がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第22回・第23回


◎「尼崎の「広済寺」に近松門左衛門の墓

 今日の二人は東海道・山陽本線尼崎駅で下車している。
 「近松公園南側に広済寺があり、境内に近松門左衛門の墓がある。近松門左衛門ちかまつもんざえもんは音曲の名人竹本義太夫たけもとぎだゆうと協力して、人形浄瑠璃を発展させた。京都や大坂に住んだが、広済寺との関係が深く、近松と妻の墓がこの寺にあるのは、当時芸能人や商人に広まっていた妙見信仰と関係が深い。広済寺隣の久々知左男神社は、当時久々知妙見とよばれ、大阪の能勢妙見と並ぶ霊場としておおいに栄え、広済寺はその神宮寺であつた。広済寺の開山講にも近松の名が見られ、しばし立ち寄って執筆にあたったともいわれる。尼崎市は近松門左衛門を市を代表する文化人として顕彰し、多くの文化行事を行っている。ー九七五(昭和五十)、広済寺の隣にゆかりの品々を展示する近松記念館が開館し、周辺も近松公園として整備されている。また市内の園田学園女子大学には近松研究所がある」とガイドブックは紹介している。
 一方、大阪市中央区のマンションとガソリンスタンドの狭い敷地の奥に、大坂の文化の誇りである近松門左衛門の墓一つだけぽつんとあるのがいかにも不釣り合いだ。
 近松門左衛門はもとは武家の出であった。本名を杉森左衛信盛すぎもりさえのぶもりといい、祖父は豊臣家に仕え父は松平忠昌に仕えたが、のち牢人として京都に移り住んだ。近松は承応二年(一六五三)に生まれ、長じて、公家の一条恵観へ仕えた。また母方は、松平忠昌の大医の娘でこの母方の教養を受けることがあった。
 彼が二十歳のとき、主君恵観の死に会ってから武士という身分を捨てた。その後、近江の近松寺に遊び、近松の名はそこからとった。
 「彼が公然とかぶき作者として名を記したのが、三十三歳のとき、以後二十年間、ほぼ三十余篇を書いたが、その多くは名優坂田藤十郎のためなのね」
人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりにおける近松の名は貞享二年(一六八五)大坂道頓堀に竹本座を起こした竹本義太夫たけもとぎだゆうのための『出世景清しゅっせかげきよ』を書いた時をもつて世にあらわれる。さらに、元禄十六年(一七〇三)にはじめて浄瑠璃界世話物という分野を確立したのが『曽根崎心中』なんだ」「近松の作品と確定できる浄瑠璃作品は、時代物七十編、世話物二十四篇そのほとんどが初代と二代の義太夫のためにあたえたものなのね」
 「近松が出て『昔の浄瑠璃は今の際分同然いて、花も実もなきものなりしを、某出でて義太夫へのうつりて作文さしより、文句に心を用いる事昔にかわりて一段高く』と自負しているが、たしかに近松に至って浄瑠璃は『活きて働く』こと、『文句は情をもととする』、ところに変わった」「近松はまた『芸というものは実と虚との皮膜の間にあるもの也』と『虚実皮膜論きょじつひにくのろん』に残しているね」「当時の人形芝居はまだ一人遣いであって、今日の文楽のような三人遣いではなく、人形を見るというよりは浄瑠璃を聴くものとして迎えられた」「お兄さんはどうなの」「ディサービスから毎日日報が届くので状況がよくわかる」「行き届いているのね」「子供の保育所時代を思い出すよ」「何年前」「…」「またね」

編者注】近松門左衛門の墓所は、複数説あり、決着を見ていない。それだけ、彼の作品は、人々から親しまれ、その死は、人々から悔やまれらたのであろう。

参考】日経HP「近松門左衛門の墓 本物どれ?(もっと関西)」

今昔西成百景(023)

◎生根神社--だいがく

 「当社は旧玉出町全町の氏神社であるが、もとは現存の住吉区住吉町の通称奥の天神社といわれる生根神社の分社で、いつの頃からか分幣の上独立した」(西成区史)
 生根神社の夏祭りには大阪府文化財の指定をうけた台舁がでて賑やかである。

雨乞いの祈願が成功

 台舁については生根神社の伝によると、往昔清和天皇の御代、干害著しく稲作、綿作ともに枯死寸前の状態となった時、農民が住吉の竜神大海神社前で日本六十六ケ国の一の宮の御神灯六十六張と鈴六十六個をつけ高さ二十八間のものを立て雨乞いの祈願をしたところ大雨をもたらしたので農民大いに喜び、これに台をつけて舁ぎ、太鼓を打って氏地を巡遊して神恩奉謝の意を表したのがその始めである。
 この台舁は昔、玉出に十四台あったといわれ、明治初年には六台に減り、さらに五台となり、この五台もやがて廃止されたが、その後三台だけ復活、これが戦争前までつづいた。現在残る一台はそのうちの一台で岡山県下に疎開して戦火を
免れたが、他の二台は惜しくも戦災で焼失したという。

一台を百人で担ぐ

 「大阪市史」の祭礼の項でも、天神祭・住吉祭につづいて西成の生根神社の台舁
が挙げられており、由緒あるものとして評価されている。
 それにしても、一台の台舁を百人からの男が担いだというのだから、大変な活力が地域にあったということになる。人ロ・世帯の推移からみてみると、玉出では昭和四十年は四千五百六十五世帯でー万三千七百十七人、平成七年は五千四百二十五世帯でー万四百七十六人、ー世帯当りの人員は三人から一・九三人と変わっている。このことから考えられるのは、一人住まいのお年寄りがアパ—卜に、独身の若者がワンル—ムマンションに集まって来ているということか。

子供は地域の後継者

 子供のいる世帯が玉出に住みにくいのと、玉出に公営住宅がないということとは決して無関係ではない。そしてこのことは昭和四十年に一世帯当りの人員が三・三二人であったのが平成七年には一・九二人になつてしまった西成区全体にもいえることでもある。
 「調和のとれた町づくり」をすすめていく立場からすれば、一世帯当りの人員が二人をわったということは危機的状況といわねばならない。根本的な対策を講じなければたいへんなことになる。ちなみに公営住宅の多いお隣の住之江区は、二・六五人である。

四十年前の玉出で

 私は十九オのひと夏、生根神社の近くの内職幹旋所で働いたことがある。バラックづくりの工場で内職先に持っていく材料の紙を折ったり、のりをたいたりした。むしぶろのような工場をでて自転車で配達にでると、ほっとして一番安いミカン水をよくのんだ。
 当時の西玉出は、空襲の焼け跡と畑とが入り交じって雑然としていたが、見通しだけはよく、なんだか広びろと感じられた。内職をもって行くと先々で、戦争に反対し弾圧をうけながらも、地域の世話役をして慕われていた日本共産党員小倉温治氏の党葬が先日おこなわれたことを知らされた。

今昔木津川物語(015)

西成・住之江歴史の海路シリ—ズ(五)

高砂たかさご神社-高崎たかさき神社(北島ニー一四・南加賀四-一五)

 昭和九年(ー九三四)九月二十一日午前八時前、空前くうぜん規模きぼ台風たいふうが大阪をおそった。この台風は、室戸岬むろとみさき測候所そっこうじょで九一ニミリバールとい、っわが国の陸上測候所でも最も低い気圧を観測かんそくしたのを記念して、「室戸台風」と命名されたが、大阪では瞬間しゅんかん最大風速六十メートル、高潮たかしおの高さ五・一メートルを記録きろくした。
 このため大阪市域の三分の一にあたるところが浸水しんすいし、十日間水浸みずびたしのところもあり、被害ひがい甚大じんだいであった。
 住之江区では大和川の堤防ていぼう決壊けっかいし、十三間堀川より西の全域が一メートルの高さまで浸水、家屋が流失したり学校が全壊するなどした。
 当時私の家は大和川の堤防近くにあったので、まともに洪水に見舞われた。父は公務員をしていたので、家族をいて直ちに出勤。母は六オからーオまでの子供三人を抱えて必死の思いで避難ひなんしたと、その後何度も聞かされた。私が生まれたのはその時に転宅をした住吉区の遠里小野おりおので一年程してからのことであるが、母や兄の話で子供の頃には実際じっさいに体験したような気持ちになったものである。
 台風後の高潮対策として大和川は、河ロから上流約九百メートルにまでО・Pプラス五・五メートルの堤防ていぼうに補強された。木津川も十四年までに防潮堤工事が行われた。

村の鎮守ちんじゅの神様

 かつての新田しんでん開発者かいはつしゃたちは例外れいがいなく鎮守の神社を建てたもので、桜井さくらい(元加賀屋かがや甚兵衛じんべえは元文二年(一七三七)北島新田開発のさい高砂神社を創建そうけんした。甚兵衛は出身地河内国石川郡喜志きし村(元富田林市)の産土うぶすな神である水分みくまり神を勧請かんじょうした。祭神さいじんは水分神の他に人丸神、住吉大社。天保てんぽう六年(ー八三五)本殿が焼失しょうしつしたが同十年再建された。
 高崎神社は宝歴ほうれき五年(一七五五)桜井甚兵衛が産土神うぶすながみ水分神みくまりのかみを勧請して大和川河口かこうに祭り、現在地に天保八年(一八三七)に移築いちくしたもの。同時に天照大神あまてらすおおみかみ柿本人麻呂かきのもとひとまろを合祭したという。一方社伝では、天保六年高砂神社焼失後、新たに加賀屋新田の氏神うじがみとして天保十年 (一八三九)に創建されたとなっている。
天満宮てんまぐうは天王寺村天下茶屋の柴谷利兵衛しばたりへい在地ざいち住人じゅうにんが新田開発のさい鎮守のため勧請したといわれる。

加賀屋新田会所跡

 高崎神社の近くに加賀屋新田会所跡がある。桜井甚兵衛の新田支配者として宝歴四年(一七五四)にもうけられたもので、甚兵衛の居宅きょたくでもあった。広さ四千九百五十平方メートルに及ぶ庭内ていない戦災せんさいを免れ、小堀遠州流こぼりえんしゅうの築山林泉式庭園や鳳酪酊鳴亭ほうらくていめいていと称する数寄屋風すきやふう建物が現存し、大阪名園の一つになっている。但し現在は大規模な補修中で外からしか見られないが、いづれ公開されるという。

青春の思い出残る街

 またこの近くには、人形劇団「クラルテ」の発足当時の事務所と稽古場けいこばが今でもあり、その横には五十数年前の「防空壕ぼうくうごう」が保存されている。
 私は丁度ちょうど四十年前に、浪速区勘助町かんすけちょうの日本共産党木津川地区委員会の事務所から、自転車に乗ってこのあたりまで「赤旗あかはた」新聞を配達していた期間が五年程あった。雨の日も風の日もペダルを踏んで毎日やってきていた。今歩いてみると、この町は特別に時間がゆっくりと過ぎていくかのような不思議ふしぎな気持ちにさせられる。原因は町の南側が全て大和川の土手になっているため、通過自動車が少ないからである。
 大和川の堤を草を踏み固めるようにして登っていくと、急に視野しやがひらけてさわやかな風が顔を打つ。堤防の上の道は遊歩道になっていて歩行者天国だ。素晴すばらしい夕陽に向かって気の合った仲間と散歩をすれば心がいやされるし、また河上へ朝日を浴びて「浅香あさか千両せんりょうまがり」辺りまで歩きとおせば新しい勇気も湧いてくるような気がする。

今昔木津川物語(014)

西成・住之江歴史の海路シリ—ズ(四)

◎ 住吉公園

 住吉大社の西のあたりは昔、住吉の浜とよばれ老松おいまつ名勝地めいしょうちであったという。
 明治六年八月、太政官だじょうかん布告ふこくによって東京府の芝、上野、浅草、大阪府の浜寺、広島県の厳島いつくしまともなどが公園となったが、住吉もその時に住吉の浜の松林一帯十九万七千三百平方メートルが公園に指定された。日本で最初の公園の一つともいえる。
 住吉公園の付近は、明治の中頃までは人家も少なく「潮風しおかぜに鳴る松林が大和川を越えて堺までつづいていた」と聞くと、私の記憶きおくは一度に敗戦はいせん直後の少年時代をよみがえらせてくれる。
 当時は伝統でんとうある住吉公園といえども、設備もすべてはぎ取られてなにもない、荒れてた公園だった。記憶の中では、いつも西日にしびをうけた強い風に砂が舞っていた風景が浮かぶ。外地がいちから引き上げてきた家族が、ボロをまといさまよっていたり、兵隊服を着た男が、よく野宿のじゅくをしていた。

手製のグローブで草野球を

 私達小学生は主に東グランドで、 それぞれ母や姉に古い厚手あつでの布でつくってもらつた、グローブやミットを使つて、毎日のように野球をしていた。
 私が中学生になった頃から、東グランドでよく日本共産党の野外演説会がもたれるようになった。いつもニ・三千人集めて熱烈な演説をしていた。私もよく友達と共に、松の木によじのぼったりしてきいていた。
 一九五五年八月、第一回原水爆げんすいばく禁止世界大会が広島で行われ、大阪からも代表団が関西汽船を借切り、大山郁夫おおやまいくお氏を団長として乗り込んだ。私も住吉区から代表として参加したが、二十ー才の生意気ざかりの青年が核戦争の恐ろしさと反戦運動の大切さを学んだかけがえのない機会きかいとなった。

西成・住吉合同で平和集会を

 この大会の報告集会を、住吉公園束グランドで行うことになり、私も大会事務局に入り奮闘した。大会の実行委員長は住吉区の社会党の府会議員がなり、西成区からは日本共産党の四方棄しかたすて五郎氏や岩本甚一じんいち氏、その外に浄土貞宗じょうどしんしゅうのお寺の若い住職じゅうしょくもおられるなど、幅広く結集されていた。余談よだんになるがそれから十数年後、四方氏が市会、私が府会とコンビをくんで以後二十数年間西成区で選挙を闘うとは、当時夢にも思わなかったことである。
 報告集会の第二部に人生幸郎じんせいこうろ幸恵さちえの漫才をおねがいしたところ「薄謝はくしゃ」でもこころよくうけてくれ、話の中に平和問題も即興そっきょうで入れたのには感心した。
 それから夏になるとこのグランドでよく映画会をやった。「青い山脈」「ビルマの竪琴たてごと」「戦争と平和」などは何回もやつた。夜遅く電気の消えた粉浜の商店街をゲタの音をひびかせて、仲間と映画の話で論争しながら帰ったものである。
 住吉公園の南側を流れている細井ほそい川が台風で氾濫はんらんして、公園が池のようになったこともあった。高灯籠の屋根が吹き飛ばされたと聞いて、見にいったが松の大木が倒されて道をふさいでいた。
 住吉公園はこの百二十六年の間に何度も大改造されて、現在の形に整備されたのだが、その間に西部を国道二十六号線で縦断じゅうだんされ西運動場が廃止となったり、南海電鉄の敷設ふせつのさいも東部を分断ぶんだんされるなどして、当初より公園面積が大幅に減退げんたいしている。大公園にしては手狭てぜまな感じがするのはそのせいである。

藤掛道ふじかけみち芭蕉ばしょう升塚ますづかあり

園内えんない中央部に「藤掛道と呼ばれる東西の遊歩道があり、十三間掘川や海を船でやってきた人たちが、灯籠のあるこの道を通つて大社たいしゃにお参りした」と伝えられているが、今でもこの道は公園の中央部を東西に貫通かんつうしている。しかし砂ぼこりのたちようもない、 立派な石畳になっていて少し親しみにくい。
 この道の南側に松尾まつお芭蕉の升塚ますづかが建っ
ているが、最近の公園の整備せいびでよく目に付くようになっている
 「ますうて分別ふんべつかわる月見かな おきな」を三行に書き分けてあるが、左の行の上に〇を入れてあるのは献灯けんとうの意味らしい。元治元年げんじがんねんに建てるとあるから、公園ができる十年前ということになる。
元禄げんろく七年九月芭蕉が最後の旅に出て、九日大阪につき住吉近くの酒堂亭しゃどうていに入った。十三日に大社にもうでたが、折悪おりあししく雨にぬれ気分が悪くなり、月見の句会くかいには出席できなかった。その後門弟に送った句がこの句だったという。芭蕉はその後寝込んで難波なんば御堂みどう近くで亡くなった。十三日は「宝市たからいち」の神事があり、社頭しゃとうに升を売る風習ふうしゅうがあった升の市である。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第32回・第33回


◎蟹満寺

 京都駅からJR奈良線で棚倉たなくら駅まで行き、旧奈良街道を約十五分歩く。蟹満寺かにまんじというめずらしい名前のおこりは「今昔物語」にある。
 「昔、山城国やましろのくにに観音を深く信じ慈悲じひぶかい女性がいた。、外で生きたかにを持っている人に会い、あがない求めて河に放してやった。その後、女の父が田をつくっていたところ、へびかえるもうとして追っているので、かえるを逃してやればお前を婿にしてやると頼んだ。へびは父の顔を見つめたあと姿を消したが、自分のした約束の重大さに父親は帰宅しても心が休まらなかった。たしてその夜、へびが訪れてきた。女は父に三日まってほしいと伝えさせ、当日になると固く戸を閉ざしてとじこもり、ひたすら観音菩薩かんのんぼさつに祈願した。へびは怒り、尾で戸を叩き続けていたが、しばらくするとそのもの音も止んだので、あさそとを見てみるとへびは死んでいた。無数のかにへびと戦って殺したのである。両親は喜び、へび死骸しがいを埋めてその上に寺を建て蟹満寺かにまんじと名付けた、というのである」
 次郎と友子の二人は、コスモスの花が乱れ咲く小川沿いの道を右左しながら、「おててつないで野道を行けば…」と童心にかえって蟹満寺かにまんじに向かった。「友ちやんこれこそ至福の時間だね。つくろうと思ってもつくれるものではない、突然のプレゼントだ。お寺参りの効果がやっと現れてきたのかな」と次郎は一人ではしゃいでいる。「認知症の兄さんを毎日介護している次郎ちゃんへの神仏からのねぎらいや。ありがたくいただいて下さい」と友子も調子を合わせる。これが友ちゃんのええとこ!
堂宇どううは最近建て替えられていたが、大規模だいきぼなものではない。しかし、本尊は像高ニ・四メートル、みごとな金銅釈迦如来こんどうしゃかにょらいのまぎれもない国宝である。
 大きな頭部を支える胴は量感をもちたくましい。肩やひざも広く、切れ長の両眼や口元も力強い。すぐれた彫技を示すこの像を鋳造ちゅうぞうするには、相当の経済力と経験豊かな技術家一団とが必要で、本来の蟹満寺かにまんじの本尊とは思えない。と、以前から云われていたそうだ。
 「これは絶句…」と次郎。「すごいね」と友子も目をみはる。あまりに立派すぎる本尊は、元は山城やましろ国分寺像こくぶんじぞうとか橘氏たちばなうじ氏寺うじでらですでに滅びた井手寺いででらにまつられていたのではないかとか、造立期ぞうりつきについても、天平説てんぴょうせつ白鳳説はくおうせつとがあるらしいが古代の代表的な作品のひとつであることにはまちがいなさそうだ。次郎も友子も「もう一度見たい仏像」のひとつになる、と話し合った。
 「最近読んだ本に、介護者保護主義は患者のためにもなる、と書かれてあったが」「もし、介護のひとが病気で倒れてしまったら認知症のひとはどうなってしまうのか。生活がほぼ不可能になってしまうし、もちろん認知症の改善など望めない、ということ」
 「兄の場合でも私以<原文意>外にはいない。まして夜間も年中完全無休の泊込とまりこみだからね」
 「だから次郎ちゃんは自分が楽になることを後めたく思う必要はないのよ。次郎ちゃんが楽になることがお兄さんを治す力が宿るということだから」「またね」「またね」

編者注】
・画像は、Wikipedia 蟹満寺 から転載。
・記事は、大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2018年11月、12月号から転載

今昔西成百景(021)

◎弘治——伊藤村長父子の義侠

 弘治小学校の校名の由来を調べてみた。西成区内に十四の小学校があるが、いずれも地名を冠した名前の学校であり、弘治小学校だけがそうでないのを不思議に思ったからである。

朝役・神役の故事

 その結果、それは弘治小学校の地元である旧今宮村の歴史に深く関係しているということが判明した。旧今宮村には、永く村人が誇りとしている朝役・神役の故事があった。すなわち朝役とは朝廷に日々の魚を奉る役で、この起源は平安初期にまでさかのぼることができるという。天正の頃より戦乱のため中絶したが江戸時代に毎年の正月の行事として復活し、明治維新後まで行なわれていた。
 神役とは、毎年六月の祇園會に今宮村から人数百十六人が上洛し神輿駕輿丁を奉仕するものである。かかる奉仕に対し朝廷が課役免除の恩典を与えた。その年(一五五八年)の年号が弘治でそれを冠して、弘治小学校となったのである。しかし同校はもともと今宮第一尋常小学校という由緒ある名前がついていたのである。それを昭和十六年にわざわざ変えたということはやはり、当時の国策に影響されたものであったのではないか。

守られなかった恩恵

 ところが、朝廷の恩典はあくまでも紙の上でのことであり、実際は豊臣・徳川の世となっても、課役免除の実施は一向にされなかった。朝役は正月のみになったとはいえ、神役はひきつづきおこなわれており、そのために村は多大の費用を要したのである。

二百年目の勇気

 天明(一七八九年)の頃、当時の村長伊藤勝右衛門はこの恩典のまったく実施されていないのに憤慨し、代官を経由し幕府に約束を守るよう請願、大いに奔走したがその後病にたおれてしまった。すると今度は隠居していた父の宇内が代わってこのことにあたり、江戸幕府に直接取り調べもされたが、主張をまげずにあくまでも恩典の実施をせまった。その後寛政年間に至り、新代官篠山十兵衛の斡旋により要求の一部が容れられるようになった。寛政八年より村高弐千百五拾余石に対し納高八百六石と定まり、その後明治維新後まで変わりなくつづいた。かりにこれを五民五公として年々弐百七拾彦石六斗三升五合の租を免除されたことになり、これもひとえに伊藤勝右衛門、宇内親子の義侠によるところである。

庶民の歴史から学ぶ

 大正四年編纂された「西成郡史」には、伊藤親子のことが誇らしげにかいてあるのに、昭和四十年編纂の「西成区史」にはまったくふれられず、課役免除の恩典が続けられていたようなかきかたで歴史をゆがめている。こんな気骨のある先人のたたかいをなぜまっさつしようとするのか。行政の立場からおしきせの歴史を押しつけることはおことわりである。

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今昔西成百景(020)

◎木津川筋造船所

 「鬼の佐野安、地獄の名村、情け知らずの藤永田」と、今で云う三K(きつい・きたない・きけん)の典型であるような、木津川筋各造船所の職場の実態を、労働者達は永年そう呼んできた。
 昭和四三年刊行の「西成区史」によれば、佐野安船梁株式会社は、明治四四年浪速区木津川一丁目の地に佐野安造船所として佐野川谷安太郎の個人経営で創業。大正五年木津川三丁目に移転し、同ー二年西成区南津守にあった千本松船梁鉄工所を買収し翌年一月移転、昭和一五年六月現社名となった。敷地九三七六六平方米を有し、新船の建造並びに改造を行っている。従業員数一二三七人。
 西成区には属さないが隣接するものとしては株式会社藤永田造船所と株式会社名村造船所があり、藤永田は三六七〇〇〇平方米におよぶ工場敷地と、ニー九〇人の従業員をもち、元禄二年(一六八九)兵庫屋の屋号をもって大阪市北区船大工町の地に創業したという歴史をもつている。また名村造船は明治四五年三月大正区難波島の地に創業、現在は九二〇〇〇平方米の敷地とー〇〇〇余名の従業員をもっとある。
 特に佐野安と名村は共に強烈な個性をもつ創業者の個人経営にも等しい同族会社として、封建的な労使関係が戦後も温存されてきており「鬼」・「地獄」と云われていたのであろう。藤永田は戦時中は軍艦を造っており、海軍の秘密工場であった。

わが青春の日

 一九五五年四月、私は「地獄」の臨時工として働いていた。旨くいけば六ヶ月後には本工に成れる可能性もあり、それを楽しみに、毎日葦原の中に出来た工場の正門までの一直線の道を、自転車を飛ばしていた。昭和三〇年、戦後一〇年目にして巡ってきた造船ブ—ムであった。
 当時は大変な就職難で、私が堺商高を卒業するとき友人が福助足袋に入社したので、大変羨ましく感じたことを今でもよく覚えている。
 しかし、名村は矢張り「地獄」であった。まず驚いたことは、労働災害の多いことである。転落、爆発と毎週のように専属の病院へ運ばれていった。死亡事故も川筋では毎月のように発生し、みんな不安な気持ちで働いていたが、犠牲者のほとんどが臨時エ・社外工で、原因や対策等についてもいつもうやむやにされていた。会社の幹部が役員をしている名村の労働組合などはたまに朝礼で「黙祷」をやる位であった。
 名村では噂の通り、社長が毎日ステッキを持って工場内を見まわった。彼が少しでも労働者が怠けていると感じたら、容赦なくステッキが飛んだ。いくらヘルメットの上からだといっても痛いし、しかもお付きの部課長等の目前のことである。今ならこんな奴隸扱いは人権問題になるところである。雨になると必ず社長は動きはじめた。当時の造船所の仕事は殆ど野外でするので、雨がひどくなれば労働者も適当に雨宿りする。それを追い出しに社長は飛び出すのだ。部課長は現場に先回りをして、労働者を脅したりすかしたりして仕事につくよう指示する。それでも「そんな危険なことはさせられん」とうごかない本工もいたが、ほとんどは雨のなかを臨時エ・社外工を追い立てていった。

最初の職場でクビ切り

 その年のー〇月に、私は本工になれるどころか、契約期間の満了を通告され解雇されてしまった。私は名村に入る直前に地域で日本共産党に入党し八月には、広島で開催された第一回原水爆禁止世界大会に地域の代表として参加していた。その報告集会のポスタ—に小さく名前が出たのを、どうやら知られたらしい。
 年末を目前にして、私は友人の紹介で藤永田造船所内の桂組という下請けの会社に入り社外工となった。桂組では賃金の半分以上をピンハネし、その上残業や休日出勤の割り増しも無かった。社長の郷里から中卒の少年を数十人連れてきて、寮に住まわせこき使っていた。社長は自称右翼の大物で、相撲取りの様な大男であった。私と友人はこんな無権利な状態を無くすためには、社外工の組合を結成してたたかう以外にないと、少年達も巻き込んで慎重に準備を進めていった。ところがいよいよ旗揚げする前日になって、年配の準備委員の中より「事前に本工の組合に連絡しておき、まさかの時に援助してもらおう」との意見が出されてきた。私はそれでは会社に筒抜けになる、と反対したが、大勢は不安感からそうなってしまった。本工の組合では役員が私達からねほりはほり聞き出した。桂組の社長はその夜寮に乗り込み、少年達全員に準備会からの脱退を約束させ、始末書を取った。

労働組合づくりに失敗

 当日、私だけが離れた現場へ行かされ、昼休みに急いでハウスに帰ると、すでに社長が皆を集めて大演説中。今後は労基法どうりにするから、皆の待遇も良くなる。その代わり労組はつくるな。赤旗が立てば会社ごと藤永田からほりだされてしまう。「アメとムチ」の戦術で攻め、最後は「アカのオルグに騙されてはいけない」のデマ宣伝だった。
 最後に社長と対面した私に、「右翼の大物である俺をきりきり舞いさせたんだから君も満足だろう」と、ーケ月分の予告手当てを付けて解雇を宣言した。理由は名村での職歴が書いていなかったのは、履歴詐称だとのことであった。私は、労働者の要求がほぼ入れられたこと、仲間一人を残せたことで今後に希望をつないで、ひとまず退いた。
 私はその後約ーヶ月間、関電多奈川火カ発電所の建設現場に潜り込み、飯場生活をしながら電気溶接技術の特訓を受け、再び木津川筋に戻りそのまま佐野安船梁内の岩田工業に入社した。佐野安の労組は中立系で、名村や藤永田程の「御用」ではなかったが、それでも矢張り本工中心には変わりはなかった。
 その頃から党の「社外エ対策会議」に私も出席するようになり、下請けの場合は一社だけではかなりむつかしいということや、権利意識の大量宣伝や日常的な相談活動による、川筋規模での活動家の結集が必要だと討論された。木津川社外エ労働組合は数年後に結成された。

やさしかった現場労働者

 二三才で党の専従者になるまでのわずか数年間の経験で、私は木津川筋の造船労働者の中で多くのことをまなんだ。団結の素晴らしさとむつかしさ。都市と農村。大企業と中小企業。右翼や自民党・民社党・社会党の実態。御用組合の役割。そして何よりも、社外エ・臨時工という最も下積みな労働者の中で、最も献身的に活動しているのが日本共産党であり、私自身がその一員として頑張っているという実感。私の党活動の原点はやはりここにある。
 今、木津川筋造船所群のかつての姿はない。代わりに数百の中小企業からなる企業団地が出現している。しかも民主的な運動から実現したものであり、私も微カながら協力させてもらったことは誇りである。

今昔木津川物語(013)

西成・住之江歴史の海路シリーズ(三)

◎大和川

 大和川は巨大な運河うんがである。住吉区と住之江区の南を東西に流れ、大阪湾に注ぎ込む大和川は、元禄げんろく十七年(一七〇五)に旧大和川を氾濫はんらんから守るために、八カ月をついやして人工的につくりあげられた川である。
 大和川は水源を奈良県笠置かさぎ山地に発し、大和盆地の水を集めて西流、生駒山地を横切って大阪府に入り柏原市で石川と合流、ここから旧大和川は西北に流れ久宝寺きゅうほうじ川と玉串たまぐし川に分流し、玉串川はさらに菱江ひしえ川・吉田川に分かれ、吉田川は北流して深野、新開の二大池に通じ、さらに西に転じて久宝寺川とめぐりあい、大阪城の東で平野川の水を合わせて、淀川に流入していた。

水害で人々を苦しめた

 このように水系が複雑であったうえ、この河内の地域一帯はもともと土地が低く、流路りゅうろについても屈折くっせつが多く、水勢すいせい緩慢かんまんなため土砂が堆積たいせきしてだんだん河底が高くなり、これがために河内一帯に水害がしばしば起こって人々を苦しめた。
延暦えんりゃく七年(七八八)すでに当時摂津せっつ職太夫しきのかみであった和気清磨わけのきよまろは、いまの天王寺の河堀口こぼれぐちから茶臼山河底池にかけて川を掘り、大和川の水を直接西に切り落とそうとしたが、工事は成功をみなかった。いま河堀口とか堀越とか地名が残っているのはその名残である。

中甚兵衛らの熱意が実をむすぶ

 江戸時代に入っても水害は頻繁ひんぱんに起こり、元和げんわから元禄げんろくに至る六十余年間に十数回に及ぶ災害が数えられる。そこで今米村(元河内市,現東大阪市)の川中九兵衛は芝村(元枚岡市・現東大阪市)の乙川三郎兵衛と深く地形を研究して、柏原より西に流し直ちに海に入るよう、大和川付け替えの急務をとなえて幕府に訴えた。しかしこれには新川開鑿かいさくの地形にあたる諸村が大いに反対し、訴願そがん合戦が繰り広げられた。九兵衛死没後はその子大兵衛・甚兵衛らが父の志をついで四十年間、東奔西走とうほんせいそうこのことにあたった。大和川の付け替えに最終結論をあたえたのが二度の来阪をした河村瑞賢ずいけんで、当時瑞賢は八十才、元禄十二年江戸に帰って付け替えを見ず他界たかいしている。
 十三間堀川も元禄十一年(一六九八)河村端賢によって掘られており、当時も大型開発事業がめじろおしであったようだが、現代のようなせいざいかん癒着ゆちゃくによる汚職おしょく構造こうぞうはなかったのかどうか思いやられる。

なぞのスピード工事完成

 新大和川の工事は元禄十七年二月から開始され、長さ七千九百二十間(約十四・四キロ)幅百間(約百八十二メートル)の大規模なものであったが、延べ二百四十五万人を動員、七万両を投入して、付帯工事を含めて工期八カ月というスピードで同年十月完成。大和川の水はここに初めて住吉浦に通じた。普請奉行ふしんぶぎょうには目付大久保忠香や幕府への具申ぐしん貢献こうけんのあった大阪代官万年長十郎、それに姫路・三田さんだ・明石・丹波たんば・岸和田・大和高取たかとりの諸藩に助役が命じられた。
 二年前には赤穂浪士あこうろうしの討ち入りがあり、幕府は四十七士全員に切腹せっぷくという極刑きょっけいでのぞみ、「生類憐せいるいあわれみの令」を出し「犬公方いぬくぼう」と呼ばれていた綱吉つなよしへの不満に弾圧路線で反撃に出た。赤穂藩隣接りんせつの諸藩に助役を命じ、幕府への忠誠ちゅうせいきそわせ、あわせて藩の財政をおとろえさせたのではないか。
 工事は決して容易よういなものではなく、和気清磨の失敗例もあり、特に固い岩盤がんばんがつづく我孫子あびこ台地の浅香あさか丘陵きゅうりょう掘削くっさくが課題であったという。真っすぐ西へ掘らずに、斜めに西南へ掘り入り、斜めに西北へ掘り抜ける工法で掘削に成功した。今、杉本町から遠里小野町にかけて大きく湾曲わんきょくした川筋が、その工事の跡を示している。

大阪、堺両市の境界線となる

 かつてはあられ松原まで浅香山丘陵の大松林が延びていたが、新川の築堤ちくてい土砂用に丘が切りくずされ、この付近の地形は大幅に変わった。
 この付け替えによって分断された紀州街道に宝永元年(一七〇四)九月、長さ百間(約百八十二メ —トル)の大和橋がかけられた。
 一方、この川は大阪と堺の間を両断し、堺の北半分を社領としていた住吉大社と堺の関係を疎遠そえんにした。多くの町村が川の両岸に引き裂かれたが、その状態のまま明治になってこの川が大阪、堺両市の境界線と確定する。

編者注】
 大和川付け替えを契機として、木津川河口での新田開発や河内地方での木綿の生産など、日本の資本主義の成立にとって、「資本の本源的蓄積」の諸過程が進行していったことは、大変興味深く感じる。

今昔木津川物語(012)

西成・住之江の海路シリーズ(ニ)

◎「新田しんでん」と小作争議こさくそうぎ

 西成区の西部せいぶと住之江区の東部とうぶを南北にはしっている阪神高速道路の下は、三十年前までは十三間堀川という、ドブ川がながれていた。
 いや正確に云えばドブ川をめ立てて、大阪万博ばんぱくに間に合わせるために、突貫工事とっかんこうじ道路どうろをつくった、ということになるのだろう。だから年がら年中この区間くかんでは補修工事ほしゅうこうじを行っている。

十三間堀川づくりと津守新田づくりは同時出発どうじしゅっぱつ

 この十三間堀川は元禄げんろく十一年(一六九八)に、木津川の水を引き入れて用水ようすい作物さくもつはこぶために、地主達じぬしたちが金を出しあい今の粉浜こはままでつくられた。り出された土は津守新田づくりに使つかわれた。明治の初年頃までは両岸に松の並木なみき楊柳ようりゅうなどがあり水もきれいで、すこぶる風情ふぜいにとんだと云われ、住吉詣でのため道頓掘どうとんぼり川より水路すいろ楼船ろうせんを浮かべてくる人も多かったという。
幕末ばくまつには天誅組てんちゅうぎみ中山大納言なかやまだいなごん一行いっこうが、剣先船けんざきぶねにて十三間堀川を南加賀屋みなみかがや桜井さくらい会所かいしょまできて御用金をもうしつけ、翌日よくじつ船で大和川をのぼったとの話が残っている。

新田づくりは幕府の「ドル箱」

 十三間堀川から東の地域については江戸時代以前に開発されていて、本田ほんでんまたは古田こでんといわれるのに対し江戸時代以降いこう開発かいはつ新田しんでんと云われた。
 このような新田は、大和川・木津川・尻無しりなし川・安治あじ川等の河口かこう三角州さんかくす地帯ちたい反別たんべつ約二千余町歩よちょうぶ(六百万坪)地高じだかー万五千ごくたっ総称そうしょうして摂津川口せっつかわぐち新田と云われた。中でも元禄時代には市岡いちおか新田・泉尾いずお新田・春日出かすかで新田・津守つもり新田などの大新田が開発された。この期につづいて北島新田・加賀屋新田が生まれた。
 江戸時代中期以後その商業資本しほんいちじるしく蓄積ちくせきした町人達ちょうにんたちが、地代ちだいによる長期ちょうき利益りえきを目的として新田づくりに力を入れだした。これらの土地はいずれも幕府の直轄地ちょっかつちであったので、他の土地のように庄屋しょうや年寄としより百姓代ひゃくしょうだいというような三役はなく、庄屋事務は地主の任命にんめいする新田支配人がこれを行い、その事務所を会所かいしょといい新田地主はあたかも領主のような権力を有した。

地主じぬし殿様とのさま

 「津守新田地主白山しらやま氏の支配所を村民そんみん代官だいかん役所やくしょとなえ、あるいは小作人こさくにんは決して門構もんがまえの家作かさくはせず、また白山氏が代々だいだいぜん』のを用いたところから新田の住民は決してこの字を用いず、他所たしょより移住いじゅうしたものに善の字あれば必ず改名かいめいした。また加賀屋かがや新田でも桜井氏の門前もんぜんの道路をとおる時、高下駄たかげたをはいておればその音が桜井氏の奥座敷おくざしきに聞こえ安眠あんみんさまたげるというので、門前の道はわざわざ下駄をぬいではだしで通つた」という、古老ころうの話が伝えられていたくらいである。

温情関係おんじょうかんけいやぶって土地分割とちぶんかつ要求ようきゅう

 しかし一方、元来がんらい新田については地主は堤防のみを築き、後の土地改良とちかいりょう施設しせつは小作人が行うものであった。そのため新田開発者かいはつしゃ所有権者しょゆうけんしゃとなり、労務提供者ろうむていきょうしゃ永小作人えいこさくしゃなる形式けいしきのもとに時代をるにつれて小作人の勢力せいりょくが強まってきた。ことに市域しいきの拡大と農地のうちの転用、地価ちか暴騰ぼうとうなどをめぐって地主と小作人の利害ははげしく対立たいりつすることとなつた。
 「大正十四年に東成郡ひがしなりぐん敷津村しきつむら(現住之江区)に永住する小作人約二百人は、地主に対し土地の分割を要求ようきゅうし、約一年にわたって時に険悪けんあく雲行くもゆきを見せて争った。小作人がわはいくたびか大挙たいきょして地主の桜井家(旧加賀屋家)へ押し寄せ、直談判じかだんばんに及んだ。桜井家は『この地は祖先そせん開発のもので小作人等の要求には応じかねる。しかし永小作権を金で買取ろう』と返答へんとうしたが、小作人等も『我々その祖先も同じく血と汗あせとで開発した土地を、いくら昔は主従関係しゅじゅうかんけいとはいえ、金銭きんせんで買取られるなど祖先の位牌いはいに対して申し訳ない。ぜひ土地そのものを要求する』と出た」と当時の新聞は報じている。