◎「北野天満宮」道真も権力闘争の当事者
「菅原道真は清廉で有能な正義の人。政治的陰謀によって左遷されその地で死んだという、神社の沿革が正確なものかどうか」大鳥居をくぐって次郎はさっそく友子に話しかけた。「道真は官僚としてだけでなく、父祖の経営してきた私学の長でもあった。この学校から官吏登用試験の合格者が多数出たので、学会の連中にとっては大いに目障りだった」
次郎はつづける「彼は在任十年にして、突然讃岐守として四国に転勤させられる。妻子を京都に残して単身赴任した。そして現地は旱魃《かんばつ》で苦しんでいるのに、彼の顔は常に京都の方を向いていた。四年の任期をおえて帰京すると、新帝の宇多天皇は文人を重用し、道真は目覚ましい出世をしてゆく。そして五十五歳でついに左大臣に次ぐ要職である右大臣にまで昇りつめた。その間に彼は私学の一門を各官庁に配置し、一方帝の後宮には女御として娘たちを入れ、藤原家に匹敵する政治的な布陣をひき、次の醍醐天皇の治世になると左大臣、藤原時平と並んで政権を二分するに至った」
「しかし道真は負けた」と友子。
「道真の大宰府への左遷は天皇と時平で秘密に決めた。名目的には降等であって、処罰処置ではあるが、高級官僚であることには違いはなく、流罪とは違う」次郎はつづける。「自分たちの派閥で中央をかためてしまうことが目的で、道真だけでなく彼の息子たちや派閥の代表たちも一斉に追放された。しかしそれでは仕事が進まないので、数年後には追放者たちを都に戻して前官に復帰させたが、この時期まで生き長らえなかった道真は甚だ不運だったことになる」次郎はつづける。
「実は、前の天皇である上皇は現天皇に反感をもち、帝位を天皇の弟の親王にゆずらせようと秘密で計画を立て、その計画の中心人物が親王の夫人の父親である道真であった。天皇からすれば道真は謀反人ということになる」「しかも、時平の反対派だった時平の弟の忠平は神経戦として盛んに道真の悲惨な末路の宣伝を行い、これが効を奏したのか時平は三十九歳の若さで病死。天下は忠平に移る。忠平の妻は道真の姪であり道真が実子同様に育てた女だったことを考えれば、一方的に時平の陰謀に乗せられた正義の士、菅原道真というイメージも大きくかわってくるのではないか」
「どっちもどっちだったのね」
最後に次郎が結論的に「なぜこれだけ天満宮がひろまったのか。怨霊に対する恐れもあると同時に、怨霊を手厚く祀りこれを己の庇護神とすることができれば、その恩恵もまた絶大であるとする、きわめて、特色ある考え方が日本にはあつた。忠平の例がその典型であろう」
「怨霊も利用されるのね」と友子。
「梅林の蕾もまだまだ固そう。認知症の兄が『もう一度、北野の梅が見たい』とせがむのだが。草津からの電車の旅を思うと不安があるし…」
「一緒に行きましょう」と友子はいつもやさしい。
大阪きづがわ医療福祉生協機関「みらい」 2016年10月、11月号
写真は、「Wikipedia 「北野天満宮」より