今昔西成百景(021)

◎弘治——伊藤村長父子の義侠

 弘治小学校の校名の由来を調べてみた。西成区内に十四の小学校があるが、いずれも地名を冠した名前の学校であり、弘治小学校だけがそうでないのを不思議に思ったからである。

朝役・神役の故事

 その結果、それは弘治小学校の地元である旧今宮村の歴史に深く関係しているということが判明した。旧今宮村には、永く村人が誇りとしている朝役・神役の故事があった。すなわち朝役とは朝廷に日々の魚を奉る役で、この起源は平安初期にまでさかのぼることができるという。天正の頃より戦乱のため中絶したが江戸時代に毎年の正月の行事として復活し、明治維新後まで行なわれていた。
 神役とは、毎年六月の祇園會に今宮村から人数百十六人が上洛し神輿駕輿丁を奉仕するものである。かかる奉仕に対し朝廷が課役免除の恩典を与えた。その年(一五五八年)の年号が弘治でそれを冠して、弘治小学校となったのである。しかし同校はもともと今宮第一尋常小学校という由緒ある名前がついていたのである。それを昭和十六年にわざわざ変えたということはやはり、当時の国策に影響されたものであったのではないか。

守られなかった恩恵

 ところが、朝廷の恩典はあくまでも紙の上でのことであり、実際は豊臣・徳川の世となっても、課役免除の実施は一向にされなかった。朝役は正月のみになったとはいえ、神役はひきつづきおこなわれており、そのために村は多大の費用を要したのである。

二百年目の勇気

 天明(一七八九年)の頃、当時の村長伊藤勝右衛門はこの恩典のまったく実施されていないのに憤慨し、代官を経由し幕府に約束を守るよう請願、大いに奔走したがその後病にたおれてしまった。すると今度は隠居していた父の宇内が代わってこのことにあたり、江戸幕府に直接取り調べもされたが、主張をまげずにあくまでも恩典の実施をせまった。その後寛政年間に至り、新代官篠山十兵衛の斡旋により要求の一部が容れられるようになった。寛政八年より村高弐千百五拾余石に対し納高八百六石と定まり、その後明治維新後まで変わりなくつづいた。かりにこれを五民五公として年々弐百七拾彦石六斗三升五合の租を免除されたことになり、これもひとえに伊藤勝右衛門、宇内親子の義侠によるところである。

庶民の歴史から学ぶ

 大正四年編纂された「西成郡史」には、伊藤親子のことが誇らしげにかいてあるのに、昭和四十年編纂の「西成区史」にはまったくふれられず、課役免除の恩典が続けられていたようなかきかたで歴史をゆがめている。こんな気骨のある先人のたたかいをなぜまっさつしようとするのか。行政の立場からおしきせの歴史を押しつけることはおことわりである。

今昔西成百景(020)

◎木津川筋造船所

 「鬼の佐野安、地獄の名村、情け知らずの藤永田」と、今で云う三K(きつい・きたない・きけん)の典型であるような、木津川筋各造船所の職場の実態を、労働者達は永年そう呼んできた。
 昭和四三年刊行の「西成区史」によれば、佐野安船梁株式会社は、明治四四年浪速区木津川一丁目の地に佐野安造船所として佐野川谷安太郎の個人経営で創業。大正五年木津川三丁目に移転し、同ー二年西成区南津守にあった千本松船梁鉄工所を買収し翌年一月移転、昭和一五年六月現社名となった。敷地九三七六六平方米を有し、新船の建造並びに改造を行っている。従業員数一二三七人。
 西成区には属さないが隣接するものとしては株式会社藤永田造船所と株式会社名村造船所があり、藤永田は三六七〇〇〇平方米におよぶ工場敷地と、ニー九〇人の従業員をもち、元禄二年(一六八九)兵庫屋の屋号をもって大阪市北区船大工町の地に創業したという歴史をもつている。また名村造船は明治四五年三月大正区難波島の地に創業、現在は九二〇〇〇平方米の敷地とー〇〇〇余名の従業員をもっとある。
 特に佐野安と名村は共に強烈な個性をもつ創業者の個人経営にも等しい同族会社として、封建的な労使関係が戦後も温存されてきており「鬼」・「地獄」と云われていたのであろう。藤永田は戦時中は軍艦を造っており、海軍の秘密工場であった。

わが青春の日

 一九五五年四月、私は「地獄」の臨時工として働いていた。旨くいけば六ヶ月後には本工に成れる可能性もあり、それを楽しみに、毎日葦原の中に出来た工場の正門までの一直線の道を、自転車を飛ばしていた。昭和三〇年、戦後一〇年目にして巡ってきた造船ブ—ムであった。
 当時は大変な就職難で、私が堺商高を卒業するとき友人が福助足袋に入社したので、大変羨ましく感じたことを今でもよく覚えている。
 しかし、名村は矢張り「地獄」であった。まず驚いたことは、労働災害の多いことである。転落、爆発と毎週のように専属の病院へ運ばれていった。死亡事故も川筋では毎月のように発生し、みんな不安な気持ちで働いていたが、犠牲者のほとんどが臨時エ・社外工で、原因や対策等についてもいつもうやむやにされていた。会社の幹部が役員をしている名村の労働組合などはたまに朝礼で「黙祷」をやる位であった。
 名村では噂の通り、社長が毎日ステッキを持って工場内を見まわった。彼が少しでも労働者が怠けていると感じたら、容赦なくステッキが飛んだ。いくらヘルメットの上からだといっても痛いし、しかもお付きの部課長等の目前のことである。今ならこんな奴隸扱いは人権問題になるところである。雨になると必ず社長は動きはじめた。当時の造船所の仕事は殆ど野外でするので、雨がひどくなれば労働者も適当に雨宿りする。それを追い出しに社長は飛び出すのだ。部課長は現場に先回りをして、労働者を脅したりすかしたりして仕事につくよう指示する。それでも「そんな危険なことはさせられん」とうごかない本工もいたが、ほとんどは雨のなかを臨時エ・社外工を追い立てていった。

最初の職場でクビ切り

 その年のー〇月に、私は本工になれるどころか、契約期間の満了を通告され解雇されてしまった。私は名村に入る直前に地域で日本共産党に入党し八月には、広島で開催された第一回原水爆禁止世界大会に地域の代表として参加していた。その報告集会のポスタ—に小さく名前が出たのを、どうやら知られたらしい。
 年末を目前にして、私は友人の紹介で藤永田造船所内の桂組という下請けの会社に入り社外工となった。桂組では賃金の半分以上をピンハネし、その上残業や休日出勤の割り増しも無かった。社長の郷里から中卒の少年を数十人連れてきて、寮に住まわせこき使っていた。社長は自称右翼の大物で、相撲取りの様な大男であった。私と友人はこんな無権利な状態を無くすためには、社外工の組合を結成してたたかう以外にないと、少年達も巻き込んで慎重に準備を進めていった。ところがいよいよ旗揚げする前日になって、年配の準備委員の中より「事前に本工の組合に連絡しておき、まさかの時に援助してもらおう」との意見が出されてきた。私はそれでは会社に筒抜けになる、と反対したが、大勢は不安感からそうなってしまった。本工の組合では役員が私達からねほりはほり聞き出した。桂組の社長はその夜寮に乗り込み、少年達全員に準備会からの脱退を約束させ、始末書を取った。

労働組合づくりに失敗

 当日、私だけが離れた現場へ行かされ、昼休みに急いでハウスに帰ると、すでに社長が皆を集めて大演説中。今後は労基法どうりにするから、皆の待遇も良くなる。その代わり労組はつくるな。赤旗が立てば会社ごと藤永田からほりだされてしまう。「アメとムチ」の戦術で攻め、最後は「アカのオルグに騙されてはいけない」のデマ宣伝だった。
 最後に社長と対面した私に、「右翼の大物である俺をきりきり舞いさせたんだから君も満足だろう」と、ーケ月分の予告手当てを付けて解雇を宣言した。理由は名村での職歴が書いていなかったのは、履歴詐称だとのことであった。私は、労働者の要求がほぼ入れられたこと、仲間一人を残せたことで今後に希望をつないで、ひとまず退いた。
 私はその後約ーヶ月間、関電多奈川火カ発電所の建設現場に潜り込み、飯場生活をしながら電気溶接技術の特訓を受け、再び木津川筋に戻りそのまま佐野安船梁内の岩田工業に入社した。佐野安の労組は中立系で、名村や藤永田程の「御用」ではなかったが、それでも矢張り本工中心には変わりはなかった。
 その頃から党の「社外エ対策会議」に私も出席するようになり、下請けの場合は一社だけではかなりむつかしいということや、権利意識の大量宣伝や日常的な相談活動による、川筋規模での活動家の結集が必要だと討論された。木津川社外エ労働組合は数年後に結成された。

やさしかった現場労働者

 二三才で党の専従者になるまでのわずか数年間の経験で、私は木津川筋の造船労働者の中で多くのことをまなんだ。団結の素晴らしさとむつかしさ。都市と農村。大企業と中小企業。右翼や自民党・民社党・社会党の実態。御用組合の役割。そして何よりも、社外エ・臨時工という最も下積みな労働者の中で、最も献身的に活動しているのが日本共産党であり、私自身がその一員として頑張っているという実感。私の党活動の原点はやはりここにある。
 今、木津川筋造船所群のかつての姿はない。代わりに数百の中小企業からなる企業団地が出現している。しかも民主的な運動から実現したものであり、私も微カながら協力させてもらったことは誇りである。

今昔木津川物語(013)

西成・住之江歴史の海路シリーズ(三)

◎大和川

 大和川は巨大な運河《うんが》である。住吉区と住之江区の南を東西に流れ、大阪湾に注ぎ込む大和川は、元禄《げんろく》十七年(一七〇五)に旧大和川を氾濫《はんらん》から守るために、八カ月を費《つい》やして人工的につくりあげられた川である。
 大和川は水源を奈良県|笠置《かさぎ》山地に発し、大和盆地の水を集めて西流、生駒山地を横切って大阪府に入り柏原市で石川と合流、ここから旧大和川は西北に流れ久宝寺《きゅうほうじ》川と玉串《たまぐし》川に分流し、玉串川はさらに菱江《ひしえ》川・吉田川に分かれ、吉田川は北流して深野、新開の二大池に通じ、さらに西に転じて久宝寺川とめぐりあい、大阪城の東で平野川の水を合わせて、淀川に流入していた。

水害で人々を苦しめた

 このように水系が複雑であったうえ、この河内の地域一帯はもともと土地が低く、流路《りゅうろ》についても屈折《くっせつ》が多く、水勢《すいせい》も緩慢《かんまん》なため土砂が堆積《たいせき》してだんだん河底が高くなり、これがために河内一帯に水害がしばしば起こって人々を苦しめた。
 延暦《えんりゃく》七年(七八八)すでに当時摂津《せっつ》職太夫《しきのかみ》であった和気清磨《わけのきよまろ》は、いまの天王寺の河堀口《こぼれぐち》から茶臼山河底池にかけて川を掘り、大和川の水を直接西に切り落とそうとしたが、工事は成功をみなかった。いま河堀口とか堀越とか地名が残っているのはその名残である。

中甚兵衛らの熱意が実をむすぶ

 江戸時代に入っても水害は頻繁《ひんぱん》に起こり、元和《げんわ》から元禄《げんろく》に至る六十余年間に十数回に及ぶ災害が数えられる。そこで今米村(元河内市,現東大阪市)の川中九兵衛は芝村(元枚岡市・現東大阪市)の乙川三郎兵衛と深く地形を研究して、柏原より西に流し直ちに海に入るよう、大和川付け替えの急務を唱《とな》えて幕府に訴えた。しかしこれには新川|開鑿《かいさく》の地形にあたる諸村が大いに反対し、訴願《そがん》合戦が繰り広げられた。九兵衛死没後はその子大兵衛・甚兵衛らが父の志をついで四十年間、東奔西走《とうほんせいそう》このことにあたった。大和川の付け替えに最終結論をあたえたのが二度の来阪をした河村|瑞賢《ずいけん》で、当時瑞賢は八十才、元禄十二年江戸に帰って付け替えを見ず他界《たかい》している。
 十三間堀川も元禄十一年(一六九八)河村端賢によって掘られており、当時も大型開発事業がめじろおしであったようだが、現代のような政《せい》・財《ざい》・官《かん》の癒着《ゆちゃく》による汚職《おしょく》の構造《こうぞう》はなかったのかどうか思いやられる。

なぞのスピード工事完成

 新大和川の工事は元禄十七年二月から開始され、長さ七千九百二十間(約十四・四キロ)幅百間(約百八十二メートル)の大規模なものであったが、延べ二百四十五万人を動員、七万両を投入して、付帯工事を含めて工期八カ月というスピードで同年十月完成。大和川の水はここに初めて住吉浦に通じた。普請奉行《ふしんぶぎょう》には目付大久保忠香や幕府への具申《ぐしん》で貢献《こうけん》のあった大阪代官万年長十郎、それに姫路・三田《さんだ》・明石・丹波《たんば》・岸和田・大和|高取《たかとり》の諸藩に助役が命じられた。
 二年前には赤穂浪士《あこうろうし》の討ち入りがあり、幕府は四十七士全員に切腹《せっぷく》という極刑《きょっけい》でのぞみ、「生類憐《せいるいあわれみ》の令」を出し「犬公方《いぬくぼう》」と呼ばれていた綱吉《つなよし》への不満に弾圧路線で反撃に出た。赤穂藩|隣接《りんせつ》の諸藩に助役を命じ、幕府への忠誠《ちゅうせい》を競《きそ》わせ、あわせて藩の財政を衰《おとろ》えさせたのではないか。
 工事は決して容易《ようい》なものではなく、和気清磨の失敗例もあり、特に固い岩盤《がんばん》がつづく我孫子《あびこ》台地の浅香《あさか》山|丘陵《きゅうりょう》の掘削《くっさく》が課題であったという。真っすぐ西へ掘らずに、斜めに西南へ掘り入り、斜めに西北へ掘り抜ける工法で掘削に成功した。今、杉本町から遠里小野町にかけて大きく湾曲《わんきょく》した川筋が、その工事の跡を示している。

大阪、堺両市の境界線となる

 かつては霞《あられ》松原まで浅香山丘陵の大松林が延びていたが、新川の築堤《ちくてい》土砂用に丘が切り崩《くず》され、この付近の地形は大幅に変わった。
 この付け替えによって分断された紀州街道に宝永元年(一七〇四)九月、長さ百間(約百八十二メ —トル)の大和橋がかけられた。
 一方、この川は大阪と堺の間を両断し、堺の北半分を社領としていた住吉大社と堺の関係を疎遠《そえん》にした。多くの町村が川の両岸に引き裂かれたが、その状態のまま明治になってこの川が大阪、堺両市の境界線と確定する。

編者注】
 大和川付け替えを契機として、木津川河口での新田開発や河内地方での木綿の生産など、日本の資本主義の成立にとって、「資本の本源的蓄積」の諸過程が進行していったことは、大変興味深く感じる。

今昔木津川物語(012)

西成・住之江の海路シリーズ(ニ)

◎「新田《しんでん》」と小作争議《こさくそうぎ》

 西成区の西部《せいぶ》と住之江区の東部《とうぶ》を南北に走《はし》っている阪神高速道路の下は、三十年前までは十三間堀川という、ドブ川が流《なが》れていた。
 いや正確に云えばドブ川を埋《う》め立てて、大阪|万博《ばんぱく》に間に合わせるために、突貫工事《とっかんこうじ》で道路《どうろ》をつくった、ということになるのだろう。だから年がら年中この区間《くかん》では補修工事《ほしゅうこうじ》を行っている。

十三間堀川づくりと津守新田づくりは同時出発《どうじしゅっぱつ》

 この十三間堀川は元禄《げんろく》十一年(一六九八)に、木津川の水を引き入れて用水《ようすい》と作物《さくもつ》を運《はこ》ぶために、地主達《じぬしたち》が金を出しあい今の粉浜《こはま》までつくられた。掘《ほ》り出された土は津守新田づくりに使《つか》われた。明治の初年頃までは両岸に松の並木《なみき》、楊柳《ようりゅう》などがあり水もきれいで、すこぶる風情《ふぜい》にとんだと云われ、住吉詣でのため道頓掘《どうとんぼり》川より水路《すいろ》楼船《ろうせん》を浮かべてくる人も多かったという。
 幕末《ばくまつ》には天誅組《てんちゅうぎみ》の中山大納言《なかやまだいなごん》一行《いっこう》が、剣先船《けんざきぶね》にて十三間堀川を南加賀屋《みなみかがや》の桜井《さくらい》会所《かいしょ》まできて御用金を申《もう》しつけ、翌日《よくじつ》船で大和川を遡《のぼ》ったとの話が残っている。

新田づくりは幕府の「ドル箱」

 十三間堀川から東の地域については江戸時代以前に開発されていて、本田《ほんでん》または古田《こでん》といわれるのに対し江戸時代|以降《いこう》の開発《かいはつ》は新田《しんでん》と云われた。
 このような新田は、大和川・木津川・尻無《しりなし》川・安治《あじ》川等の河口《かこう》、三角州《さんかくす》地帯《ちたい》に反別《たんべつ》約二千|余町歩《よちょうぶ》(六百万坪)地高《じだか》ー万五千|石《ごく》に達《たっ》し総称《そうしょう》して摂津川口《せっつかわぐち》新田と云われた。中でも元禄時代には市岡《いちおか》新田・泉尾《いずお》新田・春日出《かすかで》新田・津守《つもり》新田などの大新田が開発された。この期《き》につづいて北島新田・加賀屋新田が生まれた。
 江戸時代中期以後その商業|資本《しほん》を著《いちじる》しく蓄積《ちくせき》した町人達《ちょうにんたち》が、地代《ちだい》による長期《ちょうき》の利益《りえき》を目的として新田づくりに力を入れだした。これらの土地はいずれも幕府の直轄地《ちょっかつち》であったので、他の土地のように庄屋《しょうや》・年寄《としより》・百姓代《ひゃくしょうだい》というような三役はなく、庄屋事務は地主の任命《にんめい》する新田支配人がこれを行い、その事務所を会所《かいしょ》といい新田地主はあたかも領主のような権力を有した。

地主《じぬし》は殿様《とのさま》

 「津守新田地主|白山《しらやま》氏の支配所を村民《そんみん》は代官《だいかん》役所《やくしょ》と称《とな》え、あるいは小作人《こさくにん》は決して門構《もんがま》えの家作《かさく》はせず、また白山氏が代々《だいだい》『善《ぜん》』の字《じ》を用いたところから新田の住民は決してこの字を用いず、他所《たしょ》より移住《いじゅう》したものに善の字あれば必ず改名《かいめい》した。また加賀屋《かがや》新田でも桜井氏の門前《もんぜん》の道路を通《とお》る時、高下駄《たかげた》をはいておればその音が桜井氏の奥座敷《おくざしき》に聞こえ安眠《あんみん》を妨《さまた》げるというので、門前の道はわざわざ下駄をぬいではだしで通つた」という、古老《ころう》の話が伝えられていた位《くらい》である。

温情関係《おんじょうかんけい》を破《やぶ》って土地分割《とちぶんかつ》を要求《ようきゅう》

 しかし一方、元来《がんらい》新田については地主は堤防のみを築き、後の土地改良《とちかいりょう》や施設《しせつ》は小作人が行うものであった。そのため新田|開発者《かいはつしゃ》は所有権者《しょゆうけんしゃ》となり、労務提供者《ろうむていきょうしゃ》は永小作人《えいこさくしゃ》なる形式《けいしき》のもとに時代を経《へ》るにつれて小作人の勢力《せいりょく》が強まってきた。ことに市域《しいき》の拡大と農地《のうち》の転用、地価《ちか》の暴騰《ぼうとう》などをめぐって地主と小作人の利害は激《はげ》しく対立《たいりつ》することとなつた。
 「大正十四年に東成郡《ひがしなりぐん》敷津村《しきつむら》(現住之江区)に永住する小作人約二百人は、地主に対し土地の分割を要求《ようきゅう》し、約一年にわたって時に険悪《けんあく》な雲行《くもゆ》きを見せて争った。小作人|側《がわ》はいくたびか大挙《たいきょ》して地主の桜井家(旧加賀屋家)へ押し寄せ、直談判《じかだんばん》に及んだ。桜井家は『この地は祖先《そせん》開発のもので小作人等の要求には応じかねる。しかし永小作権を金で買取ろう』と返答《へんとう》したが、小作人等も『我々その祖先も同じく血《ち》と汗《あせ》とで開発した土地を、いくら昔は主従関係《しゅじゅうかんけい》とはいえ、金銭《きんせん》で買取られるなど祖先の位牌《いはい》に対して申し訳ない。ぜひ土地そのものを要求する』と出た」と当時の新聞は報じている。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第28回・第29回


 少し、大阪の地を離れ、近畿圏で、「史跡巡り」をしてみませんか?題して、『がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記』、大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」に連載されていたのを転載します。今回は、機関紙「みらい」2018年7月と8月の記事です。

◎近江の八幡堀と残影・前編・後編

 JR駅近江八幡駅で降りて、直線コースを2キロ30分歩けば、日牟礼八幡宮《ひむれはちまんぐう》と八幡堀に到着する。その間に、伝統的建造物群保存地区に指定された、近江八幡市立郷土資料館のある新町通りや八幡堀周辺、永原町通りなど十三ヘクタ—ルの、白壁造りの土蔵や見越しの松など往時《おうじ》の繁栄《はんえい》をしのばせる町並みを楽しむことができる。
 さっそく、次郎と友子の会話が始まる。「京都や奈良とはまた違った感じの観光地やね」「近江商人の発祥の地と云われているね」「近江商人といえば『三方よし』の考えで有名な」「商いをする以上売手によし、買手によしとするのは当然であるが、近江商人は共通して『世間よし』の考え方を商いに持込んでいる。社会との交流、社会への貢献がなければ本当の商いとは云えないという理念を前提にしているのだ」「すばらしいことだけど、今の世界の大企業や裕福層には根本的に欠けているものね」「儲けさえすれば手段は問わない。そのためには礼儀や作法、法律さえも踏みにじるという思想が、今や政治の世界まで蔓延してきているから恐ろしい」
 夜空を焦がす古代の炎「左義長《さぎちょう》まつり」は実は昨夜行われており、地元は今日はその後片付けの真最中。もちろん二人はそのことを知らないわけではなかったが、次郎には認知症の兄の介護で、午後四時半にはディサービスからの兄を迎えなければならず、せめて雰囲気残る翌日参拝となったわけ。
「友ちゃん焼跡見物みたいでごめん」「これも話の種、今日はお堀をゆっくりと見て一と、いつもながら友ちやんはやさしい。実はこの有名な八幡堀《はちまんぼり》は、城の内堀としての役割と琵琶湖と城下町をむすぶ運河としての役割をもって開削《かいさく》されたもの。
 しかし、戦後の交通手段の変革により、八幡堀は荒れるがままになった。埋め立てて道路や駐車場にしようという声さえ上がっていた。堀の保全と復活を唱えた青年会議所のスローガンは、「堀を埋めた瞬間から後悔が始まる」であった。昭和四十六年に住民の署名運動が起こされてから実に二十年間の、地元有志の地道な除草奉仕《じょそうほうし》もえんえんと続けられる中、ついに八幡堀はよみがえった。白雲橋《しらくもばし》を中心とした一帯は今や時代劇の恰好の場所となっている。
 「実は今介護している兄はアマチュア画家で、この八幡堀の風景画も何枚か書き残している。『その絵売って』と後から声がかかつたこともある、とは兄の話だが」
「暖かくなったら一度兄さん連れてきてあげたら」「うん、そうするよ」と次郎はうなづいた。「きっとね」「うん」次郎は同時に、かつて城跡にたたずむ悲運の青年武将《せいねんぶしょう》豊臣秀次《とよとみひでつぐ》の残影を見ていた。

今昔西成百景(019)

◎てんのじ村

 「山王地区は暮らしやすい町であったことから、多くの芸人が集まり、『てんのじ村』と呼ばれ、庶民の文化・演芸発展の拠点となっていました。昭和五十二年十一月に記念碑が建てられました」西成区役所発行の「デ—夕—ブックにしなり」にこうかいてある。
 昨年末のある日、今も『てんのじ村』に住む、浪曲の浪花歌笑さんを訪れた。

がんばれ浪花小町

 師は留守だったが愛弟子の浪花小町ちゃんが、礼儀正しく対応してくれたので、思わず「がんばってや」と激励の言葉がとびだした。後日、歌笑さんとお会いした際に、浪花小町の歌手としてのデビュ—も間近いと聞かされた。
 西成には何人かのプロの歌手を目指して頑張っている若者たちがいる。近い将来に、それぞれが大きな花を咲かせてほしいと思う。
 正月三日ののテレビで「人情豊かな下町の風情が残っている庶民的な町・西成」と題しての特集番組があった。芸能に関する内容だった。いま、バブル経済が崩壊し残業が少なくなったり、週休二日制の職場が増えているなかで、地域でのつながりが見直されてきているという。町おこしのために、みんながチエと力を出し合う良いチャンスかもしれない。
 私もひとつ提案をしたいと思う。それは、西成には民謡、日舞、カラオケ、詩吟、沖縄舞踊、演劇などの教室やサ—クルが相当数あり、それぞれ毎週単位で活躍していることである。これこそ町おこしの大変なエネルギ—であり、行政の面でもできるだけの応援をすべきだと思う。ところがこれらの団体が日頃の練習の成果を発表する場が限られている。区民センタ—は申し込みが多く、日曜日に大ホ—ルを使おうとしてもなかなか確保できないのが実情である。また、区民センタ—の音響効果は不十分で、結局別に音響装置を業者に頼まなければならないということもある。
 そこで私の提案だが、それは、この際ぜひとも西成区に中規模の劇場形式の市民ホールを建設して、大いに市民の諸文化の発展の場にしてはどうかということである。すでに大阪市以外では立派な文化センタ—が人口数万人単位で作られ、現に役立っている。
 大阪市では近く西区にドー厶球場をつくるため、また、オリンピックを長居公園で行うために膨大な予算を投入するという。「一点豪華主義」で建設大企業を喜ばせることばかりやるのでなく、もっと地域に足を着けた、町おこしに役立つような施設をふやさなければ、大阪市の念願の「人口呼びもどし作戦一も決して成功しないであろう。
 『てんのじ村』の伝統をひく「西成文化ホ—ル」の実現を初夢におわらせないためにも今年もがんばろう。
(ー九九三・一)

今昔西成百景(018)

◎天下茶屋

 「天正年間のこと、千利休に茶を伝えた茶匠武野紹鷗が閑居していた地で芽木小兵衛正立なる人が茶店を開いていたが、太閤秀吉が住吉大社への参拝の途中、千利休の勧めで麗水で知られるこの茶店に憩い賞美の余り、井戸に「恵水」の名と玄米三十俵を与えた。
 このことから世に『天下茶屋』と呼ばれるようになった。(浪華にしなり図解説より)」
 天下茶屋東一 丁目二〜三番地一円で現在進められている地上げは、その規模では市内最大級の一つである。一年数ヶ月前より始まった地上げに、住民約四十世帯が固く団結して今日まで斗いつづけている点は立派である。
 三月中旬から隣接の空アパ—卜や空家をつぶしだし、残がいをその場に高さ約四メ—トルの小山にして積み上げそのままにしてある。四〇〜五〇トンにもなるのではないか。古タタミやベニヤ板が表面をおおい、マッチ一本で大火事になることは必至である。住民への嫌がらせ以外のなにものでもない。
 去る四月十一日、地元住民の代表五人と共に西成消防署へ、業者への残がい撤去の行政指導を早急に行なうよう要請した。谷下市議が紹介議員として出席してくれたことは住民に大きな励ましとなった。
 天正年間、スペインの商人ヒロンは、米二俵を納められなかった農民夫婦と子供二人が殺されるのを見たとものの本にかいている。大阪城の築城に徴用された人の中には、仕事がすんでも国もとへ帰れなくなり、川原で細々と世を過ごす者も多かったという。
 米三十俵を与えて人気とりをして、「殿下茶屋」「天下茶屋」と喧伝させた秀吉の戦略。その裏にかくされた無数の哀話。
 それから約四百年たった今日、「冷戦は終わった。もう保守も革新もない。」「世界一治安のよい国、日本」とマスコミで意図的に流されているが、現に天下茶屋で地上げと大火の危険に不安な毎日をすごす市民がいる。「地上げ新山」を見上げて、このたたかいは必ず住民が勝利しなければならない、と考えた。
(ー九九四・四)

南大阪歴史往来(013)

◎神南辺大道心

 住吉大社の南に延びる旧街道の東側に、浅沢神社、大歳神社と古い神社がつづくが、西側にも地蔵寺という小さなお寺がある。
 この寺は、松野山と号し天台宗正覚寺末である。創建は不詳、承応三年(一六五四)僧承円が再興した。以前は現墨江丘中学校付近にあったが明治十八年当地に移転した。
 本尊の子安地蔵は、伝教大師作と伝えられている。伝教大師は弘仁三年(ハ一二)三月、九州から比叡山へ帰る途中、住吉大社に参詣し、その時像をつくり、翌四年五月開眼供養した。地元では「子安さん」と親しまれ、安産祈願で知られている。

インドの神が仏教へ五大力

 門前には百度石を兼ねた五大力碑がある。本堂右にはその五大が菩薩尊堂がある。その他宝物として五大力尊版木を蔵している。これらはもともと住吉神宮寺にあったものである。
 また、この五大力碑は、文政二年(ー八一九)に神南辺隆光が寄進したものである。神南辺は神南辺大道心または単に神南辺の名で各所に道標や案内標識、鳥居や神輿台、橋まで寄進している、と住吉区史は記す。
 慈恩寺という、代々住吉大社の神主を勤めた津守氏の菩提所であって、明治維新後廃寺になった真言宗の寺院が浅沢神社の近くにあったが、境内には有名な「車返しの桜」があり、この道標も神南辺の寄進である。現在これは縁もゆかりもない、浪速区元町一丁目の法照寺前に残る。「車返しの桜」とは、後醍醐天皇が住吉行幸の時、あまりの美しさにもう一度車を返して名残を惜しんだ、という話からきている。

神南辺大道心は燗鍋の職人

 住吉大社を中心とするこの地域の、大海神社の神興台、浅沢神社と大歳神社の鳥居なども、全て神南辺の寄進である。
 それでは神南辺とはいかなる豪商か大地主か。といえばさにあらず、住吉区史によれば「奈良県王寺町神南(じんなん)の生まれで弥助という燗鍋作りにかけては腕の立つ職人であった。しかし素行が修まらず人からは嫌われていた。息子は小さいときから寺の小僧にやられていたが子供からその不行跡をたしなめられて改心、一念発起して仏門に入り、燗鍋作りから『神南辺』と改め諸国を行脚、人に役立つようにと、道標・百度石の建立や架橋までした。堺市には、神南辺町、神南辺橋などが残っている。天保十二年(一八四八)堺で没す」と、お役所作成の文章にしてはめずらしく「伝説」まで書いているので、私はある日、堺に出かけて行った。
 南海電車堺駅と七道駅のほほ中間に、目的の神南辺町があった。しかし、町の大部分が、高層の民間マンションと自動車販売会社に占められ、おめあての「郷土史漂う」という雰囲(追加 気)があまり感じられない。どうしたことかと、自転車屋の前にいた、七十オ位の男性に聞いてみた。しかし、彼は,「神南辺の名の由来など考えたこともない」と。私の方から「神の南だから住吉大社の南方という意味でしょうか」と、誘いをかけてみると「住吉は北だ」と、宿院にある住吉大社のお旅所の方角をゆびさすので、郷土史に全く無関心でもないらしい。

堺で神南辺を知る人少なし

 近くに公園と野球場があり何か神南辺道心の「顕彰碑」でもないかと探したが見当らない。今度は、公園の前の酒屋さんが、丁度自販機に詰替え中で、表に出ていたので、又聞いてみた。しかし、返事は「約五十年ここに住んでいるが、そんな話は聞いたことがない。おやじでも生きていれば知っていたかも」と親切に答えてくれた。
 堺の旧市内をとりかこむ環濠のあとを内川として残しているが、それにかかる橋のーつとして、 神南辺橋は現存していたが、鉄とセメントの普通の橋で、特にこれという説明板も付いていなかった。自分の住んでいる町の少なくとも名前の由来位は、誰かが知っているはず。当日は炎昼下でもあり、私も次の機会を期して引き上げた。後日、知人から「あの辺は堺の空襲と戦後の臨海工業地帯の造成で大きく変わってしまった」と聞かされた。
 一世紀もたてば人間の記憶もうすらいでいく。ましてー般庶民の善行の場合は特にそうである。

伝説・伝承の必然性は存在

 伝説として残るのは、主として極めて残酷な結末をみた事件である。例えば、聖徳太子・菅原道真・平家物語・源義経・赤穂浪士・堺事件など忘れたくても忘れられない暗くて恐ろしい事件について人々はそれに愛国とか忠義、義理や人情、美談、愛憎などの様々なベールをかけて少しでも現実を中和しようとする。そこにときどきの権力者のおもわくと、お金儲けが加わって、話がとんでもない方向に進んだり、とてつもない大きな物になったり、架空の人物が大活躍するという面白可笑しい物語に変わっていくのである。
 燗鍋職人の弥助さんも、住吉で多くの寄進をしたために伝説が残り、堺では無形文化財ともいうべき、地名にその名を残した。庶民の幸せな生涯を示した、めずらしい郷土史の明るい一ページといえるのではないか。
 後日、私は、住吉区史の疑問点を質すために、もう一度現場を踏んで、現物を詳しく点検する、自称「行動する郷土史家」としての行動にでてみた。すると鳥居とか大海神社に三基もある神輿台というような大きな物は、大坂や堺の豪商が願主となり、神南辺は取次や執次として名をだしているということが判った。道標や百度石は神南辺単独の寄進である。燗鍋職人で全部もてるはずがないのである。これで一応納得のいく話になるのではないか。
 もう一つ、これも住吉区史に、慈恩寺の「車返しの桜」の道標が浪速区元町一丁目十番の法照寺の門前に現存すると書かれていたので訪ねてみた。実際は墓地の片偶に、半分うづもれて、じゃまもの扱いされていた。あそこに何年置かれていてもなんの値打ちもないであろう、というのがわたしの率直な感想である。
 こんなところに棄てておくのではなく住吉大社南の「神南辺街道」に帰してやれば、どれだけ輝くことか。独特の字体で深々と彫りこまれた立派な作品だけに余計に残念に思った次第である。

編者注】この記事をもって、「南大阪歴史住来」の項は終了です。

今昔西成百景(017)

◎木津勘助ゆかりの―敷津松之宮神社

 今日は、診療所近くの敷津松之宮神社(西成分社)の祭礼の日、それにちなんで、神社に関連する、知らぜざる義民のエピソードをひとつ。

 私は二十三才で日本共産党の専従となり、今日に至るわけだが、最初の三年間は、当時浪速区にあった木津川地区委員会の事務所に市電で通っていた。降りる停留所の名前が勘助町」。昼休みによく立ち寄る「敷津松之宮大國主神社」の境内には、かつてこのあたりに住んでいたといわれる木津勘助翁銅像(昭和二十八年十月に再興)が建っていた。
 神社の由緒略記によれば、「木津勘助は俗名で、中村勘助義久という。天正十四年(一五八六年)に相模國足柄山の郷士に生まれ、青年の頃より豊臣家に仕え、今の三軒家北岸に軍船の港づくりに従事し、また率先して木津川の開拓工事に尽瘁(じんすい)し大阪繁栄の基ともなる水運の便と堤防を強化して洪水の害を防ぐ」など、その功績は高く評価されている。銅像はこのときの活躍ぶりを示し、右手に設計図を持ち脚絆姿の威勢のよい姿である。

大飢饉に庶民救済のため命を賭けた

 とくに勘助を有名にしたのは、寛永十六年(一六三九年、勘助五十三才)の大飢饉の義侠である。銅像の碑文を訳すと、「三代将軍家光の寛永十八年(一六四一年)は天候のせいで大凶作。徳川実記によると、餓死するもの道をふさぎ、ー衣覆うことなしに倒れ伏すもの巷に満ち、さながら生地獄の如し」とあり、飢饉がいかに物凄いものであったかを物語っている。
 「この窮状をなんとか救わんもの」勘助は各村の庄屋らと奉行所に日参して貯蔵米の放出を陳情し続けるが、奉行は幕府の許しがないとの理由で応じてくれない。
 勘助は、家財の一切を投げ出し救済にあたるが、遂に死を覚悟して、米蔵を襲い五千余俵を奪って窮民に分け与える。奉行所に自首した勘助を助けんと、各村の庄屋たちが減刑運動をおこし、その結果、死一等を減じ勘助島に流すという軽い処分であった。
 翁は晩年に至まで黙々と川浚え工事や新田開発に精を出すなど、平穏な余生を送り、万治三年(一六六〇年)の十一月二十六日、七十五オの天寿を全うして没し、木津『唯専寺』に眠る、となっている。私は当時、こんなふうに地域に貢献できる生き方にあこがれたもので、先輩たちも「木津勘助は、いまでいう日本共産党や」などとよく話題にしていた。

権力の非情

 しかし事実は、木津勘助は米蔵破りから十九年も過ぎた万治三年、幕府は「米蔵を破った罪科は極めて重い」との理由で斬死の刑を宣告、同年十一月二十二日遂に刑は執行されたのである。「西成郡史」にも、年表に「木津勘助斬られる」との見出しつきで載せている。
 銅像が最初に建てられたのは、一九二一年(大正十一年)十一月、天皇制権力のもと、たとえ義民であっても処刑されたら犯罪者、その銅像は公然と建てられないとの配慮と、幕府といえども民衆の願いには逆らえなかった、という希望的観測の結果「平穏な余生を送り天寿を全うした」という歴史の事実とは違うものとなったのではないか。
 処刑されたとする「西成郡史」のその日は十一月二十二日、天寿を全うし没したとする銅像のその日は十一月二十六日、この四日間に何があったのか謎である。
 寛永の町人一揆、木津勘助の米蔵破りの物語は亨保六年(一七ニー年)道頓堀の角座で上演されている。木津勘助の没後六十一年目である。しかし、歴史的事実からみれば、寛永時代、堂島はまだ葦におおわれ、米会所ができたのも後のこと、南難波の御用蔵が造られたのも後のことであるという。
 それでは木津勘助はいったいどこの米蔵を襲ったことになるのだろうか。
 私は思う。木津勘助は一人ではなく何人もいたのではないか。世のため人のため、たとえ権力にたいしてでも勇敢に闘っていく人を、この地域では時代は変わっても木津勘助とよび、たたえたのではないか。
 いま、日本共産党以外は「オ—ル保守」というなかで、かつて自民党一党ではやりたくてもやれなかった悪法を次ぎつぎつくり出し、国民に耐えがたい苦難を押しつけるという異常事態がおこっている。こんな時こそ、無数の木津勘助が大阪に、西成に求められている。
 敷津松之宮神社西成分社が松二丁目にある。

(一九九六・二)

南大阪歴史往来(012)

南大阪歴史往来(十二)

◎哀愍寺《あいみんじ》(上住吉二ノ十四)

 住吉大社の東、旧熊野街道に面して、ふるいお寺が今も多く残っているが、その中の一つ「哀愍寺」は、お寺の横に「ちぎり地蔵尊」があり、そのことでも目を引くお寺である。今も神仏両方をお祭りしている住吉神宮寺の名残り「西之坊」の向いにある。
 かって新聞に掲載されたことのある哀愍寺の三十七代目住職片山法道氏の話によると「哀愍寺」というお寺は、群馬県、滋賀県、住吉と三つあり、群馬県で玉念上人という方が開山。武田信玄の帰依を得て全国行脚に出かけ、住吉の地にとどまって永正十四年(一五一七)開山したもの。怜法院覆護山哀愍寺といい、本尊は鎌倉期作の阿弥陀如来である。

織田信長が寺にやってきた

 この哀愍寺が歴史の舞台になったのは、織田信長の天下統一の時。「往生集」という本には、次のように残っている。
 ある時、日蓮宗の信徒三人が「浄土宗では救われない」と言いだして論争が起きる。そこで信長は玉念上人を含む両宗の高僧を哀愍寺に集めて論争させ、みずから裁判官になり、浄土宗に軍配を上げ、日蓮宗の僧三人は破門、信徒三人は打首となつた。「浄土宗、日蓮宗のどちらがいい悪いという問題ではなく、信長は信仰の世界でも自分の勢力を誇示したかっただけでしょう」と片山住職の弁。
 しかし、これを読んで、私は疑問が生じてきた。というのは、そもそもこの時代は、信長が浄土真宗本願寺のある石山城の強奪を企み、十年間にわたる世に言う「石山戦争」元亀一年〜天正七年(一五七〇〜一五七九)の真っ最中。信長は本願寺の一向一揆の門徒に手こずり、さまざまな和平交渉を進めていたが、ー方浄土真宗にあらゆる点から一番近いのが、浄土宗であることを意識し、今もし浄土宗が反信長に立てば大変なことになると、わざと浄土宗に軍配を上げたのではないか。いや、ひょつとしたら両宗の争いも信長が最初から仕組んだのではないか、と私は推理する。

宗教団体に補助金出す米国

 しかし宗教界を支配するための、信長のアメとムチの政策も天正十年(一五八二)の本能寺の変ですべてご破算になってしまう。
 アメリカのブッシュ政権は原理主義色の強いキリスト教の教団に、年間二千三百億円からの補助金を出しているという。政教分離の憲法の立場を踏みにじって特定の教団を宗教戦争に駆り立てることは中東での石油の強奪というブッシュ政権の本質をごまかすためであり、国と時代は違つても独裁者のやり口は似たようなものである。そして、ブッシュのーの子分である小泉首相も創価学会という謀略を得意とする「宗教団体」を利用している。今や彼らそれぞれの「本能寺」が迫ってきていることを、歴史の予言として知るべきである。

公約を守らない自民・公明

 話は変わって、「哀愍寺」との関係を見てみよう。
 明治維新による「廃仏き釈」(寺院などの破壊運動)でどのお寺も大変な時、今の地にあった真言宗のお寺の尼さんが「自分はこの寺を維持することが出来ない、買ってほしい」という話をもちかけ、向かい側にあった哀愍寺がこの地に移ってきた。真言宗であれば地蔵尊のあるのは当然のことで、現存する「ちぎり地蔵」はその名残という。
 この地蔵尊は「ちぎり地蔵」「千切地蔵」また「十徳地蔵」とも呼ばれ、かつては独特のわら人形が売られ、縁日が出て多くの人で賑わった。「ちぎり」の意味は契約を結ぶ「契り」、信心すれば「十徳」を契約どおり実現してくれるという。「十徳」とは、「女人安産・水火安全・諸病消除・諸願成就・寿命長遠・衆人結縁・神明加護・旅路加護・極楽往生・悪夢退散」又、「ぬいぐるみ地蔵」とよばれる手づくりの素朴な地蔵さんの背中に願いを書いて、堂内に安置すればその願いが叶うという。ぬいぐるみはお寺で買えるとのこと。
 さて、選挙になれば各党は十徳(公約)を並べる。自民党のキヤツチフレーズは「改革なくして財政再建なし、改革には痛みがともなう」であり、公明党は「福祉の党」であった。ところが財政再建どころか国・地方の借金は一千兆円にもなり、福祉は後退するばかりで痛みだけが押しつけられた。国民にとつてはまさに十徳どころか十損である。