南大阪歴史往来(013)

◎神南辺大道心

 住吉大社の南に延びる旧街道の東側に、浅沢神社、大歳神社と古い神社がつづくが、西側にも地蔵寺という小さなお寺がある。
 この寺は、松野山と号し天台宗正覚寺末である。創建は不詳、承応三年(一六五四)僧承円が再興した。以前は現墨江丘中学校付近にあったが明治十八年当地に移転した。
 本尊の子安地蔵は、伝教大師作と伝えられている。伝教大師は弘仁三年(ハ一二)三月、九州から比叡山へ帰る途中、住吉大社に参詣し、その時像をつくり、翌四年五月開眼供養した。地元では「子安さん」と親しまれ、安産祈願で知られている。

インドの神が仏教へ五大力

 門前には百度石を兼ねた五大力碑がある。本堂右にはその五大が菩薩尊堂がある。その他宝物として五大力尊版木を蔵している。これらはもともと住吉神宮寺にあったものである。
 また、この五大力碑は、文政二年(ー八一九)に神南辺隆光が寄進したものである。神南辺は神南辺大道心または単に神南辺の名で各所に道標や案内標識、鳥居や神輿台、橋まで寄進している、と住吉区史は記す。
 慈恩寺という、代々住吉大社の神主を勤めた津守氏の菩提所であって、明治維新後廃寺になった真言宗の寺院が浅沢神社の近くにあったが、境内には有名な「車返しの桜」があり、この道標も神南辺の寄進である。現在これは縁もゆかりもない、浪速区元町一丁目の法照寺前に残る。「車返しの桜」とは、後醍醐天皇が住吉行幸の時、あまりの美しさにもう一度車を返して名残を惜しんだ、という話からきている。

神南辺大道心は燗鍋の職人

 住吉大社を中心とするこの地域の、大海神社の神興台、浅沢神社と大歳神社の鳥居なども、全て神南辺の寄進である。
 それでは神南辺とはいかなる豪商か大地主か。といえばさにあらず、住吉区史によれば「奈良県王寺町神南(じんなん)の生まれで弥助という燗鍋作りにかけては腕の立つ職人であった。しかし素行が修まらず人からは嫌われていた。息子は小さいときから寺の小僧にやられていたが子供からその不行跡をたしなめられて改心、一念発起して仏門に入り、燗鍋作りから『神南辺』と改め諸国を行脚、人に役立つようにと、道標・百度石の建立や架橋までした。堺市には、神南辺町、神南辺橋などが残っている。天保十二年(一八四八)堺で没す」と、お役所作成の文章にしてはめずらしく「伝説」まで書いているので、私はある日、堺に出かけて行った。
 南海電車堺駅と七道駅のほほ中間に、目的の神南辺町があった。しかし、町の大部分が、高層の民間マンションと自動車販売会社に占められ、おめあての「郷土史漂う」という雰囲(追加 気)があまり感じられない。どうしたことかと、自転車屋の前にいた、七十オ位の男性に聞いてみた。しかし、彼は,「神南辺の名の由来など考えたこともない」と。私の方から「神の南だから住吉大社の南方という意味でしょうか」と、誘いをかけてみると「住吉は北だ」と、宿院にある住吉大社のお旅所の方角をゆびさすので、郷土史に全く無関心でもないらしい。

堺で神南辺を知る人少なし

 近くに公園と野球場があり何か神南辺道心の「顕彰碑」でもないかと探したが見当らない。今度は、公園の前の酒屋さんが、丁度自販機に詰替え中で、表に出ていたので、又聞いてみた。しかし、返事は「約五十年ここに住んでいるが、そんな話は聞いたことがない。おやじでも生きていれば知っていたかも」と親切に答えてくれた。
 堺の旧市内をとりかこむ環濠のあとを内川として残しているが、それにかかる橋のーつとして、 神南辺橋は現存していたが、鉄とセメントの普通の橋で、特にこれという説明板も付いていなかった。自分の住んでいる町の少なくとも名前の由来位は、誰かが知っているはず。当日は炎昼下でもあり、私も次の機会を期して引き上げた。後日、知人から「あの辺は堺の空襲と戦後の臨海工業地帯の造成で大きく変わってしまった」と聞かされた。
 一世紀もたてば人間の記憶もうすらいでいく。ましてー般庶民の善行の場合は特にそうである。

伝説・伝承の必然性は存在

 伝説として残るのは、主として極めて残酷な結末をみた事件である。例えば、聖徳太子・菅原道真・平家物語・源義経・赤穂浪士・堺事件など忘れたくても忘れられない暗くて恐ろしい事件について人々はそれに愛国とか忠義、義理や人情、美談、愛憎などの様々なベールをかけて少しでも現実を中和しようとする。そこにときどきの権力者のおもわくと、お金儲けが加わって、話がとんでもない方向に進んだり、とてつもない大きな物になったり、架空の人物が大活躍するという面白可笑しい物語に変わっていくのである。
 燗鍋職人の弥助さんも、住吉で多くの寄進をしたために伝説が残り、堺では無形文化財ともいうべき、地名にその名を残した。庶民の幸せな生涯を示した、めずらしい郷土史の明るい一ページといえるのではないか。
 後日、私は、住吉区史の疑問点を質すために、もう一度現場を踏んで、現物を詳しく点検する、自称「行動する郷土史家」としての行動にでてみた。すると鳥居とか大海神社に三基もある神輿台というような大きな物は、大坂や堺の豪商が願主となり、神南辺は取次や執次として名をだしているということが判った。道標や百度石は神南辺単独の寄進である。燗鍋職人で全部もてるはずがないのである。これで一応納得のいく話になるのではないか。
 もう一つ、これも住吉区史に、慈恩寺の「車返しの桜」の道標が浪速区元町一丁目十番の法照寺の門前に現存すると書かれていたので訪ねてみた。実際は墓地の片偶に、半分うづもれて、じゃまもの扱いされていた。あそこに何年置かれていてもなんの値打ちもないであろう、というのがわたしの率直な感想である。
 こんなところに棄てておくのではなく住吉大社南の「神南辺街道」に帰してやれば、どれだけ輝くことか。独特の字体で深々と彫りこまれた立派な作品だけに余計に残念に思った次第である。

編者注】この記事をもって、「南大阪歴史住来」の項は終了です。

今昔西成百景(017)

◎木津勘助ゆかりの―敷津松之宮神社

 今日は、診療所近くの敷津松之宮神社(西成分社)の祭礼の日、それにちなんで、神社に関連する、知らぜざる義民のエピソードをひとつ。

 私は二十三才で日本共産党の専従となり、今日に至るわけだが、最初の三年間は、当時浪速区にあった木津川地区委員会の事務所に市電で通っていた。降りる停留所の名前が勘助町」。昼休みによく立ち寄る「敷津松之宮大國主神社」の境内には、かつてこのあたりに住んでいたといわれる木津勘助翁銅像(昭和二十八年十月に再興)が建っていた。
 神社の由緒略記によれば、「木津勘助は俗名で、中村勘助義久という。天正十四年(一五八六年)に相模國足柄山の郷士に生まれ、青年の頃より豊臣家に仕え、今の三軒家北岸に軍船の港づくりに従事し、また率先して木津川の開拓工事に尽瘁(じんすい)し大阪繁栄の基ともなる水運の便と堤防を強化して洪水の害を防ぐ」など、その功績は高く評価されている。銅像はこのときの活躍ぶりを示し、右手に設計図を持ち脚絆姿の威勢のよい姿である。

大飢饉に庶民救済のため命を賭けた

 とくに勘助を有名にしたのは、寛永十六年(一六三九年、勘助五十三才)の大飢饉の義侠である。銅像の碑文を訳すと、「三代将軍家光の寛永十八年(一六四一年)は天候のせいで大凶作。徳川実記によると、餓死するもの道をふさぎ、ー衣覆うことなしに倒れ伏すもの巷に満ち、さながら生地獄の如し」とあり、飢饉がいかに物凄いものであったかを物語っている。
 「この窮状をなんとか救わんもの」勘助は各村の庄屋らと奉行所に日参して貯蔵米の放出を陳情し続けるが、奉行は幕府の許しがないとの理由で応じてくれない。
 勘助は、家財の一切を投げ出し救済にあたるが、遂に死を覚悟して、米蔵を襲い五千余俵を奪って窮民に分け与える。奉行所に自首した勘助を助けんと、各村の庄屋たちが減刑運動をおこし、その結果、死一等を減じ勘助島に流すという軽い処分であった。
 翁は晩年に至まで黙々と川浚え工事や新田開発に精を出すなど、平穏な余生を送り、万治三年(一六六〇年)の十一月二十六日、七十五オの天寿を全うして没し、木津『唯専寺』に眠る、となっている。私は当時、こんなふうに地域に貢献できる生き方にあこがれたもので、先輩たちも「木津勘助は、いまでいう日本共産党や」などとよく話題にしていた。

権力の非情

 しかし事実は、木津勘助は米蔵破りから十九年も過ぎた万治三年、幕府は「米蔵を破った罪科は極めて重い」との理由で斬死の刑を宣告、同年十一月二十二日遂に刑は執行されたのである。「西成郡史」にも、年表に「木津勘助斬られる」との見出しつきで載せている。
 銅像が最初に建てられたのは、一九二一年(大正十一年)十一月、天皇制権力のもと、たとえ義民であっても処刑されたら犯罪者、その銅像は公然と建てられないとの配慮と、幕府といえども民衆の願いには逆らえなかった、という希望的観測の結果「平穏な余生を送り天寿を全うした」という歴史の事実とは違うものとなったのではないか。
 処刑されたとする「西成郡史」のその日は十一月二十二日、天寿を全うし没したとする銅像のその日は十一月二十六日、この四日間に何があったのか謎である。
 寛永の町人一揆、木津勘助の米蔵破りの物語は亨保六年(一七ニー年)道頓堀の角座で上演されている。木津勘助の没後六十一年目である。しかし、歴史的事実からみれば、寛永時代、堂島はまだ葦におおわれ、米会所ができたのも後のこと、南難波の御用蔵が造られたのも後のことであるという。
 それでは木津勘助はいったいどこの米蔵を襲ったことになるのだろうか。
 私は思う。木津勘助は一人ではなく何人もいたのではないか。世のため人のため、たとえ権力にたいしてでも勇敢に闘っていく人を、この地域では時代は変わっても木津勘助とよび、たたえたのではないか。
 いま、日本共産党以外は「オ—ル保守」というなかで、かつて自民党一党ではやりたくてもやれなかった悪法を次ぎつぎつくり出し、国民に耐えがたい苦難を押しつけるという異常事態がおこっている。こんな時こそ、無数の木津勘助が大阪に、西成に求められている。
 敷津松之宮神社西成分社が松二丁目にある。

(一九九六・二)

南大阪歴史往来(012)

南大阪歴史往来(十二)

◎哀愍寺《あいみんじ》(上住吉二ノ十四)

 住吉大社の東、旧熊野街道に面して、ふるいお寺が今も多く残っているが、その中の一つ「哀愍寺」は、お寺の横に「ちぎり地蔵尊」があり、そのことでも目を引くお寺である。今も神仏両方をお祭りしている住吉神宮寺の名残り「西之坊」の向いにある。
 かって新聞に掲載されたことのある哀愍寺の三十七代目住職片山法道氏の話によると「哀愍寺」というお寺は、群馬県、滋賀県、住吉と三つあり、群馬県で玉念上人という方が開山。武田信玄の帰依を得て全国行脚に出かけ、住吉の地にとどまって永正十四年(一五一七)開山したもの。怜法院覆護山哀愍寺といい、本尊は鎌倉期作の阿弥陀如来である。

織田信長が寺にやってきた

 この哀愍寺が歴史の舞台になったのは、織田信長の天下統一の時。「往生集」という本には、次のように残っている。
 ある時、日蓮宗の信徒三人が「浄土宗では救われない」と言いだして論争が起きる。そこで信長は玉念上人を含む両宗の高僧を哀愍寺に集めて論争させ、みずから裁判官になり、浄土宗に軍配を上げ、日蓮宗の僧三人は破門、信徒三人は打首となつた。「浄土宗、日蓮宗のどちらがいい悪いという問題ではなく、信長は信仰の世界でも自分の勢力を誇示したかっただけでしょう」と片山住職の弁。
 しかし、これを読んで、私は疑問が生じてきた。というのは、そもそもこの時代は、信長が浄土真宗本願寺のある石山城の強奪を企み、十年間にわたる世に言う「石山戦争」元亀一年〜天正七年(一五七〇〜一五七九)の真っ最中。信長は本願寺の一向一揆の門徒に手こずり、さまざまな和平交渉を進めていたが、ー方浄土真宗にあらゆる点から一番近いのが、浄土宗であることを意識し、今もし浄土宗が反信長に立てば大変なことになると、わざと浄土宗に軍配を上げたのではないか。いや、ひょつとしたら両宗の争いも信長が最初から仕組んだのではないか、と私は推理する。

宗教団体に補助金出す米国

 しかし宗教界を支配するための、信長のアメとムチの政策も天正十年(一五八二)の本能寺の変ですべてご破算になってしまう。
 アメリカのブッシュ政権は原理主義色の強いキリスト教の教団に、年間二千三百億円からの補助金を出しているという。政教分離の憲法の立場を踏みにじって特定の教団を宗教戦争に駆り立てることは中東での石油の強奪というブッシュ政権の本質をごまかすためであり、国と時代は違つても独裁者のやり口は似たようなものである。そして、ブッシュのーの子分である小泉首相も創価学会という謀略を得意とする「宗教団体」を利用している。今や彼らそれぞれの「本能寺」が迫ってきていることを、歴史の予言として知るべきである。

公約を守らない自民・公明

 話は変わって、「哀愍寺」との関係を見てみよう。
 明治維新による「廃仏き釈」(寺院などの破壊運動)でどのお寺も大変な時、今の地にあった真言宗のお寺の尼さんが「自分はこの寺を維持することが出来ない、買ってほしい」という話をもちかけ、向かい側にあった哀愍寺がこの地に移ってきた。真言宗であれば地蔵尊のあるのは当然のことで、現存する「ちぎり地蔵」はその名残という。
 この地蔵尊は「ちぎり地蔵」「千切地蔵」また「十徳地蔵」とも呼ばれ、かつては独特のわら人形が売られ、縁日が出て多くの人で賑わった。「ちぎり」の意味は契約を結ぶ「契り」、信心すれば「十徳」を契約どおり実現してくれるという。「十徳」とは、「女人安産・水火安全・諸病消除・諸願成就・寿命長遠・衆人結縁・神明加護・旅路加護・極楽往生・悪夢退散」又、「ぬいぐるみ地蔵」とよばれる手づくりの素朴な地蔵さんの背中に願いを書いて、堂内に安置すればその願いが叶うという。ぬいぐるみはお寺で買えるとのこと。
 さて、選挙になれば各党は十徳(公約)を並べる。自民党のキヤツチフレーズは「改革なくして財政再建なし、改革には痛みがともなう」であり、公明党は「福祉の党」であった。ところが財政再建どころか国・地方の借金は一千兆円にもなり、福祉は後退するばかりで痛みだけが押しつけられた。国民にとつてはまさに十徳どころか十損である。

今昔西成百景(016)

◎「盆踊り」「地蔵盆」

 政府は八月末にきめた「総合経済対策」で銀行の不良債権処理のため、銀行の担保になっている土地を、税金を使って買い上げる機関の設置を打ち出した。
 東京でも大阪でも、中小の不動産業者はほとんど銀行への利払いがとまっている状態という。業者は安く売って回収しようとしても、銀行から「時機を待て」とストップがかかる。かくて売りも、貸しもしない〃幽霊マンション〃や空地が、西成でも出現しているのである。

銀行の不始末を税金で救済とは

 銀行は不動産の担保の評価をはるかにうわまって過大に融資をしてきたから、担保を処分しても全額回収できない。今度の政府による不良債権の買い上げは銀行にとっては願ってもないことで、高めの価格で売れればそれだけまた儲かる…
 今年の夏は記録破りの猛暑だった 熱帯夜を打ち破れとばかり、各地で恒例の盆踊り大会や町内安全をねがう地蔵盆の行事が行なわれた。自・社・公・民四党なれ合いの大阪府・市政がすすめている「好きやねん大阪・西成」運動にはもってこいの風物詩。しかし、この府・市政の庶民の街つぶしの典型である、〃地上げ〃行為には何と無策であったことか。
 盆踊りの見物の中に、地蔵盆の提灯の下で、地上げに追われたかっての住民の「里帰り」した顔がちらほらしていた。
 「地上げは庶民いじめであると同時に、何より老人泣かせであります。借地借家人は何も悪いことをしたわけでもない。法律上も所有者がかわっても引き続き住む権利は認められている。それであるのにまるで虫けらのように出ていけと迫られる。長年にわたって築いてきたこれまでの生活基盤を失いたくない。ここで死にたい。暴力には屈したくない。こんな怒りをみんなもっています。そして老人にはひとしおその思いがつよくあります」 二年余前の府議会での私の知事への質問の一節である。質問の発端となった、天下茶屋で地上げを苦にして自殺した八十六オのおじいちゃんの長屋も、税金で銀行から買い上げるのか。
 土地や株に莫大な投機資金を注ぎこみ、バブル経済をつくりだして、国民に甚大な被害を与えた大銀行が、今度は税金で〃救済〃してもらおうという、こんな手前勝手なことは絶対に許せない。
 いま必要なのは、一番不況の打撃をうけている中小業者に手を差し伸べることである。これらの顛末、あらいざらいを、河内音頭にでもうたいこんで力のかぎり訴えようか。
(ー九九二・九)

編者注】
 コロナ禍で、この数年、「平和盆踊り」は開催できていません。また、いつの日にか、新たに復活することを願って止みません。

【急告】休診のおしらせ

2024年7月16日は、敷津松之宮神社の祭礼のため、16日(火)午後6時からの、内科・小児科の診療は休診とさせていただきます。

ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします。

 

今昔西成百景(015)

◎千本松渡船

 一九六八年から五年間の工事で完成した木津川にかかる千本松大橋は、長さ二四〇〇メ —トル、高さ三七メートル、中央部の支間が一五〇メートルという、天草・若戸・西海・尾道の各大橋についで日本で五番目のノッポ橋。両岸に二階式のラセン状ランプウエ—を採用したのはわが国では初めて。
 建設計画が公表されると、地元では、便利になるが公害も心配だという意見が聞かれた。しかし、橋の完成と同時に渡船は廃止されると知って、それは困るという点で一致した。
 江戸の昔より連綿として続いている、通勤・通学・買い物の足であり、思い出も一杯積んだ渡船が無くなり、代わりに目のまわるような自動車中心の橋。歩いて渡れば三十分もかかろうし、自転車や単車は危険、年寄や病人・障害者などはとうてい渡り切れるものはない。夜間の防犯対策はどうするのか……。
 「市当局は一体何を考えているのか」と、南津守商店街や町会の有志より、南津守三丁目の日本共産党事務所(当時・木津川地区)へ相談があり、私は直ちにそれに応じて、同時に他の行政の課題にも積極的に取り組もうと、みんなで「南津守を良くする会」を作り、十大地域要求を掲げての決起集会も南津守会館で盛大に行なった。今から思えばなんと段取り良く出来たことかと感心するが、それ程要求が切実であったということだろう。
 役員には、細川氏(理髪店)松本氏((豆腐店)細川氏(大番食堂)竹内氏(ヒロ理髪店)小畑氏(長寿荘)松浦氏(住宅)、会長には山下氏(自転車店)がなり、私が事務局を担当した。

みんなで考えた”名文句”

 「橋は出来ても渡しは残せ」という川柳のような言葉は、皆で立看板作りをする中から生まれたものだが、その後運動の合言葉になり、今も語りつがれている。
 廃止反対の請願署名は、橋完成の六ヶ月前に行った。巨大な竜が木津川にまたがっているような建設中の橋を見上げ、粉雪の舞う中、渡船の現場で朝六時から夜十一時までを二日間、一日目は渡船利用者に署名用紙を配り二日目で回収した。ドラムカンに古材を燃やし暖を取ろうとしたが、川風は容赦なく吹きつけた。署名の反響は大きく、西成区だけでなく住吉区や堺市の人も多くあった。労働者の大きな手で「渡船の存続よろしくお願いします」と握手され、地元の人達は感激していた。

市の住民無視は今もかわらず

 しかし大阪市会はこの三千数百の貴重な署名を、いとも簡単に否決してしまつた。廃止に反対し存続を主張したのは日本共産党だけで、他の自・社・公・民の各党は「廃止は決定済み、橋と渡船の共存は前例がない」との理由である。
私達は負けていなかった。橋のオ—プンの前に歩行者だけに開放する日、西成民主診療所の所長以下の協力によって、老若男女のモデルに実際に歩いて橋を渡ってもらい疲労度を調査した。そのデ-夕-を手にして、四方市議と私で市の土木局長と直談判。良くする会の山下会長、役員さんらと共に上京し、国会で運輸省の担当官に、正森代議士の支援で陳情もした。
  その結果、「橋完成後も当分の間は様子を見るために渡船を運行する。利用者が減少すれば廃止する」と市の態度が変化してきた。もちろん珍しがって一度は歩いて橋を渡った人も、二度と遺ることは無かったので、渡船はその後二十年間存続し続け、その間に市も新しい船に替えたりして今日に至っている。
 今年七月に行われた日本共産党第二十回党大会は、今の時期にこそー九六〇年代終わりから七〇年代前半の革新の高揚を再現することを決定した。私にとってはこの千本松渡船存続の大衆闘争に参加したことが、その時期に重なるものであり、私のその後の候補者活動のスタ—卜にもなっている。
(ー九九四・一一)

今昔木津川物語(011)

西成・住之江歴史の海路シリ—ズ(一)

◎高灯籠《たかどうろう》(日本最古の灯台)(浜口西一)

 住吉大社がある上町台地は、前方後円墳《ぜんぽうこうえんふん》の帝塚山《てづかやま》、茶臼《ちゃうす》山、勝山古墳《かつやまこふん》などがあるところで、難波京《なにわのきょう》のおかれていたところでもある。

上町台地《うえまちだいち》は大阪|文化発祥《ぶんかはっしょう》の地《ち》

 熊野詣で知られる熊野街道が、台地の西端で南北に伸びており、それに沿って高津《たかつ》神社、生国魂《いくたま》神社、四天王寺《してんのうじ》、住吉大社があり、中世《ちゅうせい》の石山寺《いしやまでら》、近世《きんせ》の大坂城もこの台地に存在した。
 上町台地は、南北十二キロ、東西二・五キロの細長い台地で、法円坂《ほうえんざか》付近《ふきん》が二十ーメートルと最《もっと》も高く、住吉では十メー卜ルほどになる。この台地とほぼ並行《へいこう》して南へ伸び、大和川を越えて堺市の三国《みくに》ケ丘へ続いて、我孫子《あびこ》台地(平均十メートル)があり、古代《こだい》は共に深い森林《しんりん》の中であった。

住吉細江《すみよしほそえ》や墨江津《すみのえづ》

 上町台地と我孫子台地の間のくぽ地を流れるのが細江川(細井川ともいう)でその川下は大阪|湾《わん》からの入江になっていて、住吉細江と呼ばれた。
 この奥《おく》に日韓《にっかん》交易《こうえき》の港《みなと》として、北の難波津とともに古代大阪の要津《ようづ》となった墨江津があり、遣唐使船《けんとうしせん》も住吉神社に祈祷《きとう》してここから発着《はっちゃく》した。交易品《こうえきひん》は長尾《ながお》街道を通って奈良の都に運ばれたが、港でも市が開かれて住吉の繁栄《はんえい》を築いたという。港《みなと》を支配していたのが地元の豪族《ごうぞく》津守氏、子孫は明治時代まで住吉大社の神主となった。

天下の絶景《ぜっけい》あられ松原《まつばら》

 住吉細江の入口は北が長狭浦《ながおうら》、南が霰《あられ》松原で、幅約百メートルの水路が五百メートルほど東へ割《わ》り込み、松林と丘に囲《かこ》まれた良港だったといわれている。
 沖は住吉津、出見浜《でみのはま》、敷津浦《しきつうら》などと呼ばれる青い海で、難波の八十島《やそじま》が波に見え隠《かく》れし、その間を白い帆《ほ》を上げた船が往《ゆ》き来《き》し、白砂青松《はくしゃせいしょう》の浜辺《はまべ》が南北に果《は》てしなく伸びていた。この景観《けいかん》は昔から和歌に多く読まれているが、戦前にも、戦後は堺泉北《さかいせんぼく》臨海《りんかい》工業|地帯《ちたい》が造成《ぞうせい》されるまでの間、海水浴や潮干狩《しおひが》りで堺の白砂青松の浜辺を知っている者として、その万分の一位は見当《けんとう》がつく。
 海岸線はほぼいまの阪堺線《はんかいせん》あたりとみてよいとすると、紀州街道と重なって想像《そうぞう》できるわけだが、古代で考えれば、矢張《やは》り西成-住之江のつながりは「歴史の海路」となるのではないだろうか。

高灯籠は漁民《ぎょみん》が献灯《けんとう》

 鎌倉《かまくら》時代|末期《まっき》に建てられた住吉の高灯籠は、いまの阪神高速《はんしんこうそく》道路の近く、かつての十三間堀川《じゅうさんげんぼりがわ》の畔《ほとり》にあったわけだから、約八百年の間に自然《しぜん》の力で、陸地化《りくちか》が西へ約六、七百メートルすすんだことになる。
 高灯籠は住吉津の漁民らが、住吉大社への献灯《けんとう》と航海安全《こうかいあんぜん》を祈って住吉の浜に建てたといわれている。高さが石積《いしづ》みを含めて十六メートルもあり、日本|最初《さいしょ》の灯台《とうだい》であった。

今昔木津川物語(010)

西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(五)

住吉大社《すみよしたいしゃ》

 住吉大社は不思議《ふしぎ》な神社である。「別格|官幣《かんぺい》大社」という評価《ひょうか》をもらっておきながら、権威を押しつけるような雰囲気はあまり感じさせない。初詣《はつもうで》や夏祭りでの雑踏《ざっとう》が庶民的《しょみんてき》な「すみよっさん」のイメージを定着させたということもあるのか。

住吉津の地主神

 さて住吉大社の祭神《さいしん》は底筒之男《そこづつのお》・中筒之男《なかづつのお》・表筒之男《うわづつのお》の三|神《しん》と神功皇后《じんぐうこうごう》の四|柱《はしら》であり、住吉|大神《おおかみ》というときは筒之男《つつのお》三柱の総称である。
 住吉三神はすべてに「筒男《つつのお》」がつくことから、住吉|津《つ》(港)の地主神《とこぬしのかみ》を意味するものと解釈されている。古代《》こだいに住吉神社と称されるものは、摂津《せっつ》・播磨《はりま》・長門《ながと》・筑前《ちくぜん》・壱岐《いき》・対馬《つしま》・陸奥《むつ》の七ヶ国にある。これは難波《なにわ》から朝鮮半島《ちょうせんはんとう》への海上の道に沿ったものであり、事実、遣唐使《けんとうし》が派遣《はけん》されるときには、その船に、主神《しゅしん》とよばれる摂津の住吉神社の神職《しんしょく》が乗船《じょうせん》するのが例《れい》であり、津守氏《つもりし》が任命《にんめい》されることになっていた。このようにみれば、住吉神社は海上交通を守る神とともに、古代国家の対外政策《たいがいせいさく》と密接に結びついた、軍神という側面も持っていたことになる。

津守氏《つもりし》からも歌人《かじん》が輩出《はいしゅつ》

 「遣唐使が停止《ていし》され、難波津《なにわづ》の整備がすすみ、 住吉津が衰退《すいたい》し、平安京《へいあんきょう》遷都《せんと》が行われると、徐々に住吉大神に対する信仰《しんこう》の変化《へんか》がみられ、九世紀中頃には朝廷《ちょうてい》から祈雨《きう》・止雨奉幣《とめうほうへい》の派遣が始まり、後には豊饒祈願《ほうじょうきがん》も併せ行われるようになった。また、王侯《おうこう》・貴族《きぞく》が住吉大社|参詣《さんけい》のとき、広々とした海浜《かいひん》の白砂青松《はくしゃせいしょう》を目《ま》の当《あ》たりにして感動《かんどう》し、その気持ちを歌に託《たく》し競《きそ》いあい、住吉大社に奉納《ほうのう》する習慣《しゅうかん》が生まれるなど和歌《わか》の神として崇敬《すうけい》された。後には和歌だけではなく、社頭《しゃとう》で和歌《わか》・俳句《はいく》も行われ連歌では宗祇《そうぎ》が津守氏の主催《しゅさい》で行った百韻《ひゃくいん》や、 貞亨《じょうきょう》元年《がんねん》(一六八四)井原西鶴《いはらさいかく》が社頭で行った一昼夜ぶっ続けで二万三千五百|句《く》を詠んだ『大矢数俳諧』は有名である」(住吉区史)
 住吉神社|神主《かんぬし》津守氏は住吉神社及び住吉地方に、歴代《れきだい》にわたって密接な関係を持ってきた。住吉の津《つ》を守ることから津守という名になったわけだが、十六代目は神主として船に乗り帰国《きこく》できなかったとの記録《きろく》もある。三十九代|国基《くにもと》は和歌の名人であり、当時の権力者たちと和歌の贈答《ぞうとう》で懇意《こんい》となり、息子達を次々と要職《ようしょく》につけている。

南朝《なんちょう》の行宮《あんぐう》や徳川家康《とうがわいえやす》の本陣が

 南北朝《なんぼくちょう》の対立では津守氏は南朝方に結びつき、後《ご》村上天皇は住吉神社を行宮とし八年後に住吉行宮で没《ぼつ》した。
 戦国《せんごく》時代の争乱《そうらん》では摂津《せっつ》守護職《しゅごしょく》であった細川《ほそかわ》氏の内紛《ないふん》から、住吉も戦地となり以後石山合戦の終結《しゅうけつ》までの約七十年間衰退荒廃《すいたいこうはい》するしかなかった。特に住吉は南の堺と北の天王寺の間に位置し、兵を移動する絶好《ぜっこう》の場所にあることから、いやおうなく被害《ひがい》を被ることになった。
 その後も、大坂《おおさか》冬《ふゆ》の陣《じん》では家康は住吉神社神主津守氏の館《やかた》に入って本陣を置《お》いた。大坂城|攻撃《こうげき》の重要拠点《じゅうようきょてん》とみなされたのである。
 徳川時代は政治も関東《かんとう》に移り、住吉は農業《のうぎょう》を営《いとな》む寒村《かんそん》になってしまう。大坂からの住吉詣をする人で賑わうのみであった。明治政府は神官《しんかん》や神職《しんしょく》の世襲《せしゅう》を廃止《はいし》し、神社の神主である津守国美も免職《めんしょく》され、改めて少宮司《しょうぐうじ》に任命《にんめい》されている。
 住吉大社の変遷《へんせん》をみてみれば、時々《とくどき》の権力《けんりょく》の意向《いこう》に振《ふ》り回《まわ》されながら、何《なん》とか企業努力《きぎょうどりょく》で生き延《の》びようとする、地場産業《じばさんぎょう》を守る中小企業のようで、そこにどことなく親しみを感じさせるものがあるのではないだろうか。
 私にとっては、戦時中《せんじちゅう》は第一|本宮《ほんぐう》の前でラジオ体操《たいそう》を、戦後《せんご》は太鼓橋《たいこばし》の下はプールがわり。青年運動では正月や祭りに露店《ろてん》を出して資金《しきん》稼《かせ》ぎ、平和運動をもりあげるための参道《さんどう》での署名《しょめい》とカンパ。子供を、連《つ》れての散歩《さんぽ》。そして今は郷土史《きょうどし》めぐり、と本当にお世話《せわ》になっている。「すみよっさん」これからもたのんまっせ、と手を合わせる次第《しだい》である。

南大阪歴史往来(011)

◎天野屋利兵衛

 住吉の一運寺に赤穂義士の墓がある理由を、当寺の「義士の墓由来記」よりみてみよう。

住吉になぜ赤穂義士の墓が

 「摂津國住吉の官幣大社住吉神社の摂社大海神社の境内を北へ抜けると、広い道の向こう側に、昔ながらの薮だたみを背景にした寺がある。浄土宗一運寺と云う。
 最近『義士の墓あり』との木標を門前に立てたが、自分は数十年来此の付近に住んでいたので、以前からその所在は知っていたものの、何故に所縁もない此の寺に赤穂義士の墓があるのかは、先住の僧に聞けども要領を得ず、世の中に発表することを避けたのではあるが、かくは寺でも宣伝をする、好事家の人々からも自分に尋ねられるので、ここに古老から伝えられたままを書いてみることとしよう。
 物寂びたー運寺の門を入ると、左はすぐ墓地となり、本堂はずっと石敷の詣道の奥にある。その石敷道の右側藪の前に、石地蔵と歌碑につづいて三基の墓と無縫塔がある。
 この三つの墓は、大石父子と寺坂吉右衛門の墓である。
 さてこの寺にこの三つの墓のあることは、明治維新の初め廃寺となったものに、ー運寺から酉北二丁ばかりにあった竜海寺と云うのがある。即ち此寺にこの三つの墓のみならず四十七士の墓がずらりと並ぶのである。
 竜海寺は彼の天野屋利兵衛の菩提寺で、利兵衛より四代目の当主は仁侠の人で、当時赤穂義士の名声が頗る宣伝せられたので、一つは世人への宣伝にもとの考えから、当菩提寺に四十七士の墓を建て、持仏堂内に四十七士の木像を安置したのである。
然るに維新の際廃寺となるに当たり、此の多くの墓石は他の庭石等に持ち去られまたは砕かれつつあった。
 ー運寺の先々住某、折から之れをみて驚き歎き、既に失ないしはやむなきも、漸くとり残された三墓を一運寺に運ばしめ懇ろに供養して建立したのである。竜海寺に墓建立のその時期は、竹田出雲の仮名手本忠臣蔵の世にあらわれた延亨(一七四四)から寛延(一七四八)年代のものらしい」梅原忠次郎昭和十五年五月記す。

侠商天野屋利兵衛とは

 それでは、大坂の豪商天野屋利兵衛とはどのような人物なのか。昭和五四年岩波書店発行の広辞苑によれば「江戸中期の大坂の侠商、大坂北組名主。赤穂浪士のために兵器を調達し、後、自首、追放。『仮名手本忠臣蔵』では天川
屋儀兵衛として登場」となっている。
 しかし、全国義士会連合会事務局長の中島康夫氏は、その著書「元禄四十七士の光と影」で「たしかに天野屋利兵衛という商人は大坂に存在し広島浅野本家に出入りしていたが、赤穂事件とはまったく関係のない人だ」と云う。そして「仮名手本忠臣蔵」の義商天川屋儀兵衛のモデルになる商人は、浅野家出入りで、古くから大石内蔵助と親交がある、京都の呉服商・綿屋善右衛門という人物だったと書いている。

天野屋の実在に疑問

 ところが、大阪市が発行している「大阪市史」には、多くの商人の名前が登場するのに、天野屋利兵衛の名も「自首・追放」という大事件も載っていない。それどころか、大阪市史の行政区版ともいうべき「住吉区史」には、ー運寺の項で「利兵衛自身の実在が疑問」と記述しているのである。
 一方、赤穂義士を扱った小説は数多くあるが、今手元にある分だけから、天野屋利兵衛の動きを調べてみると、
 一九三七年大仏次郎「赤穂浪士」
 一九五七年舟橋聖一「新・忠臣蔵」
 一九八六年森村誠一「忠臣蔵」
 一九九一年津本陽「新忠臣蔵」
 一九九九年中島丈博「元禄繚乱」
 以上の各小説には天野屋利兵衛は登場していない。そして、武器は各人の得意とする手持ちの物を持ち寄っていること。その他は、弓・まさかり・のこぎり・竹梯子・などで武具調達費として十両程度が支出されていることが記されている。これでは豪商を頼る必要はなかったのではないか。義士の個々の生活の面倒は綿屋善衛門が、きめ細かくみていたことが史料からも明らかであるが、彼は決して豪商ではない。
 となると、天野屋利兵衛が活躍するのは、史料などにあまりとらわれない、芝居・映画・講談・浪曲に限られるということになる。やはり「天野屋利兵衛は男でござる」は完全なフィクションであったのか。と、思っていると、ここに天野屋利兵衛実在の強固な証拠が出てきた。

石碑が語る歴史のからくり

 それは、天野屋利兵衛の石碑が大阪にあるというニュースである。しかも場所は、堺
筋本町、大阪商工会議所の西側、東横堀川の畔だという。
 ある日、私は現場におもむいた。北からマイドーム大阪・大阪商工会議所会館・そして目下工事中だが、元大阪国際ホテルという大阪の財界の牙城ともいえるー角に、トラック一台分位の一等場所を占拠して、それは存在した。赤い岩とでもいうべき大きな石の表には、案外小さな字で「義商天野屋利兵衛の碑」と男爵の手で書かれてあったが、男爵の名前が剥げ落ちて読めない。裏にまわると、全面に漢文で由来が彫り込まれているのだが、最初の赤穂義士に武器を送る、という意味は判読できたがあとは読めない。字が崩れているというより、意識的にたたき潰されたという感じなのである。そして、まわりは草ぼうぼう、ゴミは捨てられ、敷地もがたがた。大切に顕彰されているとはとても思えない、異様な石碑になっていたのである。これだけ傷んでいるのだから、明治もかなり初めに建てられたものだろうと、日付を探すとこれははっきりと残っていた。
 なんと、この碑の建立年月は「昭和十四年八月」であったのだ。一運寺が突然「義士の墓あり」の木標を門前に立て、梅原忠次郎氏をして「何をいまさら」とおもわせたのは、昭和十五年。そして、私たちと同年輩の人から「学校で忠臣蔵習った」 「先生が赤穂義士の本を読んでくれた」「先輩が義士の名前を暗記していた」という話がいまでもでる、それも昭和十六・七年のこと。

利用された戦前の「忠臣蔵」

 一体その頃に何があったのか。昭和十六年(ー九四一)十二月八日、日本は米英に宣戦布告。太平洋戦争が勃発したのだ。アジアを中心として二千万人の外国の人々、二百十五万人の自国民の命を奪った、史上最悪の侵略戦争に、日本の軍国主義は、国民を弾圧しあるいはだまして、奈落の底めざして、自ら突入していったのである。
 森村誠一氏は当時の「忠臣蔵」ブームについて「『忠臣蔵』は専制君主制の下でのテロリズムである。『忠臣蔵』の忠義が天皇に対する忠誠に置き換えられ、日本軍国主義の化拡大および国家的犯罪(戦争)の正当性に利用された」と明言している。
 結局は、赤穂義士を支援した天野屋利兵衛はいなかったのである。しかし、「堪忍袋の尾が切れた。鬼畜米英を撲滅せよ」とけしかけ、「天皇陛下のためならばなんで命が惜しかろう」と青少年を戦場にかりだした、天野屋利兵衛はいたのである。そして彼は今、憲法九条を改悪し靖国神社の御用達として、よみがえろうとしている。

注】図は、Wikipedia より、編者が追加した。「仮名手本忠臣蔵」では、天野屋利兵衛は、天川屋儀兵衛となっている。

南大阪歴史往来(010)

南大阪歷史往来(十)

◎西之坊(上住吉ニノニ)

 「住吉区史」は「西之坊」について「和光山と号し、真言宗仁和寺末である。本尊は弘法大師自作と伝える地蔵尊立像である。天正年間(一五七三-九二)戦火にあい元和八年(一六ニニ)大僧正長尊が再興した。かつて天野屋五か坊の一つで住吉大社の社僧寺であったが、明治維新に際し西之坊のみが残り、他坊の仏像もここに安置した。境内には方違社がある。古い伝承では、神功皇后が住吉三神を祭るとき、方位が悪いのでここで方除の祈祷をしたことに始まるといい、今でも方違い安全祈願に訪れる人が多い」と記している。

天野屋利兵衛とは無関係

 私は特に「かって天野屋五か坊の一つで」という部分に興味をもった。というのは、このお寺より約二ニ二百布西北へ行ったところにあるー運寺では、門前に「赤穂義士の墓」との石碑を立て、境内には大石良雄、大石主税、寺坂吉右衛門の墓がまつられているのである。そのわけは、もともと当寺の近くにあった竜海寺が、赤穂義士に討ち入りの武器を密かに提供した大坂の豪商、天野屋利兵衛ゆかりの寺で、その関係で赤穂四十七士の墓がつくられていたのを、明治維新の廃絶のとき三墓のみここに移されたとのことである。
 私は「天野屋利兵衛ゆかりの寺がかってこの近くに五か所もあり、西之坊のみ現存している」ということかと早合点し、ある日、西之坊を訪れ「由来書をいただきたい」と
お願いした。ところがお寺の人は「由来書というものはつくってない」といわれ、その代わりに一枚のコピーを下さった。何かお寺巡りの本のーぺ—ジである。
 さっそく読んでみると、問題の部分は「当寺は、もとは天野谷五か坊のうちのー坊で住吉大社の社僧寺であった」となっている。住吉区史では「天野屋」でありお寺のコピーは「天野谷」である。豪商の屋号とお寺の名前を区史は間違えているのである。
 私はお寺の外で一人赤面した。しかし、早とちりは今までにはたして私一人だけだったのか。

今も生きる神仏習合

 さて、和光山西之坊であるが、どっしりして貫禄のある山門をくぐると、左手から白玉大明神・千手観音・地蔵菩薩・弘法大師像・不空絹索観音などをおまつりする本堂、庫裡、そして弁財天・歓喜天・守護神・本命宮・霊符神・大金神・ハ将神・猿田彦大神・摩伽羅大・十六善神・大小神祇をおまつりする方違社などがならんでいる。
 これらの神仏からみても、当寺がかっては神仏両方をおまつりしていた寺であることがうかがえる。
 神仏混淆あるいは神仏習合ともいうが、わが国固有の神の信仰と仏教信仰とを融合調和するという、奈良時代に始まり、神社に付属して置かれた寺院である神宮寺・宮寺・神供寺・神護寺・神宮院・別当寺や、仏,菩薩が衆生を済度するために、仮に神として身を現すことをいう、本地すいじやく説などである。

皇国史観と神権政治は一体

 しかし、明治初年、維新政府が皇国史観による、政治的支配者が、神の代理者として絶対権力を主張し、人民に服従を要求する神権政治の立場から、祭神一致の方針をとり神仏習合を廃止し廃仏きしやくとして、多くの寺院を破壊し、経典、仏具などを焼き払った。
 天野谷五か坊寺のうち、各坊の仏像を併合して、西之坊のみが存続することになった秘話などあればぜひとも、由来書などで発表してもらいたいものだ。
 それにしても、神権政治は本当に恐ろしい。私も国民学校四年までは「少国民」としての軍国教育を受けたが、天皇が「現人神」という神になるのだから、民衆は未来永劫に逃げようがない。今から思えばまったく馬鹿げた話なのだが、当時は最後は必ず「神風」が吹くと信じていた。正に子供だましであったのだ。

軍国主義の亡霊復活を許すな

 しかし、油断はできない。今また、小泉首相が靖国神社に内外の反対を押し切って参拝することにより、「あの戦争は侵略ではない」「極東の小国・日本が大国を相手に立ち上がった、自存自衛の戦争だった」「次の日本を背負う青少年に、学習の場として靖国神社に来ることを期待」すると、過去の軍国主義,神権政治の亡霊がよみがえろうとしていることを、絶対に見逃がしてはならないと思う。