今昔西成百景(014)

◎梅雨入り

 五月雨が降っている。梅雨の入りももうすぐである。この頃になると、かって南津守四丁目、今の商店街の南側にあった、ドブ川の上につくられた飲食街のことをふと思いだす。
 昭和三十年前後、私は十九オ、木津川筋の造船所で社外工として働いていた。そして、無権利な状態にあった社外工の労働組合をつくるために同志達と連絡をとり合っていた。まるで小林多喜二の「工場細胞」や、徳永直の「太陽のない街」の世界である。
 ホルモン屋の焼きめしは、肉のかわりにホルモンが入っていて、独特の味でおいしいかった。豚足を売る店が何軒かあったが、脂だらけの柔らかいのと、石けんのように固いのがあって塩を付けてたべた。雨がはげしくなると雨漏りがして、ドブロクのびんをぬらしていた。飲み屋の裏に卓球場があって、昼休みにやったこともある。

なぜか造船所での思い出は雨と夜勤

 当時名村造船所では、雨がはげしくなると、創業者の社長がステッキを持って現場を見廻りに出てきた。赤線を何本もいれた、大きなヘルメットをかぶっていた。職制が率先してとび出し、大きな八ンマーで鉄板をたたいたりした。しかし、船台のかげから出ようとしない労働者もいた。
 労組結成の早朝、下請け会社の社長の郷里から集団就職してきていた十数人の少年達が準備会からの脱会を申し入れてきた。「四国には仕事がなくて……。許して下さい」と小さな頭を下げた。
 私はビラの束をドブ川に沈めて、雨の中を自転車をとばして出勤した。事務所の名札はすでにはずされていた。
 今はドブ川飲食街も立ち退き跡地は道路となり、造船所も他県に移転してしまった。
 西成区には大きな下水処理場はあるのに、路地に入れば市の下水管が入っておらずに、集中的な大雨や梅雨にあふれたり、つまったりするところがけっこう多い。簡単な手続きで、市が無料で立派な下水施設をしてくれ、跡はきれいに舗装もしてくれる。私はいつもこのことを強調しているので、梅雨になればあちこちから相談が入る。そんな中にかっての社外エ仲間もいて、旧交をあたためあうこともある。
(ー九九四・五)

今昔西成百景(013)

◎玉出

 玉出西一丁目元外科医院の跡地にパチンコ店の建設が計画されているが、地元の町会や PTA はあげて反対し署名連動などを行なっている。要望書には「この計画の周囲一帯の玉出地区では、従来から地域の住民の努力により閑静な住宅環境が維持されてきたところです。なかでも、パチンコ店が計画されている敷地の北側は”ゆずりはの道”として整備されており、またスク—ルゾ—ンとしても近隣の児童・生徒の通学路としての通行の安全が確保されるべき付近の住環境上枢要な場所であります」とかかれている。
 反対の会の人は、玉出には別の場所にも数軒のパチンコ店が営業されようとしており、このままいけば玉出は「パチンコの街」になりかねないと話す。
 西成税務署が発表した平成五年度区内高額納税者ベストニ〇中、パチンコ業者は四名。この深刻な不況の中でなぜパチンコ屋だけがもうかるのか。残業なし、仕事なしの人達が、”一発逆転”をねらうのと、女性客の増大が原因であろうが、資金面では店の中で利用者のためにローンの斡旋までやられているとの話もある。これで「健全娯楽」のはずがない。

当局と業界のマッチポンプ

 パチンコ店急増のうらには、当局による「規制緩和」があるのではないか。かって府警のトバクゲ—ム機汚職が発生したとき、府議会で追求すべく資料を調べて驚いたことがあった。パチンコ業界の組合の幹部になんと多くの府警幹部の OB が天下っているかということである。しかも今回の問題の場所への出店計画者は、警備会社だという。これも府警との結びつきの強い業界である。府警をゆるがしたトバクゲ—ム機汚職から十年、「歴史はくりかえす」でなければよいがと思う。
 玉出地区は道路も広く、公園も整備されているのは、戦後、戦災復興土地区画整理事業を行なったからであり、多くの住民の努力の賜物なのである。
 伝説によれば、海神の娘豊玉姫に恋人ができたことを祝って、海神から贈られた宝珠を埋めた場所から「玉出」の由来がきているとあるが、はっきりしているのは勝間村にあった生根神社の字が玉出であったことによるものである。決して後世のパチンコ業界繁栄のためにネ—ミングしたものではないことを付言しておく。

(ー九九四・八)

南大阪歴史往来(009)

◎「初辰さん」

 住吉大社第一本宮の東側、高さ約二十㍍幹回り約八㍍樹齢約七百年、大阪市の指定保存樹にもなっている、楠の老大樹を背に鎮座するのが、楠珺理社である。祭神は宇迦御魂神(うがのみたま)日本名は倉稲魂尊といい、「稲荷大明神」という名で全国に祀られている。素佐之男尊と奇稲田姫の第六子である。

四十八回で「始終発達」とは

 住吉のこのお稲荷りさんは特に、商売繁盛の神「初辰さん」として親しまれ、毎月初辰の日には大いに賑わっている。樹に棲まうという巳さんの霊力を信仰し、四十八回の月参りに「始終発達」とかけて参詣する人が絶えない。社頭で羽織を着て片手で人を招く「招福猫」(まねき猫)を受けて帰ることができる。
 住吉大社の北方向、かって住吉神宮寺のあった広場、通称「桜畑」の一隅に種貸社がある。祭神は楠珺社と同じ宇迦御魂神である。この神は農耕の神であるが、子宝が授かるとして信仰されている。ここでは「種貸人形」がもらえる。
 住吉大社の南横にある浅沢神社の更に南側に、細井川をへだててこじんまりと祀られているのが大歳神社である。祭神は大歳神。もとはここから約五十㍍西にあったのを、明治二十二年当所に移した。
 大歳神が五穀豊饒・収穫の神であることから、商人の節季のときの集金に霊験あると信仰されている。
 当社には人形はないが「ス夕—」がある。というのは当社拝殿右横に小祠があり、石灯籠の柱の上に丸石が置かれてある。これを「お愛し星」とよび、この石を持ち上げてみて軽く感じると願いが叶うという。初め置かれていた石は隕石だといわれ「星」の扱いがなされていたとのことである。
 そしていつの頃からか「種貸社」で資本を授かり、「楠珺社」で商売繁盛を願い「大歳神社」で金の円滑を頼む、という順拝が盛んになってきた。

三祭神は出雲一族の超人物

 しかし、私が先ずここで注目したいのは、三神神社の祭神についてである。楠珺社と種貸社の祭神は共に宇逝御魂神で稲作の研究に力を入れ、農民から慕われたという。
 大歳神とは京都の八坂神社の記録によれば、父素佐之男母奇稲田姫の間に生まれた八人中の第五子で、後に初の大和の大王となった天照国照大神のことで、父と共に九州平定をやったので、九州地方に「大歳神社」が多い。
 そしてなによりも、大和と周辺にある大神(おおみわ)神社—三輪明神、石上(いそのかみ)神社、大和(おおや
まと)神社、熊野本宮大社、賀茂別雷(かもわけいかずち)神社、日吉(ひえ)神社などの有名神社の主祭神が大歳神即ち、天照大神の前の天照大神である天照国照大神だとということで,ある。
 日本書記や古事記で「大物主は大国主の別名である」と書かれているのはウソで、大神神社で大物主と大国主が並んで祀られている以上、これは別人である。

勝ち組日向一族歴史をつくる

 日向一族の天照大神を「皇祖」とするために、対抗する大先輩の出雲一族の神々を変名したり抹殺したりする、歴史の偽造を日本書紀や古事記でやってきたのに、今でも民衆に親しまれているのは、出雲一族のお稲荷さんや大歳さんであるというのは、歴史の皮肉として面白い。
 古事記のできたのは西暦七ニー年で、古代とはとうてい云えない時代で、各氏族各地の歴史書もあった。当時全国に祀られていた神社は約三千から五千位で、その内の出雲一族を祀っているのが約八割で日向一族は約二割位であったという。それぞれの由来もあったはずである。
 そこでこの割合を逆転させようとして、日本最初の天皇である天武や藤原鎌足の子の藤原不比等らが、永年かけて神社への攻撃・圧力、系図の没収・破棄を行い、ついには大々的な歴史の捏造として古事記・日本書紀を持ち出してきた。つじつまの合わない部分は全て「神話」にしてごまかすという、悪質なやりかたをとったため、日本の歴史はまともに教えることのできない代物になってしまったのである。

明治以後の戦争の歴史はダメ

 明治になり「王政復古」の時来たれりとばかり、今度は「天皇は現人神」という絶対主義的天皇制の圧政で、以後八十年間押し通してきたが、結果は二千数百万人の人命を奪って、無残な敗北を喫してしまう。その時点で日本が世界に行なった公約が「平和憲法の遵守」なのである。ところが最近、憲法を改悪し日本を再び戦争のする国に復活させようという策動が、活発にやられてきている。しかし、この道はいつか来た道。絶対に避けなければならない、破滅への道なのである。
 歴史的に見ても好戦勢力は少数である。そこで彼等は様々な策略を巡らす。これを見抜き、平和を願う多数派に呼び掛けることにより展望は必ず開けると思う。

事態は順拝だけでは打開不能

 私はここでもうひとつ問題にしたいのは、今の中小零細自営商工業者の暮しと営業の問題は、今までのような三社順拝ではすませないほど、事態は深刻だということだ。
 私の地元の西成区では店舗の半分が空きという商店街もあり、酒屋・米屋が廃業続出という昔では考えられなかったようなことが、起こっている。「かなわぬときの神頼み」ではだめだ。大企業は空前の大儲け、競争万能主義はついにスピード争いとなりJR 西日本は、大事故を起こしてしまった。
 今、人々のやらねばならないことは団結だ。徹底的に団結することだ。答えは必ずそこからでてくる。「はったつ」ではなく悪政に「はらたつ」こと、本当に怒りに立ち上がることだ。

今昔木津川物語(009)

西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(四)

◎大海《だいかい》神社 (住吉二)

 生根神社の正面鳥居を南へ行けば、熊野街道と紀州街道を結ぶために、大正期に元の材木川を埋め立ててつくられた住吉|《しんみち》新道に出る。横切れば、目の前が大海神社の北の門。道路から高い分だけ数段登ると、そこはすでに平安《へいあん》の昔にかえっている。

浦島《うらしま》太郎のモデル

 大海神社の祭神は海幸《うみさち》・山幸《やまさち》の神話《しんわ》で知られる豊玉彦命《とよたまひこのみこと》と豊玉姫命《とよたまひめのみこと》の親子で、私の小学生のときには教科書《きょうかしょ》に挿《さ》し絵《え》つきでのってあった。
 兄の海幸彦が大切にしていた釣針《つりばり》を失ってしまった弟の山書は、海底《かいてい》にさがしに行き豊玉姫の協力を受ける。兄弟の争《あらそ》いはその後も激しくなり、山幸が危《あや》うくなったときに豊玉姫が持参の「潮満珠《しおみちのたま》」で海潮《かいちょう》を呼び寄せ難《なん》を逃《のが》れる。
 その珠《たま》を沈《しず》めたところということでこの辺りを玉出島《たまでしま》とよび、住吉でも古来《こらい》より最《もっと》も早くひらけたところといわれている。仁治《にんじ》二年(ーニ四二)にこの玉出島出身の勝間大連《こつまおおむらじ》が勝間村(こつまむら・現西成区玉出)を開発した。
 大海神社の本殿は住吉大社の本殿と同型同大《どうけいどうだい》の住吉造りで、重要文化財に指定されている。もともとは住吉大社の神主|津守氏《つもりし》の氏神《うじがみ》で、かって境内は藤《ふじ》と萩《はぎ》の名所であった。永年の間住吉大社の陰《かげ》にかくれていたので、浮世離《うきよばな》れしたおもむきを残している。人手があまり入らず樹木《じゅもく》がうっそうとしているのも都会ではめずらしい。
 海幸・山幸の神話はお伽話《とぎばなし》「浦島太郎」のひとつだといわれており、かって近くに「玉手箱《たまてばこ》」という地名があったというのもおもしろい。

まぼろしのご本尊は天下茶屋へ

 ここで特に記しておきたいことは、生根神社から大海神社までの間にかって三千佛堂という寺院があり、秘佛《ひぶつ》阿弥陀如来《あみだにょらい》が安置《あんち》されていたが、明治初年の廃佛毀釈《はいぶつきしゃく》で廃寺《はいじ》となった。本尊は天下茶屋の安養《あんよう》寺に移転されたが、空襲《くうしゅう》で焼失《しょうしつ》してしまったという、いまでは世間からほとんど忘れさられているひとつの事実である。
 大海神社を南に出ると通称「桜畠《さくらばたけ》」といわれる広場があり、終戦直後には毎年の様に盛大な盆踊りがやられ、私もよく見物に出かけた。
 仮装《かそう》して踊る人もあり、敗戦の悲惨《ひさん》さと終戦の喜びとが交《ま》ざりあった複雑な雰囲気《ふんいき》のなかで、踊りの輪《わ》が幾重《いくえ》にもふくらんでいった光景《こうけい》を今でも、夢のなかの一場面のようにおぼえている。
 実はこの「桜畠」にも明治までは、住吉神宮寺という天平宝字《てんぴょうほうじ》二年(七五八)に創建された豪壮《ごうそう》な寺院が存在していたのである。
 本尊には薬師如来《やくしにょらい》が祀られ「新羅寺」ともいわれ、「古今著聞集《こんせきちょぶんしゅう》」にも名が見える格の高い寺でもあり、一休禅師《いっきゅうぜんじ》も応仁《おうじん》の乱《らん》を避《さ》け住吉に八年間居住した頃によく参籠《さんろう》したという。

廃佛毀釈《はいぶつきしゃく》は住吉大社にも

 この寺も明治の廃佛毀釈で堂宇は《どうう》破壊《はかい》され廃寺となってしまった。「桜畠」の東側の森の中にある住吉大社の末社《まっしゃ》のひとつである招魂社《しょうこんしゃ》が元神宮寺の唯一《ゆいいつ》の遺物《いぶつ》で「旧護摩堂《きゅうごまどう》」であったという。その廂《ひさし》に葵《あおい》の紋《もん》が刻《きざ》まれているのが、神宮寺が天台宗《てんだいしゅう》東叡山《とうえいざん》に属していたことを物語っているといわれている。
 ちなみに廃佛毀釈とは明治の新政府が、江戸時代における仏教中心の宗教政策をやめ、神道《しんどう》中心主義を採用《》さいよう、これにより政府《せいふ》の権威《けんい》を高めようとしたもの。神仏混淆《しんぶつこんこう》を排し神社からの仏教的|要素《ようそ》の一掃《いっそう》をはかるため、日吉《ひえ》神社、石清水八幡宮《いわしみずはちまんぐう》をはじめ各地で仏堂や仏像・仏具・仏画の破壊をほしいままにして多くの文化財を抹殺するという歴史に残る暴挙《ぼうきょ》を行ったのであったが、住吉大社でも例外《れいがい》ではなかったというわけである。

大阪きづがわ医療福祉生協総代会開催!

 2024年6月23日、第13回通常総代会が開催されました。その中で、がもう健さんの郷土史エッセーを紹介する機会がありましたので、掲載します。

 今までの総代会の討議をお聞きして、このきづがわ医療福祉生協が、以前にも増して、一段と高いところに立っているととひしひしと感じますので、私の発言はいささか蛇足に過ぎない感もありますが…
 とりあえず、今日は私のためにかくも盛大にお集まりいただき(笑い)ありがとうございます。こうした機会で皆さんにお話できるのも最後になるかもしれませんので、心してお聞きください。今日の総代会のテーマとほとんど違う話で、こちらもご了解ください。
 さて、さる3月に事務の人にビデオを撮ってもらいながら、大阪きづがわ医療福祉生協の初代理事長のがもう健さんのインタビューをしました。以下、インタビューのハイライト(再掲)です。


 がもうさんは、西成をはじめとする、医療福祉生協の定款地域でもある大阪市南部を中心とした郷土史を探求・研究し、2冊の冊子を出版されています。いみじくも、その一冊が、この会場のある阿倍野区の図書館にも収められていると聞きます。そこでは、大阪きづがわ医療福祉生協の南北をつなぐ木津川に寄せるがもうさんの思いから始まり、ここ阿倍野にゆかりのある安倍晴明神社‐大河ドラマ「光る君へ」では、少し山師ぽく胡散臭く描かれていることが興味を引きますが‐のがもうさんらしい紹介もあります。更に印象深いことに、先代の西成民主診療所も、きちんと「郷土史」のなかに位置づけられていることです。私事にわたることながら、写真の診療所に赴任して30年近くにもなり、今更ながら不明を恥じるばかりですが、大袈裟に言えば、遠く古代の昔からここに暮らす人々の願い、希望に寄り添ったものであることを身に沁て感じるところです。決して悲観的になるわけではありませんが、こうした願い、希望も達成できなかった、叶わなかったことのほうが、叶ったことよりずっと多いことでしょう。でも、そのことは、今日の総代会を期に、必ずや次の一歩の踏台になることも同時に確信します。その中では、「西成民主診療所」という名称も、愛着は重々あるとは思いますが、新しい名称に変更することも検討の必要性があると個人的には思っています。今後のご討議に期待します。
 最後に、がもう健さんの「今昔西成百景」のあとがきから引用して、発言を終わります。ご静聴ありがとうございました。

「地獄極楽この世にござる」「神も仏もないものか」と云いたくなるような話が、 每日のようにとびこんでくる今日この頃。遠い祖先より人々はこの地で、一体 何をしてきたのか、またそれが歴史上どうなのか。このことを探求する以外に確信のもてるものはないのではないか。戦争とか災害とか貧困とかが、「暗い話」としてその資料が抹殺され、記録が歪曲され、人々の記憶からも消し去られようとしているときに、 あえて「後向き思考」でいろんなことを再検討してみることでこそ、本当の意味での「明日への展望」が生まれる。郷土史がただ単なる「故郷自慢」ではなく、地方史として真剣な再検討がもし全国で始められたならば、 世直しのうねりと必ずなりうる。こんな大きな希望をもつて、 こんな小さな本をまた出した次第です。

今昔西成百景(012)

◎天津橋

 一九七〇年の大阪での万博開催にむけて、阪神高速道路堺線が突貫工事で十三間堀川を埋め立てて、一本足スタイル、全部セメントでつくられた。今、阪神大震災での阪神高速神戸線の崩壊で、全く同じ条件でつくられた堺線の安全性が問題になつている。
 十三間堀川は、元禄十一年(一六九八)河村瑞軒の設計になるという長さ四四町(約四・八キロ)、幅十三間(約二三・七メートル)木津川の水を引いて堺の北で海に注がしめた。南大阪における唯一の運河として、二百数十年の間治水と運輸交通に大きな役割を果たし、南大阪発展に奮闘した西成の名物のひとつであった。


十三間堀に十四の橋

 かって十三間堀川には、数多くの橋が東西に架けられていた。西成区内のを北からあげてみると、万才・浜津-豊津,長橋・鶴見・梅津・松栄・中津・汐津・国勢・南津・天津・育栄・長崎・回生橋となる。
 その中でも、命名の由来が推測しがたいもののひとつに、「天津橋」がある。千本通と南津守を結ぶところであるが、かつては主要道路が交叉する交通の要所であった。私の記憶では、幅も広い道路の延長のような、頑丈なコンクリ—卜づくりの橋で、自動車もよく通っていた。

「天津橋」の跡、今は阪神高速の真下に

 千本と津守から一字づつ取れば「千津」になるし、地元の勝間村を飛び越えて、天王寺村や天下茶屋の名を付けることはなかったはず。まして当時は徳川の時代、宿敵豊臣秀吉を持ち上げるような、「殿下茶屋”天下茶屋」をわざわざ借りてきたとはとうてい考えられない。謎は益々深まるばかり。
 そこで、以下は私の大胆な推測になるが。「天つ風 雲の通ひ路吹きとじよをとめの姿しばしとどめむ」、これは小倉百人一首に出てくる、舞姫を天女にみたてた僧正遍昭の歌であるが、「天津乙女」とは、静岡県の三保の松原に舞い下り、羽衣を忘れた天女のことである。羽衣伝説は、この他にも全国の美しい松原のあるところには多く在り、堺市の「羽衣駅」も、かつての白砂青松の地であった泉州の海辺から生まれたものである。それでは、西成に天女が舞い下りて来るようなところがあったのか、ということであるが、それがあったのである。

かつては景勝の地

 「今の木津川千本松渡船場あたりは東に津守新田が拓け、景勝の地であった。天保三年(ー八三二)、八七〇余間(一六〇〇メ—トル)の堤を築いて松を植え列ね千本松と称し、船や汐干狩りに多くの人々が遊んだ。丹後の天の橋立、駿河の三保の松原にも比せられる名所であった」と物の本には書かれている。昔の人は、西成にもロマンがあるということを、後世の私たちに伝えるために、「天津橋」と言う命名でメッセージを送ったのではあるまいか。
 十三間堀川についても、「明治の初年頃までは両岸に松や柳の並木が在り頗る風情に富み、大阪より楼船を浮かべ、道頓堀川より船で住吉に遊ぶものが多かった」と伝えている。
 今、「天津橋」の跡地は、振動・騒音・排気ガスの阪神高速の真下になる。公害だけでなく、交通事故の多発地点でもあり、先日も知人が死亡事故に遭い痛恨の想いをした。かつて先人がこの地に「天津乙女」を夢みたとしたら、この百年間は住民にとって一体何であったのか。区役所はさかんに「好きやねん西成」とキャン・ペーンをはるが、止まらない人口の減、特に子供のいる若い世帯が少なくなっている現実をみれば、今の西成は決して住みやすい街ではない。子供の笑い声の絶えない、老若男女のバランスのとれた西成の街づくりのために、先人に負けず、草の根運動でがんばろう。
(ー九九五・五)

南大阪歴史往来(008)

◎浅沢神社(上住吉二ノ十ー)

 住吉大社境外末社、祭神市杵島姫神。祭神は本来は海神であるが、女神から弁財天と神仏習合し、芸能の神として崇敬されている。


昔は浅沢小野の風情の名勝

 かつては清水のわく大きな池があり、奈良の猿沢の池、京都の大池と並ぶ近畿の名勝地であった。特に美しく咲き乱れる杜若(かきつばた)は有名であった。
 しかし、明治維新以後は無格社となり、ほとんど民有地となり荒廃していた。その後大阪松島の人清水某氏が当社を深く信仰していたところ家運隆昌し、松島でも屈指の資産家となったとして、明治三十四年池を浚浚渫、社殿の修復を行い灯籠を奉納するなど面目を一新させ、現在見るように堀の小島に鎮座するようになった。明治四十一年五月には改めて境外末社となった。
 松島の清水某氏が何の商売で大金持ちになったかは不明だが、大阪の松島といえば大歓楽街であり、いわゆる遊廓の関係ではなかったかと思ってしまう。

広島の厳島神社と同じ神様

 堀の小島に本殿があるというのも祭神をみれば当然のことで、市杵島姫社とはあの有名な安芸の宮島、海の中の神社広島県の厳島神社の主祭神「市杵島姫」のことで、今ではイツクシマと発音しているが、昔はイッキシマといわれていた。
 民間の歴史研究家原田常治氏が七十ニオになってから、日本書紀の八割、古事記の五割以上はウソだという立場から書いた古代史によれば、市杵島姫は日向の大日霊女貴尊(ひみこ・後の天照大神)の第五子で父は日向に攻略に来た素佐之男尊である。
 市杵島姫がなぜ海の女神になったかと云えば、西暦二百三十年に大和に養子として東したひみこの孫伊波礼彦尊((後の神武天皇)が、暇乞いのあいさつに来たときに、航路の平安を祈願したことによるもので、初めは一人であったものが後に二人の姉が加わって海の三女神となり全国のとくに海、航海に関係のあるところに祭られるようになった。

杜若と和歌の名所は今は区花

 住吉大社は海上守護の神という抽象的な神に対して浅沢神社の神は、実在していた人物を女神にしたであろうという点で、また杜若の名所でもあり、古来より多くの和歌が
ここでよまれている。
 すみよしの
   浅沢水に影みれば
   空行く月も草がくれつつ
     津守国助
 いかにして
   浅沢沼のかきつばた
   紫ふかくにほひ染むらん
     藤原定家
 いざや子ら
   若菜摘みてん根芹生ふる
   浅沢小野は里遠くとも
     藤原俊成
 この杜若は、現在地元住吉区の「区花」になっている。

人身御供が海をしづめる

 日本の古代交通はほとんど船であった。海が荒れ出したら、何か魔物でも住んでいるのではないかと思われた。その魔物の怒りをしずめるため場合によっては女性が船から飛び込んで、人身御供になり海をしずめることもたびたびあった。
 伊波礼彦が生駒で長髄彦に追われ、大阪湾を逃げて熊野へ向う途中でも、海が荒れてだれかが海へ飛び込んで人身御供になっているはずだ。
 戦前の日本では、女性が親の借金や家族の病気の治療費のために苦界に身を沈めた話が多い。大阪松島の歓楽街でも、そんな話は山程あったはずだ。果たして女神は守ってくれたのかどうか。
 先日、久しぶりに浅沢神社を訪れ、玉垣を調べてみたがほとんどが最近新しく造り替えられていた。ただ一本特に太く古いのがあって、そこには深々と「松嶋清月楼」と彫りこまれていた。

今昔西成百景(011)

◎出城通り

 出城通りという地名は、天正年間、本願寺の一向一揆の門徒が織田信長と戦ったとき、木津川口の防衛のために城を築いたのが由来であるという。

権力とたたかった一向一揆

 天正四年(一五七六年)五月七日、信長は出城通りの戦いで、足に鉄砲を受け、天王寺にかけ入っている。もし、本願寺の門徒の射撃がもう少し正確であれば、出城通りで日本の歴史は大きく変わっていたかもしれない。
 大阪では東西の道路を「〇〇通り」とよび、南北の道路を「〇〇筋」とよぶ、ということは、四十年前に、関目の自動車教習所の教官より聞いた。この教皆所では同時に、警察官である試験官に賄賂を贈らなければ合格をしないことも公然と教えられ、一人反発して退所した思い出がある。
 出城通、長橋通、鶴見橋北通、鶴見橋通、旭北通、旭南通、梅通、梅南通、松通、橘通、桜通、柳通、潮路通、新開通、千本通、田端通、玉出新町通、玉出本通、姫松通、などが西成にあるが、地名の由来からして出城通りが、相当古いのではないかと思う。
 柳通りから浪速区までの北半分は、大正時代にはすでに碁盤の目のように区画整理がされていて、地名も梅、松、桜と華やかで、まるで「小京都」だという人もあれば、その辺に花札の「いの、しか、ちょう」がひそんでいないかと茶化す人もいる。

木津城を築いて織田勢を撃退する

 次に願泉寺(浪速区大国二)に伝わる古文書より、出城砦に関する部分を紹介しておく。
 「信長の本願寺と出入りの節は敵勢を紀州鷺の森の御堂へ推寄せ申さぬ様木津総門葉老若男女は各我家を棄てて西の海の浜に四方八町の埒を結び門戸厳しく小屋建て籠居す高櫓の石垣は飛田墓地の五輪石塔を夜中に引き取りて石垣とす昼は男子は田畑に出でて耕作す其時は刀或は槍を以て用心をす夜は女子番を勤む月の夜は竹の末を切りとぎりて水にひたし立て掛けて城内を守るに月の光に映じて槍と見ゆ夜戦にて其竹にて寄手のもの多数を殺す其他陥穴を以て数百名を殺す寄手は天王寺茶臼山に陣を取り出でて戦ふなりある夜葱び者木津城に入り来る其時大将定龍之を知りて夜半の鐘を明け七つ寅刻に撞きしにより忍びのものとく帰るこの鐘持ち帰りたるに寛永年中火災の早鐘によりて破れ損ず件の城今は畑となれり宇して出城という」
 その後、この辺りより墓石が掘り出されることがあると、木津川城を築いたとき、飛田墓地より運び来て石垣に利用したものではないか、と云われてきていたと伝えられている。

南大阪歴史往来(007)

◎住吉行宮正印殿(墨江二ノ七)

 軍服姿で馬に乗った明治天皇の姿を見て、女官たちは嘆いたという話が残っている。勇ましく荒々しい天子というのは、朝廷の歴史では不吉な記憶につながるからである。

忠臣顕家・正成も犠牲者

 多くの犠牲を払ってつくられた「建武の中興」なるものが鎌倉時代よりも重い年貢、課役、税金で農民を苦しめ、ー方天皇とその寵児たちは、富貴を誇り、贅沢な暮らしをし酒宴、蹴鞠、歌舞遊山にあけくれていることを、厳しく指摘し諫言した北畠顕家は堺の南石津で戦死した。
 同じ頃、楠木正成も、民衆の苦しみを省みず大内裏造営を強行したり、愛妃阿野廉子の云うことばかりをきいて政治の公平性を損なうことをやめよと諫言し、足利尊氏と和睦し以前のように公武一統の政治を行なえば平和になると献策を行なっているが、後醍醐天皇に一笑にふされ、敗北必至の戦いに追いやられ戦死している。
 後醍醐の目指したのは「天皇こそ最高にして唯一の権力者である」という構図による日本国家の改造にあったのだが、北畠顕家や楠木正成という「大忠臣」にさえ、それが認められていなかったという点に、私たちはもっと注目すべきではないだろうか。

後醍醐の横暴で全て失う

 まさに後醍醐の一生は、多数の女子に数十人の子供を生ませ、珍玉、王位に妄執したものであり、臨終に立合った忠雲僧正から「天子の位などはあの世に持っていけませんよ」とさとされても、尚「決してあきらめるな、戦って京都を回復せよ。さもなければわしの子ではない」と言い残した。この遣言により、その後南朝は「死ぬまで」戦うことになり、後醍醐の死後も半世紀にわたり戦争が続き国土は荒廃し、民衆は塗炭の苦しみをなめるのである。
 南北朝内乱の末、今までまがりなりにもあった天皇の統治諸権能は根こそぎ幕府に奪われ、足利幕府は南朝を解消して、北朝の天皇を唯一のものとし、これを自己の王権の一環にとりこんだ。それは後の秀吉・家康に継承されていく。

住吉大社津守氏は南朝支持

 さて、後醍醐の子で南朝の後継者であった後村上天皇が行宮ときめ約九年間にわたり滞在していたところが、住吉大社の南の地にあり今、住吉行宮正印殿として国の史跡に指定されている。
 南朝方の中心人物楠木正成・正行、北畠親房,顕家父子はすでになく、足利尊氏も没し、義詮が替わって南朝方と戦っていた。しかし、足利方も内紛が続き諸将も戦意を失いつつあった。このような時期、河内長野の観心寺にあった後村上天皇は、住吉を行宮ときめ滞在した。正平十五年(一三六〇)九月である。
 正印殿は住吉大社の神主である津守氏の邸内に創建したもので、壮麗な建物で南面の庭園には和歌浦から大小の名石を入れ、典雅であったという。

にわかづくりの十五神社

 明治天皇は、後醍醐天皇以来実に五三三年ぶりに王政復古がとげられたとして、南朝に貢献した人物十五人を神として祭り上げることを行なった。後醍醐天皇を祭神とする吉野神宮をはじめ楠木正成を祭る湊川神社(兵庫県)・北畠親房、顕家を祭る阿部野神社(大阪府)・楠木正行を祭る四条啜神社(大阪府)などである。
 平成四年にこれらの神社により、「建武中興十五社会」が結成され「建武中興の偉業を偲び、その意義を改めて想い起こすと共に、これの宣揚を図るため、祭典及び事業を行なう」と気になる宣言をしていたが、最近、自画自賛の小冊子を参拝者に配り始めている。
 憲法・教育基本法改悪の動きに便乗してのことであろうが、歴史から学んで十分な警戒が必要だと思う。
 最後に、先日新しくなった「大阪春秋」平成十七年新年号を読んでいると、びっくりするような記事に出会った

枚方の「伝王仁墓」に疑い

 それは私も十数年前に、夏休みの家族旅行の際、もっともらしい顔をして妻子に説明したこともある、枚方市にある「伝王仁墓」に関してである。
 「『王仁』とはいわゆる漢字を日本にもたらしたとされる人物で、枚方市は毎年『漢字まつり』をひらくなど、地元市民との連携のもと、官民一体で観光拠点にすべく力を入れており、それに伴い遠く韓国からも多くの観光客が訪れ、日韓交流の場となっている」とのこと。
 ところがこの「伝王仁墓」は「枚方市史」別冊によると、地元で「おに墓」と呼ばれていたものを、享保十六年(一七三一)京都の儒学者並川誠所が、おには王仁の訛りであると単純に決め付け、それを信じた領主が傍らに石碑を建立したものだという。
 領主をたぶらかした並川の「王仁墓」説を、すでに幕末の段階で、当地の文化人グル-プの三浦蘭阪が論破していた。蘭阪は並川の説を疑い、古い書物や領主・村方の古文書、はたまた村に残る伝承に至まで徹底的に調査を行なったが、関係書類は一切見付からなかつたという。蘭阪はそのことを著書「雄花冊子」に記している。
 私がおどろいたのは大阪府が詳細な調査もなく「伝王仁墓」を昭和十三年(ー九三八)に史跡指定し、戦後も指摘解除されることもなく、現在に至っている点だけではない。

阿倍野神社も並川発言が

 実は阿部野神社も、現在の阿倍野区北畠公園にかつて大名塚という塚があり、享保十八年(一七三三)に儒学者並川誠所が突然「これは阿倍野で戦死した北畠顕家の墓だ」といいだし、墓標をたてさせたものである。そしてそれを根拠に明治になり阿部野神社が建立された。
 しかし顕家は大名ではなかったし、戦死したのも堺石津であることは今では歴史の常識である。
 ひよっとしたら並川は、王仁や顕家の墓だけではなく、もっとあちこちで「ニセ墓」づくりをしているのではないか、という疑惑も生まれてくる。やはり郷土史の見直しは必要なことである。

今昔木津川物語(008)

◎西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(三)
生根《いくね》神社(奥《おく》の天神社)(住吉二)


 東粉浜の間魔地蔵堂の前を旧道をたどって東南の方向へ進み、上町線の小高《こだか》くなっている踏切《ふみきり》を越えてしばらく行くと、左手に生根神社、別名奥の天神社の西側の鳥居に出会う。
 神社は上町台地の崖《がけ》上にあるが、その崖の石垣《いしがき》には現在、幕末《ばくまつ》の頃近くの東粉浜小学校の敷地《しきち》を含めて、紀州街道沿いの区域《くいき》から北にかけて約ー万坪の広さであって、明治になり解体《かいたい》された土佐《とさ》藩の石垣が使われている。神社の正面にまわるため坂道を登《のぼ》ると中ほどに旧西成郡と東成郡の境界《きょうかい》を示す石碑が建っている。
 鳥居をくぐって境内にはいると、樹齢《じゅれい》五百年以上のもちの木の大木があり、歴史の古さを感じさせる。
 神社の本殿《ほんでん》は慶長《けいちょう》十一年(一六〇六)九月|淀君《よどぎみ》の寄進による片桐且元《かたぎりかつもと》奉行《ぶぎょう》により造営され、現在大阪府指定の有形《ゆうけい》文化財として、切妻千鳥破風木造桧皮葺《きりづまちどりはふこづくりひわだぶき》うるし塗《ぬ》りの建造で、桃山時代の重要な建築|様式《ようしき》を残しており、旧住吉大社|領内《りょうない》の社殿では、今はもっとも古いものとなっているといわれている。
 秀吉の死から二年後の慶長《けいちょう》五年(一六〇〇)石田三成《いしだみつなり》らの起こした関《せき》ヶ|原《はら》の戦いは東軍《とうぐん》の勝利に終わり、事実上天下の主導権《しゅどうけん》をにぎった家康は慶長八年には征夷大将軍《せいいたいしょうぐん》の宣下《せんげ》をうけて江戸に幕府をひらいた。
 かくして豊臣《とよとみ》氏と徳川氏との地位《ちい》は逆転《ぎゃくてん》し、秀頼《ひでより》は摂津《せっつ》・河内《かわち》・和泉《いずみ》の六十五万七千石の一大名に転落《てんらく》した。
 しかし、おちぶれたとはいえ秀頼は三国無双《さんごくむそう》の名城《めいじょう》大坂城をもち、城内にたくわえられた莫大《ばくだい》な金銀財宝《きんぎんざいほう》(もちろん全国の民百姓からしぼりとったり、朝鮮《ちょうせん》から略奪《りゃくだつ》してきたもの)は徳川打倒のための軍資金《ぐんしきん》として十分なものであった。

軍資金|流出《りゅうしゅつ》を迫られて

 家康はまず豊臣家の財力《ざいりょく》を失《うしな》わせようと計《はか》り、故《こ》太閤(秀吉)の菩提《ぼだい》を弔《とむら》うためと称して、しきりに社寺の修理、造営を秀頼にすすめた。慶長七年から同十五年までの大坂城内の財産が底《そこ》をつくまでの八年間に、有名な社寺《しゃじ》だけでも四、五十ヶ所、それ以外に淀君《よどぎみ》の名で住吉大社の太鼓《たいこ》橋まである。
 生根神社の再建も家康の意図《いと》と企《くわだ》てを見抜けず、家運の挽回《ばんかい》を神仏信仰《しんぶつしんこう》にたよりまんまと軍資金を流失《りゅうしつ》させていつた秀頼母子の悲劇の歴史の証人だと思えば、戦国の世の血なまぐさい風が、今もこの崖の上を吹き抜けているような気がする。
 生根神社の祭神は少彦名命《すくなひこのみこと》で「だいがく」で知られている玉出《たまで》の生根神社はここの分社である。

管公《かんこう》は後から祀《まつ》られた

 現在の地に中世、管原道真《すがわらのみちざね》が祀《まつ》られ、大海神社の奥にあたるところから「奥の天神」として有名になり、元の生根神社の存在が危《あや》うくなったために、明治になつて一時|途絶《とだ》えていた生根神社の名を復活させたという。
 政争にやぶれた文人《ぶんじん》政治家、管原道真の怨霊《おんりょう》は物すごく、それを鎮《しず》めるために日本全国に一万をこえる管原道真を祭神とする、天神さんや天満宮《てんまんぐう》がつくられたというのだから大規模である。大阪府下だけでも約七百の神社のうち百四十社ほどに道真が祀られているという。
 道真の神号《しんごう》が「天満大自在天神《てんまんだいじざいてんじん》」であることから天満宮の名が起こったが、天満とは「道真の瞋恚《しんい》天に満つ」ということだと伝えられている。広辞苑《こうじえん》によれば瞋恚とは「炎《ほのお》の燃《も》え立つような、激《はげ》しい怒《いか》り、恨《うら》み、また憎《にく》しみ」となっており、天満の天神さんとはこの最大級《たいだいきゅう》の反《はん》権力の思いが、天に満つる天の神という意味となり、学問の神や受験の神、歯痛《はいた》の神様だけではすまなくなるのである。
 少彦名命は医療《いりょう》の神といわれているし、今日の自民党内閣や横山府政による医療制度の大改悪などについては、二人の神様でなんとか反対してもらえないかと言えば、それこそ「かなわぬときの神頼《かんだの》み」だと、どこからかお叱《しか》りをうけそうである。

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