今昔木津川物語(028)

◎玉出遺跡(西成区玉出西ー)

 昭和三十二年十月五日の「サンケイ新聞」は、地下鉄三号線延長工事現場(岸之里駅から玉出駅間の地下四㍍〜五㍍)の土砂の中から、土器やカイ類を集めていた中学生の成果が四日、専門家から貴重なものと評価されたと報じている。

玉中の生物クラブが発掘

 西成区玉出中学校の生物クラブでは担任の教師の指導で、二十数名の生徒が学校東側の地下鉄工事現場で掘り出される土砂の中に、土器やカイ類があるのに目をつけ、昭和三十一年から一年がかりで、毎日放課後バケツを持って、工事現場の地下にもぐり、自分たちで、それぞれの深さの土砂をスコップで掘りバケツに入れて学校に持ち帰り、水洗いして選び出した。寒い中、工事現場の泥にまみれて収集する生徒の熱心さにうたれて、現場の労働者も協力してくれたという。
 当時の資料によれば、発掘したカイ類は約八十種類で、中には現在の日本ではすでに死滅しているものもあり、その他シカの角、たこつぼ、網のおもり、水さしなど紀元前一〜二世紀から、奈良時代までの土器が三十数点あり、その中に考古学上貴重な墨書人面土器があったとのこと。

謎の土器

墨書ぼくしょ人面土器とは、人の顔が書かれた土器で、大阪では森之宮遺跡など三点しかない貴重品。人面図の表情は両眼は目尻の上がった特異な形で、口はへの字形で右端に長く伸びた滑稽味のある表現で、一見戯画的な性格を表現したもので、祭祀さいしに用いられたものではないかと想像されている。
 報道では専門家が、「この辺りに住んでいた人の遺跡が、鎌倉時代にいったん三㍍位下がって一時海中となり、その後また上かったものではないかと考えられる」と話していた。

太古大阪は風かおる高原

 今からおよそ三万年から一万年前頃の間、後期旧石器人が活躍していた時期、地球の海水は現在より百五十㍍も下がつたといわれ、その後しだいに気候も温暖化して、縄文時代前期には海水面が最高に上昇し「縄文海進」とよばれた。この頃大阪平野のほとんどが海中に没する。海水が下がった時期には、日本列島は大陸とつながり、陸地を伝ってナウマン象、オオツノジカなどの大型獣が日本列島に移動し、これらの動物を追って人々がやってきたことは確かであろうといわれている。
 この当時大阪は海抜百五十㍍以上の高地になっており、現在の大阪湾の中心部には古淀川が流れていて、紀伊水道辺りが海岸線となっていたという。

玉出の古代人はどんな人

 玉出に土器が出土したときけば、どうせ海水に押し流されて来たのだろう、と思いがちであるが、このようにかっては玉出も、尾瀬や北海道の沼沢地にみられる水草が咲き乱れ、現在の札幌市辺りの気候に類似した、針葉樹・広葉樹が混生して繁茂する緑豊かな高原であったと知れば、どんな先住の大阪人が住んでいたのかと興味はつきない。
 昭和三十二年といえば戦後の復興から経済の高度成長がさけばれ始めた頃、もし玉出中学校の先生と生徒の熱意と、エ事現場の人々の理解と協力がなければ、「玉出遺跡」も闇から闇へ葬り去られていたことはまちがいない。

神の国でなく人間の国

 今度の総選挙で「日本は天皇中心の神の国」といいはなち、批判をうけても撤回しようとしない森首相ひきいる、自民・公明・保守の与党は大敗した。日本の昔話を天皇中心の「神話」にすり替えていった時よりもっと大昔から、日本は人間と自然が共存していた平和な国だったことを、本当に理解しなければ、またすぐに失言しそれが政権の命取りになりかねないであろう。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第2回、第3回

◎鈴虫の寺は下町ロケット

 西芳寺(苔寺)の百メートルほど北、延郎寺山の中腹にある華厳寺(鈴虫の寺)は、正徳五年(一七ー五)に創建された華厳宗の寺だが、明治元年(一八六八)に臨済宗永源寺派に改めた。本堂に本尊の大日如来座像があり、堂前の「華厳寺」の額は陰元禅師の筆である。
 当寺を「鈴虫の寺」とよぶのは、本堂の四つの箱で、約八千匹の鈴虫が一年中鳴いていることから。当時の住職が二十三年かけて鈴虫の習性をかえ、一年中、しかも昼間に鳴くようにしたもの。さわやかな鈴虫の音とともに、住職の「鈴虫説法」も聞ける。
 秋晴れのもと、今日も次郎と友子は手をとりあって、ゆるやかな坂道を登りながら、例によっておしゃべりを始めた。
 「私は以前にひとりで来たことがあるけど、先に苔寺に回り庭園をうづめつくした苔の美しさに圧倒されてきた後だったから、鈴虫の音もテ—プぐらいにしか思わず、住職の説法も若い人達でいっぱいだったので、最後まで聞いていなかった。中年のお坊さんが熱弁をふるい、聴衆からも質問があったりしていい雰囲気だなあと、好感を持った記憶がある」
 「鈴虫の飼育の改良に社運ならぬ寺運をかけてとりくんだのね」と友子。
 「苔寺と松尾大社に囲まれ何かしなければ素通りされかねないと、お寺のこれこそまさに、『下町口ケツト』だ」と次郎は人気の髙い、奮闘している中小企業をモデルにしたドラマから例を持ってきた。
 「それに『鈴虫説法』も加えて」と、あいづちを打つ友子。
 「友ちゃんどう思う。せっかくお寺に来ているのだから、お坊さんから説法のひとつも聞かせてほしい、とは…」
「楽しくて元気の出る話なら半時間位でも聞きたいわ」
 「ところが、私も京都と奈良のお寺だけでもここ数年間で数百カ所はお参りしている。しかし実際に私達に説法してくれたのは奈良の薬師寺とここだけ。後は単なる観光客扱い」
 「外国のお客さんも爆買いだけでなく、寺社巡りもせっせとやってくれている。日本の文化にも関心があると思う」
 「友ちゃんそこなんや。世界三大宗教であるキリスト教とイスラム教は、うちこそ本家と争っている。しかし仏教は、人間に命令する神の観点はない。あくまで視点は自分の内部にある悟りへの道なんだ。ひとりひとりの人間の努力でこそ世界平和が実現できるという、唯一合理的な道を寛容の心できりひらこうというのだ」
 「次郎ちゃん今日は格調高いね」
 「私の兄は敗戦のとき少年工として大阪の軍需工場にいた。八月十四日、最後の空襲でートン爆弾の猛爆を受け多くの犠牲者が出た。その時陸軍の最高幹部らだけ厚さニメートルのコンクリートで固めて造った防空壕に入ったが全員圧死。兄はその時のことを永久に忘れないと、ことあるごとに人に話している。今こそ戦争の無益さを訴えなければ」
 次郎と友子は戦中派最後の世代として、史跡巡りにも反戦の意識がにじみ出る。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」 2016年4月、5月号

今昔西成百景(035)

◎鶴見橋

 明治四十二年に大日本紡績(現ユニチ力)津守工場が、今の府立西成高校と西成公園のあたりに新設された。再盛時には従業員約四千人の、当時としては東洋ーの規模を誇る紡織工場であった。
 しかし太平洋戦争で、昭和二十年三月十三日と同年六月一日の大阪大空襲による、米軍機B29の格好の攻撃目標となり、ノコギリ歯型の屋根の日紡津守工場は徹底的に破壊され、灰塵に帰した。

風光明媚な五本松

 実は、この日紡津守工場と、昭和四十五年二月に開通した、 阪神高速道路堺線の敷地となって埋立られた十三間掘川にかつてかかっていた「鶴見橋」とは、深いかかわりがあったのである。
 日紡従業員の通勤用として、南海電車萩之茶屋駅とを結ぶ道であると同時に、寄宿舎の数多くの女工さん達が、買物に行く道でもある十三間掘川の堤に、樹齢二三百年もするふたかかえもあるような、大きな松の木が五本伸びていた。この通称「松のハナ(端)」からちよつと南のところへ、煉瓦づくりで基礎は鉄筋の本格的な橋が大小ふたつ、日紡の負担で、津守工場開設まもなく建設された。
 「鶴見橋」という橋の名前は、津守新田の開発者白山家の時の支配人が依頼を受けて、鶴が舞い降りてくるような風光明媚なところだ、という意味で付けたものだと伝えられている。

地場産業と共に栄えた商店街

 鶴見橋商店街は、日紡の従業員と旭や橘の社宅に住む、その家族を常連客として、区内随一の商店街に発展していくが、戦後も、日紡の後から津守へやってきた、セメント・鉄鋼・造船.金属などの企業の労働者の通勤道として、また地域の商店街としてにぎわった。NHKの紅白歌合戦の番組が開始された頃には、紅白が終わってからでも、商店街はひと商売できたといわれている。
 しかし、大手ス—パ—の進出と製造業の不振による企業の倒産、廃業、移転などによる影響、それに加えて無計画で乱脈な同和行政による「空地」の続出での人口の減少などにより、かってのにぎわいはない。

消費税の増税は不況に追い打ち

 自民党政治の「規制緩和政策」により、大手ス—パ—の出店が容易になったということで、いま西成でも数ヶ所が噂されている。消費税の増税は、業者泣かせに追い討ちをかけるようなものである。商店街や市埸の不況は地域の経済や社会の衰退につながり、地元で文化の支え手をなくすことになるなど、深刻な影響を及ぽすものなのである。地域住民の職場の確保、地元商店街、市場の営業をまもるということは、真剣に考えねばならない、全区的な緊急の重要課題だ。

街を歩けば福井氏らの思い出が

 私は二十三才で「赤旗」西成分局員と成り、鶴見橋界隈を故福井由数氏や、昨年まで区の選挙管理委員をされていた永田勇氏ら先輩と共に「赤旗」読者拡大のためよく歩きまわった。戦前から解放運動をなされていた福井氏らの話は貴重なものであり、故坂市巌氏が小説「雑草」としてまとめておられた。街は大きく変わったが、鶴見橋商店街にはまだかっての家並みも残っている。心がなごむ場所のひとつとして、時間をかけて歩いてみるのも楽しい。

編者注】
桜田さんからのコメントから
「坂市巌さんの著作は,正しくは『育ちゆく雑草』(上・下)1976年。下には「部落の母」というサブ・タイトルがつけられています。」

今昔木津川物語(027)

西成—大正歴史のかけ橋シリ—ズ(五)

◎三軒家女工哀史じょこうあいし

 「区史」というものは、各区の発足ほっそく何十周年等を記念して、地元の実行委員会から発行されるものがほとんどであるが、実際はお役所ペースでやられる。したがって行政や大企業の都合つごうの悪いことは、「区史」が再発行される際に、書き替えられたり、抹殺まっさつされてしまい面白おもしろくも何もない、ちょうちんもち記事と資料だけが残る。

昔の「区史」は面白い

 昔のといっても、明治・大正・昭和なら敗戦直後の頃の発行のものは、ある事柄ことがらちがった言い伝えがあれば、それを共に紹介して、読者に考えさせる余裕よゆうがあった。最近の「区史」はその逆で、お役所と関係の深い学者が、一方的に断定だんていして疑問点ぎもんてんは後世に残さない、というやり方をわざととっているのかと、思わせることが多い。

「大正区史」のなぞ

 しかし「大正区史」の中には、他区のものとは違った数行があつて、それが区史にまつわる”なぞ“となっている。
 それは、明治十六年から三軒家村で操業そうぎょうはじめた、大阪紡績会社の創設そうせつという部分から始まる。
 同社の創業者は国立第一銀行頭取渋沢栄一で、輸入ゆにゅう綿糸めんし為替かわせ巨額きょがくなのに目を付け、国内にー万すい以上の大工場の建設を目標もくひょうとした。
 経営者には、当時英国えいこく留学りゅうがくしていた山辺丈夫に白羽しらはを立て、研究資金を送った。明治十五年工場完成、三軒家村は都心から離れているが古くから船着き場としてにぎわい、石炭せきたんや原料等の運搬うんぱんに便利なため選ばれたという。明治二十二年に増築された時には、れんがづくり四階建てで、六万錘を備え、工員数四千人をようする業界の最大手さいだいてとなった。

紡績史上最初の重大事件

 明治二十五年十二月二十日、大阪紡績工場から出火した火事は、多くの女子エ員を犠牲ぎせいにする大惨事さんじになった。火はこわれたまどから吹き込んだ風によって一度に燃えひろがり、逃げおくれ主に三階のかすり場にいた女子工員達は、階段かいだんかさなってたおれていた。
 九十六人のうら若い乙女おとめの命をうばい、二十二人を負傷ふしょうさせたこの出来事は、紡績史上見過みすごすことの出来ない、最初の重大事件であった。
 大阪紡績はこの火事で、工場と紡機ぼうき三万千三百二十すいを消失、四十万八千百九十一円余の大きな損害を受けた。しかし、同社はこの被災ひさいによって、古い紡機を一挙いっきょに二万四千錘の最新式リングせい紡機に更新した。
 山辺はその後も増錘ぞうすい企業合併きぎょうがっぺいり返し、大正三年、三重みえ紡績と合併して東洋紡績となるころには、約十五万錘に達する盛況せいきょうを示し、山辺は東洋紡社長を最後に大正九年五月十四日、六十九オでぼっしたが、同社は昭和六年、大阪紡績と合併して世界最大の紡績会社に発展した。

タヌキのたたりでみか

 「大正区史」は同時に、明治二十一年山辺社長の一人息子が、工場内であそんでいるときに機械に巻き込まれ、惨死ざんしする事件が生じた。葬儀そうぎ盛大せいだいなもので、岩崎の火葬場かそうじょうへ行列の先頭が着いたとき、しんがりはまだ自宅前だったということ。
 山辺社長はまた、愛児の死をいたんで小学校に多額の寄付を行ったこと等を、「美談びだん」として今に伝えている。
 そして「大正区史」は、つぎに「この悲劇は、明治二十五年十二月の大阪紡績の大火とともに工場建設の際タヌキのをつぶしたたたりといわれている」と、はっきりと書いているのである。公文書こうぶんしょのように、あたらずさわらずになってきている「区史」に、迷信めいしんとしか言いようのない「タヌキのたたり」せつをわざわざ紹介するうらに一体何があるのか。私は筆者ひっしゃがただたん無神経むしんけいに書いたとは思えない。三軒家が発祥の地となった大企業が、犠牲となつた乙女たちになにを報いたのか、何の記録も残っていない。この惨事を伝えるのも、今ではここしかない。しかも山辺社長の「美談」の方が大きく伝えられてきていることへの疑問。「タヌキのたたり」という世間の、うわさは、会社の責任を少しでもあいまいにしてしまったとしたら、とくをしたのは一体誰か…。うわさを流したのは一体誰か…。
 区史の筆者は後世のわれわれに本当は何を伝えたかったのか、それは”なぞ“であるが、多くのことを考えさせてくれたことだけは間違まちがいない。

今昔木津川物語(026)

西成—大正歴史のかけ橋シリ—ズ(四)

渡船とせんと私

 大正区での渡船の歴史は江戸時代までさかのぼる。西成郡史によれば明治時代のはじめには、木津川筋には三軒家村の西側町渡、三軒家かみノ渡、三軒家渡、材木置場おきば町の筋違渡、中口新田の中口渡、炭屋新田の落合おちあいしもノ渡、宮の前渡。尻無川筋には甚兵衛じんべえ渡。昭和七年の渡船場見取図みとりずによれば木津川筋に千本松渡と五番渡が、尻無川筋に中ノ渡と福崎渡が加わっている。

昔は民営みんえい世襲せしゅう・有料

 もともと渡船は、民営、有料で世襲の家業かぎょうとされていた。
 大阪府は明治二十四年、渡船業営業規則を定め、営業時間や料金の統一とういつをはかった。同四十年に安治あじ川・木津川・尻無川及びよど川筋の市内二十八渡船は危険防止きけんぼうしのため大阪市営しえいとなった。
 大正九年きゅう道路法の施行しこうにより渡が道路の付属物ふぞくぶつとして、有料を廃止はいしして無料とした。
 さらに昭和七年請負制うけおいせいから直営方式ちょくえいほうしきえられたが、その当時市内の渡船三十二カ所、一日の利用者四万人、牛馬ぎゅば百七十とう、自転車ー万七千台、乳母車うばぐるま百二十台、人力車じんりきしゃ十九台、 荷車にぐるま八百台との記録きろくが残っている。この頃、船頭せんどう組合くみあい結成けっせいし、待遇改善たいぐうかいぜんを市に要求している。
 その後戦時下せんじかでの利用状況の激変げきへんや道路・橋梁きょうりょうの整備により減少げんしょうし、現在では市建設きょく管理七ヵ所、市港湾こうわん局管理一ヵ所の合計八渡船になっている。大正区にはその内七カ所あり、あとの一ヵ所は港区の天保山てんぽうさん渡である。

木津川と三軒屋川の落合

 落合上ノ渡と下ノ渡は共にながい歴史をもっているが、私は乗船じょうせんするたびになぜか、与謝蕪村よさのぶそんの「やぶ入りや浪花なにわを出て長柄ながら川」「春風やつつみなごうていえとおし」のがうかんでくるのである。高校を卒業してすぐに、店員見習いのような仕事で、毎日重い自転車を走らせていた体験からかもしれない。
 今はその道も大変な「ダンプ銀座ぎんざ」に変わり、平日は危なくて歩けない状態じょうたいである。

名勝めいしょう千本松せんぼんまつの名を残す

 千本松渡船に乗れば、何か小林多喜二たきじの小説「工場こうじょう細胞さいぼう」や「オルグ」の主人公になったような気になって、身構みがまえてしまうから不思議ふしぎである。私自身じしんが三十才代は、日本共産党の専従せんじゅう活動家となり当時西成区南津守にあった木津川地区委員会の事務所から、大正区の工場にオル
グに出かけるのに、よくこの渡船を利用したからであろう。

かってはカ—フェリ—が

 木津川渡船にはめったに行ったことがない。地下鉄北加賀屋かがや駅から西へ二十分ほど歩いたところにあるが、注意が必要なのは、休日には一時間に一回位しか運行うんこうしないことである。他の渡船は平日・休日を問わず十五分毎に動くのに、そのつもりでいれば予定がずれてしまう。しかしそれだけに生活のにおいは薄うすく、時間つぶしにぼんやりと、はば広い木津川の河口かこうと海の入り交じるようすをながめていると、いそのかおりもただよってくる。対岸たいがんの工場ぐんや倉庫の列も静まりかえっている。小野十三郎とさぶろうの詩に、ここ柴谷しばたに町をよんだのがいくつかあった。私が小野十三郎の「詩の教室」に通っていたのは二十才はたち前後のこと。詩人というのをはじめてみてあこがれたものだった。
 木津川渡が現在、唯一ゆいいつの市港湾局管理の渡船だが、かってはカーフェリーが就航しゅうこうにあたり、乗客と共にトラツクや乗用車も乗せていたという。

スリルとサスペンス

千歳ちとせ渡がある尻無川の河口と大正内港ないこうのぶつかるところは、ほとんど大阪港である。そこを約四百メートルにわたり小さな渡船が横断おうだんするのだから、風の強い日などは相当そうとうにスリルがある。大阪平野へいやをとりまく山々もはるかに見えるし、大きな貨物船かもつせんが目の前を通り過ぎると、その後をカモメの群が追っていく。
頭上ずじょうはるかに、高速道路の工事中の橋ケタが顔をのぞかせている。
 南港側には、いま大阪市がかかえこんでいる巨大な赤字ビルが、突っ立っている。その横に港区の大観覧車かんらんしゃがカラフルな姿すがたを見せているが、何か蜃気楼しんきろうのようにもうつる。
 子供の帽子ぼうしが風で吹きばされて、それからなにか大事件が起こりそうな雰囲気ふんいきがする、不思議な空間くうかん
 森村誠一せいいちの「せいかんざい癒着ゆちゃく」の小説の舞台ぶたいになりそうな渡船。などと勝手に空想くうそうしていると船は早くも鶴町側に着いた。
 歩いて約五時問、自転車で約三時間の「渡船と私の一人旅」、あなたもやってみませんか。

今昔西成百景(034)

◎阿部野神社

 阿部野神社の本殿は阿倍野区、本参道は西成区にある。
 「当社はもと社格別格官弊社で、北畠親房公並びに顕家公を祭神としている。親房公は後醍醐天皇の信任厚く吉野朝廷第一の柱石で正平九年九月十五日年六十ニオで大和国賀名生に薨じた。また顕家公は親房の長子で元弘三年陸奥守兼鎮守府大将軍に任ぜられ、皇子義良親王を奉じて奥州の鎮めとして大いに功をたて延元三年親王と共に海道の国々を平らげ奈良につき、それより摂州阿倍野に戦い、同年五月二十二日年僅かに二十ーオで、父に先んじて薨じた」(西成区史)

当初は天下茶屋に祠を

 もと天王寺村大字阿倍野に大名塚と呼ばれる小丘があり、そこに「顕家卿之墓」と刻した墓碑が半ば埋没してあった。これを地元有志が当初天王寺村天下茶屋に祠を建設すべく運動したが時の渡辺昇知事が宮内省に上申して明治十五年に阿部野神社として祭られた。
 私は小学校のとき、よく学校行事で阿部野神社に参拝し、皇軍の「武運長久」を祈念させられた。玉砂利を敷き詰めた境内などから、さぞ由緒のある古い神社に違いないと思ってきたのだが、戦後に明治になってからのものだと知って意外だった。
 明治政府は、天皇親政を目玉にして、全国で天皇家に関連があると思われるところに、にわかづくりの官弊社や記念碑・忠魂碑を建てまくった。
 楠木正成を祭る湊川神社や、その子正行を祭る四條畷神社もそうだし、「初代の天皇」と呼ばれている神武天皇を祭っている奈良県の橿原神宮も明治を半ばすぎての二十三年になってからつくりだされたもので、橿原神宮が完全に出来上がるのは昭和十五年、いわゆる神武紀元二六〇〇年になってからの事である。
 当時、阿倍野高女の女子生徒たちも槌原神宮の敷地拡張整備ということで、勤労奉仕に行かされたということが、日記として残されている。

行政による歴史観の押しつけ

 西成にも天下茶屋公園の一角に、明治天皇駐蹕遺址碑が大きな石でつくられて立っている。明治天皇が明治元年に住吉神社参拝の途中一時立ち寄ったところということである。
 ところが、平成七年発行の区役所が実質的に事務局をして作成した、西成区コミュニティマップに、民間の力でこの碑を建立したことは「不朽の美挙である」との、最大級の賛辞を贈っているというのはどうであろうか。同マップは阿部野神社の説明文の中にも、「北畠二公が至
誠の精神をもって文化の発展、平和の実現に尽くしたことから祭神となっている」と、歴史の評価の一方的な押しつけをやっている。時代錯誤もはなはだしい。オ—ル保守、オール与党体制の大阪市が郷土史にふれると、とかく皇国史観の雰囲気の方向にリ—ドしていく傾向にあるということが、郷土史への興味をそいでいることを、もっと自覚すべきである。

「建武の中興」の犠牲

 源頼朝は武家政権を樹立し、以後貴族たちは公家(天皇家)に、武士たちは武家(将軍家)に属し、一五〇年にわたって公武二元政治がおこなわれていた。
 後醍醐天皇はこの時代の流れに逆行し、公家一統の政治を復活させようとの思いから討幕を行った。
 しかし、天皇とその寵臣たちの贅沢なあけくれ。恩賞の不公平。猫の目のように変わる法令。一方、農民は鎌倉時代よりも重税に苦しんだ。武士たちの不満もふくれあがった。
 矛盾と混乱の中で「建武の中興」はわずか二年あまりで崩壊し、再び長い戦乱の時代が始まった。私には人心のはなれた天皇のための負け戦に出陣していった、親房や正成たち父子の別れやあわれさのほうが「忠君愛国」よりも、しみじみと感じられる阿部野神社なのである。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第4回、第5回


◎首途八幡宮ー義経が津守にいた

 今日の次郎と友子は京都市上京区知恵光院通今出川上ル桜井町にある、源義経縁の地に来ている。今から約八四〇年前、承安四年(ーー七四)三月三日未明、源九郎義経は、牛若丸時代、金売吉次の屋敷であったこの地で、鞍馬山を抜け出して吉次と会い、屋敷近くにあったこの神社に奥州平泉の藤原秀衡のもとへ出発するにあたり、道中安全を祈願した。
 「首途」とは「出発」の意味で、以来この由緒により「首途八幡宮」と呼ばれる。
 源九郎義経が生まれたのは平治元年(ーー五九)、父義朝が戦いに敗れた直後である。
 次郎は語る「母常磐が平清盛の寵を受けた代償として、鞍馬山に預けられたこと、参拝に来た奥州の金商人吉次なるものに助けられ、奥州平泉において藤原秀衡に歓迎されたこと…などは史実だろう」
 「天狗に武芸を習ったり、五条橋で弁慶を相手に技を見せたり…はお伽話なのね」と友子。「伝説に包まれた幼年時代の霧の中から、突如として抜け出した若者が、わずか一年半の間に、当時まだ西日本を完全に支配し、強力な海軍を持つ平家を、追い詰め追い詰め、あっという間に壇ノ浦で滅ぼしてしまったのは(ーー八五)史実である」と次郎。
 青年武将義経の名は天下にとどろくわけだが、兄頼朝にしてみれば面白くない。かねてから出すぎた弟の態度を不快におもっていたのだから、平家が滅亡してしまった以上、もはや義経の力は不要。目障りなだけである。「大手柄を立てながら、鎌倉に入ることを頼朝に許されなかった義経は、空しく京に追い返されるのね。これはひどい」と友子憤慨。
 その後、朝廷は平家追討の功を賞して、義経を伊予守に任じたが、頼朝は伊予に地頭を置いて義経の実権を奪ったのみならず、ついには義経討伐の為、自ら諸将を率いて鎌倉を発した。
 次郎は語る「義経はひとまず、西国において兵を集めようとし、十一月三日京を離れて摂津に向かった。尼崎浦から舟に乗ったが、たまたま暴風にあい舟はちりぢりになり、義経はわづか数名と共に行方不明となった」「義経には部隊はなかったの」と友子。
 「それが問題なんだ」と次郎が語る。「義経が使っていたのは全て頼朝の部隊で、義経には部隊と呼べる程の家来はいなかったんだ」
 その後、義経は大和に逃れ、吉野山に隠れ、京師近辺に出没しているが、結局は再び平泉に落ち着き、秀衡に変わらぬ好遇を受けた。秀衡にしてみれば、天下の覇権をにぎった頼朝が奥州に攻めてくるのは時間の問題だ。その時に義経を味方にしておけば有利と判断したのであろう。だが、残念ながら秀衡はその後まもなく病に倒れた。父亡き後、藤原三兄弟は争い、長男泰衡は父の遺言に背いて義経を衣川の館に急襲し、義経は持彿堂に入って自害、三十一歳の悲運の生涯を閉じた。頼朝は約束を守らず奥州藤原氏を滅亡させた。
 次郎は語る「しかし、肉親や功臣の全てを疑うという性格の頼朝は、実質一代で源氏の幕府は終わらせ、実権は平氏の出である北条氏にわたってしまったとは歴史の皮肉か」
 突然、次郎が得意げに「最後に、友ちゃんにだけ特別に話すけど、西成区の津守町の江戸時代迄は海辺だった処に『はい上がり』という字がある。つねづね、突然に周辺とは異なる調子の字なので不審に感じてはいたが、義経が京を離れて摂津に向かう中で、乗った舟が暴風にあい命からがら、はい上がった岸が津守だということ。これは『史実』だよ」
 「認知症の兄は頼朝的長男だから。義経の気持ちわかる」と次郎。「自分が選んだ老々介護の道でしょう。愚痴は聞いて上げるから」と友子。やさしいね!

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」 2016年6月、7月号収載

今昔西成百景(033)

◎「ふたりつ子」とわが街天下茶屋

 NHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」が好評とのこと。大阪の下町、西成区天下茶屋を舞台に、双子の姉妹が実業家、将棋のプロ将士の道を目指す物語だが、西成区民としてはなじみの所がよく出てくるので、毎日の話題になり、話の進展についても興味しんしんである。
 姉妹が通っている学校は岸里小学校ではないか。西天下茶屋駅前の西天銀座商店街がモデルではないか。通天閣が近くにあるというのなら、東天下茶屋ではないか。等々である。

テレビの画面から街を再発見

 私は、早朝、豆腐製造の蒸気が立ちこめているなかを、南海汐見橋線の二両連結の始発盈車が踏み切りの向こうを通り、手前に新間配達の少年が自蔽車で走り、まんなかを犬を連れた人が歩いていく、まるで風景画のような画面が気にいっている。
 西成民主診療所の前の、枕木で柵をした汐見橋線の沿道が、いまどきめずらしいものとして撮影されながら、その後すぐに金網に変えられてしまったのは、ちよっと淋しい。
 姉妹の父である、野田豆腐店を営む光ーは、「まあええやないか」が口癖であるが、それがまるで天下茶屋の庶民のキ—ワ—ドのように思われたら、とんだ誤解だといわざるをえない。

「福祉施設の街」は困る

 寛容であるということは下町の住民としては当然身についたものではあるが、財界・「解同」ベッタリの行政から、意図をもって、「すきやねん西成」「人情の街西成」として押しつけられたのでは、たまったものではない。最近、大阪市が西成区に大型の福祉施設をつぎつぎに持ち込み、地元住民から反発をうけているが、「福祉の街」がいつのまにか「福祉施設の街」にすりかえられている。住民は「調和のとれた街づくり」を望んでいるのだ。

消費税増税は商店街を直撃

 西天下茶屋商店街は二百からの店舗のある、西成では指折りの商店街だが、今不況・スーパー・地上げのためにかなりの店がシャッタ—を下ろしている。こんな状況では「まあええやないか」と、納まっているわけにはいかない。先日この商店街で、日本共産党の消費税増税反対の宣伝隊が大いに歓迎を受けたが、老舗の店も確実に変わってきていることを感じた。

殿下茶屋が天下茶屋に

 天下茶屋という名は「天正四年のこと、千利休に茶を伝えた茶匠武野紹鷗が閑居していた地で芽木小兵衛正立なる人が茶店を開いていたが、太閤秀吉が住吉大社への参拝の途中、千利休の勧めで麗水で知られるこの茶店に憩い賞美の余り、井戸に恵水の名と玄米三十俵を与えた。このことから世に、殿下茶屋=天下茶屋と呼ばれるようになった」(西成区史)とのことである。

秀吉の庶民性も出世するまで

 秀吉は全て派手好きで、自己宣伝がうまかったといわれているが、同じ天正年間にスペインの商人ヒロンは、米二俵を納められなかった農民夫婦と子供二人が殺されるのを見た、と書いている。大阪城の築城に動員された人々のなかには、仕事がすんでも国元に帰れず、川原で細々と世を過ごす者も多かったという。
 大阪市は豊臣秀吉ブ—ムに便乗して、現地に史跡公園を計画しているが、行政による一面的な秀吉の賛美はお断りしたい。

試練の道を行く二人

 さて、「ふたりつ子」の野田ファミリーは今後どのような道を歩むのか。姉の麗子がボ—イフレンドに住所を聞かれ、「帝塚山」と答えてしまつたり、妹の香子が「京大生」の姉に対抗して、プロの将棋士を目指すあたり、また、麗子に自分の生き方を拒否され、酒に不安や寂しさをごまかしていく父光一、本当に、私たちのまわりに、いくらでもいそうな人物がえがかれていて、一層身近に感じる。
 二、三日前にも、結婚して博多にいっている娘から電話がかかり、「妹の香子は若いときの自分にそつくりや」といわれ、思わずどきりとさせられた。

今昔木津川物語(025)

西成—大正歴史のかけ橋シリ—ズ(三)

◎ 大正区の「新田しんでんづくり」

 「大正区の土地は、江戸えど時代以前から続いてきた三軒家、難波島なにわじまと、江戸時代以後木津川、尻無しりなし川の河口に開発された新田と、さらに明治、大正時代に造成ぞうせいされた埋め立て地によって形成けいせいされている。この、うち新田は泉尾いずお炭屋すみや千鳥ちしま今木いまき平尾ひらお中口なかお上田うえだが江戸時代中期に、南恩加島おかじま、北恩加島、小林、岡田おかだ千歳ちとせが同末期に開発されている。埋め立て地は船町ふなまちつる町、ふく町の全地域と南恩加島、平尾の一部で、埋め立てが完了した大正末に、ほぼ今の大正区の区域が確定かくていした。
 当区は江戸時代、摂津国せっつのくに西成郡にぞくし、幕府の直轄地ちょっかつちとして代官だいかんの支配下にあったが、明治維新いしん後大阪府に所属、西成郡第二区にぞくした。
 明治三十年四月大阪市に編入へんにゅう、西区の一部となり、大正十四年四月に港区が西区から分区の際、港区から分区独立し大正区が成立せいりつした。すでにあった大正橋にちなんで、区名がつけられた」(「大正区史」)

江戸時代の新田開発

 上町台地の西はむかし海であったが、淀川や大和川が流れ込み、河口に次第に土砂どしゃ堆積たいせきさせ、いくつかの砂州さすができ、これらがいわゆる「難波なにわ八十島やそしま」を形成けいせいしていった。
 これらの砂州のさらに沖合に、堤防ていぼうを築いて新田がつくられた。新田は江戸時代幕府によって大いに奨励しょうれいされ、当初とうしょは、庄屋しょうやを中心に村人むらびとが共同で開いたが、江戸時代中期以後は、町人ちょうにん勢力せいりょく台頭たいとうとともに、町人が幕府から独力どくりょくで開いた「町人請負新田」が多い。

各町名に新田請負人の名が残る

 「大正区の町名は、ほぼ新田の名称めいしょう継承けいしょうしたものと、埋め立て地に新しくつけたものの二通りである。
 三軒家(旧三軒家村)
 三軒家はもと木津川尻の小島で、姫島ひめしままたはまる島といわれていたが、慶長けいちょう十五年(一六一〇)に木津村の中村勘助が開発したので、勘助村と呼ばれるようになった。この地が三軒家と称されるようになったのは、勘助の開発当時、三軒の民家が建てられたからといわれている。
 泉尾(泉尾新田)
 元禄十一年(一六九八)和泉国いずみのくに大鳥郡おおしまぐん踞尾つくのお村(現堺市)の北村六右衛門が開墾かいこんし、当初三軒家浦新田といわれていたが、最初の検地が行われた元禄十五年(一七〇二)泉尾新田と改称かいしょうした。開発者の国名(和泉)と村名(踞尾)から一字づつ採り命名した。
 北村(泉尾新田)
 泉尾新田の開発者である北村六右衛門の苗字から命名した。
 千島(千島新田)
 開拓者の岡島嘉平次おかじまかへいじが自分の居住村名(千林せんばやし村・現あさひ区)の千とせいの岡島の島をつなぎ合わせて、千島新田と命名した。
 小林(小林新田・岡田新田)
 小林新田、岡田新田の名はともに開発者である、東成郡千林村の岡村嘉平次に係わるものであり、小林は千林から、岡田は岡島から採ったものである。岡田新田の方が広い面積を有したにもかかわらず「小林」を町名としたのは、小林新田にしか住民がいなかったことによる。
 平尾(平尾新田)
 大阪江戸堀の平尾与左衛門よざえもんが開拓。与左衛門の姓をとり平尾新田と名付けた。
 南・北恩加島
 (南恩加島新田)
 南恩加島新田は文政ぶんせい十二年(一八二九)二・三代岡島嘉平次によって開墾された。ときの代官岸本武太夫はその功績こうせきをたたえ、恩加島新田と称させた。岡島を恩加島と換用かんようしたのであるが、恩加島には後世こうせいに恩を加えるという意味があったという。
このあと明治四年まで数回にわたり増墾ぞうこんされ、後に二分して南恩加島、北恩加島となった。
 ちなみに初代嘉平次が宝暦ほうれき七年(一七五七)江戸おもてに出て幕府に直訴じきそし許可されたときに納めた、木津川から尻無川までの開拓地百二十三町歩余の地代銀は四千三百五りょうであった。
 鶴町・船町・福島
 大正八年三月埋め立て地に町名が設定
され、鶴町、船町、福町が誕生たんじょうしたが、町名決定の由来ゆらいは、万葉集まんようしゅうかん六の田辺福麻呂たなべふくまろがよんだ「潮干しおほすればあしべにさわぐあし鶴のつまよぶ声はみやもとどろに』の鶴と、おなじく「あり通う難波の宮は海近みあまおとめらが乗れる船見ゆ』の船と、詠者えいしゃの福をとったものである」(「みんなのまち大正」)

現代の埋め立ては
大変な「借加しゃっか島」に

 恩加島が後世の人に恩を感じてもらえるものになったかど、つかは別として、いま、大阪府や大阪市がすすめている大阪わんを埋めつくすような巨大開発事業は、関空かんくう、りんくうタウン・夢州ゆめしま舞州まいしまなどいずれも後世の人に莫大な借金を残して、えがたいまでの税負担ぜいふたんと住民サービスの低下ていかをまねくことは間違まちがいない。
大変たいへんな「借加島」をこれ以上増やさないためにも、住民本位の当たり前の府市政の確立がいそがれる。

今昔木津川物語(024)

西成—大正歴史のかけ橋シリ—ズ(二)

近代紡績工業きんだいぼうせきこうぎょう発祥はつしょう(三軒家東二—十二)
—三野家公園内—

知人ちじんの坂本氏に以前から聞いていた話であるが、大正区三軒家さんげんやで毎年一月に「朗読ろうどく会」がやられ、坂本氏はその主役格で参加されているとのこと。テキストは森鴎外おうがいの小説「最後さいご一句いっく」である。
 また、坂本氏からの資料によれば、「詩、小説、童話、歌詞など、どんな本でもかまわない。声を出して読むだけだから、誰でも簡単かんたんにできる。想像力そうぞうりょくを働かせ、役を演じることがストレスの発散につながるだけでなく、長い息継いきつぎで自然に腹式呼吸ふくしきこきゅうを覚え、のう刺激しげきする」とのことで、各地の文化サークルで朗読の会がもよおされている。

「最後の一句」に三軒家が

 さて、三軒家で朗読会を主催しゅさいしている主婦の大牧比佐子さんは「大正区が文学にめったに登場しない」のはさみししいことだと考えていたところ、大好きな森鷗外の「最後の一句」という短編たんぺん小説に今の三軒家あたりをモデルにした部分を見つけたのである。この小説は大正四年十月一日の中央公論こうろんったもので、あらすじは、「元文元年(一七三六)の秋、大阪船乗りぎょう桂屋太郎兵衛の船が途中風波ふうはに合い、の半分以上が流出りゅうしゅつ船頭せんどうが残った米を金にして帰ってきたが、その金を秋田の米主こめぬしに返さなかった」「太郎兵衛は入牢にゅうろうし、木津川口で三日間さらした上、死罪に処せられることになった。
 その時、太郎兵衛の長女いち(十六歳)がみずか願書ねがいしょを書いて町奉行に父のふ命乞いのちごいを迫り、ついにその願いを貫徹かんてつさせた」というものである。

山辺丈夫やまべたけおと森鴎外

 大牧さんは大正区の歴史を調べていくなかで、鴎外と、かつて「木津川口」にあたる三軒家に紡績工場を開いた山辺丈夫が共に石州せきしゅう津和野つわの亀井藩かめいはん出身であることを知る。「鷗外が木津川口を登場させたのは山辺と関係があるかも知れない」と二人のつながりを調べたところ、阿倍野墓地あべのぼちの山辺のはか碑文ひぶんを鷗外が書いていること、西成ぐん三軒家尋常じんじょう小学校(現大正東中)に「龍一りゅういち教室」があったことを知った。実際、山辺丈夫の墓をたずねると、龍一の墓が中央にあり一番立派でそのわきに丈夫らの墓があった。
 山辺丈夫はロンドン大学で経済学を学んでいるところを、国立第一銀行頭取とうどり渋沢栄一しぶさわえいいちわれてマンチェスタ—に移り紡績技術ぎじゅつを身につけた。帰国二年後の明治十五年に完成した大阪紡績(後の東洋とうよう紡績)の工務こうむ支配人しはいにんになり二十四時間操業そうぎょうのために発電機はつでんき輸入ゆにゅう。六百五十とう電灯でんとうを見るために三日間で六万人の見物があったという。明治三十一年社長になる。その三軒家工場で明治二十二年十二月九日、当時八歳九カ月の長男龍一が事故で死に、翌年、丈夫夫妻は龍一が通っていた三軒家小に二階建五十平方メートルほどの「龍一教室」をおくった。

工場並ぶ町で人間史発掘

 しかし、紡績工場も「龍一教室」も昭和二十年三月十三日の空襲くうしゅう消滅しょうめつ。当時の面影おもかげは、ただ、三軒家公園に「近代紡績工場発祥の地」の記念碑が立つのみ。森鷗外が木津川口三軒家あたりを小説の舞台ぶたいにしたのは、山辺家との交流こうりゅうがあったからではないか。
 また、子どもたちを主人公に選んだのは龍一への鎮魂ちんこんの思いからではないかと、私は推理するが、大牧さんはそこまでは語っていない。
 「高層こうそうビルが並ぶ都心としんよりも工場や倉庫が多い大正区のようなところの方が、何やらほっとする、という人もいます。一見、文学とは無縁むえんに見えるこの町にも人間くさい歴史があったと知って私もほっとしています」と、大牧さんはかって新聞に話していた。
 実は、この大牧比佐子さんは、約四十年前、私がある病院で働いていた頃、新卒しんそつ栄養士えいようしとして病院に赴任ふにんしてきた人。なつかしい人の近況きんきょうを知らせてくれた坂本氏にも感謝しておきたい。

参考】
・青空文庫・森鴎外「最後の一句」新字新仮名 
同 旧字旧仮名