今昔西成百景(003)

◎住吉街道

 「西成区史」によれば、西成区は天王寺区、阿倍野区などの高台に展開された 集落とは異なり上町台地西側の低地帯に属し、中世時代まではおおむね海浜とみ られた地であった。すなわち北部の旧村今宮の古名といわれる津江の庄にしても、南部の旧村玉出の別名古妻浦、さらには隣村粉浜などの村名をみても、ある いは最近まで町名に残っていた入船町・ 今船町・曳船町・甲岸町・海道町などか らみても、昔海浜であったことが容易にうかがえる、となっている。

わが町も昔は海浜

 昔海中または、よくあしのしげる浅州 であったものが、玉出については、仁治年中(―二四〇~―二四三)里長某がこ の地を開さくして住吉神社の神領とした にはじまるとされている。万葉集などで 詠まれた名児之浜、奈呉の浦ないし敷津の浦などは西成区一帯の海とみられる。

住吉之名児之浜辺に馬立てて玉拾いしく常忘らえず

もしほ草敷津の浦に船とめてしはしは 聞かん磯の松風

 こうした海浜に点々とした漁農村状態 であったのが、足利時代(一三三八)よ り陸地化が進み、大坂に入る軍事上要衡 の地として今宮・木津.勝間等の名が盛 んに史書に出るようになった。
 足利時代末期に上町丘陵を走る阿倍野街道に代わって、新たに大坂より堺に至る往来路として低地を走る住吉街道(紀州街道)の出現を見たことは、西成区内の発展に多大の影響を与えた。この道は 堺筋を南へ日本橋を渡り長町をすぎ、行き当りを西ヘ一丁行き、今宮札の辻(現在の恵比寿町交差点の西、一番目辻)から南へ今宮新家、天下茶屋、住吉新家(現在の西成警察署、北天下茶屋市場、塚 西交差点辺り)、安立を経て堺•紀州にるものである。豊臣秀吉も住吉神社ある いは堺政所往還の途中、利休その他の臣下を従え天満宮紹鴎社(現在の岸里東二 丁目)付近の茶屋に休憩し、このために 太閣殿下が憩われたとの故事から殿下茶屋、さらに天下茶屋の名が出たといわれる。
 摂津名所図会には「その頃は街道沿い は未だ海岸線に近く、白砂青松の風景を愛でながら住吉の詣人は道草に時をうつ し、堺の魚荷は徒歩はだしにて宙をかけり、浪華より紀泉両国の新通路として旅人の往来絶ゆることなし」と伝えられている。
 恐らく紀州の殿様徳川吉宗も、この街 道に馬を走らせ胸踊らせて江戸城に入り、八代将軍に成ったことであろう。

住吉街道ゆかりの人

 私にとって住吉街道と言えば、故西口喜代松氏につながる思い出が数多い。天下茶屋一丁目一番地(旧今船町)で、戦後いち早く日本共産党の看板を掲げて活動を始めた氏の自宅は住吉街道に面していた。十年位前まで、三十年以上も共産党の事務所や赤旗新聞の販売所として、表の間を使わせて貰っていたが、地元だけでなく車からもよく見えるので、知る人も多かった。

 西口氏は一九七七年六月、七〇オで亡くなるまで、選挙の時は中心になって今宮小学校の講堂を満席にする位の力があ り、誠実・率直・ユーモアに富んだ人柄は党派を越えて支持されていた。元大阪 市会議員四方棄五郎氏の西口氏追悼文の一節を次に紹介する。

 「西口氏のモーターパイクで赤旗新聞を配る、あの颯爽とした姿はもう見られなくなりました。かつて重税と差し押え の嵐が吹き荒れた時、自殺した業者の抗議の葬儀を西成税務署前で行い、責任者 として逮捕されたこともありました。戦後三〇年間、西口氏は西成のこの町で 人々のよき相談相手とし、また環境を守るための住民運動など、様々な問題に取り組まれ、その足跡は極めて大きなもの があります。遺志を受け継ぎ前進を誓います。」

(一九九五・九)

追記】
「四方棄五郎さんを偲んで」でのがもう健さんの追悼文です。

「真実一路」の由来をさぐる

 四方さんに座右の銘をきけば、必ず「真実一路」という答えが返ってきた。しかし、 その選んだ訳はききそびれてしまった。
 一九三六年刊行の山本有三の小説に「真実一路」というのがあるが、 少年義夫をめぐって作中の各人物がそれぞれ真実に生きていくという内容で、 男女の愛憎劇が中心であり、 当時十四才の四方少年にはどうであったろうか。
 一九三セ年より朝日新聞に連載を始めた山本有三の小説「路傍の石」は、成績優秀なのに貧しさゆえに中学へ進学できない吾一少年が主人公で、全国の少年少女の心をつかんだと云われている。当時、叔父さんの元で緘灸師の修業に励んでいた四方さんもきっと愛読していたにちがいない。
 しかし、「路傍の石」は吾一少年が奉公先をとびだし上京後、資本主義・出世主義・社会主義にさまざまな登場人物を通じてふれていき、労働者の団結事件にぶっかった時点でついに作者が官憲の弾圧を受け、話の筋を変えるくらいならと、山本有三は「ペンを折る」の声明を出して未完となったのである。この年は大政翼賛会が発足し、「紀元二千六百年祭」が全国で大々的にやられた。
 どうやら「真実一路」「路傍の石」での二人の少年の姿が重なって、弾圧後の吾一少年の生き方を四方さん自身になぞらえて座右の銘が決まったのではないか。「勝手な推理をするな」と四方さんの声がきこえてきそうだが…。

真実一路の旅なれど
真実、鈴ふり、思い出す
白秋「巡礼」

「四方棄五郎さん追悼文集」(1998.8.30発行)から

今昔木津川物語(002)

西成・阿倍野歴史の回廊シリーズ(二)

◎天下茶屋|跡《あと》と紹鴎《じょうおう》の森 (岸里東二-一〇・二-三)

 私が西成の郷土史に興味を持ち始めたきっかけは、太閤秀吉の殿下《でんか》茶屋が天下茶屋になったという 、至極《しごく》おめでたい話に疑問を感じ始めたことからである。
秀吉は農民出身であるだけに、わずかな隠し田も摘発《てきはつ》し、家・納屋《なや》の敷地にまで年貢《ねんぐ》をかけたという。米二俵を納められなかった農民《のうみん》夫婦と子供二人を殺させたのを、当時の外国人|宣教師《せんきょうし》が書き残している。
 その秀吉が、景色が良い水がうまいというだけで、毎年三十俵からの米を、西成郡|勝間《かつま》村|新家《しんけ》の一茶屋に支給する約束をなぜしたのか。それではまるで好々爺ではないか。何かウラがあるぞ、というのが私の直感だった。

茶道中興《ちゃどうちゅうこう》の祖《そ》武野《たけの》紹鴎

 この地に天文《てんぶん》年間(一五三二〜五五)から茶屋を出していた茶人武野紹鴎は、茶の眼目《がんもく》に「和敬静寂《わけいせいじゃく》」の理念《りねん》を説いた反面、雪舟《せっしゅう》や一休《いっきゅう》の筆墨《ひつぼく》はじめ高麗茶碗《こうらいちゃわん》などの名器を収集し、その鑑識眼は大変なものだったという。また門人に千利休《せんりきゅう》など茶道史《さどうし》の傑物がいた。
 武野紹鴎はそれだけではなく紀州街道(住吉街道)が、当時深い森でさまたげられ、勝間街道か熊野街道まで回り道をしなければならないというなかで、私財をなげうって森をきりひらくという偉業《いぎょう》をなしとげていた。そのため今日に至《いた》るまで、紹鴎の勧請《かんじょう》した天満宮のことを天神の森天満宮とも紹鴎の森天満宮とも呼ぶのである。
 紹鴎はまた、道行く人々に無料で茶をもてなすなどして茶道の大衆化にもつとめ、世人はこれを紹鴎の施行茶《せこうちゃ》、日本一の茶屋とたたえた。これらのことからして、秀吉の殿下茶屋の以前から、紹鴎の茶屋はすでに天下茶屋と呼ばれていたと私は推理《すいり》するのだが、明治三十六年発行の大阪府が編者となった大阪府誌第五編にも「然して此の天下茶屋の称《しょう》は、あるひは秀吉の堺|政所《まんどころ》へ往復の際立ち寄りてその風景を賞せしより起こるといひ、或るひは紹鴎の茶亭《さてい》より出たといひ、その他或るひは其の以前よりありといひ詳かならず」とある。

非運《ひうん》の人武野|宗瓦《そうが》

 武野家は紹鴎が五十四オで没《ぼつ》してからは数奇《すうき》な運命《うんめい》をたどる。長男の武野宗瓦は茶道《さどう》の才能も父|優《まさ》りといわれ気骨と品位《ひんい》にも恵まれた人だったが、坊ちゃん育ちにつけこまれ、まず二十五オのとき、織田信長《おだのぶなが》に父の遺品《いひん》「紹鴎|茄子《なす》」と「松島茶|壷《つぼ》」の名器を取り上げられたうえに追放処分《ついほうしょぶん》となり、紹鴎の森に隠棲する。本能寺の変で信長が急死したため、二十九オでやっと茶道の宗家《そうけ》を継いだものの、天正《てんしょう》十六年には父の弟子の手引きで秀吉に「備前《びぜん》水こぼし」「茄子|盆《ぼん》」など父の秘蔵《ひぞう》物約七十点すべてを没収《ぼっしゅう》され再び追放となる。宗瓦は不遇《ふぐう》のままその後|病没《びょうぼつ》するが、その場所も定《さだ》かでないという。
 一説には、宗瓦は直前にすべてを持って家康《いえやす》のもとに妻子《さいし》と共に身を寄せ北野大茶会《きたのだいちゃかい》に欠席し、秀吉に大恥《おおはじ》をかかせたともある。
 紹鴎秘蔵の品といえば、当時は茶器《ちゃき》ーつで城《しろ》一つに匹敵《ひってき》するといわれた程のものであり、現在《げんざい》ならいずれも国宝級こくほうきゅう佳の逸品《いっぴん》であったろう。
 地元の尊敬《そんけい》を受けていた武野家を白昼強盗《はくちゅうごうとう》のようにして抹殺してしまった秀吉に、世間の厳《きび》しい批判の目が向けられたことは、当然のなりゆきだったと思われる。

秀吉の隠蔽工作《いんぺいこうさく》

 徳川《とくがわ》家康に絶《た》えず厳重《げんじゅう》な警戒を払《はらい》いながら、諸大名には褒美《ほうび》をおくりやっと天下人《てんかびと》になった秀吉にとっては、大坂《おおさか》での悪評《あくひょう》のどんな一つでも、命取りになりかねないとの思いがあったのではないか。
 河内屋の芽木小兵衛《めきしょうべい》にたいして、井戸には「恵水《けいすい》」の名と毎年米三十俵を与えるとのお達《たつ》しが華々《はなばな》しくやられたのは、武野宗瓦追放劇の直後であったことからしても、殿下茶屋|発祥《はっしょう》劇はその隠蔽工作とみるのが歴史の常識《じょうしき》ではないだろうか。

紹鴎の名を残した小兵衛

 突然《とつぜん》太閤秀吉にほめちぎられた、芽木小兵衛の心中は複雑《ふくざつ》であったろう。恩人武野家のことを思えば胸《むね》ははりさけんばかりである。
しかしそれは絶対に表《おもて》には出せない。しかしこのままでは、後世の人は何と思うだろう。自分の意志《いし》を残しておきたい……。
 南北朝《なんぼくちょう》の「忠臣《ちゅうしん》」楠木|正成《まさしげ》の子正行《まさゆき》の十代目、正長《まさなが》の三男|昌立《まさたて》としての誇りにかけても。
 今、紹鴎の森天満宮の住吉街道側の鳥居《とりい》から入るとすぐ右手に、子供の背丈位《せたけぐらい》の表面《ひょうめん》がぼろぼろになった石が一つ建っている。まるで路傍《ろぼう》の石のようなこれこそが、三代目芽木小兵衛昌立が万感《ばんかん》の思いをこめて、四代目小兵衛|昌包《まさほう》に「紹鴎の杜《もり》」と深々と刻ませた歴史の証人《しょうにん》なのではないだろうか。石に手を置けば頭上《ずじょう》高くで、樹齢《じゅれい》六百年の楠《くすのき》が風でざわめいていた。

【注記】
ルビ(ふりがな)の表記は、青空文庫の基準に準じています。すなわち、ルビ部分は《》で囲み、二字以上の漢字などには、区切りとして、「|」を用いています。
本文や画像の二次使用はご遠慮ください。

【参考】
Wikipedia 武野紹鴎
Wikipedia 武野宗瓦

急告-2月13日(火)と14日(水)のデイケアを中止します。ー再開しました。

コロナ感染症の拡大防止のため、2月13日(火)と14日(水)の西成民主診療所デイケアを中止します。大変ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします。
配色サービスなどの代替えサービスは、担当のケアマネージャにご相談いただきたく存じます。また直接、西成民主診療所に、電話をいただいても結構です。

2月15日(木)から、デイケアは再開しました。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。

今昔西成百景(002)

◎安養寺
 安養寺(岸里東一丁目)は浄土宗知恩院派一心寺の末寺で本尊は阿弥陀仏、元禄二年(一六八九)三月、西国巡礼を志した官女が当地寺田善右衛門方に滞在中、善右衛門の勧めで大阪一心寺の天誉和尚に弟子入りし、貞誉清薫と名を改めて、剃髪、同寺を創建した。二回の火災、空襲と受難の多い寺だ。
 安養寺には文政四年(ーハニー)七〇才没の劇作家佐藤魚丸の墓や、嘉永二年(ー八四九)五七オ没の、大阪相撲の名カ士猪名川の墓がある。猪名川の墓の横「紙治おさんの墓」と刻まれた小碑は、近松門左衛門の最高傑作の一つ「心中天網島」のモデル、紙屋治兵衛に貞節を尽くした妻、おさんのものである。
 話は「天満の紙小売商治兵衛は曽根崎新地の妓婦小春にひかれ三年越しの関係となる。妻のおさんはついに小春に直接夫と別れるように頼みこみ、小春はわざと治兵衛に愛想づかし。そのあと小春に身請け話が出て自害しようとするのをみて、おさんは夫に事実を話し小春を身請けさせようとするが、怒ったおさんの叔父五左衛門に無理に連れていかれ、小春と治兵衛は大長寺の薮で心中する」というものである。

おさんが安養寺の尼僧に

 この心中事件は享保五年(一七二〇)ー〇月ー四日の夜のことで、おさんの墓に宝暦九年(一七五九)とあるのは、おさんは夫を失ってから三九年生きていたことになるが、夫の一回忌を済ませたあと出家し、晩年は安養寺の尼僧になったと伝えられている。
 松の木大明神(太子二丁目)は、今池市場の西裏にあり創建は不明だという。この境内に近松門左衛門の巨大な碑がある。明治三〇年に建立し、四年後に南区より移転したもので、近松の辞世の句も刻まれている。
 赤穂浪士討ち入りから四ヵ月目の元禄一六年(一七〇三)四月、曽根崎露ノ天神社の森で心中があり、近松はこれを「曽根崎心中」として五〇才のとき書いた。六七オになって書いた「心中天網島」では、この事件を住吉にいて聞いた近松は早籠を雇って現場へ急行したとつたえられている。近松の「心中物」が、封建社会の束縛の告発から社会性をおびるようになることを恐れた八代将軍徳川吉宗は、享保八年(一七二三)に心中物の上演を禁じる法令をだした。その翌年近松は世を去った。七二オであった。

江戸時代にはあった年貢の減免

 NHKの大河ドラマ「八代将軍吉宗」では、庶民派将軍として描かれ、得点を稼いでいるが、実際の吉宗は極端な引き締め政策を取ったワンマン将軍であった。しかしそれでも、当時の洪水・大風雨・旱魅・水損・虫害などに際して、その都度「年貢の減免ありたり」と、年表に書かれている。
 今、大阪市の国民健康保険の料金は異常に高く、平均サラリーマンの場合退職すれば一年間は月四万円を、まず覚悟しておかねばならない。しかも最初に三ヵ月分の前納が普通だという。スイス一国の予算より多いと自慢の大阪市だが、庶民にとっては天災と同じような今日の「バブル不況」についての国保料減免を拒否する体質は、吉宗以上だと云わねばならない。この際、大岡越前守にでもお出まし願って、財界と「解同」ベッタリの悪政に正義のお裁きを付けてもらおうか。
(ー九九四・七)

今昔木津川物語(001)

西成・阿倍野歴史の回廊シリ—ズ (一)

是斎屋《ぜさいや》と天下茶屋公園《てんがちゃやこうえん》 (岸里柬ー―一六)

 上町台地《うえまちだいち》の西側は急|斜面《しゃめん》になっていて、西成区から阿倍野区への上りは、自転車などではところにより降りて押さねばならないくらいであるが、逆《ぎゃく》に阿倍野区から西成区への下りは、ブレーキのかけづけとなりかねない、かなり危険な道でもある。
 特に旭《あさひ》町、共立《きょうりつ》通、丸山《まるやま》通、松虫《まつむし》通、橋本《はしもと》町、晴明《せいめい》通、相生《あいおい》通、北畠《きたばたけ》三丁目付近はそうである。
上町台地の西|端《はし》は、かつてはどこでも「夕陽丘《ゆうひがおか》」といわれたという。春秋《しゅんじゅう》の彼岸《ひがん》に、この高台から西の海へ落ちる夕陽の、荘厳《そうごん》な神秘《しんぴ》さに心を打たれる人も多く、四天王寺を筆頭《ひっとう》に寺や神社も集中していた。 平安時代中期以降|鎌倉《かまくら》時代にかけて「蟻《あり》の熊野詣《くまのもうで》」といわれるほど庶民《しょみん》に至るまで盛んであった
 熊野三山《くまのさんざん》(熊野本宮大社、熊野|速玉《はやたま》大社、那智《なち》大社)への道は京都より熊野まで往復《おうふく》百七十|里《り》、約三週間の日時を要したというが、その熊野|街道《かいどう》(阿倍野街道)は夕陽丘に沿って南北に伸びている。
 熊野街道に平行して上野台地のすその渚《さぎさ》に、足利《あしかが》時代末頃より紀州《きしゅう》街道(住吉街道)が出現した。この街道は江戸時代には紀州や岸和田|藩《はん》などの参勤交代《さんきんこうたい》による、大名行列《だいみょうぎょうれつ》の道でもあった。明治に入っても国道二十九号線といわれ、昭和十五年に国道十六号線(今の二十六号線)が開通するまでの主要な道路となった。
 私は今年の正月休みのある日、この西成区と阿倍野区にかけての、歴史の回廊《かいろう》ともいうべき史跡《しせき》めぐりをやってみた。その結果阿倍野区側の史跡は主として、平安《へいあん》、鎌倉《かまくら》、室町《むろまち》時代のものが熊野街道を中心にして多くあり、西成区側の史跡は安土《あずち》・桃山《ももやま》、江戸《えど》時代のものが紀州街道に面して多いのは当然のこととして、その双方に重要な点で共通するもののあることを知った。
 私は感動した。同時にこれは自分だけの一人|合点《がてん》かもしれないとも思った。しかし、私が西成の郷土史《きょうどし》に興味《きょうみ》を持ちはじめた原点《げんてん》の疑問に、私なりに答えの出せるものであるということには、確信《かくしん》できるものがあった。

是斎屋と秀吉は無関係

 その日、是斎屋ゆかりの天下茶屋公園は全面的な改修《かいしゅう》工事の途中《とちゅう》であった。
 かってこの公園には「太閤《たいこう》秀吉が初めて自分を武士《ぶし》 (足軽《あしがる》)にとりたててくれた恩人《おんじん》、松下|嘉兵治《かへいじ》(後に是斎)に報《むく》いるため約三千三百|坪《つぼ》の広大《こうだい》な邸宅《ていたく》と名園を贈《おく》り、太閤さんも大阪城中からしばしば来遊《らいゆう》、茶をたしなみ名園を楽しんだ地で、太閤さん愛好《あいこう》の井戸《いど》や灯籠《とうろう》もある。その松下の子孫《しそん》が明治《めいじ》時代までこの地で『和中散《わちゅうさん》』という薬を売り茶屋《ちゃや》を営《いとな》んだ。明治天皇もこの地に臨幸《りんこう》し英雄《えいゆう》秀吉をしのんだ」と書いた大阪市の案内板があり、同文の案内書も西成区役所から発行されていた。地元の学校でもそう教えてきた史跡公園であったのだ。
 ところが大阪市は平成七年になって突然《とつぜん》、案内板撤去、案内書の書き替《か》えを行ってきた。「是斎屋の開業は秀吉の死後三十数年たってからのこと」との史実《しじつ》をなしくずし的に、やっと認《みと》めたということなのだろうか。今回の改修で「秀吉愛好の井戸」などはどうするつもりなのか。

地域《ちいき》に貢献《こうけん》した是斎屋

 西成区役所が新しく出してきた「わたしたちの西成区コミュニティマップ」によれば寛永《かんえい》年間(一六二四〜四四)よりこの地で営業を始めたという是斎屋は文化十三年(ー八一六)の大坂市中|売薬数望《ばいやくすぼう》という番付《ばんづけ》に、和中散|本舗《ほんぽ》「天下茶屋ぜさい」は勧進元《かんじんもと》の「神仙巨勝子円《しんせんきょしょうしえん》」と並んでいるから、大坂を代表する売薬商であったことはたしかである。
 秀吉の恩返《おんがえ》し云々という話になったのは浄瑠璃《じょうるり》「祇園祭礼信仰記《ぎおんさいれいしんこうき》」(中邑阿契《なかむらあけい》他四人合作、宝暦《ほうれき》七年«一七五七»豊竹《とよたけ》座初演)の中に、「此下東吉《このしたとうきち》に鎧《よろい》の代金を持ち逃げされた松下嘉兵治は摂州《せっしゅう》岸野の里(天下茶屋)に隠棲《いんせい》し薬店是斎となって苦労する」とある話から出たもので創作であった。
 しかし、この地で永年にわたり薬店と茶屋を営《いとな》み、後世《こうせい》に残るような様々《さまざま》なエ夫をし店をもりたてたことや、明治になり後を継いだ橋本氏は地域の発展のために努力し、今も阿倍野区橋本町にその名を残す。
 またその後を継いだ高津氏が戦後、樹齢《じゅれい》四〜五百年とみられるかつての紹鷗の森名残の巨木数本を保存《ほぞん》したまま大阪市に土地を寄贈《きぞう》し、その結果西成区の児童公園第一号として天下茶屋公園が誕生《たんじょう》した経過《けいか》等を考えれば、秀吉とは関係なくそれ相応の記念|碑《ひ》を残しても当然《とうぜん》のことで、今回の公園改修工事後どうなっているか、大阪市の見識《けんしき》が問われるところである。

【注記】
 ルビ(ふりがな)の表記は、青空文庫の基準に準じています。すなわち、ルビ部分は《》で囲み、二字以上の漢字などには、区切りとして、「|」を用いています。
 本文や画像の二次使用はご遠慮ください。

今昔西成百景(001)

◎木津川

 師走のある日、知人の病気見舞いに境川の病院まで行き、帰りは大正区を西から東へ横断、西成区まで約二時間かけて歩いた。もちろん尻無川は甚兵衛渡船を、木津川は千本松渡船を利用した。
 尻無川は川幅も狭く、渡船はまるで横にすべるようにして対岸に着いた。木津川は川幅も広く水量も豊富で、渡船もー旦船首を立て直して、その後エンジンをふかせるという感じで、いかにも船に乗ったという気になった。中学生ら数人が乗り込んできたが、地図を片手にメガネ橋を見上げたりして、ちよつとした冒険旅行だったのかも知れない。
 大正区北村に大きなマリンテニスパークなるものを発見した。公園の南側に約五〇〇メートルの散歩道があり、途中二ヵ所に大きな べ ランダの様な広場が造られ、そこから大正内港の全景が展望できるようになっていた。
 大少数多くの船が停泊し、それに夕日の映えている様は、「大正区の新しい故郷づくり」を実感した。

木津川を知らない西成区民も多い

「西成には自然が無い」とよくいわれるが、木津川を忘れてはいませんか、といいたい。
 西成区の住民も都心に行くのに、地下鉄や南海電車、または国道二十六号線を使うので、区の西の極限である木津川を知らない人も相当いるのではないか。知っているが、最近は見ていないとか。
 市内を流れる川では、神崎川や大和川に比べればまだまだきれいな方で、市営の渡船も「落合上渡」「落合下渡」「千本松渡」と三ヵ所もあり、渡船人口も一日約三千人で立派に通勤・通学の足になっていると共に、大阪の風物詩の役割も果たしている。
 私は西成の街づくりにおいては、もっと川と川辺の在り方を快適にするよう見直すべきだと思う。
 木津川の由来は、聖徳太子が四天王寺建立の折に、諸国から集めた木材を荷揚げしたことからこの辺りを木材の浜、つまり木津と呼ぶ様になったとのことである。かつて天保三年(ー八三二)にはこの川の堤八七〇余間(一六〇〇メートル)に松を植えて、長い松並木が天橋立の様に絶景で、船遊びや潮干狩で賑わったということだが、いまでは千本という地名が残るだけ。
 経済の高度成長期には、造船・鉄鋼・金属・セメントなどの大・中・小の企業が集中し、約二万人の労働者の喧噪もあったが、今では往来する大型船の汽笛の音が「静寂」を破る状態になるまで様変わりしている。

名所千本松の復活を

 しかし、自然としての木津川は、川幅約一五〇メ—トル、長さは西成区内だけで約三〇〇〇メートル、約四五ヘクタールの空間を変わることなくしっかりと確保しているのである。河川敷は府有地で、それと市有地とを合わせて河川公園とすれば西成のイメ—ジは一変する。千本松も復活させ、桜も植えて名所にしよう。  高校にボ—卜部もつくって、大会も出来るのではないか。展望台をもうけ、中山製鋼所の背後に音もなく入っていく、巨大な太陽と大空と川と街との天下一品の夕景を、毎日みせてほしい。
 今西成区には、南海天下茶屋工場跡地(約四ヘクタ—ル)と南津守の市食肉市場跡地(約三ヘクタ—ル)の利用が、西成の街づくりのーーつの目玉といわれているが、ぜひとも木津川と区民との新しいかかわり方についても、一枚加えて検討する必要性を痛感する。
 人生を川の流れにたとえる歌もあるが、私は自分の人生は渡船になぞらえてみたい。色々な出会いと別れを繰り返しながら、大きな流れに沿って船を操り、黙々と多くの人を送り届ける。木津川地域で四十年、日本共産党員として政治革新に心を燃やし続けている者として、川に寄せる想いは深いものがある。

(一九九五・一)

がもう健の郷土史エッセー集公開!

 大阪きづがわ医療福祉生協の元理事長、日本共産党元府会議員だった、蒲生健さんの郷土史エッセー、「今昔西成百景」「今昔木津川物語」をご本人などのご許可を得て、随時掲載してゆきます。古くは古墳時代から続く、木津川筋の喜悲こもごもの歴史の中で、夢がかなったこと、かなわなかったことも多々あると思います。しかし、こうした歴史のエピソードは、積み重なることで現在の政治や生活を変革し、やがて未来への糧になると信じます。では存分にお楽しみください。

 画像は、「今昔西成百景」と「今昔木津川物語」の表紙、南海電鉄汐見橋線「木津川」駅と阪堺線「神ノ木」駅です。および原本の奥付、蒲生健氏の2004年現在の略歴です。

 目次一覧です。
 「今昔西成百景」分

 「今昔木津川物語」分

 また、続編として、冊子に載らなかった、堺や大阪市南部の史跡めぐりや、史跡にちなんだ動画映像も公開予定です。お楽しみにしてください。

 続編一覧

 医療生協機関紙「みらい」掲載分
  ・次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記

がもう健さんへの特別インタビュー

【注記】底本は、画像参照してください。底本の表現上で、現状にそぐわない箇所は、最低限の訂正を加えましたが、大部分は、底本通りに再現しています。執筆者の蒲生健氏、写真・挿絵の勝田忠保氏の著作権は存続していますので、二次利用はご遠慮ください。

溶連菌感染の診断方法を変更予定です

従来の、スティック法による溶連菌(溶血性連鎖球菌)の迅速検査では、なかには、陽性なのに陰性と判定(偽陰性)されることがあります。その場合、臨床症状が、溶連菌感染症と判断される場合は、ペニシリン系の抗生物質を処方していました。PCR法による、より鋭敏な検査法が、昨年から健康保険収載されましたので、随時、この方法に切り替えていきます。検査の材料は従来通り、口腔内ぬぐい液で、数分で結果が出ます。保険適応は15才以下の小児が対象になります。保育所などで溶連菌感染症が流行っている場合など、ご心配なことがありましたら、外来で気軽にご相談ください。
写真は、PCR法での溶連菌陽性と陰性の写真です。

診療所玄関を整理しました


新型コロナ感染症(COVID19-9)は、罹患数は減ってきたとは言え、まだまだ油断できませんが、3年以上続いたプレハブでのそとの外来を、先週から中止しています。それに伴い、余分な文具やパンフレットを置く机を撤去し、検温器を受付前に移転し、診療所に入りやすくしました。また、手始めに、刺繍を掲示してみました。(写真)柿が題材なので、すこし季節外れかもしれませんが、また別の画なども玄関のポイントとして飾ってみようと思っています。ご意見やアイデアがありましたら、ぜひ、スタッフ(メールアドレス) までお寄せください。

12月から、プレハブ診察(有症状・発熱外来)を中止します

2023年12月13日から、3年余にわたって続けてきた、診療所外プレハブでの診察を中止します。もともとの目的は、新型コロナウィルス感染症(COVID19-9)の拡がりの防止のためでした。まだまだ油断はできませんが、かかる方が一定程度減ってきたからです。
今後は、診療所内の診察室に直接入っていただくことになります。ただしプレハブ診察室は、有症状の方の診察前後の待ち合いとして使用します。受付で案内しますので、ご確認ください。また、診療所内では、引き続き、マスク着用(乳幼児は除く)をお願いします。
それに伴い、病児保育入室前の診察を例外として、有症状の方の電話などによる検査予約も中止します。お電話を承ったときは、だいだいの来院時間をお伝えすることになります。

これまでのご協力に感謝するとともに、多大なご不便をおかけし、お詫び申し上げます。詳細は、診療所内の受付にお問い合わせください。