西成・住之江の海路シリーズ(ニ)
◎「新田《しんでん》」と小作争議《こさくそうぎ》
西成区の西部《せいぶ》と住之江区の東部《とうぶ》を南北に走《はし》っている阪神高速道路の下は、三十年前までは十三間堀川という、ドブ川が流《なが》れていた。
いや正確に云えばドブ川を埋《う》め立てて、大阪|万博《ばんぱく》に間に合わせるために、突貫工事《とっかんこうじ》で道路《どうろ》をつくった、ということになるのだろう。だから年がら年中この区間《くかん》では補修工事《ほしゅうこうじ》を行っている。
十三間堀川づくりと津守新田づくりは同時出発《どうじしゅっぱつ》
この十三間堀川は元禄《げんろく》十一年(一六九八)に、木津川の水を引き入れて用水《ようすい》と作物《さくもつ》を運《はこ》ぶために、地主達《じぬしたち》が金を出しあい今の粉浜《こはま》までつくられた。掘《ほ》り出された土は津守新田づくりに使《つか》われた。明治の初年頃までは両岸に松の並木《なみき》、楊柳《ようりゅう》などがあり水もきれいで、すこぶる風情《ふぜい》にとんだと云われ、住吉詣でのため道頓掘《どうとんぼり》川より水路《すいろ》楼船《ろうせん》を浮かべてくる人も多かったという。
幕末《ばくまつ》には天誅組《てんちゅうぎみ》の中山大納言《なかやまだいなごん》一行《いっこう》が、剣先船《けんざきぶね》にて十三間堀川を南加賀屋《みなみかがや》の桜井《さくらい》会所《かいしょ》まできて御用金を申《もう》しつけ、翌日《よくじつ》船で大和川を遡《のぼ》ったとの話が残っている。
新田づくりは幕府の「ドル箱」
十三間堀川から東の地域については江戸時代以前に開発されていて、本田《ほんでん》または古田《こでん》といわれるのに対し江戸時代|以降《いこう》の開発《かいはつ》は新田《しんでん》と云われた。
このような新田は、大和川・木津川・尻無《しりなし》川・安治《あじ》川等の河口《かこう》、三角州《さんかくす》地帯《ちたい》に反別《たんべつ》約二千|余町歩《よちょうぶ》(六百万坪)地高《じだか》ー万五千|石《ごく》に達《たっ》し総称《そうしょう》して摂津川口《せっつかわぐち》新田と云われた。中でも元禄時代には市岡《いちおか》新田・泉尾《いずお》新田・春日出《かすかで》新田・津守《つもり》新田などの大新田が開発された。この期《き》につづいて北島新田・加賀屋新田が生まれた。
江戸時代中期以後その商業|資本《しほん》を著《いちじる》しく蓄積《ちくせき》した町人達《ちょうにんたち》が、地代《ちだい》による長期《ちょうき》の利益《りえき》を目的として新田づくりに力を入れだした。これらの土地はいずれも幕府の直轄地《ちょっかつち》であったので、他の土地のように庄屋《しょうや》・年寄《としより》・百姓代《ひゃくしょうだい》というような三役はなく、庄屋事務は地主の任命《にんめい》する新田支配人がこれを行い、その事務所を会所《かいしょ》といい新田地主はあたかも領主のような権力を有した。
地主《じぬし》は殿様《とのさま》
「津守新田地主|白山《しらやま》氏の支配所を村民《そんみん》は代官《だいかん》役所《やくしょ》と称《とな》え、あるいは小作人《こさくにん》は決して門構《もんがま》えの家作《かさく》はせず、また白山氏が代々《だいだい》『善《ぜん》』の字《じ》を用いたところから新田の住民は決してこの字を用いず、他所《たしょ》より移住《いじゅう》したものに善の字あれば必ず改名《かいめい》した。また加賀屋《かがや》新田でも桜井氏の門前《もんぜん》の道路を通《とお》る時、高下駄《たかげた》をはいておればその音が桜井氏の奥座敷《おくざしき》に聞こえ安眠《あんみん》を妨《さまた》げるというので、門前の道はわざわざ下駄をぬいではだしで通つた」という、古老《ころう》の話が伝えられていた位《くらい》である。
温情関係《おんじょうかんけい》を破《やぶ》って土地分割《とちぶんかつ》を要求《ようきゅう》
しかし一方、元来《がんらい》新田については地主は堤防のみを築き、後の土地改良《とちかいりょう》や施設《しせつ》は小作人が行うものであった。そのため新田|開発者《かいはつしゃ》は所有権者《しょゆうけんしゃ》となり、労務提供者《ろうむていきょうしゃ》は永小作人《えいこさくしゃ》なる形式《けいしき》のもとに時代を経《へ》るにつれて小作人の勢力《せいりょく》が強まってきた。ことに市域《しいき》の拡大と農地《のうち》の転用、地価《ちか》の暴騰《ぼうとう》などをめぐって地主と小作人の利害は激《はげ》しく対立《たいりつ》することとなつた。
「大正十四年に東成郡《ひがしなりぐん》敷津村《しきつむら》(現住之江区)に永住する小作人約二百人は、地主に対し土地の分割を要求《ようきゅう》し、約一年にわたって時に険悪《けんあく》な雲行《くもゆ》きを見せて争った。小作人|側《がわ》はいくたびか大挙《たいきょ》して地主の桜井家(旧加賀屋家)へ押し寄せ、直談判《じかだんばん》に及んだ。桜井家は『この地は祖先《そせん》開発のもので小作人等の要求には応じかねる。しかし永小作権を金で買取ろう』と返答《へんとう》したが、小作人等も『我々その祖先も同じく血《ち》と汗《あせ》とで開発した土地を、いくら昔は主従関係《しゅじゅうかんけい》とはいえ、金銭《きんせん》で買取られるなど祖先の位牌《いはい》に対して申し訳ない。ぜひ土地そのものを要求する』と出た」と当時の新聞は報じている。