南大阪歴史往来(001)

◎大和川の川|違《たが》え(その一)


 大和川で小魚を釣っては空缶に入れて持ち帰り、母にコンロで焼いてもらったり、土手でトンボとりをしていて、気が付けば夕日が川口に沈みつつあり、あわてて友達と別れて帰宅したことなどがよくあった。
 川の中ノ島のようなところで砂遊びに夢中になっていると、いつのまにか潮が満ちてきて、ずぶぬれになって岸にはい上がってきたこともあった。
 子供の頃の大和川の思い出は、なぜか少しこっけいでそしてちよつぴり淋しかった。

青春の川は清流だった

 高校は大和川を南へ渡ってすぐの、南海電鉄高野線浅香山駅の前にあり、毎日車窓から川の流れと、砂地や堤を見ていた。
 体育祭の応援の練習にクラス全員で川原にやってきて授業に遅れておこられたり、親友と人生や文学について議論するなど、私にとってその頃の大和川は矢張り「青春の川」、であったような気がする。
 そして当時の大和川はけっこう清流であった。
 「浅香の千両曲り」という呼び方は後から知るのだが、大きな川にしてはかなりの急カーブで、私達の学校の北側に入りこんで来ていた。裸足になって川に入れば底はこまかい砂で心地よく、膝の辺りをさざ波がしげきし、太陽の光が川面に反射してまぶしかった。両岸には桜の樹が適当な間隔で立ち並び、四月には満開で祝ってくれた。土手には野の草花が咲き乱れ、しかし蓬(よもぎ)の葉を摘み取る人もいない。川の水はほとんど無臭である。堤防の分も入れると幅は約三百㍍もあり長さは見渡せるまで、見上げれば青空ははるか彼方。川の中に立てばこれらの風景がすべて一人で独占できた。
 時たま小鳥のさえずりと鉄橋を渡る電車のひびき。それも瞬間のもの。私はこんななんでもない大和川が大好きだった。
 その大和川がその後三十年たって、全国一汚れた川として一躍有名になっていようとは、「諸行無常」としか言いようのない、なんともやりきれない気持ちになる。

「大運河」をめぐる争い

そしてこの大和川にかって「元禄の川違(たが)え」という一大公共事業をめぐって五十年間に渉る住民間の激しい争いと、権力者達の策謀が逆巻く濁流があったことを、今となっては知る人も少ないのではないか。
 大和川は奈良県は初瀬川上流の笠置山地のつげ高原を源とし、奈良盆地の水を集めて大阪府と奈良県の間にそびえる、生駒山地と金剛山地の境目にある亀ノ瀬を通って、大阪平野に流れだし、南からの支流を合わせて上町台地を横切り、西に流れて大阪湾に達する一級河川である。

昔の大和川は「暴れ川」

 この川は今でこそ大阪府下では柏原市・藤井寺市・堺市・大阪市と流れているが、実は元禄十七年(一七〇五)までは、現在の八尾市・東大阪市・大東市を横切り、大阪城の北で淀川に合流していた。
 当時の大和川は流れがゆるやかで曲がりくねっているために、川底に砂がたまりやすく、洪水を繰り返す大変な天井川であり、暴れ川でもあった。
 そのために今から千二百年位前、地方長官であった和気清曆呂が大和川の水の一部を上町台地を割って海へ流す大工事を行なったが成功せず、「河掘口」「堀越」という地名だけを今に残している。

甚兵衛が幕府に対策を要求

 永年の懸案であった大和川の付け替えによる抜本的な治水対策を行なえと、幕府に対して要求して立ち上がった人物が、河内郡今米村(今の東大阪市今米)の庄屋をしていた甚兵衛である。
 旧大和川の川筋一帯は元々低湿地で水はけが悪く、大雨の降るたびに洪水の被害を受けていた。幕府は堤防を高くするだけで、ついには川底が周囲の田地より三㍍もたかくなってしまっていた。
 甚兵衛は二十オ前に父が亡くなってからその遣志を受け継ぎ、川違えの具体的な調査を行い、これによって多くの新田が生まれ、ひいては幕府も大増収になることなども提案し、江戸幕府や大阪町奉行所に五十年近く願い続けた。地元でも促進運動をした。
 当然のこととして、新川の予定地になる村や字や田地が潰されるところや、旧大和川で生活していた多くの船頭や漁師達は猛反対をした。
 川違え賛成派,反対派と親子二代にわたるたたかいに終止符を打ったのは、貞享四年(一六八七)に大阪町奉行所代官に万年長十郎が任命されたことによる。

注記】本文、画像の二次使用はご遠慮ください。

今昔西成百景(005)

◎紹鴻(じょうおう)の森

二月三日午後五時より、関西芸術座の新稽古場落成記念パ—ティ—が、岸里東二丁目三番地の住吉街道に面した新築ビルで行われるとのことで、少し早めに出掛けていった。
関芸は西日本を代表するプロの新劇の劇団で、永年阿倍野区の文の里にあったが、今度阪和線高架化の予定に伴い、西成区へ移転して来たのである。新稽古場は三階建で二・三階吹き抜けのステ—ジには二〇〇席の観客席もつくることが出来て、前のより約二倍の大きさだという。そして新稽古場の東側には有名な紹鴎の森と天神の森天満宮がある。

武野紹鸥の銅像は堺にある

天満宮を勧請した武野紹鷗は文亀二年(一五〇二)生まれ。父は堺の豪商、子供を何とか武士にしようとしたがむしろ学芸を好み、特に茶道には熱心でその才能抜群、二十九オのとき茶道に専念したいため惜し気もなく地位を捨て剃髪。その後住吉大社の北勝間新家に良水を求め茶室を設けた。その頃大阪から住吉大社へ通じる住吉街道は、この付近で大きな森に妨げられていた。そこで紹鷗は私財を投げ売ってこの森を二つに裂き街道を通すことに成功。人々は感謝してこの杜を紹鴎の森と呼ぶようになった。
紹鴎は茶の眼目に「和敬静寂」の理念を説いた反面、雪舟や一休の筆墨はじめ高麗茶碗や天目茶碗などの名器を収集し、その鑑識眼は大変なものだったという。また門人に千利休など茶道史の傑物がいた。しかし武野家は紹鴎が五十四オで没してからは、数奇な運命をたどる。武野宗瓦は、父の門人らに支えられ茶道の才能も父優りといわれ気骨と品位に恵まれた人だが、坊ちゃん育ちにつけこまれ、まず二十五才のとき織田信長に父の遺品「紹鴎茄子」と「松島茶壷」の名茶人・武野紹鴎ゆかりの紹鴎の森と天満宮(岸里東2丁目)器をとりあげられた上に追放処分となり、紹鴎の森に隠棲する。本能寺の変で信長が急死したため、二十九オでやっと茶道の宗家を継いだものの、天正十六年には豊臣秀吉に「備前水こぼし」「茄子盆」など父の秘蔵品すべてを没収され、再び追放となる。宗瓦は不遇のまま慶長十九年(一六一四)六十五才病没するが、その場所は定かでないという。(西成区史)
大阪府保存樹の大楠をはじめ、巨老木が天満宮の境内にうっそうとし、菅原道真公が現れ出ても不思議でないふんいき。私は少し夢をみてみる。

西成のロビンフッドか

まず武野親子は時の暴君らが無理難題をふっかけてくるのは予想済ではなかったか。むざむざと名器をすべて差出し、しかも追放を受けるのなら、偽物を提出し本物は秘匿する抵抗を行なったのてはないか。紹鴎の鑑識眼は最高のものだったはずである。宗瓦はこの紹鴎の森の奥深く、住民に守られながら権力者共の有為転変を冷やかに見て、案外気楽に生涯を送ったのではないか。そう思えば先日の地震で落ちた瓦のガレキにまじつていわくありげな古茶碗のかけらが足元にある。
私の夢はここで終わって、もう五時、そろそろ関芸のパ—ティ—に出席せねばと思ったとき、阪堺線天神ノ森停留所からこちらに二人の「刑事」が歩いてくる。雰囲気でわかる。ぼんやりと見ていると足早く過ぎて行った。
関芸の稽古場ビルは本当に立派なものだった。これだけのものを民間の力でつくり上げたことに敬意を表したい。そして、私達を入口に並んで迎えてくれた劇団員の幹部の中に先程の二人の「老刑事」も居たことにびっくりした。かってのテレビドラマ「七人の刑事」の出演者であったのだ。これで西成の新劇の劇団が「潮流」に続いて二つになった。私の理想である「文化・スポ—ツの盛んな街、西成」に一歩近づいたことになるように、みんなで協力しなければと思った。
(ー九九五・ニ)

付記1】今回も、当地にちなんだ動画を追加します。存分にお楽しみください。
付記2】2024年4月号の、大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」に紹鴻の森の紹介が載っていますのでお読みください。

注記】本文、画像、動画の二次使用はご遠慮ください。

今昔木津川物語(004)

西成・阿倍野歴史の回廊シリ—ズ(四)

阿倍野王子神社と晴明神社 (元町九)

 十一世紀せいき前期以来さかんになったものに、王朝おうちょう貴族の四天王寺詣してんのうじもうで住吉すみよし神社詣、高野山こうやさん詣および熊野詣がある。
 その中でも最も遠路えんろを行く熊野くまの詣は、淀川よどがわを船で下り、天満八軒屋てんまはちけんや辺りで上陸し、四天王寺、住吉、堺、泉佐野いずみさのを経て田辺たなべからやまの道を通り熊野本宮へ向かう、往復百七十里、約三週間のコースが一般的いっぱんてきであった。
 この熊野街道の沿道えんどうには「熊野九十九つくも王子」としょうせられている多くの神社があり、熊野詣をする人々はこれらの王子を巡拝じゅんぱいしながら本宮へ詣でた。現大阪市域しいきで元の位置にある王子社は安倍野王子神社のみで、他は合祀ごうし移転いてんさせられている。

皇族こうぞく道中どうちゅうは農民への重税じゅうぜい

延喜えんぎ七年(九〇七)宇多上皇うだじょうこうから始まつた熊野御幸ぎょこうは、弘安こうあん四年までの三百七十余年間に白河しらかわ・鳥羽とば崇徳すとく・後白河・後鳥羽・後嵯峨ごさが亀山かめやま上皇じょうこう法皇ほうおうによって百回近くも行われたが、特に後白河法皇などは三十四回、後鳥羽上皇も三十ー回という記録きろくをつくっている。彼等の御幸は所々ところどころの王子社で供奉ぐぶ公卿くぎょうに和歌の詠進えいしんをさせるなどはなやかでぜいたくな道中であった。
源平げんぺい争乱そうらんくわえてこれら皇族の遊興ゆうきょうや旅行は、摂河泉せっかせんの農民に重い負担ふたんをかけ、このことが頼朝の死で元気付いた後鳥羽上皇が、院政いんせいを復活して幕府ばくふを押さえようとした、承久じょうきゅうの乱の失敗しっぱいにもつながっていった。

庶民しょみんの熊野詣は幸福こうふくへの悲願ひがん

 庶民にとっての熊野詣は苦しくてきびしいものであった。それにもかかわらず、華厳経けごんきょうによる補陀落浄土ふだらくじょうどこそは熊野であるとして、「ありの熊野詣」といわれる程、えんえんと行列をつくって詣でたということは、うちつづく天災てんさい大火たいか疫病えきびょうそして戦火せんかを何とかのがれたいという、せつなる気持ちによるものであったのだろう。

空海くうかいゆかりの阿倍野の氏神うじがみ

 阿倍野の氏神として今も親しまれている王子神社はきわめめて古い創建であるが、天長二年(八二六)のとき全国的に疫病えきびょう流行りゅうこうしたさい空海くうかいが一千部の薬師経やくしきょう読経どきょうし、一石いっせき一字いちじ書写しょしゃしていのったところ疫病がやみ「痾免あめん寺」の勅号ちょくごう勅額ちょくがくを受けたとある。この痾免寺は当神社の神宮寺じんぐうじとして、今も印山寺いんざんじ改称かいしょうしその法灯ほうとうがれている。
 阿倍野王子神社の祭神はイザナギ、イザナミ、スサノオノ、ホンダワケノみこと、阿倍野王子そして男山八幡宮おとこやまはちまんぐう合祠ごうししている。境内のくすのき三本が市ししていほぞんじゅとして往時おうじ面影おもかげを残している。
 阿倍野王子神社北側に阿倍晴明神社がある。祭神は平安中期の天文博士てんもんはかせで阿倍おみの子孫。天慶てんけい七年(九四四)に当地で誕生し、陰陽道おんようどうにすぐれ天文博士、太膳太夫だいぜんのだいぶ左京太夫さきょうだゆう播磨守はりまのかみ歴任れきにん寛弘かんこう二年(ー〇〇五)に没ぼつした。
 境内に「産湯うぶゆの井戸」があり、晴明の産湯うぶゆを汲んだところといわれている。また「恋しくば訪ね来てみよ和泉いずみなる、信太しのだの森のうらみくずの葉」で有名な葛の葉子別こわかかれの像もあり、都会の中にひとつ忘れられたような、こじんまりした静かな神社である。

塔心礎とうしんそは出土の地へ

往昔おうせき、四天王寺庚申堂こうしんどう巽方たつみかたに、大化の改新の際左大臣に任ぜられた阿倍内倉梯磨あべのうちくらのはしまろ建立こんりゅうの阿倍寺という広大な寺院があったという。
 この寺は阿倍寺千軒せんげんといわれきわめめて広大な地域をゆうしていたらしいが、昭和十年松崎町二丁目の松長大明神の境内から古瓦ふるかわら(複弁八葉連華文軒丸瓦・重弧文軒平瓦)、塔心礎が出土し、その塔心礎の大きさから、相当そうとう大きな堂塔伽藍どうとうがらん存在そんざいしたことがうらづけられ、白凰はくおう天平てんぴょう時代(六四四―七九四)のものだろうと云われている。この塔心礎、現在はなぜか西成区の天下茶屋公園にあるが、貴重きちょうな大阪府指定の文化資料としても、本来ほんらいのしかるべきところへうつすべきではないだろうか。

 今回も、その旧跡を撮影した動画を付けました。どうぞこちらも、お楽しみください。

【注記】
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今昔堺物語ー大阪史跡めぐり(002)

◎鉄砲町
編者注】大阪きづがわ医療福祉機関紙「みらい」掲載(2015年8月号)では、タイトルは、「鉄砲合戦」

 天文十二年(一五四三)三人のポルトガル人が暴風にあい、薩南諸島の一つ種子島に漂着した。彼等は二本のニ~三尺の鉄筒を持っていて、その用法と威力を領主に教えた。鉄砲が日本に入ってきた最初である。
紀伊根来寺の杉坊妙算、これを求めるため種子島に渡って帰ってきた。当時根来寺のふもとにいた堺生まれの鍛工芝辻清右衛門が、その製法を学び堺で製造した。

戦国の日本は鉄砲保有大国

 戦国大名にとって、馬と槍による従来の戦いが、鉄砲伝来で完全に塗り替えられることとなった。
芝辻らは商人でもあったので、鉄砲の製造と販売に力を注いだ。そのため鉄砲は全国的に一挙に普及し、たちまち日本は世界でも有数の鉄砲保有国となった。
織田信長は武田勝頼との長篠合戦で、三千挺の鉄砲を有効に使って勝利している。
 芝辻文書によれば、明暦三年(一六五七)諸国諸大名からの注文の合計は四千五百三十五挺で、これが最高であったという。もちろん堺以外にも製造していたので、当時全国での年間の鉄砲製造数は、相当なものであったと想像できる。

大坂の陣は堺製の鉄砲合戦

 慶長十九年(一六一四)大坂冬の陣に芝辻は豊臣方より五百挺、徳川方より千挺の注文を受けており、大坂の陣は堺の鉄砲の打ち合いであったことになる。
 冬の陣は徳川方が二十万人の大軍で大坂城の周りを取り囲んだが、その前に立ちはだかったのが、秀吉の怨念の固まりのごとき「惣構」とよばれる、大河なみの外堀であった。秀吉はわが子秀頼のために晩年、大坂城を名実共に難攻不落の要塞にしようと思い立ち、外堀を広げ延ばし、堀の底にはさまざまな仕掛けをして、完全なものに仕上げていた。惣構工事の結果大坂城の面積は一挙に四〜五倍となり、冬の陣の最中にも城内では商人はいつものように商売をし、野菜は自給自足ができたという。

冬の陣では徳川方も大苦戦

 当時の鉄砲は未だ七~八十メートル位しか弾は飛ばず、何千挺という数の徳川方の鉄砲もいくら射っても城内には達しない。手柄をあせって堀の中に入っていけば、底には妨害物が置かれており動けない。堀の中であがいていると、二階矢倉から狙い撃ちされる。徳川方の二十万の軍勢がひと月半の間、大坂城をびっしりと取り囲んだのはよかつたが、結局その間、一兵たりとも攻め入ることは出来なかった。
 季節は真冬、二十万人の食糧も底をついてくる。掠奪ばかりしていると、背後に敵をつくることになる。しかしこのままでは、徳川方から先に、凍死・餓死者を出さないとも限らない。すでに各隊とも逃亡兵が続出している。

家康「まさか…」と動揺?

 地下にトンネルを掘って本丸の下で爆発させる作戦も、山から人夫を呼び寄せやらせているが、これはあくまでも心理作戦で、二重三重の堀をくぐって行けるはずがない。
 徳川方の圧勝という予想で始まった戦いだけに、もたもたしていると情勢が一変レ)しまうこともありうる。これは現代の選挙戦でも同じことが云える。「矢張り家康は城攻めは下手」との声も聞こえてくるようで、家康はふるえが止まらない程動揺していた。
 そこで家康はさかんに和睦案を出して、豊臣方をゆさぶり出した。最終的には秀頼と淀殿はもとより、城内の浪人共の責任も一切問わない。条件は外堀の埋め立てのみという、本音をさらけだしたものとなった。

まぐれ弾が和睦案をのます

 この和睦案を豊臣方が受け入れることになるのは、それまで一貫して徹底抗戦を主張し、高齢の家康が死ぬまでの籠城を云っていた淀殿の心変わりであった。手の平を返すように淀殿が態度を変えた謎を解くカギは堺にあった。
 当時すでに鉄砲以上のものとして大筒がつくられていて、徳川方により大坂城のまわりにも数多く配備されていたが、約三センチ位の弾が飛び出すだけで、幕でも張っておけば、被害はあまりないという代物であった。
 そこで攻撃の最後の手段として徳川方は、かねてより堺の芝辻に命じてつくらせていた、砲身一丈、口径一尺三寸、一貫五百匆の砲弾を打ち出す大大筒と、これ以外にもイギリスやオランダから本物の大砲を技術者付きで十数門買い入れ、京橋口の片桐且元の陣地から打ちまくった。これらの弾丸も城内には達せず、ただ万雷のごとき音響だけははるか京都にまで届いたというから、城内ではさぞや鳴り響いていたことであろう。しかし、内戦に外国の力を借りた徳川方のやり方は、今も就任後ただちにアメリカ参りをする、日本の首相に引継がれているというのであろうか。
 ところが十二月十六日の朝、突然サッカーボール位の鉄の弾が、本丸内の淀殿の居間の櫓を打ち破って突入、侍女二人を死亡させてしまった。当時の弾丸は爆発するまでにはまだなっておらず、ただ打撃を与えるだけだが、直撃を受ければ被害は大きい。
 このまぐれ当たりの一発で淀殿はびっくり仰天、一度に和睦論者に転向した。
 その後徳川方は約束を破り、外堀だけでなく内堀まで一気に埋めてしまい、裸になった大坂城はあわれー年後の夏の陣では、たったの三日間で落城、炎上してしまうのである。
 日本の歴史を変えた大砲をつくった堺には今、鉄砲町という町名は残っているが、現地には鉄砲についての見るべき資料等を展示した施設もなく、本来はその役割を果たさなければならない高須神社が、早々と商売繁盛の稲荷神社に変身するなど、何か訳があるのか知りたいところである。

(二〇〇四.五)

今昔西成百景(004)

◎千本通りの桜

 千本通りには桜がよく似合う。
 千本と桜と書けば「吉野の千本桜」を連想してしまうが、千本という地名の元となった木津川の堤に植っていた木は、桜でなく松であった。
 千本通りの桜は、主に小学校と幼稚園とお寺である。
 二十三才で党の常任となった当初は、「赤旗」新聞を自転車に積んで、主な党員宅へまとめて下ろし、そこから配達してもらっていた。部数が少なかったので、東京で印刷し旧国鉄で送られてくるのを、毎朝大阪駅まで取りに行っていた。
 十三間堀川に沿ってあった植野ガラス店から、千本通りをアカシ薬局へ向かうのは、いつも昼前の時間になる。
 桜の花びらが舞っている中を、歩いている母の姿を見たことがあった。母はそのころ、生命保険の外交員をしており、千本通り一円を担当していた。
 三十年も前のことだが、当時千本通りは商店も多く、区内でも屈指の商店街であった。
 今、戦後最大の不況といわれる中で、みんな必死に店を守って頑張っている。消費税の税率大幅アップなど、正に「殿ご乱心」である。細川首相は、肩寄せ合って春を待つ庶民の心など、しょせんわからない「天上の人」なのだろう。母は、この一月に鬼籍の人となった。小春日和のような日の昼前、見送ったのは千本通りのお寺であった。
(ー九九四・三)

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今昔木津川物語(003)

西成・阿倍野歴史の回廊シリーズ(三)

阿部野神社あべの じんじゃ大名塚だいみょうづか (北畠三-七・王子町三-八)

 阿部野神社の雰囲気ふんいき皇国史観こうこくしかんまるだしで、いつ来ても抵抗を感じる。参道さんどう両脇の石柱に「大日本だいにほん神国しんこくなり」ときざまれているが、戦後せんごの昭和四十八年の建造けんぞうで、時代錯誤さくごもはなはだしい。
正門せいもん鳥居とりい近くに北畠きたばたけ顕家の等身大とうしんだい銅像どうぞうが立っている。私は天下茶屋史跡めぐりのガイドをするときには、いつもこの前で次のように説明をする。

貴族きぞく犠牲ぎせいとなった顕家あきいえ

 「この神社の祭神さいじん南朝なんちょうの重臣北畠親房ちかふさと顕家の父子です。二十ーオで戦死した顕家は、十六オで陸奥守むつのかみ鎮守府ちんじゅふ大将軍に任ぜられるほどの秀才で、奥州おうしゅう平定へいていし、足利尊氏あしかがたかうじそむいたのではるばる奥州から出動してこれを追撃ついげき撃退げきたい。あと再び東下とうかするも、留守の間に尊氏が勢いを盛り返して反撃はんげき楠木正成くすのきまさしげみなと川で戦死し、吉野に逃げた後暇醐ごだいご天皇が再度顕家を呼び返した。顕家は不利な戦いを各地でやりながら河内かわち到着とうちゃくしたが、ついに堺石津さかいいしづで戦死しました。天皇てんのう中心の政治を復活ふっかつさせて、再びあましるおうとした貴族たちの犠牲になったとしかいいようのない、二十一年の短い人生でした」

顕家も正成も諌言かんげんして戦死

 「しかしわずかにすくいとしていえるのは、顕家が戦死する一週間前に後醍醐天皇に、戦争で疲弊ひへいした民の租税そぜい減免げんめんすること。あやまった中央集権ちゅうおうしゅうけんを改めること。みだりに行幸ぎょうこう宴会えんかいをつつしみ、愚劣ぐれつやから政道せいどうへのさしでぐちをさせないこと、などの堂々とした諌言を行っていることです。これは顕家が決して天皇や父親のロボツトではなかったという立派なあかしではないでしょうか」
 「ちなみに楠木正成も戦死直前に、朝廷ちょうていに厳しい内容の諌言の手紙を送っています。これらは『建武けんむ中興ちゅうこう』や『王政復古ふっこ』の実態じったいが阿部野神社の境内けいだい掲示けいじしているような立派なものではなく、逆にいかにひどいものであったかを歴史的に証言するものではないでしょうか」と。

大名塚は神社とは別の評価ひょうか

 阿倍野区北畠公園内に大名塚という塚があり、北畠顕家のはかなりと伝えられ、江戸時代の学者並川誠所せいしょ提唱ていしょう享保きょうほ十八年(一七二四)に墓碑びほが建てられた。
 明治になり半ば埋没まいぼつしているものを再建し、昭和十五年に大阪市の史跡公園となり現在に至っている。しかし顕家が戦
死したのは堺の南、石津川いしづがわという説が有力であり、大名塚が果たして本当に顕家の墓であったのかは今も疑問である。
 北畠公園内の案内板をみておどろいたことは、顕家の諫言問題を高く評価しくわしく説明しているという点であった。私は文献ぶんけんで知り独自に述べていたのだが、ここでは地元顕彰けんしょう会の人々が、平成三年に新たに案内板をつくり顕家を再評価してしらせている。
 阿部野神社では北畠親房らの「神皇正統記じんのうしょうとうき」の立場が激越げきれつな調子で押しつけられてくるが、阿部野神社創建のきっかけとなった大名塚では違っている。

つくられた「忠臣」や哀れ

 多くの犠牲を払ってつくられた「建武の中興」なるものが、鎌倉時代よりも重い年貢ねんぐ課役かえき税金ぜいきんで農民を苦しめ、ー方天皇とその寵児ちょうじたちは、富貴ふうきほこり、贅沢ぜいたくらしをし、酒宴しゅえん蹴鞠けまり歌舞遊山かぶゆうざんにあけくれていることを、具体的ぐたいてきに厳しく諌言した顕家が支持しじされている。
 政権の腐敗ふはいを知り、はげしくそれを批判しながらも、結局けっきょくは人心の離れた朝廷を保持ほじするために、負け戦と知りつつはるばる奥州から再度出陣せざるを得なかった「忠臣」顕家の哀れさが、後世こうせいの人々の心を打つのだろうか。
 楠木正成も正行まさつらの場合も同様である。

 今回は、その旧跡を撮影した動画を付けました。どうぞこちらも、お楽しみください。

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今昔木津川物語(002)

西成・阿倍野歴史の回廊シリーズ(二)

天下茶屋あと紹鴎じょうおうの森 (岸里東二-一〇・二-三)

 私が西成の郷土史に興味を持ち始めたきっかけは、太閤秀吉の殿下でんか茶屋が天下茶屋になったという 、至極しごくおめでたい話に疑問を感じ始めたことからである。
 秀吉は農民出身であるだけに、わずかな隠し田も摘発てきはつし、家・納屋なやの敷地にまで年貢ねんぐをかけたという。米二俵を納められなかった農民のうみん夫婦と子供二人を殺させたのを、当時の外国人宣教師せんきょうしが書き残している。
 その秀吉が、景色が良い水がうまいというだけで、毎年三十俵からの米を、西成郡勝間かつま新家しんけの一茶屋に支給する約束をなぜしたのか。それではまるで好々爺こうこうやではないか。何かウラがあるぞ、というのが私の直感だった。

茶道中興ちゃどうちゅうこう武野たけの紹鴎

 この地に天文てんぶん年間(一五三二〜五五)から茶屋を出していた茶人武野紹鴎は、茶の眼目がんもくに「和敬静寂わけいせいじゃく」の理念りねんを説いた反面、雪舟せっしゅう一休いっきゅう筆墨ひつぼくはじめ高麗茶碗こうらいちゃわんなどの名器を収集し、その鑑識眼は大変なものだったという。また門人に千利休せんりきゅうなど茶道史さどうしの傑物がいた。
 武野紹鴎はそれだけではなく紀州街道(住吉街道)が、当時深い森でさまたげられ、勝間街道か熊野街道まで回り道をしなければならないというなかで、私財をなげうって森をきりひらくという偉業いぎょうをなしとげていた。そのため今日にいたるまで、紹鴎の勧請かんじょうした天満宮のことを天神の森天満宮とも紹鴎の森天満宮とも呼ぶのである。
 紹鴎はまた、道行く人々に無料で茶をもてなすなどして茶道の大衆化にもつとめ、世人はこれを紹鴎の施行茶せこうちゃ、日本一の茶屋とたたえた。これらのことからして、秀吉の殿下茶屋の以前から、紹鴎の茶屋はすでに天下茶屋と呼ばれていたと私は推理すいりするのだが、明治三十六年発行の大阪府が編者となった大阪府誌第五編にも「然して此の天下茶屋のしょうは、あるひは秀吉の堺政所まんどころへ往復の際立ち寄りてその風景を賞せしより起こるといひ、或るひは紹鴎の茶亭さていより出たといひ、その他或るひは其の以前よりありといひ詳かならず」とある。

非運ひうんの人武野宗瓦そうが

 武野家は紹鴎が五十四オでぼつしてからは数奇すうき運命うんめいをたどる。長男の武野宗瓦は茶道さどうの才能も父まさりといわれ気骨と品位ひんいにも恵まれた人だったが、坊ちゃん育ちにつけこまれ、まず二十五オのとき、織田信長おだのぶながに父の遺品いひん「紹鴎茄子なす」と「松島茶つぼ」の名器を取り上げられたうえに追放処分ついほうしょぶんとなり、紹鴎の森に隠棲する。本能寺の変で信長が急死したため、二十九オでやっと茶道の宗家そうけを継いだものの、天正てんしょう十六年には父の弟子の手引きで秀吉に「備前びぜん水こぼし」「茄子ぼん」など父の秘蔵ひぞう物約七十点すべてを没収ぼっしゅうされ再び追放となる。宗瓦は不遇ふぐうのままその後病没びょうぼつするが、その場所もさだかでないという。
 一説には、宗瓦は直前にすべてを持って家康いえやすのもとに妻子さいしと共に身を寄せ北野大茶会きたのだいちゃかいに欠席し、秀吉に大恥おおはじをかかせたともある。
 紹鴎秘蔵の品といえば、当時は茶器ちゃきーつでしろ一つに匹敵ひってきするといわれた程のものであり、現在げんざいならいずれも国宝級こくほうきゅう逸品いっぴんであったろう。
 地元の尊敬そんけいを受けていた武野家を白昼強盗はくちゅうごうとうのようにして抹殺してしまった秀吉に、世間のきびしい批判の目が向けられたことは、当然のなりゆきだったと思われる。

秀吉の隠蔽工作いんぺいこうさく

徳川とくがわ家康にえず厳重げんじゅうな警戒をはらいいながら、諸大名には褒美ほうびをおくりやっと天下人てんかびとになった秀吉にとっては、大坂おおさかでの悪評あくひょうのどんな一つでも、命取りになりかねないとの思いがあったのではないか。
 河内屋の芽木小兵衛めきしょうべいにたいして、井戸には「恵水けいすい」の名と毎年米三十俵を与えるとのおたっしが華々はなばなしくやられたのは、武野宗瓦追放劇の直後であったことからしても、殿下茶屋発祥はっしょう劇はその隠蔽工作とみるのが歴史の常識じょうしきではないだろうか。

紹鴎の名を残した小兵衛

突然とつぜん太閤秀吉にほめちぎられた、芽木小兵衛の心中は複雑ふくざつであったろう。恩人武野家のことを思えばむねははりさけんばかりである。
 しかしそれは絶対におもてには出せない。しかしこのままでは、後世の人は何と思うだろう。自分の意志いしを残しておきたい……。
南北朝なんぼくちょうの「忠臣ちゅうしん」楠木正成まさしげの子正行まさゆきの十代目、正長まさながの三男昌立まさたてとしての誇りにかけても。
 今、紹鴎の森天満宮の住吉街道側の鳥居とりいから入るとすぐ右手に、子供の背丈位せたけぐらい表面ひょうめんがぼろぼろになった石が一つ建っている。まるで路傍ろぼうの石のようなこれこそが、三代目芽木小兵衛昌立が万感ばんかんの思いをこめて、四代目小兵衛昌包まさほうに「紹鴎のもり」と深々と刻ませた歴史の証人しょうにんなのではないだろうか。石に手を置けば頭上ずじょう高くで、樹齢じゅれい六百年のくすのきが風でざわめいていた。

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【参考】
Wikipedia 武野紹鴎
Wikipedia 武野宗瓦

今昔木津川物語(001)

西成・阿倍野歴史の回廊シリ—ズ (一)

是斎屋ぜさいや天下茶屋公園てんがちゃやこうえん (岸里柬一-一六)

上町台地うえまちだいちの西側は急斜面しゃめんになっていて、西成区から阿倍野区への上りは、自転車などではところにより降りて押さねばならないくらいであるが、ぎゃくに阿倍野区から西成区への下りは、ブレーキのかけづけとなりかねない、かなり危険な道でもある。
 特にあさひ町、共立きょうりつ通、丸山まるやま通、松虫まつむし通、橋本はしもと町、晴明せいめい通、相生あいおい通、北畠きたばたけ三丁目付近はそうである。
 上町台地の西はしは、かつてはどこでも「夕陽丘ゆうひがおか」といわれたという。春秋しゅんじゅう彼岸ひがんに、この高台から西の海へ落ちる夕陽の、荘厳そうごん神秘しんぴさに心を打たれる人も多く、四天王寺を筆頭ひっとうに寺や神社も集中していた。
 平安時代中期以降鎌倉かまくら時代にかけて「あり熊野詣くまのもうで」といわれるほど庶民しょみんに至るまで盛んであった熊野三山くまのさんざん(熊野本宮大社、熊野速玉はやたま大社、那智なち大社)への道は京都より熊野まで往復おうふく百七十、約三週間の日時を要したというが、その熊野街道かいどう(阿倍野街道)は夕陽丘に沿って南北に伸びている。
 熊野街道に平行して上野台地のすそのさぎさに、足利あしかが時代末頃より紀州きしゅう街道(住吉街道)が出現した。この街道は江戸時代には紀州や岸和田はんなどの参勤交代さんきんこうたいによる、大名行列だいみょうぎょうれつの道でもあった。明治に入っても国道二十九号線といわれ、昭和十五年に国道十六号線(今の二十六号線)が開通するまでの主要な道路となった。
 私は今年の正月休みのある日、この西成区と阿倍野区にかけての、歴史の回廊かいろうともいうべき史跡しせきめぐりをやってみた。その結果阿倍野区側の史跡は主として、平安へいあん鎌倉かまくら室町むろまち時代のものが熊野街道を中心にして多くあり、西成区側の史跡は安土あずち桃山ももやま江戸えど時代のものが紀州街道に面して多いのは当然のこととして、その双方に重要な点で共通するもののあることを知った。
 私は感動した。同時にこれは自分だけの一人合点がてんかもしれないとも思った。しかし、私が西成の郷土史きょうどし興味きょうみを持ちはじめた原点げんてんの疑問に、私なりに答えの出せるものであるということには、確信かくしんできるものがあった。

是斎屋と秀吉は無関係

 その日、是斎屋ゆかりの天下茶屋公園は全面改修かいしゅう工事の途中とちゅうであった。
 かってこの公園には「太閤たいこう秀吉が初めて自分を武士ぶし足軽あしがる)にとりたててくれた恩人おんじん、松下嘉兵治かへいじ(後に是斎)にむくいるため約三千三百つぼ広大こうだい邸宅ていたくと名園をおくり、太閤さんも大阪城中からしばしば来遊らいゆう、茶をたしなみ名園を楽しんだ地で、太閤さん愛好あいこう井戸いど灯籠とうろうもある。その松下の子孫しそん明治めいじ時代までこの地で『和中散わちゅうさん』という薬を売り茶屋ちゃやいとなんだ。明治天皇もこの地に臨幸りんこう英雄えいゆう秀吉をしのんだ」と書いた大阪市の案内板があり、同文の案内書も西成区役所から発行されていた。地元の学校でもそう教えてきた史跡公園であったのだ。
 ところが大阪市は平成七年になって突然とつぜん、案内板撤去、案内書の書きえを行ってきた。「是斎屋の開業は秀吉の死後三十数年たってからのこと」との史実しじつをなしくずし的に、やっとみとめたということなのだろうか。今回の改修で「秀吉愛好の井戸」などはどうするつもりなのか。

地域ちいき貢献こうけんした是斎屋

 西成区役所が新しく出してきた「わたしたちの西成区コミュニティマップ」によれば寛永かんえい年間(一六二四〜四四)よりこの地で営業を始めたという是斎屋は文化十三年(一八一六)の大坂市中売薬数望ばいやくすぼうという番付ばんづけに、和中散本舗ほんぽ「天下茶屋ぜさい」は勧進元かんじんもとの「神仙巨勝子円しんせんきょしょうしえん」と並んでいるから、大坂を代表する売薬商であったことはたしかである。
 秀吉の恩返おんがえし云々という話になったのは浄瑠璃じょうるり祇園祭礼信仰記ぎおんさいれいしんこうき」(中邑阿契なかむらあけい他四人合作、宝暦ほうれき七年(一七五七)豊竹とよたけ座初演)の中に、「此下東吉このしたとうきちよろいの代金を持ち逃げされた松下嘉兵治は摂州せっしゅう岸野の里(天下茶屋)に隠棲いんせいし薬店是斎となって苦労する」とある話から出たもので創作であった。
 しかし、この地で永年にわたり薬店と茶屋をいとなみ、後世こうせいに残るような様々さまざまなエ夫をし店をもりたてたことや、明治になり後を継いだ橋本氏は地域の発展のために努力し、今も阿倍野区橋本町にその名を残す。
 またその後を継いだ高津氏が戦後、樹齢じゅれい四〜五百年とみられるかつての紹鷗の森名残の巨木数本を保存ほぞんしたまま大阪市に土地を寄贈きぞうし、その結果西成区の児童公園第一号として天下茶屋公園が誕生たんじょうした経過けいか等を考えれば、秀吉とは関係なくそれ相応の記念を残しても当然とうぜんのことで、今回の公園改修工事後どうなっているか、大阪市の見識けんしきが問われるところである。

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