今昔西成百景(019)

◎てんのじ村

 「山王地区は暮らしやすい町であったことから、多くの芸人が集まり、『てんのじ村』と呼ばれ、庶民の文化・演芸発展の拠点となっていました。昭和五十二年十一月に記念碑が建てられました」西成区役所発行の「デ—夕—ブックにしなり」にこうかいてある。
 昨年末のある日、今も『てんのじ村』に住む、浪曲の浪花歌笑さんを訪れた。

がんばれ浪花小町

 師は留守だったが愛弟子の浪花小町ちゃんが、礼儀正しく対応してくれたので、思わず「がんばってや」と激励の言葉がとびだした。後日、歌笑さんとお会いした際に、浪花小町の歌手としてのデビュ—も間近いと聞かされた。
 西成には何人かのプロの歌手を目指して頑張っている若者たちがいる。近い将来に、それぞれが大きな花を咲かせてほしいと思う。
 正月三日ののテレビで「人情豊かな下町の風情が残っている庶民的な町・西成」と題しての特集番組があった。芸能に関する内容だった。いま、バブル経済が崩壊し残業が少なくなったり、週休二日制の職場が増えているなかで、地域でのつながりが見直されてきているという。町おこしのために、みんながチエと力を出し合う良いチャンスかもしれない。
 私もひとつ提案をしたいと思う。それは、西成には民謡、日舞、カラオケ、詩吟、沖縄舞踊、演劇などの教室やサ—クルが相当数あり、それぞれ毎週単位で活躍していることである。これこそ町おこしの大変なエネルギ—であり、行政の面でもできるだけの応援をすべきだと思う。ところがこれらの団体が日頃の練習の成果を発表する場が限られている。区民センタ—は申し込みが多く、日曜日に大ホ—ルを使おうとしてもなかなか確保できないのが実情である。また、区民センタ—の音響効果は不十分で、結局別に音響装置を業者に頼まなければならないということもある。
 そこで私の提案だが、それは、この際ぜひとも西成区に中規模の劇場形式の市民ホールを建設して、大いに市民の諸文化の発展の場にしてはどうかということである。すでに大阪市以外では立派な文化センタ—が人口数万人単位で作られ、現に役立っている。
 大阪市では近く西区にドー厶球場をつくるため、また、オリンピックを長居公園で行うために膨大な予算を投入するという。「一点豪華主義」で建設大企業を喜ばせることばかりやるのでなく、もっと地域に足を着けた、町おこしに役立つような施設をふやさなければ、大阪市の念願の「人口呼びもどし作戦一も決して成功しないであろう。
 『てんのじ村』の伝統をひく「西成文化ホ—ル」の実現を初夢におわらせないためにも今年もがんばろう。
(ー九九三・一)

今昔西成百景(018)

◎天下茶屋

 「天正年間のこと、千利休に茶を伝えた茶匠武野紹鷗が閑居していた地で芽木小兵衛正立なる人が茶店を開いていたが、太閤秀吉が住吉大社への参拝の途中、千利休の勧めで麗水で知られるこの茶店に憩い賞美の余り、井戸に「恵水」の名と玄米三十俵を与えた。
 このことから世に『天下茶屋』と呼ばれるようになった。(浪華にしなり図解説より)」
 天下茶屋東一 丁目二〜三番地一円で現在進められている地上げは、その規模では市内最大級の一つである。一年数ヶ月前より始まった地上げに、住民約四十世帯が固く団結して今日まで斗いつづけている点は立派である。
 三月中旬から隣接の空アパ—卜や空家をつぶしだし、残がいをその場に高さ約四メ—トルの小山にして積み上げそのままにしてある。四〇〜五〇トンにもなるのではないか。古タタミやベニヤ板が表面をおおい、マッチ一本で大火事になることは必至である。住民への嫌がらせ以外のなにものでもない。
 去る四月十一日、地元住民の代表五人と共に西成消防署へ、業者への残がい撤去の行政指導を早急に行なうよう要請した。谷下市議が紹介議員として出席してくれたことは住民に大きな励ましとなった。
 天正年間、スペインの商人ヒロンは、米二俵を納められなかった農民夫婦と子供二人が殺されるのを見たとものの本にかいている。大阪城の築城に徴用された人の中には、仕事がすんでも国もとへ帰れなくなり、川原で細々と世を過ごす者も多かったという。
 米三十俵を与えて人気とりをして、「殿下茶屋」「天下茶屋」と喧伝させた秀吉の戦略。その裏にかくされた無数の哀話。
 それから約四百年たった今日、「冷戦は終わった。もう保守も革新もない。」「世界一治安のよい国、日本」とマスコミで意図的に流されているが、現に天下茶屋で地上げと大火の危険に不安な毎日をすごす市民がいる。「地上げ新山」を見上げて、このたたかいは必ず住民が勝利しなければならない、と考えた。
(ー九九四・四)

南大阪歴史往来(013)

◎神南辺大道心

 住吉大社の南に延びる旧街道の東側に、浅沢神社、大歳神社と古い神社がつづくが、西側にも地蔵寺という小さなお寺がある。
 この寺は、松野山と号し天台宗正覚寺末である。創建は不詳、承応三年(一六五四)僧承円が再興した。以前は現墨江丘中学校付近にあったが明治十八年当地に移転した。
 本尊の子安地蔵は、伝教大師作と伝えられている。伝教大師は弘仁三年(ハ一二)三月、九州から比叡山へ帰る途中、住吉大社に参詣し、その時像をつくり、翌四年五月開眼供養した。地元では「子安さん」と親しまれ、安産祈願で知られている。

インドの神が仏教へ五大力

 門前には百度石を兼ねた五大力碑がある。本堂右にはその五大が菩薩尊堂がある。その他宝物として五大力尊版木を蔵している。これらはもともと住吉神宮寺にあったものである。
 また、この五大力碑は、文政二年(ー八一九)に神南辺隆光が寄進したものである。神南辺は神南辺大道心または単に神南辺の名で各所に道標や案内標識、鳥居や神輿台、橋まで寄進している、と住吉区史は記す。
 慈恩寺という、代々住吉大社の神主を勤めた津守氏の菩提所であって、明治維新後廃寺になった真言宗の寺院が浅沢神社の近くにあったが、境内には有名な「車返しの桜」があり、この道標も神南辺の寄進である。現在これは縁もゆかりもない、浪速区元町一丁目の法照寺前に残る。「車返しの桜」とは、後醍醐天皇が住吉行幸の時、あまりの美しさにもう一度車を返して名残を惜しんだ、という話からきている。

神南辺大道心は燗鍋の職人

 住吉大社を中心とするこの地域の、大海神社の神興台、浅沢神社と大歳神社の鳥居なども、全て神南辺の寄進である。
 それでは神南辺とはいかなる豪商か大地主か。といえばさにあらず、住吉区史によれば「奈良県王寺町神南(じんなん)の生まれで弥助という燗鍋作りにかけては腕の立つ職人であった。しかし素行が修まらず人からは嫌われていた。息子は小さいときから寺の小僧にやられていたが子供からその不行跡をたしなめられて改心、一念発起して仏門に入り、燗鍋作りから『神南辺』と改め諸国を行脚、人に役立つようにと、道標・百度石の建立や架橋までした。堺市には、神南辺町、神南辺橋などが残っている。天保十二年(一八四八)堺で没す」と、お役所作成の文章にしてはめずらしく「伝説」まで書いているので、私はある日、堺に出かけて行った。
 南海電車堺駅と七道駅のほほ中間に、目的の神南辺町があった。しかし、町の大部分が、高層の民間マンションと自動車販売会社に占められ、おめあての「郷土史漂う」という雰囲(追加 気)があまり感じられない。どうしたことかと、自転車屋の前にいた、七十オ位の男性に聞いてみた。しかし、彼は,「神南辺の名の由来など考えたこともない」と。私の方から「神の南だから住吉大社の南方という意味でしょうか」と、誘いをかけてみると「住吉は北だ」と、宿院にある住吉大社のお旅所の方角をゆびさすので、郷土史に全く無関心でもないらしい。

堺で神南辺を知る人少なし

 近くに公園と野球場があり何か神南辺道心の「顕彰碑」でもないかと探したが見当らない。今度は、公園の前の酒屋さんが、丁度自販機に詰替え中で、表に出ていたので、又聞いてみた。しかし、返事は「約五十年ここに住んでいるが、そんな話は聞いたことがない。おやじでも生きていれば知っていたかも」と親切に答えてくれた。
 堺の旧市内をとりかこむ環濠のあとを内川として残しているが、それにかかる橋のーつとして、 神南辺橋は現存していたが、鉄とセメントの普通の橋で、特にこれという説明板も付いていなかった。自分の住んでいる町の少なくとも名前の由来位は、誰かが知っているはず。当日は炎昼下でもあり、私も次の機会を期して引き上げた。後日、知人から「あの辺は堺の空襲と戦後の臨海工業地帯の造成で大きく変わってしまった」と聞かされた。
 一世紀もたてば人間の記憶もうすらいでいく。ましてー般庶民の善行の場合は特にそうである。

伝説・伝承の必然性は存在

 伝説として残るのは、主として極めて残酷な結末をみた事件である。例えば、聖徳太子・菅原道真・平家物語・源義経・赤穂浪士・堺事件など忘れたくても忘れられない暗くて恐ろしい事件について人々はそれに愛国とか忠義、義理や人情、美談、愛憎などの様々なベールをかけて少しでも現実を中和しようとする。そこにときどきの権力者のおもわくと、お金儲けが加わって、話がとんでもない方向に進んだり、とてつもない大きな物になったり、架空の人物が大活躍するという面白可笑しい物語に変わっていくのである。
 燗鍋職人の弥助さんも、住吉で多くの寄進をしたために伝説が残り、堺では無形文化財ともいうべき、地名にその名を残した。庶民の幸せな生涯を示した、めずらしい郷土史の明るい一ページといえるのではないか。
 後日、私は、住吉区史の疑問点を質すために、もう一度現場を踏んで、現物を詳しく点検する、自称「行動する郷土史家」としての行動にでてみた。すると鳥居とか大海神社に三基もある神輿台というような大きな物は、大坂や堺の豪商が願主となり、神南辺は取次や執次として名をだしているということが判った。道標や百度石は神南辺単独の寄進である。燗鍋職人で全部もてるはずがないのである。これで一応納得のいく話になるのではないか。
 もう一つ、これも住吉区史に、慈恩寺の「車返しの桜」の道標が浪速区元町一丁目十番の法照寺の門前に現存すると書かれていたので訪ねてみた。実際は墓地の片偶に、半分うづもれて、じゃまもの扱いされていた。あそこに何年置かれていてもなんの値打ちもないであろう、というのがわたしの率直な感想である。
 こんなところに棄てておくのではなく住吉大社南の「神南辺街道」に帰してやれば、どれだけ輝くことか。独特の字体で深々と彫りこまれた立派な作品だけに余計に残念に思った次第である。

編者注】この記事をもって、「南大阪歴史住来」の項は終了です。

南大阪歴史往来(012)

南大阪歴史往来(十二)

◎哀愍寺《あいみんじ》(上住吉二ノ十四)

 住吉大社の東、旧熊野街道に面して、ふるいお寺が今も多く残っているが、その中の一つ「哀愍寺」は、お寺の横に「ちぎり地蔵尊」があり、そのことでも目を引くお寺である。今も神仏両方をお祭りしている住吉神宮寺の名残り「西之坊」の向いにある。
 かって新聞に掲載されたことのある哀愍寺の三十七代目住職片山法道氏の話によると「哀愍寺」というお寺は、群馬県、滋賀県、住吉と三つあり、群馬県で玉念上人という方が開山。武田信玄の帰依を得て全国行脚に出かけ、住吉の地にとどまって永正十四年(一五一七)開山したもの。怜法院覆護山哀愍寺といい、本尊は鎌倉期作の阿弥陀如来である。

織田信長が寺にやってきた

 この哀愍寺が歴史の舞台になったのは、織田信長の天下統一の時。「往生集」という本には、次のように残っている。
 ある時、日蓮宗の信徒三人が「浄土宗では救われない」と言いだして論争が起きる。そこで信長は玉念上人を含む両宗の高僧を哀愍寺に集めて論争させ、みずから裁判官になり、浄土宗に軍配を上げ、日蓮宗の僧三人は破門、信徒三人は打首となつた。「浄土宗、日蓮宗のどちらがいい悪いという問題ではなく、信長は信仰の世界でも自分の勢力を誇示したかっただけでしょう」と片山住職の弁。
 しかし、これを読んで、私は疑問が生じてきた。というのは、そもそもこの時代は、信長が浄土真宗本願寺のある石山城の強奪を企み、十年間にわたる世に言う「石山戦争」元亀一年〜天正七年(一五七〇〜一五七九)の真っ最中。信長は本願寺の一向一揆の門徒に手こずり、さまざまな和平交渉を進めていたが、ー方浄土真宗にあらゆる点から一番近いのが、浄土宗であることを意識し、今もし浄土宗が反信長に立てば大変なことになると、わざと浄土宗に軍配を上げたのではないか。いや、ひょつとしたら両宗の争いも信長が最初から仕組んだのではないか、と私は推理する。

宗教団体に補助金出す米国

 しかし宗教界を支配するための、信長のアメとムチの政策も天正十年(一五八二)の本能寺の変ですべてご破算になってしまう。
 アメリカのブッシュ政権は原理主義色の強いキリスト教の教団に、年間二千三百億円からの補助金を出しているという。政教分離の憲法の立場を踏みにじって特定の教団を宗教戦争に駆り立てることは中東での石油の強奪というブッシュ政権の本質をごまかすためであり、国と時代は違つても独裁者のやり口は似たようなものである。そして、ブッシュのーの子分である小泉首相も創価学会という謀略を得意とする「宗教団体」を利用している。今や彼らそれぞれの「本能寺」が迫ってきていることを、歴史の予言として知るべきである。

公約を守らない自民・公明

 話は変わって、「哀愍寺」との関係を見てみよう。
 明治維新による「廃仏き釈」(寺院などの破壊運動)でどのお寺も大変な時、今の地にあった真言宗のお寺の尼さんが「自分はこの寺を維持することが出来ない、買ってほしい」という話をもちかけ、向かい側にあった哀愍寺がこの地に移ってきた。真言宗であれば地蔵尊のあるのは当然のことで、現存する「ちぎり地蔵」はその名残という。
 この地蔵尊は「ちぎり地蔵」「千切地蔵」また「十徳地蔵」とも呼ばれ、かつては独特のわら人形が売られ、縁日が出て多くの人で賑わった。「ちぎり」の意味は契約を結ぶ「契り」、信心すれば「十徳」を契約どおり実現してくれるという。「十徳」とは、「女人安産・水火安全・諸病消除・諸願成就・寿命長遠・衆人結縁・神明加護・旅路加護・極楽往生・悪夢退散」又、「ぬいぐるみ地蔵」とよばれる手づくりの素朴な地蔵さんの背中に願いを書いて、堂内に安置すればその願いが叶うという。ぬいぐるみはお寺で買えるとのこと。
 さて、選挙になれば各党は十徳(公約)を並べる。自民党のキヤツチフレーズは「改革なくして財政再建なし、改革には痛みがともなう」であり、公明党は「福祉の党」であった。ところが財政再建どころか国・地方の借金は一千兆円にもなり、福祉は後退するばかりで痛みだけが押しつけられた。国民にとつてはまさに十徳どころか十損である。

今昔西成百景(016)

◎「盆踊り」「地蔵盆」

 政府は八月末にきめた「総合経済対策」で銀行の不良債権処理のため、銀行の担保になっている土地を、税金を使って買い上げる機関の設置を打ち出した。
 東京でも大阪でも、中小の不動産業者はほとんど銀行への利払いがとまっている状態という。業者は安く売って回収しようとしても、銀行から「時機を待て」とストップがかかる。かくて売りも、貸しもしない〃幽霊マンション〃や空地が、西成でも出現しているのである。

銀行の不始末を税金で救済とは

 銀行は不動産の担保の評価をはるかにうわまって過大に融資をしてきたから、担保を処分しても全額回収できない。今度の政府による不良債権の買い上げは銀行にとっては願ってもないことで、高めの価格で売れればそれだけまた儲かる…
 今年の夏は記録破りの猛暑だった 熱帯夜を打ち破れとばかり、各地で恒例の盆踊り大会や町内安全をねがう地蔵盆の行事が行なわれた。自・社・公・民四党なれ合いの大阪府・市政がすすめている「好きやねん大阪・西成」運動にはもってこいの風物詩。しかし、この府・市政の庶民の街つぶしの典型である、〃地上げ〃行為には何と無策であったことか。
 盆踊りの見物の中に、地蔵盆の提灯の下で、地上げに追われたかっての住民の「里帰り」した顔がちらほらしていた。
 「地上げは庶民いじめであると同時に、何より老人泣かせであります。借地借家人は何も悪いことをしたわけでもない。法律上も所有者がかわっても引き続き住む権利は認められている。それであるのにまるで虫けらのように出ていけと迫られる。長年にわたって築いてきたこれまでの生活基盤を失いたくない。ここで死にたい。暴力には屈したくない。こんな怒りをみんなもっています。そして老人にはひとしおその思いがつよくあります」 二年余前の府議会での私の知事への質問の一節である。質問の発端となった、天下茶屋で地上げを苦にして自殺した八十六オのおじいちゃんの長屋も、税金で銀行から買い上げるのか。
 土地や株に莫大な投機資金を注ぎこみ、バブル経済をつくりだして、国民に甚大な被害を与えた大銀行が、今度は税金で〃救済〃してもらおうという、こんな手前勝手なことは絶対に許せない。
 いま必要なのは、一番不況の打撃をうけている中小業者に手を差し伸べることである。これらの顛末、あらいざらいを、河内音頭にでもうたいこんで力のかぎり訴えようか。
(ー九九二・九)

編者注】
 コロナ禍で、この数年、「平和盆踊り」は開催できていません。また、いつの日にか、新たに復活することを願って止みません。

今昔西成百景(015)

◎千本松渡船

 一九六八年から五年間の工事で完成した木津川にかかる千本松大橋は、長さ二四〇〇メ —トル、高さ三七メートル、中央部の支間が一五〇メートルという、天草・若戸・西海・尾道の各大橋についで日本で五番目のノッポ橋。両岸に二階式のラセン状ランプウエ—を採用したのはわが国では初めて。
 建設計画が公表されると、地元では、便利になるが公害も心配だという意見が聞かれた。しかし、橋の完成と同時に渡船は廃止されると知って、それは困るという点で一致した。
 江戸の昔より連綿として続いている、通勤・通学・買い物の足であり、思い出も一杯積んだ渡船が無くなり、代わりに目のまわるような自動車中心の橋。歩いて渡れば三十分もかかろうし、自転車や単車は危険、年寄や病人・障害者などはとうてい渡り切れるものはない。夜間の防犯対策はどうするのか……。
 「市当局は一体何を考えているのか」と、南津守商店街や町会の有志より、南津守三丁目の日本共産党事務所(当時・木津川地区)へ相談があり、私は直ちにそれに応じて、同時に他の行政の課題にも積極的に取り組もうと、みんなで「南津守を良くする会」を作り、十大地域要求を掲げての決起集会も南津守会館で盛大に行なった。今から思えばなんと段取り良く出来たことかと感心するが、それ程要求が切実であったということだろう。
 役員には、細川氏(理髪店)松本氏((豆腐店)細川氏(大番食堂)竹内氏(ヒロ理髪店)小畑氏(長寿荘)松浦氏(住宅)、会長には山下氏(自転車店)がなり、私が事務局を担当した。

みんなで考えた”名文句”

 「橋は出来ても渡しは残せ」という川柳のような言葉は、皆で立看板作りをする中から生まれたものだが、その後運動の合言葉になり、今も語りつがれている。
 廃止反対の請願署名は、橋完成の六ヶ月前に行った。巨大な竜が木津川にまたがっているような建設中の橋を見上げ、粉雪の舞う中、渡船の現場で朝六時から夜十一時までを二日間、一日目は渡船利用者に署名用紙を配り二日目で回収した。ドラムカンに古材を燃やし暖を取ろうとしたが、川風は容赦なく吹きつけた。署名の反響は大きく、西成区だけでなく住吉区や堺市の人も多くあった。労働者の大きな手で「渡船の存続よろしくお願いします」と握手され、地元の人達は感激していた。

市の住民無視は今もかわらず

 しかし大阪市会はこの三千数百の貴重な署名を、いとも簡単に否決してしまつた。廃止に反対し存続を主張したのは日本共産党だけで、他の自・社・公・民の各党は「廃止は決定済み、橋と渡船の共存は前例がない」との理由である。
私達は負けていなかった。橋のオ—プンの前に歩行者だけに開放する日、西成民主診療所の所長以下の協力によって、老若男女のモデルに実際に歩いて橋を渡ってもらい疲労度を調査した。そのデ-夕-を手にして、四方市議と私で市の土木局長と直談判。良くする会の山下会長、役員さんらと共に上京し、国会で運輸省の担当官に、正森代議士の支援で陳情もした。
  その結果、「橋完成後も当分の間は様子を見るために渡船を運行する。利用者が減少すれば廃止する」と市の態度が変化してきた。もちろん珍しがって一度は歩いて橋を渡った人も、二度と遺ることは無かったので、渡船はその後二十年間存続し続け、その間に市も新しい船に替えたりして今日に至っている。
 今年七月に行われた日本共産党第二十回党大会は、今の時期にこそー九六〇年代終わりから七〇年代前半の革新の高揚を再現することを決定した。私にとってはこの千本松渡船存続の大衆闘争に参加したことが、その時期に重なるものであり、私のその後の候補者活動のスタ—卜にもなっている。
(ー九九四・一一)

今昔木津川物語(011)

西成・住之江歴史の海路シリ—ズ(一)

◎高灯籠《たかどうろう》(日本最古の灯台)(浜口西一)

 住吉大社がある上町台地は、前方後円墳《ぜんぽうこうえんふん》の帝塚山《てづかやま》、茶臼《ちゃうす》山、勝山古墳《かつやまこふん》などがあるところで、難波京《なにわのきょう》のおかれていたところでもある。

上町台地《うえまちだいち》は大阪|文化発祥《ぶんかはっしょう》の地《ち》

 熊野詣で知られる熊野街道が、台地の西端で南北に伸びており、それに沿って高津《たかつ》神社、生国魂《いくたま》神社、四天王寺《してんのうじ》、住吉大社があり、中世《ちゅうせい》の石山寺《いしやまでら》、近世《きんせ》の大坂城もこの台地に存在した。
 上町台地は、南北十二キロ、東西二・五キロの細長い台地で、法円坂《ほうえんざか》付近《ふきん》が二十ーメートルと最《もっと》も高く、住吉では十メー卜ルほどになる。この台地とほぼ並行《へいこう》して南へ伸び、大和川を越えて堺市の三国《みくに》ケ丘へ続いて、我孫子《あびこ》台地(平均十メートル)があり、古代《こだい》は共に深い森林《しんりん》の中であった。

住吉細江《すみよしほそえ》や墨江津《すみのえづ》

 上町台地と我孫子台地の間のくぽ地を流れるのが細江川(細井川ともいう)でその川下は大阪|湾《わん》からの入江になっていて、住吉細江と呼ばれた。
 この奥《おく》に日韓《にっかん》交易《こうえき》の港《みなと》として、北の難波津とともに古代大阪の要津《ようづ》となった墨江津があり、遣唐使船《けんとうしせん》も住吉神社に祈祷《きとう》してここから発着《はっちゃく》した。交易品《こうえきひん》は長尾《ながお》街道を通って奈良の都に運ばれたが、港でも市が開かれて住吉の繁栄《はんえい》を築いたという。港《みなと》を支配していたのが地元の豪族《ごうぞく》津守氏、子孫は明治時代まで住吉大社の神主となった。

天下の絶景《ぜっけい》あられ松原《まつばら》

 住吉細江の入口は北が長狭浦《ながおうら》、南が霰《あられ》松原で、幅約百メートルの水路が五百メートルほど東へ割《わ》り込み、松林と丘に囲《かこ》まれた良港だったといわれている。
 沖は住吉津、出見浜《でみのはま》、敷津浦《しきつうら》などと呼ばれる青い海で、難波の八十島《やそじま》が波に見え隠《かく》れし、その間を白い帆《ほ》を上げた船が往《ゆ》き来《き》し、白砂青松《はくしゃせいしょう》の浜辺《はまべ》が南北に果《は》てしなく伸びていた。この景観《けいかん》は昔から和歌に多く読まれているが、戦前にも、戦後は堺泉北《さかいせんぼく》臨海《りんかい》工業|地帯《ちたい》が造成《ぞうせい》されるまでの間、海水浴や潮干狩《しおひが》りで堺の白砂青松の浜辺を知っている者として、その万分の一位は見当《けんとう》がつく。
 海岸線はほぼいまの阪堺線《はんかいせん》あたりとみてよいとすると、紀州街道と重なって想像《そうぞう》できるわけだが、古代で考えれば、矢張《やは》り西成-住之江のつながりは「歴史の海路」となるのではないだろうか。

高灯籠は漁民《ぎょみん》が献灯《けんとう》

 鎌倉《かまくら》時代|末期《まっき》に建てられた住吉の高灯籠は、いまの阪神高速《はんしんこうそく》道路の近く、かつての十三間堀川《じゅうさんげんぼりがわ》の畔《ほとり》にあったわけだから、約八百年の間に自然《しぜん》の力で、陸地化《りくちか》が西へ約六、七百メートルすすんだことになる。
 高灯籠は住吉津の漁民らが、住吉大社への献灯《けんとう》と航海安全《こうかいあんぜん》を祈って住吉の浜に建てたといわれている。高さが石積《いしづ》みを含めて十六メートルもあり、日本|最初《さいしょ》の灯台《とうだい》であった。

今昔木津川物語(010)

西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(五)

住吉大社《すみよしたいしゃ》

 住吉大社は不思議《ふしぎ》な神社である。「別格|官幣《かんぺい》大社」という評価《ひょうか》をもらっておきながら、権威を押しつけるような雰囲気はあまり感じさせない。初詣《はつもうで》や夏祭りでの雑踏《ざっとう》が庶民的《しょみんてき》な「すみよっさん」のイメージを定着させたということもあるのか。

住吉津の地主神

 さて住吉大社の祭神《さいしん》は底筒之男《そこづつのお》・中筒之男《なかづつのお》・表筒之男《うわづつのお》の三|神《しん》と神功皇后《じんぐうこうごう》の四|柱《はしら》であり、住吉|大神《おおかみ》というときは筒之男《つつのお》三柱の総称である。
 住吉三神はすべてに「筒男《つつのお》」がつくことから、住吉|津《つ》(港)の地主神《とこぬしのかみ》を意味するものと解釈されている。古代《》こだいに住吉神社と称されるものは、摂津《せっつ》・播磨《はりま》・長門《ながと》・筑前《ちくぜん》・壱岐《いき》・対馬《つしま》・陸奥《むつ》の七ヶ国にある。これは難波《なにわ》から朝鮮半島《ちょうせんはんとう》への海上の道に沿ったものであり、事実、遣唐使《けんとうし》が派遣《はけん》されるときには、その船に、主神《しゅしん》とよばれる摂津の住吉神社の神職《しんしょく》が乗船《じょうせん》するのが例《れい》であり、津守氏《つもりし》が任命《にんめい》されることになっていた。このようにみれば、住吉神社は海上交通を守る神とともに、古代国家の対外政策《たいがいせいさく》と密接に結びついた、軍神という側面も持っていたことになる。

津守氏《つもりし》からも歌人《かじん》が輩出《はいしゅつ》

 「遣唐使が停止《ていし》され、難波津《なにわづ》の整備がすすみ、 住吉津が衰退《すいたい》し、平安京《へいあんきょう》遷都《せんと》が行われると、徐々に住吉大神に対する信仰《しんこう》の変化《へんか》がみられ、九世紀中頃には朝廷《ちょうてい》から祈雨《きう》・止雨奉幣《とめうほうへい》の派遣が始まり、後には豊饒祈願《ほうじょうきがん》も併せ行われるようになった。また、王侯《おうこう》・貴族《きぞく》が住吉大社|参詣《さんけい》のとき、広々とした海浜《かいひん》の白砂青松《はくしゃせいしょう》を目《ま》の当《あ》たりにして感動《かんどう》し、その気持ちを歌に託《たく》し競《きそ》いあい、住吉大社に奉納《ほうのう》する習慣《しゅうかん》が生まれるなど和歌《わか》の神として崇敬《すうけい》された。後には和歌だけではなく、社頭《しゃとう》で和歌《わか》・俳句《はいく》も行われ連歌では宗祇《そうぎ》が津守氏の主催《しゅさい》で行った百韻《ひゃくいん》や、 貞亨《じょうきょう》元年《がんねん》(一六八四)井原西鶴《いはらさいかく》が社頭で行った一昼夜ぶっ続けで二万三千五百|句《く》を詠んだ『大矢数俳諧』は有名である」(住吉区史)
 住吉神社|神主《かんぬし》津守氏は住吉神社及び住吉地方に、歴代《れきだい》にわたって密接な関係を持ってきた。住吉の津《つ》を守ることから津守という名になったわけだが、十六代目は神主として船に乗り帰国《きこく》できなかったとの記録《きろく》もある。三十九代|国基《くにもと》は和歌の名人であり、当時の権力者たちと和歌の贈答《ぞうとう》で懇意《こんい》となり、息子達を次々と要職《ようしょく》につけている。

南朝《なんちょう》の行宮《あんぐう》や徳川家康《とうがわいえやす》の本陣が

 南北朝《なんぼくちょう》の対立では津守氏は南朝方に結びつき、後《ご》村上天皇は住吉神社を行宮とし八年後に住吉行宮で没《ぼつ》した。
 戦国《せんごく》時代の争乱《そうらん》では摂津《せっつ》守護職《しゅごしょく》であった細川《ほそかわ》氏の内紛《ないふん》から、住吉も戦地となり以後石山合戦の終結《しゅうけつ》までの約七十年間衰退荒廃《すいたいこうはい》するしかなかった。特に住吉は南の堺と北の天王寺の間に位置し、兵を移動する絶好《ぜっこう》の場所にあることから、いやおうなく被害《ひがい》を被ることになった。
 その後も、大坂《おおさか》冬《ふゆ》の陣《じん》では家康は住吉神社神主津守氏の館《やかた》に入って本陣を置《お》いた。大坂城|攻撃《こうげき》の重要拠点《じゅうようきょてん》とみなされたのである。
 徳川時代は政治も関東《かんとう》に移り、住吉は農業《のうぎょう》を営《いとな》む寒村《かんそん》になってしまう。大坂からの住吉詣をする人で賑わうのみであった。明治政府は神官《しんかん》や神職《しんしょく》の世襲《せしゅう》を廃止《はいし》し、神社の神主である津守国美も免職《めんしょく》され、改めて少宮司《しょうぐうじ》に任命《にんめい》されている。
 住吉大社の変遷《へんせん》をみてみれば、時々《とくどき》の権力《けんりょく》の意向《いこう》に振《ふ》り回《まわ》されながら、何《なん》とか企業努力《きぎょうどりょく》で生き延《の》びようとする、地場産業《じばさんぎょう》を守る中小企業のようで、そこにどことなく親しみを感じさせるものがあるのではないだろうか。
 私にとっては、戦時中《せんじちゅう》は第一|本宮《ほんぐう》の前でラジオ体操《たいそう》を、戦後《せんご》は太鼓橋《たいこばし》の下はプールがわり。青年運動では正月や祭りに露店《ろてん》を出して資金《しきん》稼《かせ》ぎ、平和運動をもりあげるための参道《さんどう》での署名《しょめい》とカンパ。子供を、連《つ》れての散歩《さんぽ》。そして今は郷土史《きょうどし》めぐり、と本当にお世話《せわ》になっている。「すみよっさん」これからもたのんまっせ、と手を合わせる次第《しだい》である。

今昔西成百景(014)

◎梅雨入り

 五月雨が降っている。梅雨の入りももうすぐである。この頃になると、かって南津守四丁目、今の商店街の南側にあった、ドブ川の上につくられた飲食街のことをふと思いだす。
 昭和三十年前後、私は十九オ、木津川筋の造船所で社外工として働いていた。そして、無権利な状態にあった社外工の労働組合をつくるために同志達と連絡をとり合っていた。まるで小林多喜二の「工場細胞」や、徳永直の「太陽のない街」の世界である。
 ホルモン屋の焼きめしは、肉のかわりにホルモンが入っていて、独特の味でおいしいかった。豚足を売る店が何軒かあったが、脂だらけの柔らかいのと、石けんのように固いのがあって塩を付けてたべた。雨がはげしくなると雨漏りがして、ドブロクのびんをぬらしていた。飲み屋の裏に卓球場があって、昼休みにやったこともある。

なぜか造船所での思い出は雨と夜勤

 当時名村造船所では、雨がはげしくなると、創業者の社長がステッキを持って現場を見廻りに出てきた。赤線を何本もいれた、大きなヘルメットをかぶっていた。職制が率先してとび出し、大きな八ンマーで鉄板をたたいたりした。しかし、船台のかげから出ようとしない労働者もいた。
 労組結成の早朝、下請け会社の社長の郷里から集団就職してきていた十数人の少年達が準備会からの脱会を申し入れてきた。「四国には仕事がなくて……。許して下さい」と小さな頭を下げた。
 私はビラの束をドブ川に沈めて、雨の中を自転車をとばして出勤した。事務所の名札はすでにはずされていた。
 今はドブ川飲食街も立ち退き跡地は道路となり、造船所も他県に移転してしまった。
 西成区には大きな下水処理場はあるのに、路地に入れば市の下水管が入っておらずに、集中的な大雨や梅雨にあふれたり、つまったりするところがけっこう多い。簡単な手続きで、市が無料で立派な下水施設をしてくれ、跡はきれいに舗装もしてくれる。私はいつもこのことを強調しているので、梅雨になればあちこちから相談が入る。そんな中にかっての社外エ仲間もいて、旧交をあたためあうこともある。
(ー九九四・五)

今昔西成百景(013)

◎玉出

 玉出西一丁目元外科医院の跡地にパチンコ店の建設が計画されているが、地元の町会や PTA はあげて反対し署名連動などを行なっている。要望書には「この計画の周囲一帯の玉出地区では、従来から地域の住民の努力により閑静な住宅環境が維持されてきたところです。なかでも、パチンコ店が計画されている敷地の北側は”ゆずりはの道”として整備されており、またスク—ルゾ—ンとしても近隣の児童・生徒の通学路としての通行の安全が確保されるべき付近の住環境上枢要な場所であります」とかかれている。
 反対の会の人は、玉出には別の場所にも数軒のパチンコ店が営業されようとしており、このままいけば玉出は「パチンコの街」になりかねないと話す。
 西成税務署が発表した平成五年度区内高額納税者ベストニ〇中、パチンコ業者は四名。この深刻な不況の中でなぜパチンコ屋だけがもうかるのか。残業なし、仕事なしの人達が、”一発逆転”をねらうのと、女性客の増大が原因であろうが、資金面では店の中で利用者のためにローンの斡旋までやられているとの話もある。これで「健全娯楽」のはずがない。

当局と業界のマッチポンプ

 パチンコ店急増のうらには、当局による「規制緩和」があるのではないか。かって府警のトバクゲ—ム機汚職が発生したとき、府議会で追求すべく資料を調べて驚いたことがあった。パチンコ業界の組合の幹部になんと多くの府警幹部の OB が天下っているかということである。しかも今回の問題の場所への出店計画者は、警備会社だという。これも府警との結びつきの強い業界である。府警をゆるがしたトバクゲ—ム機汚職から十年、「歴史はくりかえす」でなければよいがと思う。
 玉出地区は道路も広く、公園も整備されているのは、戦後、戦災復興土地区画整理事業を行なったからであり、多くの住民の努力の賜物なのである。
 伝説によれば、海神の娘豊玉姫に恋人ができたことを祝って、海神から贈られた宝珠を埋めた場所から「玉出」の由来がきているとあるが、はっきりしているのは勝間村にあった生根神社の字が玉出であったことによるものである。決して後世のパチンコ業界繁栄のためにネ—ミングしたものではないことを付言しておく。

(ー九九四・八)