磨《はりま》・長門《ながと》・筑前《ちくぜん》・壱岐《いき》・対馬《つしま》・陸奥《むつ》の七ヶ国にある。これは難波《なにわ》から朝鮮半島《ちょうせんはんとう》への海上の道に沿ったものであり、事実、遣唐使《けんとうし》が派遣《はけん》されるときには、その船に、主神《しゅしん》とよばれる摂津の住吉神社の神職《しんしょく》が乗船《じょうせん》するのが例《れい》であり、津守氏《つもりし》が任命《にんめい》されることになっていた。このようにみれば、住吉神社は海上交通を守る神とともに、古代国家の対外政策《たいがいせいさく》と密接に結びついた、軍神という側面も持っていたことになる。

津守氏《つもりし》からも歌人《かじん》が輩出《はいしゅつ》

 「遣唐使が停止《ていし》され、難波津《なにわづ》の整備がすすみ、 住吉津が衰退《すいたい》し、平安京《へいあんきょう》遷都《せんと》が行われると、徐々に住吉大神に対する信仰《しんこう》の変化《へんか》がみられ、九世紀中頃には朝廷《ちょうてい》から祈雨《きう》・止雨奉幣《とめうほうへい》の派遣が始まり、後には豊饒祈願《ほうじょうきがん》も併せ行われるようになった。また、王侯《おうこう》・貴族《きぞく》が住吉大社|参詣《さんけい》のとき、広々とした海浜《かいひん》の白砂青松《はくしゃせいしょう》を目《ま》の当《あ》たりにして感動《かんどう》し、その気持ちを歌に託《たく》し競《きそ》いあい、住吉大社に奉納《ほうのう》する習慣《しゅうかん》が生まれるなど和歌《わか》の神として崇敬《すうけい》された。後には和歌だけではなく、社頭《しゃとう》で和歌《わか》・俳句《はいく》も行われ連歌では宗祇《そうぎ》が津守氏の主催《しゅさい》で行った百韻《ひゃくいん》や、 貞亨《じょうきょう》元年《がんねん》(一六八四)井原西鶴《いはらさいかく》が社頭で行った一昼夜ぶっ続けで二万三千五百|句《く》を詠んだ『大矢数俳諧』は有名である」(住吉区史)
 住吉神社|神主《かんぬし》津守氏は住吉神社及び住吉地方に、歴代《れきだい》にわたって密接な関係を持ってきた。住吉の津《つ》を守ることから津守という名になったわけだが、十六代目は神主として船に乗り帰国《きこく》できなかったとの記録《きろく》もある。三十九代|国基《くにもと》は和歌の名人であり、当時の権力者たちと和歌の贈答《ぞうとう》で懇意《こんい》となり、息子達を次々と要職《ようしょく》につけている。

南朝《なんちょう》の行宮《あんぐう》や徳川家康《とうがわいえやす》の本陣が

 南北朝《なんぼくちょう》の対立では津守氏は南朝方に結びつき、後《ご》村上天皇は住吉神社を行宮とし八年後に住吉行宮で没《ぼつ》した。
 戦国《せんごく》時代の争乱《そうらん》では摂津《せっつ》守護職《しゅごしょく》であった細川《ほそかわ》氏の内紛《ないふん》から、住吉も戦地となり以後石山合戦の終結《しゅうけつ》までの約七十年間衰退荒廃《すいたいこうはい》するしかなかった。特に住吉は南の堺と北の天王寺の間に位置し、兵を移動する絶好《ぜっこう》の場所にあることから、いやおうなく被害《ひがい》を被ることになった。
 その後も、大坂《おおさか》冬《ふゆ》の陣《じん》では家康は住吉神社神主津守氏の館《やかた》に入って本陣を置《お》いた。大坂城|攻撃《こうげき》の重要拠点《じゅうようきょてん》とみなされたのである。
 徳川時代は政治も関東《かんとう》に移り、住吉は農業《のうぎょう》を営《いとな》む寒村《かんそん》になってしまう。大坂からの住吉詣をする人で賑わうのみであった。明治政府は神官《しんかん》や神職《しんしょく》の世襲《せしゅう》を廃止《はいし》し、神社の神主である津守国美も免職《めんしょく》され、改めて少宮司《しょうぐうじ》に任命《にんめい》されている。
 住吉大社の変遷《へんせん》をみてみれば、時々《とくどき》の権力《けんりょく》の意向《いこう》に振《ふ》り回《まわ》されながら、何《なん》とか企業努力《きぎょうどりょく》で生き延《の》びようとする、地場産業《じばさんぎょう》を守る中小企業のようで、そこにどことなく親しみを感じさせるものがあるのではないだろうか。
 私にとっては、戦時中《せんじちゅう》は第一|本宮《ほんぐう》の前でラジオ体操《たいそう》を、戦後《せんご》は太鼓橋《たいこばし》の下はプールがわり。青年運動では正月や祭りに露店《ろてん》を出して資金《しきん》稼《かせ》ぎ、平和運動をもりあげるための参道《さんどう》での署名《しょめい》とカンパ。子供を、連《つ》れての散歩《さんぽ》。そして今は郷土史《きょうどし》めぐり、と本当にお世話《せわ》になっている。「すみよっさん」これからもたのんまっせ、と手を合わせる次第《しだい》である。

南大阪歴史往来(011)

◎天野屋利兵衛

 住吉の一運寺に赤穂義士の墓がある理由を、当寺の「義士の墓由来記」よりみてみよう。

住吉になぜ赤穂義士の墓が

 「摂津國住吉の官幣大社住吉神社の摂社大海神社の境内を北へ抜けると、広い道の向こう側に、昔ながらの薮だたみを背景にした寺がある。浄土宗一運寺と云う。
 最近『義士の墓あり』との木標を門前に立てたが、自分は数十年来此の付近に住んでいたので、以前からその所在は知っていたものの、何故に所縁もない此の寺に赤穂義士の墓があるのかは、先住の僧に聞けども要領を得ず、世の中に発表することを避けたのではあるが、かくは寺でも宣伝をする、好事家の人々からも自分に尋ねられるので、ここに古老から伝えられたままを書いてみることとしよう。
 物寂びたー運寺の門を入ると、左はすぐ墓地となり、本堂はずっと石敷の詣道の奥にある。その石敷道の右側藪の前に、石地蔵と歌碑につづいて三基の墓と無縫塔がある。
 この三つの墓は、大石父子と寺坂吉右衛門の墓である。
 さてこの寺にこの三つの墓のあることは、明治維新の初め廃寺となったものに、ー運寺から酉北二丁ばかりにあった竜海寺と云うのがある。即ち此寺にこの三つの墓のみならず四十七士の墓がずらりと並ぶのである。
 竜海寺は彼の天野屋利兵衛の菩提寺で、利兵衛より四代目の当主は仁侠の人で、当時赤穂義士の名声が頗る宣伝せられたので、一つは世人への宣伝にもとの考えから、当菩提寺に四十七士の墓を建て、持仏堂内に四十七士の木像を安置したのである。
然るに維新の際廃寺となるに当たり、此の多くの墓石は他の庭石等に持ち去られまたは砕かれつつあった。
 ー運寺の先々住某、折から之れをみて驚き歎き、既に失ないしはやむなきも、漸くとり残された三墓を一運寺に運ばしめ懇ろに供養して建立したのである。竜海寺に墓建立のその時期は、竹田出雲の仮名手本忠臣蔵の世にあらわれた延亨(一七四四)から寛延(一七四八)年代のものらしい」梅原忠次郎昭和十五年五月記す。

侠商天野屋利兵衛とは

 それでは、大坂の豪商天野屋利兵衛とはどのような人物なのか。昭和五四年岩波書店発行の広辞苑によれば「江戸中期の大坂の侠商、大坂北組名主。赤穂浪士のために兵器を調達し、後、自首、追放。『仮名手本忠臣蔵』では天川
屋儀兵衛として登場」となっている。
 しかし、全国義士会連合会事務局長の中島康夫氏は、その著書「元禄四十七士の光と影」で「たしかに天野屋利兵衛という商人は大坂に存在し広島浅野本家に出入りしていたが、赤穂事件とはまったく関係のない人だ」と云う。そして「仮名手本忠臣蔵」の義商天川屋儀兵衛のモデルになる商人は、浅野家出入りで、古くから大石内蔵助と親交がある、京都の呉服商・綿屋善右衛門という人物だったと書いている。

天野屋の実在に疑問

 ところが、大阪市が発行している「大阪市史」には、多くの商人の名前が登場するのに、天野屋利兵衛の名も「自首・追放」という大事件も載っていない。それどころか、大阪市史の行政区版ともいうべき「住吉区史」には、ー運寺の項で「利兵衛自身の実在が疑問」と記述しているのである。
 一方、赤穂義士を扱った小説は数多くあるが、今手元にある分だけから、天野屋利兵衛の動きを調べてみると、
 一九三七年大仏次郎「赤穂浪士」
 一九五七年舟橋聖一「新・忠臣蔵」
 一九八六年森村誠一「忠臣蔵」
 一九九一年津本陽「新忠臣蔵」
 一九九九年中島丈博「元禄繚乱」
 以上の各小説には天野屋利兵衛は登場していない。そして、武器は各人の得意とする手持ちの物を持ち寄っていること。その他は、弓・まさかり・のこぎり・竹梯子・などで武具調達費として十両程度が支出されていることが記されている。これでは豪商を頼る必要はなかったのではないか。義士の個々の生活の面倒は綿屋善衛門が、きめ細かくみていたことが史料からも明らかであるが、彼は決して豪商ではない。
 となると、天野屋利兵衛が活躍するのは、史料などにあまりとらわれない、芝居・映画・講談・浪曲に限られるということになる。やはり「天野屋利兵衛は男でござる」は完全なフィクションであったのか。と、思っていると、ここに天野屋利兵衛実在の強固な証拠が出てきた。

石碑が語る歴史のからくり

 それは、天野屋利兵衛の石碑が大阪にあるというニュースである。しかも場所は、堺
筋本町、大阪商工会議所の西側、東横堀川の畔だという。
 ある日、私は現場におもむいた。北からマイドーム大阪・大阪商工会議所会館・そして目下工事中だが、元大阪国際ホテルという大阪の財界の牙城ともいえるー角に、トラック一台分位の一等場所を占拠して、それは存在した。赤い岩とでもいうべき大きな石の表には、案外小さな字で「義商天野屋利兵衛の碑」と男爵の手で書かれてあったが、男爵の名前が剥げ落ちて読めない。裏にまわると、全面に漢文で由来が彫り込まれているのだが、最初の赤穂義士に武器を送る、という意味は判読できたがあとは読めない。字が崩れているというより、意識的にたたき潰されたという感じなのである。そして、まわりは草ぼうぼう、ゴミは捨てられ、敷地もがたがた。大切に顕彰されているとはとても思えない、異様な石碑になっていたのである。これだけ傷んでいるのだから、明治もかなり初めに建てられたものだろうと、日付を探すとこれははっきりと残っていた。
 なんと、この碑の建立年月は「昭和十四年八月」であったのだ。一運寺が突然「義士の墓あり」の木標を門前に立て、梅原忠次郎氏をして「何をいまさら」とおもわせたのは、昭和十五年。そして、私たちと同年輩の人から「学校で忠臣蔵習った」 「先生が赤穂義士の本を読んでくれた」「先輩が義士の名前を暗記していた」という話がいまでもでる、それも昭和十六・七年のこと。

利用された戦前の「忠臣蔵」

 一体その頃に何があったのか。昭和十六年(ー九四一)十二月八日、日本は米英に宣戦布告。太平洋戦争が勃発したのだ。アジアを中心として二千万人の外国の人々、二百十五万人の自国民の命を奪った、史上最悪の侵略戦争に、日本の軍国主義は、国民を弾圧しあるいはだまして、奈落の底めざして、自ら突入していったのである。
 森村誠一氏は当時の「忠臣蔵」ブームについて「『忠臣蔵』は専制君主制の下でのテロリズムである。『忠臣蔵』の忠義が天皇に対する忠誠に置き換えられ、日本軍国主義の化拡大および国家的犯罪(戦争)の正当性に利用された」と明言している。
 結局は、赤穂義士を支援した天野屋利兵衛はいなかったのである。しかし、「堪忍袋の尾が切れた。鬼畜米英を撲滅せよ」とけしかけ、「天皇陛下のためならばなんで命が惜しかろう」と青少年を戦場にかりだした、天野屋利兵衛はいたのである。そして彼は今、憲法九条を改悪し靖国神社の御用達として、よみがえろうとしている。

注】図は、Wikipedia より、編者が追加した。「仮名手本忠臣蔵」では、天野屋利兵衛は、天川屋儀兵衛となっている。

南大阪歴史往来(010)

南大阪歷史往来(十)

◎西之坊(上住吉ニノニ)

 「住吉区史」は「西之坊」について「和光山と号し、真言宗仁和寺末である。本尊は弘法大師自作と伝える地蔵尊立像である。天正年間(一五七三-九二)戦火にあい元和八年(一六ニニ)大僧正長尊が再興した。かつて天野屋五か坊の一つで住吉大社の社僧寺であったが、明治維新に際し西之坊のみが残り、他坊の仏像もここに安置した。境内には方違社がある。古い伝承では、神功皇后が住吉三神を祭るとき、方位が悪いのでここで方除の祈祷をしたことに始まるといい、今でも方違い安全祈願に訪れる人が多い」と記している。

天野屋利兵衛とは無関係

 私は特に「かって天野屋五か坊の一つで」という部分に興味をもった。というのは、このお寺より約二ニ二百布西北へ行ったところにあるー運寺では、門前に「赤穂義士の墓」との石碑を立て、境内には大石良雄、大石主税、寺坂吉右衛門の墓がまつられているのである。そのわけは、もともと当寺の近くにあった竜海寺が、赤穂義士に討ち入りの武器を密かに提供した大坂の豪商、天野屋利兵衛ゆかりの寺で、その関係で赤穂四十七士の墓がつくられていたのを、明治維新の廃絶のとき三墓のみここに移されたとのことである。
 私は「天野屋利兵衛ゆかりの寺がかってこの近くに五か所もあり、西之坊のみ現存している」ということかと早合点し、ある日、西之坊を訪れ「由来書をいただきたい」と
お願いした。ところがお寺の人は「由来書というものはつくってない」といわれ、その代わりに一枚のコピーを下さった。何かお寺巡りの本のーぺ—ジである。
 さっそく読んでみると、問題の部分は「当寺は、もとは天野谷五か坊のうちのー坊で住吉大社の社僧寺であった」となっている。住吉区史では「天野屋」でありお寺のコピーは「天野谷」である。豪商の屋号とお寺の名前を区史は間違えているのである。
 私はお寺の外で一人赤面した。しかし、早とちりは今までにはたして私一人だけだったのか。

今も生きる神仏習合

 さて、和光山西之坊であるが、どっしりして貫禄のある山門をくぐると、左手から白玉大明神・千手観音・地蔵菩薩・弘法大師像・不空絹索観音などをおまつりする本堂、庫裡、そして弁財天・歓喜天・守護神・本命宮・霊符神・大金神・ハ将神・猿田彦大神・摩伽羅大・十六善神・大小神祇をおまつりする方違社などがならんでいる。
 これらの神仏からみても、当寺がかっては神仏両方をおまつりしていた寺であることがうかがえる。
 神仏混淆あるいは神仏習合ともいうが、わが国固有の神の信仰と仏教信仰とを融合調和するという、奈良時代に始まり、神社に付属して置かれた寺院である神宮寺・宮寺・神供寺・神護寺・神宮院・別当寺や、仏,菩薩が衆生を済度するために、仮に神として身を現すことをいう、本地すいじやく説などである。

皇国史観と神権政治は一体

 しかし、明治初年、維新政府が皇国史観による、政治的支配者が、神の代理者として絶対権力を主張し、人民に服従を要求する神権政治の立場から、祭神一致の方針をとり神仏習合を廃止し廃仏きしやくとして、多くの寺院を破壊し、経典、仏具などを焼き払った。
 天野谷五か坊寺のうち、各坊の仏像を併合して、西之坊のみが存続することになった秘話などあればぜひとも、由来書などで発表してもらいたいものだ。
 それにしても、神権政治は本当に恐ろしい。私も国民学校四年までは「少国民」としての軍国教育を受けたが、天皇が「現人神」という神になるのだから、民衆は未来永劫に逃げようがない。今から思えばまったく馬鹿げた話なのだが、当時は最後は必ず「神風」が吹くと信じていた。正に子供だましであったのだ。

軍国主義の亡霊復活を許すな

 しかし、油断はできない。今また、小泉首相が靖国神社に内外の反対を押し切って参拝することにより、「あの戦争は侵略ではない」「極東の小国・日本が大国を相手に立ち上がった、自存自衛の戦争だった」「次の日本を背負う青少年に、学習の場として靖国神社に来ることを期待」すると、過去の軍国主義,神権政治の亡霊がよみがえろうとしていることを、絶対に見逃がしてはならないと思う。

今昔西成百景(014)

◎梅雨入り

 五月雨が降っている。梅雨の入りももうすぐである。この頃になると、かって南津守四丁目、今の商店街の南側にあった、ドブ川の上につくられた飲食街のことをふと思いだす。
 昭和三十年前後、私は十九オ、木津川筋の造船所で社外工として働いていた。そして、無権利な状態にあった社外工の労働組合をつくるために同志達と連絡をとり合っていた。まるで小林多喜二の「工場細胞」や、徳永直の「太陽のない街」の世界である。
 ホルモン屋の焼きめしは、肉のかわりにホルモンが入っていて、独特の味でおいしいかった。豚足を売る店が何軒かあったが、脂だらけの柔らかいのと、石けんのように固いのがあって塩を付けてたべた。雨がはげしくなると雨漏りがして、ドブロクのびんをぬらしていた。飲み屋の裏に卓球場があって、昼休みにやったこともある。

なぜか造船所での思い出は雨と夜勤

 当時名村造船所では、雨がはげしくなると、創業者の社長がステッキを持って現場を見廻りに出てきた。赤線を何本もいれた、大きなヘルメットをかぶっていた。職制が率先してとび出し、大きな八ンマーで鉄板をたたいたりした。しかし、船台のかげから出ようとしない労働者もいた。
 労組結成の早朝、下請け会社の社長の郷里から集団就職してきていた十数人の少年達が準備会からの脱会を申し入れてきた。「四国には仕事がなくて……。許して下さい」と小さな頭を下げた。
 私はビラの束をドブ川に沈めて、雨の中を自転車をとばして出勤した。事務所の名札はすでにはずされていた。
 今はドブ川飲食街も立ち退き跡地は道路となり、造船所も他県に移転してしまった。
 西成区には大きな下水処理場はあるのに、路地に入れば市の下水管が入っておらずに、集中的な大雨や梅雨にあふれたり、つまったりするところがけっこう多い。簡単な手続きで、市が無料で立派な下水施設をしてくれ、跡はきれいに舗装もしてくれる。私はいつもこのことを強調しているので、梅雨になればあちこちから相談が入る。そんな中にかっての社外エ仲間もいて、旧交をあたためあうこともある。
(ー九九四・五)

今昔西成百景(013)

◎玉出

 玉出西一丁目元外科医院の跡地にパチンコ店の建設が計画されているが、地元の町会や PTA はあげて反対し署名連動などを行なっている。要望書には「この計画の周囲一帯の玉出地区では、従来から地域の住民の努力により閑静な住宅環境が維持されてきたところです。なかでも、パチンコ店が計画されている敷地の北側は”ゆずりはの道”として整備されており、またスク—ルゾ—ンとしても近隣の児童・生徒の通学路としての通行の安全が確保されるべき付近の住環境上枢要な場所であります」とかかれている。
 反対の会の人は、玉出には別の場所にも数軒のパチンコ店が営業されようとしており、このままいけば玉出は「パチンコの街」になりかねないと話す。
 西成税務署が発表した平成五年度区内高額納税者ベストニ〇中、パチンコ業者は四名。この深刻な不況の中でなぜパチンコ屋だけがもうかるのか。残業なし、仕事なしの人達が、”一発逆転”をねらうのと、女性客の増大が原因であろうが、資金面では店の中で利用者のためにローンの斡旋までやられているとの話もある。これで「健全娯楽」のはずがない。

当局と業界のマッチポンプ

 パチンコ店急増のうらには、当局による「規制緩和」があるのではないか。かって府警のトバクゲ—ム機汚職が発生したとき、府議会で追求すべく資料を調べて驚いたことがあった。パチンコ業界の組合の幹部になんと多くの府警幹部の OB が天下っているかということである。しかも今回の問題の場所への出店計画者は、警備会社だという。これも府警との結びつきの強い業界である。府警をゆるがしたトバクゲ—ム機汚職から十年、「歴史はくりかえす」でなければよいがと思う。
 玉出地区は道路も広く、公園も整備されているのは、戦後、戦災復興土地区画整理事業を行なったからであり、多くの住民の努力の賜物なのである。
 伝説によれば、海神の娘豊玉姫に恋人ができたことを祝って、海神から贈られた宝珠を埋めた場所から「玉出」の由来がきているとあるが、はっきりしているのは勝間村にあった生根神社の字が玉出であったことによるものである。決して後世のパチンコ業界繁栄のためにネ—ミングしたものではないことを付言しておく。

(ー九九四・八)

南大阪歴史往来(009)

◎「初辰さん」

 住吉大社第一本宮の東側、高さ約二十㍍幹回り約八㍍樹齢約七百年、大阪市の指定保存樹にもなっている、楠の老大樹を背に鎮座するのが、楠珺理社である。祭神は宇迦御魂神(うがのみたま)日本名は倉稲魂尊といい、「稲荷大明神」という名で全国に祀られている。素佐之男尊と奇稲田姫の第六子である。

四十八回で「始終発達」とは

 住吉のこのお稲荷りさんは特に、商売繁盛の神「初辰さん」として親しまれ、毎月初辰の日には大いに賑わっている。樹に棲まうという巳さんの霊力を信仰し、四十八回の月参りに「始終発達」とかけて参詣する人が絶えない。社頭で羽織を着て片手で人を招く「招福猫」(まねき猫)を受けて帰ることができる。
 住吉大社の北方向、かって住吉神宮寺のあった広場、通称「桜畑」の一隅に種貸社がある。祭神は楠珺社と同じ宇迦御魂神である。この神は農耕の神であるが、子宝が授かるとして信仰されている。ここでは「種貸人形」がもらえる。
 住吉大社の南横にある浅沢神社の更に南側に、細井川をへだててこじんまりと祀られているのが大歳神社である。祭神は大歳神。もとはここから約五十㍍西にあったのを、明治二十二年当所に移した。
 大歳神が五穀豊饒・収穫の神であることから、商人の節季のときの集金に霊験あると信仰されている。
 当社には人形はないが「ス夕—」がある。というのは当社拝殿右横に小祠があり、石灯籠の柱の上に丸石が置かれてある。これを「お愛し星」とよび、この石を持ち上げてみて軽く感じると願いが叶うという。初め置かれていた石は隕石だといわれ「星」の扱いがなされていたとのことである。
 そしていつの頃からか「種貸社」で資本を授かり、「楠珺社」で商売繁盛を願い「大歳神社」で金の円滑を頼む、という順拝が盛んになってきた。

三祭神は出雲一族の超人物

 しかし、私が先ずここで注目したいのは、三神神社の祭神についてである。楠珺社と種貸社の祭神は共に宇逝御魂神で稲作の研究に力を入れ、農民から慕われたという。
 大歳神とは京都の八坂神社の記録によれば、父素佐之男母奇稲田姫の間に生まれた八人中の第五子で、後に初の大和の大王となった天照国照大神のことで、父と共に九州平定をやったので、九州地方に「大歳神社」が多い。
 そしてなによりも、大和と周辺にある大神(おおみわ)神社—三輪明神、石上(いそのかみ)神社、大和(おおや
まと)神社、熊野本宮大社、賀茂別雷(かもわけいかずち)神社、日吉(ひえ)神社などの有名神社の主祭神が大歳神即ち、天照大神の前の天照大神である天照国照大神だとということで,ある。
 日本書記や古事記で「大物主は大国主の別名である」と書かれているのはウソで、大神神社で大物主と大国主が並んで祀られている以上、これは別人である。

勝ち組日向一族歴史をつくる

 日向一族の天照大神を「皇祖」とするために、対抗する大先輩の出雲一族の神々を変名したり抹殺したりする、歴史の偽造を日本書紀や古事記でやってきたのに、今でも民衆に親しまれているのは、出雲一族のお稲荷さんや大歳さんであるというのは、歴史の皮肉として面白い。
 古事記のできたのは西暦七ニー年で、古代とはとうてい云えない時代で、各氏族各地の歴史書もあった。当時全国に祀られていた神社は約三千から五千位で、その内の出雲一族を祀っているのが約八割で日向一族は約二割位であったという。それぞれの由来もあったはずである。
 そこでこの割合を逆転させようとして、日本最初の天皇である天武や藤原鎌足の子の藤原不比等らが、永年かけて神社への攻撃・圧力、系図の没収・破棄を行い、ついには大々的な歴史の捏造として古事記・日本書紀を持ち出してきた。つじつまの合わない部分は全て「神話」にしてごまかすという、悪質なやりかたをとったため、日本の歴史はまともに教えることのできない代物になってしまったのである。

明治以後の戦争の歴史はダメ

 明治になり「王政復古」の時来たれりとばかり、今度は「天皇は現人神」という絶対主義的天皇制の圧政で、以後八十年間押し通してきたが、結果は二千数百万人の人命を奪って、無残な敗北を喫してしまう。その時点で日本が世界に行なった公約が「平和憲法の遵守」なのである。ところが最近、憲法を改悪し日本を再び戦争のする国に復活させようという策動が、活発にやられてきている。しかし、この道はいつか来た道。絶対に避けなければならない、破滅への道なのである。
 歴史的に見ても好戦勢力は少数である。そこで彼等は様々な策略を巡らす。これを見抜き、平和を願う多数派に呼び掛けることにより展望は必ず開けると思う。

事態は順拝だけでは打開不能

 私はここでもうひとつ問題にしたいのは、今の中小零細自営商工業者の暮しと営業の問題は、今までのような三社順拝ではすませないほど、事態は深刻だということだ。
 私の地元の西成区では店舗の半分が空きという商店街もあり、酒屋・米屋が廃業続出という昔では考えられなかったようなことが、起こっている。「かなわぬときの神頼み」ではだめだ。大企業は空前の大儲け、競争万能主義はついにスピード争いとなりJR 西日本は、大事故を起こしてしまった。
 今、人々のやらねばならないことは団結だ。徹底的に団結することだ。答えは必ずそこからでてくる。「はったつ」ではなく悪政に「はらたつ」こと、本当に怒りに立ち上がることだ。

今昔木津川物語(009)

西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(四)

◎大海《だいかい》神社 (住吉二)

 生根神社の正面鳥居を南へ行けば、熊野街道と紀州街道を結ぶために、大正期に元の材木川を埋め立ててつくられた住吉|《しんみち》新道に出る。横切れば、目の前が大海神社の北の門。道路から高い分だけ数段登ると、そこはすでに平安《へいあん》の昔にかえっている。

浦島《うらしま》太郎のモデル

 大海神社の祭神は海幸《うみさち》・山幸《やまさち》の神話《しんわ》で知られる豊玉彦命《とよたまひこのみこと》と豊玉姫命《とよたまひめのみこと》の親子で、私の小学生のときには教科書《きょうかしょ》に挿《さ》し絵《え》つきでのってあった。
 兄の海幸彦が大切にしていた釣針《つりばり》を失ってしまった弟の山書は、海底《かいてい》にさがしに行き豊玉姫の協力を受ける。兄弟の争《あらそ》いはその後も激しくなり、山幸が危《あや》うくなったときに豊玉姫が持参の「潮満珠《しおみちのたま》」で海潮《かいちょう》を呼び寄せ難《なん》を逃《のが》れる。
 その珠《たま》を沈《しず》めたところということでこの辺りを玉出島《たまでしま》とよび、住吉でも古来《こらい》より最《もっと》も早くひらけたところといわれている。仁治《にんじ》二年(ーニ四二)にこの玉出島出身の勝間大連《こつまおおむらじ》が勝間村(こつまむら・現西成区玉出)を開発した。
 大海神社の本殿は住吉大社の本殿と同型同大《どうけいどうだい》の住吉造りで、重要文化財に指定されている。もともとは住吉大社の神主|津守氏《つもりし》の氏神《うじがみ》で、かって境内は藤《ふじ》と萩《はぎ》の名所であった。永年の間住吉大社の陰《かげ》にかくれていたので、浮世離《うきよばな》れしたおもむきを残している。人手があまり入らず樹木《じゅもく》がうっそうとしているのも都会ではめずらしい。
 海幸・山幸の神話はお伽話《とぎばなし》「浦島太郎」のひとつだといわれており、かって近くに「玉手箱《たまてばこ》」という地名があったというのもおもしろい。

まぼろしのご本尊は天下茶屋へ

 ここで特に記しておきたいことは、生根神社から大海神社までの間にかって三千佛堂という寺院があり、秘佛《ひぶつ》阿弥陀如来《あみだにょらい》が安置《あんち》されていたが、明治初年の廃佛毀釈《はいぶつきしゃく》で廃寺《はいじ》となった。本尊は天下茶屋の安養《あんよう》寺に移転されたが、空襲《くうしゅう》で焼失《しょうしつ》してしまったという、いまでは世間からほとんど忘れさられているひとつの事実である。
 大海神社を南に出ると通称「桜畠《さくらばたけ》」といわれる広場があり、終戦直後には毎年の様に盛大な盆踊りがやられ、私もよく見物に出かけた。
 仮装《かそう》して踊る人もあり、敗戦の悲惨《ひさん》さと終戦の喜びとが交《ま》ざりあった複雑な雰囲気《ふんいき》のなかで、踊りの輪《わ》が幾重《いくえ》にもふくらんでいった光景《こうけい》を今でも、夢のなかの一場面のようにおぼえている。
 実はこの「桜畠」にも明治までは、住吉神宮寺という天平宝字《てんぴょうほうじ》二年(七五八)に創建された豪壮《ごうそう》な寺院が存在していたのである。
 本尊には薬師如来《やくしにょらい》が祀られ「新羅寺」ともいわれ、「古今著聞集《こんせきちょぶんしゅう》」にも名が見える格の高い寺でもあり、一休禅師《いっきゅうぜんじ》も応仁《おうじん》の乱《らん》を避《さ》け住吉に八年間居住した頃によく参籠《さんろう》したという。

廃佛毀釈《はいぶつきしゃく》は住吉大社にも

 この寺も明治の廃佛毀釈で堂宇は《どうう》破壊《はかい》され廃寺となってしまった。「桜畠」の東側の森の中にある住吉大社の末社《まっしゃ》のひとつである招魂社《しょうこんしゃ》が元神宮寺の唯一《ゆいいつ》の遺物《いぶつ》で「旧護摩堂《きゅうごまどう》」であったという。その廂《ひさし》に葵《あおい》の紋《もん》が刻《きざ》まれているのが、神宮寺が天台宗《てんだいしゅう》東叡山《とうえいざん》に属していたことを物語っているといわれている。
 ちなみに廃佛毀釈とは明治の新政府が、江戸時代における仏教中心の宗教政策をやめ、神道《しんどう》中心主義を採用《》さいよう、これにより政府《せいふ》の権威《けんい》を高めようとしたもの。神仏混淆《しんぶつこんこう》を排し神社からの仏教的|要素《ようそ》の一掃《いっそう》をはかるため、日吉《ひえ》神社、石清水八幡宮《いわしみずはちまんぐう》をはじめ各地で仏堂や仏像・仏具・仏画の破壊をほしいままにして多くの文化財を抹殺するという歴史に残る暴挙《ぼうきょ》を行ったのであったが、住吉大社でも例外《れいがい》ではなかったというわけである。

大阪きづがわ医療福祉生協総代会開催!

 2024年6月23日、第13回通常総代会が開催されました。その中で、がもう健さんの郷土史エッセーを紹介する機会がありましたので、掲載します。

 今までの総代会の討議をお聞きして、このきづがわ医療福祉生協が、以前にも増して、一段と高いところに立っているととひしひしと感じますので、私の発言はいささか蛇足に過ぎない感もありますが…
 とりあえず、今日は私のためにかくも盛大にお集まりいただき(笑い)ありがとうございます。こうした機会で皆さんにお話できるのも最後になるかもしれませんので、心してお聞きください。今日の総代会のテーマとほとんど違う話で、こちらもご了解ください。
 さて、さる3月に事務の人にビデオを撮ってもらいながら、大阪きづがわ医療福祉生協の初代理事長のがもう健さんのインタビューをしました。以下、インタビューのハイライト(再掲)です。


 がもうさんは、西成をはじめとする、医療福祉生協の定款地域でもある大阪市南部を中心とした郷土史を探求・研究し、2冊の冊子を出版されています。いみじくも、その一冊が、この会場のある阿倍野区の図書館にも収められていると聞きます。そこでは、大阪きづがわ医療福祉生協の南北をつなぐ木津川に寄せるがもうさんの思いから始まり、ここ阿倍野にゆかりのある安倍晴明神社‐大河ドラマ「光る君へ」では、少し山師ぽく胡散臭く描かれていることが興味を引きますが‐のがもうさんらしい紹介もあります。更に印象深いことに、先代の西成民主診療所も、きちんと「郷土史」のなかに位置づけられていることです。私事にわたることながら、写真の診療所に赴任して30年近くにもなり、今更ながら不明を恥じるばかりですが、大袈裟に言えば、遠く古代の昔からここに暮らす人々の願い、希望に寄り添ったものであることを身に沁て感じるところです。決して悲観的になるわけではありませんが、こうした願い、希望も達成できなかった、叶わなかったことのほうが、叶ったことよりずっと多いことでしょう。でも、そのことは、今日の総代会を期に、必ずや次の一歩の踏台になることも同時に確信します。その中では、「西成民主診療所」という名称も、愛着は重々あるとは思いますが、新しい名称に変更することも検討の必要性があると個人的には思っています。今後のご討議に期待します。
 最後に、がもう健さんの「今昔西成百景」のあとがきから引用して、発言を終わります。ご静聴ありがとうございました。

「地獄極楽この世にござる」「神も仏もないものか」と云いたくなるような話が、 每日のようにとびこんでくる今日この頃。遠い祖先より人々はこの地で、一体 何をしてきたのか、またそれが歴史上どうなのか。このことを探求する以外に確信のもてるものはないのではないか。戦争とか災害とか貧困とかが、「暗い話」としてその資料が抹殺され、記録が歪曲され、人々の記憶からも消し去られようとしているときに、 あえて「後向き思考」でいろんなことを再検討してみることでこそ、本当の意味での「明日への展望」が生まれる。郷土史がただ単なる「故郷自慢」ではなく、地方史として真剣な再検討がもし全国で始められたならば、 世直しのうねりと必ずなりうる。こんな大きな希望をもつて、 こんな小さな本をまた出した次第です。

今昔西成百景(012)

◎天津橋

 一九七〇年の大阪での万博開催にむけて、阪神高速道路堺線が突貫工事で十三間堀川を埋め立てて、一本足スタイル、全部セメントでつくられた。今、阪神大震災での阪神高速神戸線の崩壊で、全く同じ条件でつくられた堺線の安全性が問題になつている。
 十三間堀川は、元禄十一年(一六九八)河村瑞軒の設計になるという長さ四四町(約四・八キロ)、幅十三間(約二三・七メートル)木津川の水を引いて堺の北で海に注がしめた。南大阪における唯一の運河として、二百数十年の間治水と運輸交通に大きな役割を果たし、南大阪発展に奮闘した西成の名物のひとつであった。


十三間堀に十四の橋

 かって十三間堀川には、数多くの橋が東西に架けられていた。西成区内のを北からあげてみると、万才・浜津-豊津,長橋・鶴見・梅津・松栄・中津・汐津・国勢・南津・天津・育栄・長崎・回生橋となる。
 その中でも、命名の由来が推測しがたいもののひとつに、「天津橋」がある。千本通と南津守を結ぶところであるが、かつては主要道路が交叉する交通の要所であった。私の記憶では、幅も広い道路の延長のような、頑丈なコンクリ—卜づくりの橋で、自動車もよく通っていた。

「天津橋」の跡、今は阪神高速の真下に

 千本と津守から一字づつ取れば「千津」になるし、地元の勝間村を飛び越えて、天王寺村や天下茶屋の名を付けることはなかったはず。まして当時は徳川の時代、宿敵豊臣秀吉を持ち上げるような、「殿下茶屋”天下茶屋」をわざわざ借りてきたとはとうてい考えられない。謎は益々深まるばかり。
 そこで、以下は私の大胆な推測になるが。「天つ風 雲の通ひ路吹きとじよをとめの姿しばしとどめむ」、これは小倉百人一首に出てくる、舞姫を天女にみたてた僧正遍昭の歌であるが、「天津乙女」とは、静岡県の三保の松原に舞い下り、羽衣を忘れた天女のことである。羽衣伝説は、この他にも全国の美しい松原のあるところには多く在り、堺市の「羽衣駅」も、かつての白砂青松の地であった泉州の海辺から生まれたものである。それでは、西成に天女が舞い下りて来るようなところがあったのか、ということであるが、それがあったのである。

かつては景勝の地

 「今の木津川千本松渡船場あたりは東に津守新田が拓け、景勝の地であった。天保三年(ー八三二)、八七〇余間(一六〇〇メ—トル)の堤を築いて松を植え列ね千本松と称し、船や汐干狩りに多くの人々が遊んだ。丹後の天の橋立、駿河の三保の松原にも比せられる名所であった」と物の本には書かれている。昔の人は、西成にもロマンがあるということを、後世の私たちに伝えるために、「天津橋」と言う命名でメッセージを送ったのではあるまいか。
 十三間堀川についても、「明治の初年頃までは両岸に松や柳の並木が在り頗る風情に富み、大阪より楼船を浮かべ、道頓堀川より船で住吉に遊ぶものが多かった」と伝えている。
 今、「天津橋」の跡地は、振動・騒音・排気ガスの阪神高速の真下になる。公害だけでなく、交通事故の多発地点でもあり、先日も知人が死亡事故に遭い痛恨の想いをした。かつて先人がこの地に「天津乙女」を夢みたとしたら、この百年間は住民にとって一体何であったのか。区役所はさかんに「好きやねん西成」とキャン・ペーンをはるが、止まらない人口の減、特に子供のいる若い世帯が少なくなっている現実をみれば、今の西成は決して住みやすい街ではない。子供の笑い声の絶えない、老若男女のバランスのとれた西成の街づくりのために、先人に負けず、草の根運動でがんばろう。
(ー九九五・五)

南大阪歴史往来(008)

◎浅沢神社(上住吉二ノ十ー)

 住吉大社境外末社、祭神市杵島姫神。祭神は本来は海神であるが、女神から弁財天と神仏習合し、芸能の神として崇敬されている。


昔は浅沢小野の風情の名勝

 かつては清水のわく大きな池があり、奈良の猿沢の池、京都の大池と並ぶ近畿の名勝地であった。特に美しく咲き乱れる杜若(かきつばた)は有名であった。
 しかし、明治維新以後は無格社となり、ほとんど民有地となり荒廃していた。その後大阪松島の人清水某氏が当社を深く信仰していたところ家運隆昌し、松島でも屈指の資産家となったとして、明治三十四年池を浚浚渫、社殿の修復を行い灯籠を奉納するなど面目を一新させ、現在見るように堀の小島に鎮座するようになった。明治四十一年五月には改めて境外末社となった。
 松島の清水某氏が何の商売で大金持ちになったかは不明だが、大阪の松島といえば大歓楽街であり、いわゆる遊廓の関係ではなかったかと思ってしまう。

広島の厳島神社と同じ神様

 堀の小島に本殿があるというのも祭神をみれば当然のことで、市杵島姫社とはあの有名な安芸の宮島、海の中の神社広島県の厳島神社の主祭神「市杵島姫」のことで、今ではイツクシマと発音しているが、昔はイッキシマといわれていた。
 民間の歴史研究家原田常治氏が七十ニオになってから、日本書紀の八割、古事記の五割以上はウソだという立場から書いた古代史によれば、市杵島姫は日向の大日霊女貴尊(ひみこ・後の天照大神)の第五子で父は日向に攻略に来た素佐之男尊である。
 市杵島姫がなぜ海の女神になったかと云えば、西暦二百三十年に大和に養子として東したひみこの孫伊波礼彦尊((後の神武天皇)が、暇乞いのあいさつに来たときに、航路の平安を祈願したことによるもので、初めは一人であったものが後に二人の姉が加わって海の三女神となり全国のとくに海、航海に関係のあるところに祭られるようになった。

杜若と和歌の名所は今は区花

 住吉大社は海上守護の神という抽象的な神に対して浅沢神社の神は、実在していた人物を女神にしたであろうという点で、また杜若の名所でもあり、古来より多くの和歌が
ここでよまれている。
 すみよしの
   浅沢水に影みれば
   空行く月も草がくれつつ
     津守国助
 いかにして
   浅沢沼のかきつばた
   紫ふかくにほひ染むらん
     藤原定家
 いざや子ら
   若菜摘みてん根芹生ふる
   浅沢小野は里遠くとも
     藤原俊成
 この杜若は、現在地元住吉区の「区花」になっている。

人身御供が海をしづめる

 日本の古代交通はほとんど船であった。海が荒れ出したら、何か魔物でも住んでいるのではないかと思われた。その魔物の怒りをしずめるため場合によっては女性が船から飛び込んで、人身御供になり海をしずめることもたびたびあった。
 伊波礼彦が生駒で長髄彦に追われ、大阪湾を逃げて熊野へ向う途中でも、海が荒れてだれかが海へ飛び込んで人身御供になっているはずだ。
 戦前の日本では、女性が親の借金や家族の病気の治療費のために苦界に身を沈めた話が多い。大阪松島の歓楽街でも、そんな話は山程あったはずだ。果たして女神は守ってくれたのかどうか。
 先日、久しぶりに浅沢神社を訪れ、玉垣を調べてみたがほとんどが最近新しく造り替えられていた。ただ一本特に太く古いのがあって、そこには深々と「松嶋清月楼」と彫りこまれていた。