今昔木津川物語(019)

西成・浪速歴史のかいわいシリ—ズ(四)

◎願泉寺《がんせんじ》・唯専寺《ゆいせんじ》(大国ニーニ・敷津西ニー十三)

 願泉寺はその伝《でん》によると開祖《かいそ》永証《えいしょう》は小野妹子《おののいもこ》の八男《はちなん》多嘉丸《たかまる》と称し、聖徳太子《しょうとくたいし》の守屋征討《もりやせいばつ》に加わって功《こう》があり、太子四天王寺を造営《ぞうえい》のとき、運河《うんが》を開削《かいさく》して諸国よりの木材の運搬《うんぱん》を容易《ようい》にした。

定龍が地域を統一

 その後二十七世乗教《せじょうきょう》の時蓮如上人《れんにょしょうにん》に帰依《きえ》し本願寺《ほんがんじ》に加わる。天正《てんしょう》年間本願寺|門徒《もんと》、織田信長《おだよぶなが》と戦った時、時の願泉寺|住職《じゅうしょく》定龍《ていりゅう》は極めて武略な人で木津一難波・今宮・高津《たかつ》・勝間《こつま》・三軒家等の門徒を指揮《しき》して一方の将《しょう》となり、摂河泉《せっかせん》の間に転戦《てんせん》し大いに軍功《ぐんこう》を上げた。その功により、本願寺の願の一字を賜《たまわ》って願泉寺と称《しょう》したという。
 唯泉寺もその伝によると用命天皇《ようめいてんのう》の御《おん》宇天種|命《みこと》の裔《すえ》である跡見《あとみ》赤摂が、聖徳太子の四天王寺建立に際し木津浦《きづうら》に来たりて住《すまい》し草庵《そうあん》を構《かま》えていたが三十三世跡目光重に至って蓮如上人の弟子となって真宗《しんしゅう》に転じた。本願寺と信長の合戦の際|抜群《ばつぐん》の功《こう》をあげ、夭正八年四月|顕如《けんにょ》上人石山|退去《たいきょ》の時当寺に一泊の上|雑賀《さいが》に出発したとのこと。

手をたずさえ「魔王《まおう》」信長とたたかう

 願泉寺、唯泉寺共に聖徳太子と四天王寺造営にゆかりがあり、またその後の石山合戦でも手をたずさえて「魔王」信長と戦い、空襲で焼失したのも一緒で、それぞれ戦後再建された。
 足利《あしかが》時代より木津川口の陸地化がすすむとともに、海浜《かいひん》であり大坂に入る軍事上の要衝《ようしょう》の地として、この辺りの争奪戦《そうだつせん》が盛んに行なわれたのである。

反戦の伝統生かして

 ガイドライン法という名の戦争法が国会で強行採決されると、待っていたとばかりに、海上自衛隊が艦船《かんせん》二十五隻、航空機二十一機を出動させて、大阪湾での戦後最大規模の軍事演習を実施した。
 歴史に学んで今こそ地域ぐるみの、戦争法反対の発動をゆるさない大運動が必要なのではではないか。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第20回・第21回

◎岩屋寺(大石寺)良雄の弁証法

 今日の二人は大石良雄の山科の隠宅があった土地に建ったという、岩屋寺に来ている。大石神社南百メートル の所にあり、当時の本尊不動明王は良雄の念持佛という。木像堂には浅野内匠頭《あさのたくみのかみ》と四十七士の像が安置されている。十二月十四日の義士忌には、寺宝の良雄以下四十七士の遺品がー般公開される。
 さて、元禄十四年(一七〇ー)三月十四日、この日、例年のごとく年頭の賀使《がし》として江戸に下った勅使が帰洛するにあたって、幕府側より接待を受けることになっていた。ところが、幕府側の勅使馳走人役を仰せつかっていた浅野内匠頭が、諸儀式を司る役目の高家《こうけ》吉良上野介《きらこうずのすけ》を、こともあろうに殿中松の廊下で「この間の遺恨覚えたか」と背後から肩に斬り付け、振り向くその額めがけて二の大刀を打ち下ろした。
 「当時三十五歳になる内匠頭は小心臆病でひよわな人物、強度のストレスと性格的な欠陥に起因した発作的刃傷であったのではないかと云われている」次郎はつづけて、「そしてこの殿中刃傷事件を裁決した将軍綱吉が、大の気まぐれ物で、即刻内匠頭は切腹、赤穂五万三千石は取潰しと決まった」
 江戸から赤穂まで百五十五里、早くて十七日かかろうという道程を、早駕籠をとばした急使がわずか五日間で赤穂刈家城へ到着した。
 「悲報を受取った国家老大石良雄は、直ちに藩札と現銀の交換に着手した」「取付け騒ぎが起きる前にこれをやったとは、すごい…」と友子感激。「同感」と、次郎は語り続ける。「籠城・殉死・仇討と論議が乱れとんだが、大石の腹は『一応|内匠頭《たくみのかみ》の舎弟大学を擁立しての再興を幕府に認めさせること、これがかなわねば仇討で幕府に一矢酬いたい』ということだった」「終始一貫していたのね」「主家が断絶し、あれが元赤穂の国家老だった男よと、世間から嘲られて過ごす余生など考えられなかった」次郎は厳しくつづける。
 「子供の足に嚙み付いた犬を棒で叩いたということで親子が死罪。犬小屋を建て、八万匹に上る野犬を養うのに年額九万八千両も費やし、一方人間の方は凶作で米も買えず、わずかに雑穀の粥をすすっている。十九歳から四十三歳に至まで、国家老として大過なく過ごしてきた良雄の家庭においても、日に一度はにら雑炊、魚といえば三日に一度鯛を焼くのが関の山というつつましさである」「徳川幕府十五代の将軍中、最も学問に造詣ふかいインテリであったと、綱吉をほめる歴史家もいるけど」と友子。「とんでもない。こんな気紛で狂気染みた将軍を絶対者として仰がなければならない武士たちにとって、武士道だとか忠義の思想という精神主義は、その人間性を重苦しく締め付ける格子なき牢獄であったろう。幕府は変えられないが、自分を変えることで『ピンチをチャンスに』、良雄は主君の仇討によって、人生の最後に大きな花火を上げたいと思ったのだ」
 「認知症のお兄さんその後お元気」「財布がない財布がないと…」「叱らないで『一緒に探そう』と言ってあげて。症状の一部だから」「了解。ありがとう」「またね…」

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2017年11月、12月号

今昔木津川物語(018)

西成、浪速歴史のかいわいシリ—ズ(三)

◎鉄眼寺《てつがんじ》(瑞竜寺《ずいりゅうじ》)(元町一―一〇)

 瑞竜寺は、黄檗宗《おうばくしゅう》萬福寺末《まんぷくじまつ》にて薬師如来《やくしにょらい》を本尊《ほんぞん》としている。寛文《かんぶん》十年(一六七〇)難波村《なんばむら》の信者らが薬師堂に鉄眼和尚を請《しょう》じてその再興《さいこう》を図《はか》り、瑞竜寺としたが、俗《ぞく》に鉄眼寺と言われるのは、この鉄眼の再興による。昔は寺域《きいき》も広大であったが明治|維新後《いしんご》狭《せば》められた。仏殿禅堂《ぶつぜんせんどう》のほか天王堂《てんのうどう》・祠堂《しどう》・禅悦堂《ぜんえつどう》など有《ゆう》したが、戦災《せんさい》にて天王堂焼失を免《まぬが》れたほかほとんどの建物を焼失、現在の本堂などは戦後の復興《ふっこう》によるものである。

一切経《いっさいきょう》の出版《しゅっぱん》に全力を

 鉄眼は一切経という、仏教に関する書籍《しょせき》を集めた一大|叢書《そうしょ》にして、仏教《ぶっきょう》に志《こころざ》しある者にとっては宝物として尊《とうと》ばれるものが、其《そ》の巻数《かんすう》幾千《いくせん》の多きにつきわが国では出版が極《きわ》めて困難であることから、この一切経の出版を一代《いちだい》の事業として成就《せいじゅ》せんととりくんだ。
 広く各地をめぐり資金《しきん》を募《つの》ること数年、ようやく出版に着手《ちゃくしゅ》せんとした矢先《やさき》、大阪に大|洪水《こうずい》が起こった。

人を救《すく》うのが先だ

 鉄眼は惨状《さんじょう》を目《ま》のあたりにして「我か一切経の出版を思い立ちたるは仏教を盛んにせんが為め、仏教を盛《さか》んにせんとするは、ひっきよう人を救わんが為めなり、喜捨《きしゃ》をうけたる此《こ》の金を一切経の事に費《つい》やすも、飢《う》えた人々の救助《きゅうじょ》に用《もち》いるも帰《き》するところは一にして二にあらず、一切経を世に広むることはもとより必要な事なれども人の死を救うは更《さら》に必要なるに非《あら》ずや」と、喜捨せる人々に其《そ》の志《こころざし》を告《つ》げて同意《どうい》を得《え》、資金をことごとく救助の用《よう》に当《あ》てた。
 苦心して集めた出版費はついに一|銭《せん》も残らなかったが、鉄眼は少しも屈《くっ》せず、再び募金《ぼきん》に着手《ちゃくしゅ》して散年、宿願《しゅくがん》の果《は》たすのも近いと喜んでいるところへ、再び、近畿《きんき》地方に大|飢饉《ききん》があり、人々の困苦《こんく》は前の出水《しゅっすい》以上のものとなつた。鉄眼は再び意《い》を決《けっ》し、出版の事業を中止して、其の資金をもって力の及ぶ限り人々を救い又もやー銭も残さなかったという。

第三の募金に人々の感動

 二度資金を集めて二度救援に使ってしまった鉄眼だったが、敢然《かんぜん》として第三の募金に着手した。すると意外にも、鉄眼の深大《しんだい》なる慈悲心《じひしん》と、あくまで初一念《しょいちねん》をひるがえさない熱心さが感動をよんで、喜んで喜捨するものが続出《ぞくしゅつ》、製版《せいはん》・印刷も着々と進んだ。
 かくて、天和《げんわ》元年(一六八一)鉄眼が最初の募金を初めてから十八年後に至《いた》って、一切経六千九百五十六巻の大出版は遂《つい》に完成したのである。これが世に鉄眼版と称《しょう》せられるもので、一切経の広くわが国に行われたのは、この時よりのことである。この版木は今は京都は宇治《うじ》の萬福寺に重要文化財として保存《ほぞん》され、現在でも大|般若経《はんにゃきょう》や語録類《ごろくるい》が印刷されているという。以上が鉄眼寺の由緒《ゆいしょ》である。

現代の「洪水・飢饉《ききん》」

 今、天災ではない人災《じんさい》としての、自民党政治のとんでもない悪政の結果、かつてない大|不況《ふきょう》がわが国をおおっている中で、特に大阪が深刻な影響《えいきょう》を受けていることはかくしようもない事実である。
 昨年の大阪市内の自殺者四百人、内西成区内で八十五人ときく。一昨年より倍
加しているという。
 また、大阪市内の野宿生活者約一万人。大阪城公園も長居公園も昔日《せきじつ》の観《かん》はなく、その結果、路上で凍死《とうし》などで亡くなる人、年間に市内で約三百人。
 以上は封建《ほうけん》社会のことではない、自民党が常日頃からほこっている「自由社会・日本」で現実に起こっていることの一部なのである。

見直しは福祉・教育の切り捨てとは

 一方、府政では、中ノ島に財界のための超豪華《ちょうごうか》な、不要不急《ふようふきゅう》な国際会議場が、横山知事の公約に反して、七百七億円もかけて建てられている。この税金の額は一万人の野宿生活者が五年間野宿でなく最低生活できるだけの額《がく》である。市は「オリンピックの誘致《ゆうち》」に、うつつをぬかしている。そして府・市共に、予算の見直しはもっぱら福祉・医療・教育に向けられているといるという。まったくの逆立《さかだ》ち政治の横行《おうこう》は目に余る。
 「鉄眼は一生に三度一切経を刊行《かんこう》せり」のことばの重みをかみしめながら、瑞竜寺からミナミの雑踏《ざっとう》へ 足を踏み出したらすでに夕刻《ゆうこく》であった。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第24回・第25回

◎天智天皇陵(沓塚) 山科

 第三十八代天皇、天智天皇(在任六六八—六七ー)の墓は京都市山科区にある。
 次郎と友子の二人は、今日はこの天皇陵「御廟野古墳《ごびょうのこふん》」に来ている。次郎等の史跡巡りは、今まで何度も堺や羽曳野の巨大古墳を見てきたので、少しは期待してきたのだが…「幹線道路から長く入り込んだ、大きな露地の奥、という感じだね」「何か天智天皇の墓としては物足りない」と友子も。
 天智天皇《てんちてんのう》は前の名を「中大兄皇子《なかのおおえのおうじ》」と言い、中臣《なかとみ》の鎌足《かまたり》(後の藤原鎌足《ふじわらのかまたり》)と共に蘇我入鹿《そがいるか》をだまし討ちというクーデターで倒し、後に「大化の改新」を行った人物。
 次郎は語る、「日本の正史とされる『日本書紀』には天智天皇の御陵は明記されていない。天智天皇は病が原因で亡くなったと書かれているのに。また、『日本書紀』にはこれを編纂させた天武天皇の生まれた年が書かれていない。天武天皇《てんむてんのう》は天智天皇の弟だとなっているのに。平安時代の末期に比叡山功徳院の皇円《こうえん》という高僧が書いた歴史書『扶桑略記』には、天智天皇は山科の郷に遠乗りに出かけたまま帰ってこなかった。探したが道に天皇の沓が片方、落ちているのが発見できただけで、天皇の姿を見つけることはついにできなかった。仕方がないので、その沓の落ちていた場所を陵とした。と記されている。だから地元の人はこの古墳を『沓塚』と呼んできたとか」「それがここだね」
 「天智天皇《てんちてんのう》が病死ではなく、遠乗りに出かけた際に殺されて、遺体はどこかに隠されたというのなら、その犯人は一体どこのだれなの」「殺人事件の場合、被害者が亡くなる事によって結果的に利益を得る人物が犯人として疑われるのが普通だが…」
 次郎がつづけて「当時の朝鮮半島は『高句麗・百済・新羅』という三つの国があり、天智は百済派、天武は新羅派で、背景には大国である唐との外交問題がある。結果的には親唐路線を取るべきだと主張する勢力が勝つたことになる」
 「実は天武の方が兄だったの」「となれば、兄であるのになぜ先に天皇になれなかったのかという疑問も出てくるし」
 「この際、『追号』について述べておくけど。天智とか天武《てんむ》とかいう呼び名は、その天皇が亡くなってから贈られる名前で、現在は、その天皇の治世に用いられた元号がそのまま追号として、例えば大正・昭和がそうだけど。でも昔は天皇が亡くなった時に、その天皇の人柄や業績、好みにちなんだものが選ばれて贈られました。例えば平安期の中頃の醍醐天皇《だいごてんのう》の場合、この天皇が醍醐という食べ物が好物だったからと言われています。基本的には中国の古典から取られているよ」
 「認知症のお兄さんの近況は…」「この間ディサービスに哲学の本を持ち込んで読んでいたらしい」「すごいじゃないの」「朝と夜を取り違えて、夜の九時前にディサービスの迎えの車が遅いと怒ったりしているのが増えてきているが…」「今日もありがとう」「お互いにがんばろう」

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2018年3月、4月号

今昔西成百景(027)特別編「西成の空襲」④

◎治安維持法下を語る
      F.H.さん寄稿

 私の夫F.Y.は、十四オで水平社の活動をはじめ、十六オのとき四・一六事件で逮捕されました。逮捕者の中で一番若かったと思います。
 私は、一九二一(大正10) 年九月四日、浪速区栄町に生まれました。かっての西浜、渡辺村で、逃れてきた大塩平八郎を守ったことを誇りとして語り継いできた村です
 父は靴職人で、半月勘定。一日と十六日に賃金をもらい、給料払いで生活していました。小学校に通ったのは一ヶ月だけです。米を買いに行ったとき「金もって買いに来い」とイヤミを言われ、自分で働きに出ることにしたのです。近所の共同工場で、牛の爪を油で圧縮したものを型抜きしてボタンを作るのがはじめての仕事でした。一日十銭ぐらいもらえました。
 家は八十五軒長屋で、向かいに水平社の事務所があり、三才頃から荊冠旗につかまってデモによくついて行きました。ビラまきを手伝うと、一銭か、二銭くれるのがうれしかったです。
 学校には殆ど行かなかったが、走るのが早く、水泳が得意なので、大会なんかの時は呼び出されました。四年生の時、高師浜から五キロの遠泳があり、十人が泳ぎましたが成功したのは私はじめ四人でした。
 修学旅行には、先生が金を出し合って旅費と、小遣い五円くれてつれていってくれました。当時の五円は大金です。家族や近所への土産も買いましたが、たくさん残して帰り、家のおかずを買うのに使いました。
 十三オのとき母が家出をし、私が十人の所帯を切り盛りしました。友達が化粧をしていても、自分はせず、夜中十二時まで兄の仕事を手伝い、兄が寝てからミシンの稽古をしました。三時近く、風呂屋のおじさんがもう湯落とすでと呼びに来てくれて風呂へ入り、ー時間くらい寝て起き出して朝の支度をしました。そんななかでもほがらかで、みなの世話を良くしました。十六の時には三人の兄に嫁持たしました。古着屋で紋付はかま借りて来たり、三々九度の杯もするなど、世話焼きました。貧乏が強くしてくれました。貧乏人のなかで生まれたことを誇りに思っています。
 嫁に来てくれとYの母親から望まれました。「Yちゃん又ブタ箱やで」と近所でしよっちゆう噂になり、アカになんかあかん、何のとりえもない男やと、 まわりの反対もありました。お母さんはええ人で、近くでおかず屋をしており、やさしくしてくれました。こんなお母さんがほしいと思ったのです。ー九三九年十月十六日に結婚しましたが、Yと結婚したというより、お姑さんのところへ嫁入りしたんです。しかし、嫁入りしてからニヶ月月後に姑さんは子宮ガンでなくなりました。
 水平社の活動家だったYは、治安維持法だけでなく、いろんな名目でしよっちゅう堺刑務所に入れられました。戦争が激しくなった時期には「物資統制違反」で逮捕されたこともあります。
 一九四五年三月八日にYに召集令状が来ました。十二日に最後の面会に行きましたが、憲兵が十人くらいついてまわり、話もできないありさまで、トイレにいっしよに入って声をひそめ手ぶりで話しました。
 三月十四日には大阪大空襲があり、親兄弟九人焼け死にました。私は子供を背負って木津市場に逃げ込みました。歩いていると後ろから「子供が燃えている」と声をかけてくれる人があり、あわてておろして火を消しました。
 堺市の親戚を頼ろうと向かっていたときです。阪堺線の我孫子駅の近くでした。連れになっていた三人の親子が、目の前で米艦載機の機銃掃射撃ち殺されました。子どもがむずかり、一歩おくれたことで命拾いしました。本当に生き地獄でした。戦争では親近者を十一人亡くしています。兄の一人は沖縄の万座毛のガマで焼き殺されています。兄の遺骨をもらいに法務局へ行ったとき、兄を帰してくれと大声でわめき、ブタ箱へ押し込められました。御堂筋でも戦争反対の街頭演説をして、ブタ箱へ入れられました。
 戦争反対の気持ちは教えられたものではありません。
 結婚したときから特高につきまとわれました。太平洋戦争がはじまってから、ゆっくりご飯を食べたことはありません。二人の特高がいつも、ご飯食べる横についているのです。風呂屋までついて来ました。焼け出されて避難した小学校へも来ました。何でこんな目にあわされるんやと何度思ったことか。差別された口惜しさも、特高につけまわされた口惜しさも一緒です。
 夫Yは一九九一年十二月二十一日に死去しました。彼から多くのことを教えられましたが、私は生涯それを守り、今では息子も孫も日本共産党員として活動しています。それが私の最大の誇りです。

編者注】写真は、「御津八幡宮付近から道頓堀方面」(Wikipedia より)

今昔西成百景(026)特別編「西成の空襲」③

◎戦いのつめあと
      K.J.さん寄稿

 太平洋戦争が始まったのは、昭和十六年十二月、私が十オのときでした。
 子どもなのでよくはわかりませんでしたが、 戦いが始まって間もないころは、威勢の良い勝ち戦のニュースばかりで、大人にまじって、自分も強くなったようで、うれしく思っていました。
 そのうちに、 だんだん日常生活が不自由になって、食べ物も衣類もみんな配給制になって、何でも行列しなければ、買えなくなりました。
 お米は一人一日、四・五デシリットルぐらい。ご飯の量を増やすため、 お米の中に大根やさつま芋、大豆をいれて炊きました。白いご飯をおなかいっぱいに食ベるということは、夢にもみられないことになりました。それにお魚も、野菜も配給で、とても栄養を満たす量はなく、みんな大変スリムな体をしていました。
 食べ物ばかりではなく、家庭内の金属類も、鍋や釜だけをのこして、みんな兵器に変えるため供出しました。
 もちろん、繊維製品も例外ではなく、衣料切符というものが発行されて、一年に一人何点と決められ、その範囲内で計画的に買い物をしました。タオルを買えば靴下が買えない。ズボンを買えば、シャツが買えない。だから、母親は、暗い電灯の下でいつも家族の衣類をつくろっていました。
 昼は配給物資の行列に並んだり、乏しい材料で、少しでも楽しい食卓にしようと、それはそれは、大変な苦労をしていました。
 そんな不自由にも必死に堪えて、「欲しがりません勝までは」「ぜいたくは敵だ」の合言葉をかみしめつつ、日本の勝利を信じて、ただただ一生懸命に奉公していました。
 学生でも、勉強はできず、毎日軍需エ場で、勤労奉仕をしていました。
 夜は、灯火管制といって、空襲をさけるため、外にあかりが漏れないように、電灯を黒い布でかこい、窓も全部黒いカカーテンで覆い、 家の中は薄暗く、外は真っ黒でした。今のようにテレビはなく、ラジオだけを頼りに、每夜じっと息をひそめて朝を待ちました。それでも空襲もなく朝まで寝られるのは幸せでした。
 日本本土へも、敵の編隊が飛んできて軍需施設や民家に爆弾を落とし、焼火弾を雨のように降らせ、日本のあちこちで毎日のように損害がありました,大阪に空襲警報がでると、その都度防空壕へ避難しました。
 そのころみんなの服装は、女性はズボンを太くしたようなモンペというものをはき、細長い座布団を二つ折りにしたような、防空頭巾をかぶり、男は学生服に似た型の黄土色の国民服を着て、脚にゲ—トルを巻き、戦闘帽をかぶり、男女とも、肩から鞄をかけ、胸には、自分の住所と名前・血液型を記入した白い布を縫いつけていました。いつどこで負傷するかもわからない毎日でした。
 男は四十二・三才から十八オくらいまでの人は、全部戦線に送られ、毎日どこかで、出征兵士を送る「パンザイ、バンザイ」の行列がありましたし、町内の、あちこちには名誉の戦死をとげられた英霊をむかえる家が増えてきました。したがって、 町は、中高年の男子と、女性と子どもばかりになってしまいました。
 女の人は苦しい家事のほかに男のしていた仕事もしなければならず、銃後の守りといって、 防空訓練や、本土決戦に備えて「えい、や—」と竹槍の訓練もあり各家庭ことに防空壕を掘るよう命ぜられ、家の中と空き地に壕をほり、 空襲警報が発令されると、みんな大急ぎで、 その中へ逃げ込みました。
 その時間が長くなることを考えて、 ご飯やお茶、貴重品を持ち込み、じめじめしてかび臭い壕の中で小さくなって、肩を寄せ合い、息をひそめ、持ち込んだ鉱石ラジオのニュースに耳をそばだてていました。
 そのころは、戦争の状態がますます悪くなり、都会は極めて危険でした。だから老人や子どもは、田舎へ疎開するように命令され、疎開する田舎のない子どもは、集団疎開をして、親と離れ、空腹で淋しい生活を強いられていました。
 昭和二十年、私は十四才になっていました。学徒動員で、軍需品を作る毎日でした。
 その日、三月十四日は、午前零時ごろ大阪に空襲警報が発令され、それはいつになく大がかりなものでした。急いで身支度をして、家族五人が自宅(現在橘三丁目)工場内の防空壕に避難しました。空襲はいよいよ激しく、午前二時ごろ、とうとう我が家に焼夷弾が落ちました.しかもそのうち何発かが家族の避難している防空壕を直撃したのです,壕の中はたちまち灼熱地獄となりました。
 壕内の寒さに耐えるため、 冬服を着て、綿の入った防空頭巾をかぶり、マスク・手袋をつけて避難していましたが、 全身火だるまになり、必死で服や頭巾の火をはらいました。しかし、焼页弾の火はねっとりとへばりつき、なかなか消えません。
 厚い服や、頭巾の部分は、どうにか無事でしたがマスクや手袋はあわてて脱ぎ捨てたものの、薄い布地を通して、顔と両手は既に重いやけどをおっていました。防空壕に居た一家全員が同じようなやけどをおいました。特に母は自分も火だるまになりながら、先に私の火を消そうとしたために、一番重いやけどになってしまいました。結局、父と母と自分は顔と両手に重度のやけどを、兄は耳、姉は左手にそれぞれやけどをおいました。
 もちろん、家も工場も、ほとんど焼け落ちました 夜明けになって、外へ出てみると、 近くの家々も全焼または、半焼で、まだ煙がたちのぼっていました。焦げくさい臭いが一面に立ちこめ、自分たち同様に負傷した人々が、地域の赤十字救援隊へむかって歩いていました。
 自分も救援隊て応急の処置を受けて.すぐに病院数箇所をまわりましたが、どこの病院も満員で、入院させてもらえませんでした。
 しかたなく、みんな重傷の身で、岡山県にいた親戚の女医をたよって必死の思いで岡山までたどりつきました。そこでは大変親切に看護を受け、めいめいが、ある程度体力と気力を回復するまで、治療と援助を受けました。自分は、一年半お世話になって、大阪に帰ってきました。
 二十年八月、日本が戦争に敗れて戦いは終わりました。大変悲しかった反面、もう空襲もないし、防空壕に入ることもない、夜も電灯を明々とつけられる、そんな安心感とうれしさもありました。
 二十一年二月には父が急死しました。戦争までは父が鉄工所を経営し、母が助産婦をしていましたが、母はやけどで両手の機能を全く失いましたので免状があるのに、もう助産婦の仕事をすることもできなくなっていました。父の死で、我が家には収入の道が全くなくなってしまったわけです。
 私は、もう自分が学校をやめて、働くしかないと決心しました。あちこち、五、六社も面接に行ったでしょうか、しかし、どこに行っても赤くひきつ ったケロイドの顔と、みにくく曲がって不自由な両手を見ると、採用してくれませんでした。
 思いあまった私は、西成区役所へお金を借りに行きました。当時、そんな制度があったのです。しかし、まだ一五歳の私に貸してくれるはずもありません。生きていくために、なんとしてもお金を作らなくてはいけない。私はあせり、追い詰められていました。道路工夫でやっと採用され、一生懸命頑張りました。でも、この仕事でも、指の関節が不自由なこともあり、もたもたしていて、口ぎたなくののしられることもたびたびです。また、通勤の途中でも、顔のケロイドが人目につき、「猿がきた、猿がきた!」とばかにされたり、冷たい目で見られたり、悔しいことばかりの毎日でした。つい、その苦しさを母に訴えた時、母は「腕を磨いて、人を見返しなさい」と励ましてくれました。母にこう励まされてからは、ののしりも聞かず、冷たい目も気にかけないで、ただひたすらに働きました。
 それにしても、自分の青春は、焼夷弾を落とされた日を境にして、真っ黒に塗り潰されてしまいました“必死に働く “目標も 、自分の手のなくなってしまった自由を取り戻すことでした。
 昭和二十四年、ようやく手術をうけるだけのお金がたまりました。阪大で何年もかけて、四回の手術を受けました。その結果、右手の機能は、完全に回復しました。しかし、左手のほうは、親指、薬指、小指の三本が伸びないままとなってしまいました。
 顔のケロイドもすこしはましになりましたが、口は三分の一しか開かなくなってしまいました。
 不自由ながら、指を動かせるようになって、戦災で焼け落ちた父の工場跡に、卜タン板で囲んだ工場を復旧しました。使えそうな機械を修理して、ぼつぼつ仕事を始めました。父の時代のお得意様が、同情から、 多少の仕事をまわしてくれましたが、生活はまだまだ苦しく、新しい仕事を求めようと、あちこちの会社を回りました。しかし、ケロイドにひきつる顔と、不自由な手、まだ年若い自分を見ては、だれも仕事をくれません。それでもこりずに何度も何度も訪問を繰り返し、誠意をもって頼みました。そのうち、ようやく人柄をわかってくれたのか、少しずつ仕事がくるようになりました。仕事をさせてもらえば、技量がわかってもらえ、次の仕事もまわしてもらえました。そうして、だんだんとお得意様をふやして、現在にいたっています。
 私は、戦場へは一度も行っていません。それでも、この戦災のために、どんなに苦労をし、血の出るような思いに苦しめられてきたかわかりません。
 今は物資があふれ、 お金持ち日本といわれ、平和に慣れて、人々の行為や考え方に、時に「これでいいのかな」と思うこともあります。
 勉強したくてもできない。おなかがすいても食べ物がない。服がやぶれてもつくろう布さえない。夜は灯もつけられない。レジャ—など思いもよらない。すべてに耐えても命の保証さえない。夫や父親をなくした不幸な家庭、戦争で病気や障害をおった人々 家を焼かれ道端で寝る人々。家族をなくした戦災孤児。こんな生活や、人間たちの姿が私には忘れられません。今日の平和は、この犠牲の上にあることを忘れないでくたさい。
 これからは国際化の時代、世界から笑われない、力強くて、賢い日本を築くのは、君たちの仕事です。どうか戦争を忘れずに、平和のありがたさをかみしめて暮らしてください。

今昔西成百景(025)特別編「西成の空襲」②

◎忘れられない室戸台風と空襲、そしてなつかしい玉出のくらし
F.R.さん寄稿

編者追加・注】左図は、室戸台風で全壊した四天王寺の五重塔(Wikipediaより)、右図は、戦災焼失区域明示大阪市地図・昭和21年(1946)大阪歴史博物館

 昭和九年、その頃父は京阪電車に勤めていて、一家は吹田市岸部の社宅に住んでました。木津で「簾屋」をしていた祖父が亡くなったので、仕事のかたわら、店を継ぐ決心をした父は、親類の口利きで玉出本通り四丁目五七番地の家を借り、一家は引っ越しました。同時に兄は玉出第三尋常小学校(現千本小)の高等一年に、私は同校小学一年に入学しました。当時現玉出小学校を玉出第一、現岸里小学校を玉出第二とよんでいました。
 引つ越してきた家は、 間口は五枚扉で庭が広く、裏では「葦」を入れる倉庫の他に畑をつくり、なお自転車の練習が出来ました。「すだれ」と一口に云っても、家の前に立て掛ける「草簾」からまんじゅう屋の蒸し器の「す」や、家の中で使うふちにへりを付けた「御臓」や「衝立」など多種多様で、ほとんどが注文でした。材料の「よし」や「がま」の芯や「すすき」などは大正区の三軒屋から、大八車で運ばれてきました。
 寸法取りをして作業の段取りをするのが父で、道具を使って手作業で作るのが母と仕事の役割分担が決まっていました。季節商品でもあり、需要期には大忙しで「葦」を干したり、皮をむいたり、長さを揃えたりするのが子供たちの仕事になり、一家総出で働き夕食はいつも夜の九時、十時になっていました。この頃のことが、私の一番楽しい思い出になっています。
 この年の九月二十一日に室戸台風が大阪を直撃し、 玉出第一尋常小学校の校舎が倒れて兄が死亡しました。この日は朝から雨が降っていましたが、兄は友逹と一緒に元気良く学校に行きました。当時同校は二部制をとっており、私たち低学年は昼からの登校でした。午前八時頃より風雨が强くなり、 すぐに屋根瓦が木の葉のように舞い飛ぶ程の猛烈な台風となり、八時五分にはついに瞬間風速六十メートルを超える記録的なものとなっていたそうです。
 台風が通過してから、近所の子供らが帰ってきて、学校が倒れたと聞いて人々がさわぎだしました。兄が帰ってこないので母が心配して、もしやと思い、勝間街道の阪南病院に見に行ったがわかりませんでした。実は千本通りの角の宮本医院に収容されていたが、気が付かなかったのです。
 ほどなく兄の遺体が担架で運ばれてきました。私はショツクで熱を出して、山口医院の先生に往診に来てもらい、リンゲルを打ったことを覚えています。担任の先生の話では、「危ないから出て向かいの校舎に移れと云って一旦は教室を出たが、彼は極度の近視のためメガネが雨でくもって見えなくなるので、傘をとりに戻ったのではないかと思う、その直後に校舎が倒れた」ということです。この日同校では九名の子供が死亡、重傷二十四名、軽傷六十名という突然の大惨事となったのです。
 空襲前の生根神社周辺は、神社の西隣が光福寺つづいて郵便局、洗い張り屋と並び、その隣が私の家で、更に西へ化粧品屋、表具屋、下駄屋、サンパツ屋でした。その横手の露地から「十軒さん」と呼ばれる長屋が南に向かってあり、十軒さんの西隣に饅頭屋さん、その横に町会長の藤田さんの大きな屋敷、岩見医院、材木屋、和ローソクをつくっていた店。露地を挟んで雑穀屋から数軒の住宅を経て、大江の油屋さん、更に西へ米屋、ハ百屋、住宅があって土手と呼ばれていた道路があり、それに面して馬力屋、鉄工所、住宅が軒を並べていました。その裏に十三間堀川があり、橋が架かっていてお盆の精霊流しには、橋の下に伝馬船が来ていました。
 生根神社の前の捋源寺から西へ、道路に面して門構えの家が並んでいて、酒屋、小川燃料屋、釣具屋住宅があって「東青果市場」があり、更に西へ行って「西青果市場」がありました。
 生根神社から東へ国道二い六号線の間にも、歯科医や骨接ぎ屋があり、玉出本通りに映画館をもっていた家を挟んで、角に薬局がありました。玉出本通りの向かいの角が牛乳屋で、数軒おいて戦後洋服の月賦販売でおなじみの日丸さんがあって隣が質屋、更に商店があって細い露地を挟んで西へ誓源寺へとつづいて行きます。近くに風呂屋も数軒ありました。もちろん、現在の玉出中学校や玉出西公園はなく、かわりに住宅や店舗が密集していました。 ・
 国道より東側の玉出本通りは商店街で、映画館や公設市埸、領木百貨店等があり、帝塚山の方からの買物客も多く上品な雰囲気のあるところでした。
 当時の生根神社の境内には小山の様な盛り土があって、子供たちのあそび場になっていました。
 昭和十八年七月、私が盲腸炎から腹膜炎になり、大熊病院に入院したとき、看病に来てくれていた母がよく咳き込むようになり、診察の結果喉頭ガンと判り、市大病院に入院しましたが帰らぬ人となりました。以後は父と私と弟の三人で暮らしていました。
 昭和二十年三月十三日午後十一時過ぎ、警戒警報になって大正区の方が燃えて空が赤く染まりました。空襲警報が発令されて間もなく、焼夷弾が雨のように降ってきました。隣の洗い張り屋のお父さんが防空壕へ入れと云ったので、娘さんが家から出たところに焼夷弾の直撃を受けました。「娘がやられた」というお父さんの悲痛な叫び声は、いまでも耳に残っています。その声をききながら、私と父は「火たたき」で懸命に火を消していましたが、弟は早く逃げようと云っていました。光福寺の本堂がものすごい勢いで燃えはじめ、これはだめだと、父は警防団の鉄かぶと姿で自転車を押して、私と弟は防空頭巾の上に布団をかぶって国道を住吉の方へ逃げました。途中人はあまり見かけませんでしたが、ただ道にきれいな着物が散乱しているのが不思議でした。道路のあちこちで焼夷弾が燃えていました。逃げる途中で夜が明けて来たので、家へ引き返すことにしました。帰ってみると家は焼けてなく、里庭にあった大きな楠も燃えつきていました。やがて焼け跡に人々が帰ってきましたが、なすすべもなく、しばらくはみんなぽうぜんと立ちすくんでいました。
 この空襲で、国道から西側の玉出の中心部分(旧勝間村)は全焼しました。

今昔西成百景(024)特別編「西成の空襲」①

がもう健の郷土史エッセー集「今昔西成百景」に掲載された「西成の空襲」の手記を数回に分けて、掲載します。手記の投稿者は、イニシャルにとどめ、文中の人名も、同様にしたところがあります。

図は、「第1回大阪大空襲による被災地域赤の地域」(「大阪市内で戦争平和を考える」から、部分切り抜き)

西成の空襲

 昭和二〇年一月一九日午前〇時、B29一機が津守町に爆弾を投下したのが西成の空襲の最初である。
 つぎに二月九日午後八時五七分に、辰己通り、津守町が爆撃された。三月一三日午後十一時三〇分頃から約三時間にわたるB29、約九〇機による大阪市中心部への本格的な大空襲では、西成の被害状況は、全半焼戸数一万四四六一戸、罹災者数五万七九一七人、死者二四六人、重軽傷者二四ー七人となっている。その後六月一日、一五日、二五日といずれもB29による焼夷弾、爆弾の被害を受けた。
 なお、戦災により罹災した区内の、王要建物は、西成警察署、今宮市民会館、花園・橘・西天下茶屋各公設市場、市営今宮・玉出各質舗、府立今宮工業高校、大日本紡績津守工場、 岸里・長橋・開各国民学校。

西成で三度空襲に

    M.M.さん寄稿

 昭和一九年、私が中学校三年生の年になると「学徒動員」で軍需工場へ応援に毎日通うことになりました。その日から学校や教科書とは無縁の「学生生活」が敗戦後まで続くことになったのです。
 私の動員先は住之江区に現在でもある三井造船藤永田造船所でした。南開の家から出島行きの阪堺線で通い、作業現場では朝から夕方まで船のスクリューの研磨作業をやりました。まわりは兵役を免れた年輩の人や身体の少し不自由な人、そして捕虜のオランダ兵や朝鮮の人がいたのを記憶しています。
 話し相手の友達もいない暗い「青春時代」でした。
 敗戦までの間で藤永田以外に和歌山の海南の山の上に壕を掘る作業にかり出されたことがあります。つらい作業でしたが、動員された学生達が一緒に集められ醤油蔵にむしろを敷いて「宿舎」にしたため、久しぶりの級友たちと一緒のひとときを過ごせたことを覚えて います。
 そういう特別の機会をのぞくと本当に何の楽しみもない時代でした。働き終えて家に帰ると電灯に黒い布をかぶせる日が増え、唯一の娯楽のラジオも「大本営発表」と軍歌しか聞こえてこなくなっていました。
 昭和二〇年、 エ埸でも自宅でも相次いで空襲に合うことになったのです。
 空襲を最初に経験したのは後に『大阪大空襲』とよぱれることになる昭和二〇年三月一三日未明のものです.
 生まれ育った南開の家の周辺か跡形もなく焼け落ちました。
 真夜中、 空襲の知らせにあわてて家財を荷車に乗せ、一旦自分の部屋に本を取りに帰った私は、窓ガラスが燃えるように真つ赤になっているのを見て足が震えたことを今でも記憶しています。
 気がついたところは畑の真ん中でした。近くの牧場から、角を火に巻かれた牛が狂ったように逃げる姿が目に焼き付いています。
 四、五時間経ち夜が明ける頃にまわりを見ると、家財を積んだ荷車も、住み慣れた町並みもみんななくなつていました。焼け跡の金属は溶け、アメのように曲がっていました.私の家だった場所に立つと、こんなに狭かったのか」と思いました。
 近くの今宮第七小学校の校庭には真っ黒になった死体が山のようにつまれていました。近所の人の安否もわからず、自分が生きているのが不思議に感じたものでした。
 その日、すすだらけの真つ黒な姿で南海線に乗り、 岸和田の親戚を頼って焼け跡を離れました。
 柳通りの西の端「阪南ゴム」の隣、向かいが千本北の岡島金物店の家(当時柳通り七丁目)で受けた空襲は油脂焼夷弾による被害でした。特に記憶に残っているのは雨の日の後などになると、まるで火の玉のような炎が上がったことでした。あれは焼夷弾の中に含まれていた”黄リン” (?) が発火して起こる現象だったようです。
 空襲体験はまだ続きます。学徒動員先であった藤永田造船所にも昼間に大がかりな爆撃がありました。現場で海防鑑のスクリューの歯車を研磨していたときです。
 最初は会社の防空壕に飛び込みました。しかし爆撃は激しくなるばかりです。とにかく逃げました。北加賀屋の工場から天津橋方面に向け必死になって逃げました。なぜか飛行機の臭いがしました。木津川筋の造船所全部が燃え上がり周囲は真っ黒の煙が覆っていました。
 住之江公園にたどり着いたときやっと自分が裸足であることに気づきました。死体の山を見たのもこのときでした。ー五歳の時の思い出です。
 終戦は藤永田造船所でむかえました。昼に集められた私たちに何を言っているか分からないラジオ放送が流され、「戦争負けたらしいで」との誰かの声でいつのまにか三々五々自宅へと帰ることになったそのころ四国松山に疎開していた弟や妹たちは大阪に引き上げる途上で伝染病の大量発生と出会ってしまい香川県観音寺でその年のーー月まで隔離されていました。このときまだ一歳だった一番下の妹が亡くなりました。
 大阪の私たちも焼夷弾が落とされた家(柳通り七丁目)に住み続けることが出来なくなり、当時父が借家として持っていた柳通り六丁目の家へ引つ越すことになりました。現在の場所で言うと西天下茶屋の駅から柳通りに抜ける商店街の豆腐屋さんのところです。
 戦後の生活は男の子が私を入れて四人、妹たちが三人の七人の子供を育てる大変なものでした。
 父は青果ものを荷口に積んで行商を始めましたがそれだけでは足らないのは明らかでした。結局八軒持つていた借家を売却し生活費に充てたようです。しかも当時の家の値打ちは非常に低く、今では考えられないことですが家を売った代金はミカン箱に入った石鹼と交換されたのでした。その石鹼が現金や食べ物へとかわっていったのです。
 まさに”売り食い“の時代それが私たち一家の戦後のスタ—卜でした。