今昔木津川物語(011)

西成・住之江歴史の海路シリ—ズ(一)

高灯籠たかどうろう(日本最古の灯台)(浜口西一)

 住吉大社がある上町台地は、前方後円墳ぜんぽうこうえんふん帝塚山てづかやま茶臼ちゃうす山、勝山古墳かつやまこふんなどがあるところで、難波京なにわのきょうのおかれていたところでもある。

上町台地うえまちだいちは大阪文化発祥ぶんかはっしょう

 熊野詣で知られる熊野街道が、台地の西端で南北に伸びており、それに沿って高津たかつ神社、生国魂いくたま神社、四天王寺してんのうじ、住吉大社があり、中世ちゅうせい石山寺いしやまでら近世きんせの大坂城もこの台地に存在した。
 上町台地は、南北十二キロ、東西二・五キロの細長い台地で、法円坂ほうえんざか付近ふきんが二十ーメートルともっとも高く、住吉では十メー卜ルほどになる。この台地とほぼ並行へいこうして南へ伸び、大和川を越えて堺市の三国みくにケ丘へ続いて、我孫子あびこ台地(平均十メートル)があり、古代こだいは共に深い森林しんりんの中であった。

住吉細江すみよしほそえ墨江津すみのえづ

 上町台地と我孫子台地の間のくぽ地を流れるのが細江川(細井川ともいう)でその川下は大阪わんからの入江になっていて、住吉細江と呼ばれた。
 このおく日韓にっかん交易こうえきみなととして、北の難波津とともに古代大阪の要津ようづとなった墨江津があり、遣唐使船けんとうしせんも住吉神社に祈祷きとうしてここから発着はっちゃくした。交易品こうえきひん長尾ながお街道を通って奈良の都に運ばれたが、港でも市が開かれて住吉の繁栄はんえいを築いたという。みなとを支配していたのが地元の豪族ごうぞく津守氏、子孫は明治時代まで住吉大社の神主となった。

天下の絶景ぜっけいあられ松原まつばら

 住吉細江の入口は北が長狭浦ながおうら、南があられ松原で、幅約百メートルの水路が五百メートルほど東へり込み、松林と丘にかこまれた良港だったといわれている。
 沖は住吉津、出見浜でみのはま敷津浦しきつうらなどと呼ばれる青い海で、難波の八十島やそじまが波に見えかくれし、その間を白いを上げた船がし、白砂青松はくしゃせいしょう浜辺はまべが南北にてしなく伸びていた。この景観けいかんは昔から和歌に多く読まれているが、戦前にも、戦後は堺泉北さかいせんぼく臨海りんかい工業地帯ちたい造成ぞうせいされるまでの間、海水浴や潮干狩しおひがりで堺の白砂青松の浜辺を知っている者として、その万分の一位は見当けんとうがつく。
 海岸線はほぼいまの阪堺線はんかいせんあたりとみてよいとすると、紀州街道と重なって想像そうぞうできるわけだが、古代で考えれば、矢張やはり西成-住之江のつながりは「歴史の海路」となるのではないだろうか。

高灯籠は漁民ぎょみん献灯けんとう

鎌倉かまくら時代末期まっきに建てられた住吉の高灯籠は、いまの阪神高速はんしんこうそく道路の近く、かつての十三間堀川じゅうさんげんぼりがわほとりにあったわけだから、約八百年の間に自然しぜんの力で、陸地化りくちかが西へ約六、七百メートルすすんだことになる。
 高灯籠は住吉津の漁民らが、住吉大社への献灯けんとう航海安全こうかいあんぜんを祈って住吉の浜に建てたといわれている。高さが石積いしづみを含めて十六メートルもあり、日本最初さいしょ灯台とうだいであった。