今昔木津川物語(045)

◎安治川と河村瑞賢

 むかし「水の都大阪」は同時に「洪水の都」でもあった。
 木津川・桂川・大和川を合わせて大阪湾に注ぐ旧淀川は、流出する土砂に湾口は浅くなり、一旦洪水に襲われたら、人家は流され、田畑は砂原と化し、その惨状は目をおおうばかりであった。
延宝二年(一六七四)六月の水害は
 「この時溺死するもの幾万人とも数知れず未曾有《みぞう》也」と「摂陽奇観」にある程、大阪に被害をもたらした。時の将軍綱吉は天保三年(一六八三)二月、若年寄稲葉石見守正休に命じて現地を視察させたが、そのとき下役として河村瑞賢が同行し、河口の開さくによる治水を提案したので、幕府は瑞賢に一切をまかせることにした。

波瀾万丈の人生

 瑞賢は元和四年(一六一八)に伊勢に生まれ貧困の中に育ち、十三才で江戸へ働きに行った。品川の海にうら盆で使つた瓜やナスが捨てられていたので、古おけに塩潰けとして工事場の弁当の菜に売
りあるき、そのうちに工事現場の人足を集める仕事にありついた。明暦のふりそで火事ととなえられた大火では、木曽の材木を資本も乏しいのに買い占め、大儲けをした。当時の史家・新井白石が「天下にならびし富商」と書き残しているぐらいだから、荒稼ぎは事実であろう。
 その後幕府の御用商人となり、四十四オで江戸の両国橋を架橋。多額の運動資金を使って五十四オで旗本に取り立てられ、以後は世のためにと治水工事に乗り出した変わり種。

島の真ん中に川をつくる

 瑞賢がまづ第一に着手したのが、安治川の開さくてあった。それは九条島をたち割って淀川の水を、西南へ直線に引き大阪湾へ流出させる大工事であった。
 貞享元年(一六ハ四)二月十一日起工、四年余を費やし貞亨四年竣工を見た。
 しかし、大和川の開さくがその十数年後にわずか工期八ケ月とい、つスピ—ドで完成しており、安治川に四年は掛かりすぎではないかということから、実は二十日間の突貫工事で完成したとの伝説まで残っている。

瑞賢のダイナミックな工事

 九条島は低湿の砂地であるから少し土を掘ると水が湧き出る。瑞賢はその中央に幅五丈程の深い溝を掘って湧き出る水を集め、その両端に水車を設けて汲み出した。そしておよそ干上がった川底の泥上に板をしいて人夫が働きやすくしたうえで、一気に川を掘りあげたという。使った板数万枚、水車数百機、滑り止めのはしごー万本と語られている。

大阪の洪水対策に半生を

 瑞賢は安治川の開策の他に、曽根崎川・神崎川・中津川の改修などを行い、大和川の付け替えに現地で最終結論を与えたあと、江戸に帰り、元禄十二年(一六九九)六月八十ニオで他界している。この新川に、元禄十一年四月幕府は「安けく治むる」の意味を込めて安治川の名を付けた。
 安治川開さくのあとは、諸国の船舶は、直接大阪湾から安治川をさかのぼって市中の諸川に入ることができ、出船千艘、入船千艘の賑わいをきたい「天下の貨七分は浪華にあり、浪華の貨七分は船中にあり」と書かれた。
 大正四年八月西区国津橋跡の空地に紀功碑が建てられた。この碑石は安治川浚渫の際河底から引き上げた巨石で、大阪城築城のため西国より輸送した石材で当時誤って落としたものであろうといわれている。
 過日、大阪の恩人に敬意を表すべく碑を訪ねたところ、立派な碑が何十台というぼろぼろの放置自動車に取り巻かれ、さびしそうに立っているのをみて心が痛んだ。しかし安治川は異常気象で早咲きの桜の花を川面に映して、ゆっくりと流れていた。

今昔木津川物語(044)

◎川は流れて

 西区は、淀川によって沖積された大阪平野の西部に位置する。面積は五・二〇平方キロメートル。区の東北側を土佐堀川が西流し、堂島川と合流して安治川となり、またこの合流地点から、区の中央を木津川が南北に流れている。川の交差点であり、こんな大河の場合はめずらしい。

近代歴史の開花処

 「西区は、近世には諸藩の物資集散地として『天下の台所』大阪の経済的基盤を支えると共に、多くの文化人を輩出した由緒ある地であり、近代には外国人居留地を通じて新文明流入の門戸となり、造船を中心とした鉄工業の繁栄をもたらし、 わが国工業の発祥の地でもあった」と区長は「西区の史跡」に書いている。西区の史跡は約六十もあり他区と比べても多い。
 しかし、残念ながら、西区は五十六年前の大阪大空襲でほとんどの所が焼け野が原となり、今残っているのは石の碑ということが多い。

変わらない川の流れ

 その中で、唯一変わらないものは、やはり川の流れであろうか。端建蔵橋に立つて中之島の方を見れば、高層ビルを押し退けるようにして、土佐堀川と堂島川が左右から迫ってきて、緊迫感があって面白い。明治の青年たちもここで何かを感じて、激動の歴史の中を自分で歩いて行ったのではないか。
 振り返って、安治川のはるか河口のあたりを見渡せば、西日に映えてなつかしい町工場や商店、二階建ての家並みもあちこちに残っていて心が癒される。

大河の交差点

 土佐堀川と堂島川がここで合流し、安治川と木津川に、そして尻無川がまた分かれていく。いずれも満々と水をたたえている。
 「水の都大阪」という実感が文句なしにする、 そしてこの絶大なエネルギーを誘導し無事に海に帰らせるために、昔から人々がいかに奮闘してきたかが思いやられる。
 西成・木津川百景めぐり西区の巻は、汐見橋線で終点汐見橋駅まで来て、大阪ド—厶前を通って松島公園で休憩して、あとは木津川と安治川に架かる木津川橋・昭和橋・端建蔵橋・船津橋・上船津橋・湊橋などの橋の渡り放題コースがユニークではないか。時期は春か新緑の頃。

西区での町名の由来
阿波座(あわざ)

 古くから阿波(徳島)の商人たちがこの地に住みついて座をつくり商いなどをしていたことに由来する説と、当地が阿波座(西村)太郎助の所領地であったことからだとする説の二説がある。

立売堀(いたちぽリ)
 大阪冬の陣の時に、伊達家がここに濠を掘り陣地としていたが、その跡を掘り進んで川としたことから始めは伊達堀(だてぼり・後に、いたちぼり)と呼んでいた。その後沿岸で材木の立売(たてうり)が許されたため字は立売堀と改められたが、これを今まで通り「いたちぼり」と読ませていた。

江之子島(えのこじま)

 古来、難波江の児島・難波江の小嶋などと呼ばれていたのを、のち難波の冠字を略したという説と、もと犬子島と呼ばれていた所が転じて江之子島となったという説がある。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 六

◎全国に数十社ある安倍晴明神社の本社

 晴明神社は京都市上京区堀川通一条上るにあり、御所にも近い。ここは平安中期の天文陰陽博士安倍晴明(九ニー〜ー〇〇五年)の屋敷址であり、活動の拠点でもあった。
 神社の説明にはこう記されている。
 「安倍晴明公は、朱雀帝から村上、冷泉、円融、花山、ー条の六代の天皇に側近として仕え数々の功績をあげ、そして村上帝に仕えた時は、進んで唐へ渡り、はるか城刑山にて迫道仙人の神伝を受け継ぎ、帰国した後、これを元に日本独自の陰陽道を確立、朝廷の政治、日本人のさまざまな生活の規範を決めた」
 尚、陰陽師とは陰陽五行説に従って吉凶禍福を占い、呪術を施す陰陽寮が置かれ加茂・安倍両氏の支配下にあった。
 次郎と友子は伝説で知っている「一条戻り橋」を渡って、神社の鳥居をくぐった。
 次郎が語る。
 「菅原道真が左遷された太宰府で亡くなったのが九〇三年で、その祟りで京都が揺れに揺れ、緊急対策として道真をなぐさめるための、北野天満宮がつくられたのが九四六年。こんな大変な時代に晴明は六代の天皇に側近として仕え、留学もして、八十五歳で天寿を全うした後も、即座に屋敷址を晴明神社にして、今日まで祭り継がれているということは本当にびっくりであり、奇跡的ではないか」
 次郎の問いに、友子はこう返す。
 「大阪市阿倍野区にも一安倍晴明神社』があり、いつも若い女性らで賑わっているわ」
次郎が頷き、話を続ける。
 「日本列島は地球のプレートが物凄い力でぶつかりあいできた皺のようなものだから、大陸とは違い、山は険しく高く谷は深い。森が多く川は曲がりくねり、入江・湖・池・沼。四方を海に囲まれている。火山・地宸・津波,台風など災害も多い。こんな外国にはない特別な自然環境が、独特な文化を生み出しているのは当然だと思う。晴明が日本型陰陽道をあみだしたのも、それなりの必然性があったからなのだろう」
 今でも陰陽氏はいるのかなあ」と友子。
 「戦国時代には、軍師と共に陰陽師が必ず作戦本部にいたという。家康も重宝したらしいよ。 今は占い師になっているのではないか。そういえば、帝塚山の占い師の邸宅の前に、運転手付きの高級自家用車がよく止まっているが、相談の人らしいよ」
 「判断に迷うときもあるものね…その後お兄さんの調子はどうなの?」
 友子は思い出したように話を変えた。
 「認知症の兄は最近『夜間不穏症』が出てきている」
 「性格が変わったり、暴言を吐いたりするのね。私の両親もそうだった」
 「最初はショツクだったけど『次郎式陰陽道』でかわしてるよ」
 「そのこころは」と友子はつっこむ。
 「ぬらりくらり」と次郎。
 友子は無言のまま、バイバイと手を振った。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」未収載

編者より】
 本編を含む、「次郎と友子のびっくり史跡巡り日記」「南大阪歴史往来」(2024年11月新刊)を、希望者に進呈します。(残部僅少です。)送料は、自己負担でお願いします。ご希望の方は、mitsu@nishinari.or.jp (@を@に変えること)まで送付先など明記の上、ご連絡ください。

今昔木津川物語(042)

◎茶臼山 (大王寺区茶臼山町)

 和気清麻呂(七三三—七九九)とは、奈良時代に朝廷に仕えていた高級官僚の一人で、称徳女帝にとり立てられた僧弓削道鏡が、宇佐八幡の神職と結んで皇位を得ようとしたときに、称徳一道鏡らは自派と思っていた清麻呂を勅使として宇佐八幡へ行かせ、自分等に都合の良い神託を受けさせようとした。ところが清麻呂は期待を裏切ってこれを阻止。そのため道鏡らの怒りをかい、大隅に流されたが、称徳女帝死後道鏡は即失脚。清麻呂は召還され、光仁・桓武天皇に仕え、平安遷都に尽力し、晩年は幸運であった。ということぐらいしか知らなかったが、実は天王寺と係わりのある人物でもあったのである。

清麻呂知事に

 当時、大阪平野や京都・奈良盆地に大雨が降ると、大和川・淀川の下流地域が絶えず洪水に見舞われ、そのつど大きな被害を出していた。
 このような惨状を実際に目にしていた清麻呂は、延暦二年三月に摂津太夫に任命されたので、さっそく治水対策に乗り出した。

失敗したが今も地名に残る

 従来の治水工事である、決壊した堤防の再修策ではなしに、清麻呂の方法は上町台地を掘り開いて、台地東側の滞水を大阪湾に直接排出しようとする、根本的な解決策であった。時の政府も、延べニ十三万人の労力投入を行なった。しかし工事は未完成に終わった。
 砂堆を掘った難波堀江とは違い、上町台地の堅い洪植層の丘陵を開削するのとでは、技術と代用で霎泥の相違があった。清麻呂の思いは、それから約九百年後の大和川付け替え工事の完成によって、ようやく実現されたのである。
 しかし、和気(わけの)清麻呂の事業は今も「河堀口 (こぼれぐち)・堀越」という地名として残っている。

茶臼山は古墳か

 最近、茶臼山の河底池は和気清麻呂の開創した掘り割で、今日の茶臼山はその際の掘り出された土で築き上げられたものであろうという、茶臼山古墳説を否定する意見が出されてきている。
 茶臼山の名前はもちろん後世の俗名で、もとの名は荒陵(あらはか)山。
 荒陵の名が初めて文献に出るのは、四天王寺創建に関する記録で、四天王寺も一名荒陵寺とも称されるのである。
 かって広大な古墳の存在した地に四天王寺が建立されたのであって、「荒陵」は茶臼山ではなく、現在の四天王寺の地が「荒陵」であることがだんだんに明らかにされている、というのである。四天王寺本坊の境内には、立派な長持型石棺の蓋が保存されている。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第50回

◎西本願寺、東本願寺

 京都駅に近づくと、東西二つの本願寺の豪壮な甍《いらか》が目にとまる。どうして東西二つの本願寺が並んで建てられたのだろう。
 市に<ママ 京都市の?>本願寺は、浄土真宗の開祖親鸞の子、覚信尼が文永九年(ーニ七二)に東大谷にその廟を祀ったところがはじまりだが、織田信長にとって、一向一揆などで実力のほどを示した本願寺門徒は目の上のたんこぶ。大阪石山の本願寺にたてこもる門徒を攻画<ママ 攻略?>したが、なかなか落ちず、天正八年(一五八〇)に正親町天皇の勅裁によって時の法王、顕如とやっと和解した。ところがその長男、教如はこえ<ママ これ?>に同意せず、そこで顕如上人は義絶した。
 本能寺の変によって、天下は秀吉のものとなった。天正十九年(一五九一)に顕如が秀吉に請願し、京都七条堀川に十万余坪の土地の寄進をうけて建ったのが西本願寺である。
 顕如の子、教如が父から義絶されて以来不遇をかこち、自ら隠退していたが、慶長五年(一六〇〇)に関ヶ原の合戦で豊臣方が敗退し徳川家康の天下になると、大津に家康を迎えその苦衰を訴えたので、後陽成天皇の勅裁を得て慶長七年に京都烏丸に土地を寄進され、ここに東本願寺を建てた。
 「それぞれお家の事情があったのね」と友子。
 「家康の本願寺派の勢力分断策もあったと言われている」と次郎。

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2020年7月号
(新刊本未収載)

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 二

◎小町伝説は「いじめ」伝説

 次郎はJR京都駅ゼロ番ホームの待合室で、大阪から来る友子を待っていた。大阪駅と同じように、ホームにある規模の大きな待合室は京都駅でも、金沢行きのサンダーバードが発着するこのホームにあるだけだ。
 紫色のコートがよく似合う友子の姿が見えたので、次郎は待合室を出た。
 「友ちゃんはいつ見てもかわいいね」
 「そんなこと言ってくれるのは次郎ちゃんだけや」
 あいもかわらぬ挨拶を交わし合い、二人は改札を出て地下鉄に乗るための階段を下りていった。途中、烏丸御池駅で 東西線に乗り換えて、九つ目の小野駅で下車した。
 そう。今日二人が下見に行くお寺は、世界三大美人のひとり、小野小町ゆかりの随心院である。駅から歩いて約十五分、中規模のお寺だが、梅園や裏の林を巧みに取り入れてゆっくりとした作りになっている。
 二人はお寺の中にある説明書きに目を向ける。
 由緒には、「当山は、真言宗善通寺派の大本山にして、弘法大師御入定後、百二十一年、弘法大師より八代目の弟子にあたる、仁海僧正の開基にして、一条天皇の正歴二年(九九一 年)に奉請してこの地を賜り一寺を建立されました」とある。
 小野小町との関係については、こう記されていた。
 「古来、小野と呼ばれていたこの地は、小野氏の栄えたところであり、小野寺と称する小野一族の氏寺の遺蹟が近年発見されました。小町は小野たかむらの孫にあたり、書家の小野道風は小町の従兄にあたる人です。小町の生涯は判然とはしませんが、弘仁六年(八一五年)頃生まれ、平安朝初期、仁明天皇が東宮であられた時より崩御されるまでお側に仕え、特に盛艶優美、詠歌の妙を得た小町は東宮の寵幸を一身に受け、仁明天皇が御年四十一歳にで崩御された後、小町も 宮仕えをやめて、小野の里に引きこもり晩年の余生を送ったと伝えられています。また、この地に語り伝えられる最も有名なものは深草少将、百夜通い(ももよがよい)の話です。小町を慕って小野の里に、雨の夜も雪の夜も通いつづけたが九十九日目の夜、降る雪と発病により最後のひと夜を前に世を去った深草少将の伝説です。後世六歌仙の第一人者と評され、小倉百人一首の『花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに』はあまりにも有名です。七十歳を越して亡くなったと伝えられています」
 説明に目を通した後、友子は口を開いた。
 「当時の貴公子から小町に寄せられた千束の文を埋めた文塚や、文を下張りにして作った文張り地蔵尊や小町が朝夕この水で粧をこらしたといわれる化粧の井戸は残っているけど、小町の墓はこのお寺にはないのね」
 「随心院の拝観コースの最後に大きな日本地図が掲げられ、東北から九州にかけてなんと二百七十力所ものところに 小町の墓や供養塔があるという。これは本当にびっくりや」
 「一体どういうことなの」
 「小町は死後千年も経ってから、激しい誹謗と中傷の嵐にさらされるのだ」
 「……」
 「小野小町の事跡としては、史実的には古今和歌集(九百十年前後)にある十八首の歌だけなのに、江戸時代の半ばに出版された『小町草紙』には、彼女の出自をはじめとして多情・ 好色・騒慢、その結果零落して全国を放浪し、最後はのたれ死んだという作り話が満載された。そして、小町はついに謎に包まれた女性に成り果てたのだよ。その後も小町伝説は謡曲や仏教の説話にも使われて、無残なまでに貶められていく」
 「それと、地域の客寄せのために勝手に墓を増やしていったのね」
 「いじめの古典版だが、その背後には歴史の思惑と恐ろしい権力を実感するな」
 「それはそうと私は次郎ちゃんから一通の文も貰ってないのだけど」
 「……」

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」未収載。

編者注】
 2024年11月、がもう健の郷土史エッセー集の新刊が出版されました。今後、新刊本収載の項目に関しては。底本は、新刊本とし、未収載の項目は、従来通りとします。旧稿は、本文、挿絵ともに、順次修正してゆきます。
 本文、挿絵とも、二次利用はご遠慮ください。

今昔木津川物語(040)

◎生国魂《いくたま》神社(天王寺区生玉町)

 生国魂神社々伝によれば「第一代|神武《じんむ》天皇御東征に際し、上町台地の北端である『難波之𥔎《なにわのさき》』に大八州の神霊として生国魂大神を鎮祭された」となっている。

元は石山本願寺の隣りに

 明応《めいおう》五年(一四九六)、蓮如《れんにょ》上人が「石山本願寺」を、生国魂神社の隣接地に建立する。「石山御坊」とも称した石山本願寺は、やがて本願寺教団の拠点となり、織田信長との「石山合戦」を十年近く行なうが、天正八年(一五八〇) 信長の攻略に屈し、要塞堅固・荘厳《そうごん》美麗《びれい》とうたわれた本願寺は灰燼《は<ママ か?>いじん》に帰した。
 信長亡き後、豊臣秀吉は石山本願寺の跡に難攻不落《なんこうふらく》の大阪城を築く。天正《てんしょう》十ー年より築城に入るが、 まず城域内に含まれる生国魂神社を現在地に移し、社領三百石を寄進して社殿を造り替えた。天正十三年九月九日に遷座《せんざ》奉祝祭が行われ、以後九月九日は生国魂神社の例祭日となった。
 その後、社殿は元和六年(一六一五)の兵火、明治四十五年の「南地の大火」昭和二十年三月の戦火と再三罹災に会うがそのつど復興してきている。

異様な感じの「生国魂造」

 生国魂神社の本殿は「生国魂造」と称する。他に例を見ない建築様式であり、現在の本殿も、往時の規模を踏襲《とうしゅう》して建てられたものである。すなわち、五間四面棟高六十尺の本殿と七間四面の幣殿の屋根は一つの流造で葺きおろし、正面の屋根に千鳥破風・すがり唐破風・さらに千鳥破風の三破風を据えたもので、天正年間の豪壮な桃山文化の遺構を伝えたものとされている。
 私は先日、つくづくとその本殿を見上げて「出雲大社と感じが似ている」と思わずつぶやいたのだが、住吉大社や他の氏神さんとも違う、むしろ異様な建物を見たというふうであった。
 高さを誇っているようでもあるが、何か近寄りがたい。権威ではなく不思議な恐れさえ感じられたのである。

「大物主」とオオクニヌシ

 その理由は、祭神について調べることで判明した。
 生国魂神社の祭神は、生島・出島神二座を主神とするが、相殿神として「大物主神」を祀っているのである。
 生島神、足島神とは「大八州の霊」であり、日本列島全体の国魂ということになる。国魂とは、古代人がそれぞれの地域に存在したとみなした神霊のことである。
 一方、それに対して、「大物主神」とは、大和三輪に祀られている神だが、いまの神道では出雲のオオクニヌシと同一人物とさている。なぜ出雲の神を大和で祀らなければならないか、という疑問に対して梅原猛氏は、もともと大和三輪の先住民であった大物主が、大和朝廷に敗北して「国譲り」をしたあと、出雲に流され祀られるようになったと述べている。大和朝廷は大物主の怨霊によるタタリを恐れて「大きな神殿(出雲大社)を建て丁重に祀った」ということになるのではないだろうか。
 生国魂神社にもし最初から「大物主神」が祀られていたとすれば、同神社建立の目的は、大物主の怨霊の大和への帰国阻止にあったと思われる。

小泉首相の靖国神社参拝

 時の権力者が、ライバルを無実の罪に陥れ、そのタタリを恐れて神社・仏閣を建立した例は、日本の歴史では結構多い。天満宮しかり、奈良の大仏もそう云われている。そしてその効果はほとんどなかったというのも、歴史の回答である。
 小泉首相の靖国神社公式参拝も結局は、東条英機などのA級戦犯への参拝であったという歴史の回答は、もうすでに出されている。

今昔木津川物語(039)

◎四天王寺 (天王寺区四天王寺一)

 四天王寺は推古天皇元年(五九三)現在の地に聖徳太子の発願により建立された。
 用明《ようめい》天皇の後継者争いで蘇我馬子《そがのうまこ》厩戸皇子(後世になって聖徳太子と呼ばれる)らが、物部守屋を滅ぼした戦いの際、厩戸皇子は楓の樹を切り取り、四天王の像を作り、頂髪にそれを置き「今もし我をして勝たしめるならば、寺塔を建てよう」と誓願し、馬子も誓い、諸兵を督励《とくれい》し攻めて勝利した。その時の約束を果たしたもの、と寺の縁起で書いているが、今では疑問視されている。
 しかし、守屋滅亡の経過や戦いの場所、守屋の財産投入によって四天王寺が建立された事実からみて、全てが作り話とは云えない。

再三の災害、室戸台風、空襲

 四天王寺式といわれるその伽藍《がらん》は、塔婆が前面に、金堂がその背後にあり、法隆寺の塔婆と金堂が左右に並列するのと違っている。
 創建当時の四天王寺は、敬田院・悲田院・施薬院・療病院からなっていたが、再三の火災をうけ、そのたびに主要伽藍が焼けた。
 享和元年(一ハ〇ー)の雷火による災害のあと、大阪の淡路屋太郎兵衛の発願で喜捨が集められ、文化九年 (一ハーニ)再興供養が営まれ、その時の姿で近代に入ったが、昭和九年(ー九三四)室戸台風で塔と中門が倒れ、二〇年三月の空襲で伽藍の主要部分を焼失した。

夕陽ヶ丘で「日想感」信仰

 平安末期から鎌倉時代にかけてのあいつぐ戦乱は、人々に現世否定、浄土への再生・憧憬となって現れた。阿弥陀や浄土の姿を思い浮かべることによって、浄土に再生することができると説く浄土教では、それには一六種の方法があり、その第一は日想観であるとした。
 太陽が西に沈むのを見て極楽を思うわけで、当時、上町台地の西端はそそり立つ崖の上になっていて、各地で「タ陽ヵ丘」と呼ばれていた程で、その上に立ち大阪湾を一望すれば、はるか西海に沈む落日の荘厳さは、見るものに現世の苦しみを逃れて、西方浄土に生きたい気持ちをかりたてるものがあった。

救いを求めて庶民が病者が

 そして彼岸の中日には、四天王寺の西門は極楽の東門に向かっていると信じられ、四天王寺が浄土信仰の霊地となっていった。
 四天王寺の特徴は、救いを求めて集まってくる人々の大部分が、あいつぐ戦乱や苛酷な収奪からはじき出された、庶民であり病者たちであった。
 四天王寺の近くに、一心寺・大仏念寺・長宝寺などがあるのは、この地域が当時の浄土信仰の拠点であったことを示している。

小泉支持は切実な要求付き

 さて、目を現代に転じたら、マスコミの調査によれば小泉内閣は、異常な位の高い支持率だという。調査の仕方や、マスコミの世論誘導的な報道の仕方にも大いに問題があると思うが、私は小泉首相はとんでもないくわせものだと指摘したい。なぜなら彼は、「自民党を変えて日本を変える」と公約して首相になった。人々は「これが一番てっとり早い」と考えて支持したのであって、決して白紙委任したわけではない。むしろ「景気回復・リストラ反対・将来不安の解消」という切実な要求付きの支持なのである。そしてこれらは必然的に自民党的政治のやり方を抜本的に変えなければ実現できないものばかりなのだ。

自民党的政治を変えないと

 ところが小泉首相は「自分が当選したことは自民党が変わったということなんだ」と詭弁を弄し、公約に早速違反し、KSD汚職や機密費問題については追及しないという態度である。
 そして「日本を変える」として持ち出してきたものは、元々古い自民党がやりたくても国民の批判を恐れ出せなかった最悪のシナリオ。
 すなわち、中小企業ーー〇万〜三〇万社を倒産させ失業者を三百万人も増加させる。福祉・医療の更なる改悪。新たに高齢者から老人保険料の料金を取る、健保本人を三割負担にする。消費税の大幅引き上げ。憲法を改悪しアメリカの手先としての海外派兵。首相公選で独裁的な権カ確保。
 これでは自民党は少しも変わっていない。政・官・財の癒着も反省もなく続けられていくし、小泉内閣の高支持率のかげで自民党の高笑いが聞こえてくるではないか。

公約違反に国民の総反撃を

 いま、夕陽ヵ丘から見下ろしても、都会の喧騒とゼネコン・大銀行をボロもうけさせるだけに終わった、府、市立の「赤字発生巨大ビル」の林立をまのあたりにするのみ。荘厳な気持ちになるどころか、自・公・民オ—ル与党の悪政を思い起こし、怒りがこみあげてくる。
 今やらねばならないことは、あきらめや逃避ではなく、たたかいに立ち上がること。そして四天王寺にこめられた、これまでの何億という人々の願いを実現することこそが、本当の意味での「浄土への再生」ではないであろうか。

今昔木津川物語(038)

◎天王寺の坂 (夭王寺区夕陽丘町)

 「現代西成百景・今昔木津川物語」を書き始めて早や八年、今月で七十九号になった。
 郷土史を庶民の立場から見直すことによって、昔の人の伝えたかった本当のことを知りたいという思いからであったが、結果的には住む街に新たな愛着が生まれることにもなり、 思わぬ人から感謝されたりしている。
 最初は西成での百景を考えていたが、すぐそれでは視野がせまくなるということに気が付いた。西成区は阿倍野、住吉、住之江、大正、浪速、天王寺というそれぞれ特色のある六つもの行政区にかこまれためずらしい区なのである。その特徴を生かさない手はないとこれらの地域を貫く「木津川」にご登場を願ったわけである。
 「西成・阿倍野歴史の回廊」「西成・住吉歴史の街道」「西成・住之江歴史の海路」「西成・大正歴史の掛け橋」「西成・浪速歴史の界隈」と、下手なごろ合わせみたいなものを続けてくると、最後はやはり「西成・天王寺歴史の階段」ということになるか。

「坂めぐり」は名所めぐり

 事実、天王寺には有名な坂(階段)が数多く存在している。その紹介を昭和三十年(ー九五五)に発行の「天王寺区史」からすると「真言坂。この坂だけは高津表門筋から電株道を横切って生玉北門に達する坂で、坂の両側に真言宗の十坊があったところからかく名付けられる。市電下寺町停留所から生国瑰神社へ上る坂は生玉新道といわれる。源聖寺坂。下寺町の源聖寺南側から上り齢延寺と銀山寺の間に出る。その中腹に「こんにゃくの八兵衛』という祠があった。ハ兵衛とは狸で、買物をしてこの前を通ると、八兵衛さんにこんにゃくなどをとられるからかくいわれる。夕陽丘新道。これは第二次都市計画事業として昭和十二年(ー九三七)頃に新につけられたもの。
ロ縄坂。
摂津名所図絵大成には『坂の名義詳ならず。道の曲がれるによりて名づくるなるべし』とある。摂陽群談では蛇坂と書く。愛染坂。一名|勝鬘《しょうまん》坂といわれる。遊行寺南側より上り勝鬘院門前に至るところからこの名がある。その他に新清水に登る清水坂。安居天神へ詣る天神坂。合邦《がっぽう》が辻で有名な逢坂(電車道)などがある」
 昭和五五年(ー九八〇)七月一日ロ縄坂の上に織田作之助の文学碑ができた。
 小説「夫婦善哉《みょうとぜんざい》」で一躍世に出た織田作之助は、 ユニ—クな発想と主人公らが大阪弁を使いこなす小説を次々に発表し受けたが、 惜しくも三十四オで他界してしまった。
 天王寺区上汐町四丁目の通称河童(ガタロ) 横町で大正二年に生まれた織田作之助は旧制高津中学校に学んだが、毎日のようにこれらの坂を利用していたのだろう。

脇田さんと「織田作」とは

 しかし私は、「織田作」ときけばすぐに連想するのは、今も天下茶屋の「聖天さん」の近くに住んでおられる脇田澄子さんの、昭和六十年(ー九八五)に書かれたエッセー「織田作さんの後ろ姿」のことである。
 昭和十八年(ー九四三)の暮れ、脇田さん一家は天下茶屋から高野線の北野田に疎開し、お父さんが駅前で慣れない風呂屋をはじめたところ、近くの新しい借家に疎開して来た織田作さんが何回か入浴に来たとのことである。風呂屋といつても石炭の配給のあるときしかできず、営業は週ー、二回で結局は一年位で休業してしまったのだが。当時脇田さんは堺市の国民学校訓導(現在の小学校教論)になって一年目、夕方母と交代して番台に座っていたとき「着物姿の長髮長身の男がさっと番台の横をとおって行った。うつ向き加減の広い額に、はらりと垂れた前髪、やや異口の感じの考え深そうな目、而長の吉白い頰に刻まれた縦じわなどか、一瞬のことですのに、私の脳裏にやきつきました」と脇田さんは書いている。
 昭和十九年(一九四四)の八月の終わり頃、織田作さんが浴衣を裏返しに着て帰られたことがあったそうだ。「こんなとき妹なら、なんのためらいもなく「もしもし織田作さん、浴衣が裏返しになっていますよ』と声をかけたでしょうに、私にはそれが出来なかった」と脇田さんは悔やんでいる 同時に脇田さんは、その年の二月に、ニオ年下の文学好きで物おじしない妹を、あの時期に腹膜炎のこじれカらなくしてしまったことも 、深く悔いておられることが直接ふれていなくても心に伝わってくる作品だ。
 脇田さんがその後半世紀にわたって、教職にあるときも退いてからも、ひたむきに反戦平和と文学活動にたずさわってこられた原点がここにあるのではないかと私は思う。
 「天王寺の坂」の話から思わぬ方向に発展してしまったが、階段をゆっくりと昇って行くとき、人はさまざまなことを想い浮かべるものではないでろうか。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第14回、第15回


◎達磨《だるま》寺

 次郎と友子の「びっくり史跡巡り」は今日は法輪寺(達磨《だるま》寺)に来ている。由来は「この寺は洛陽円町、北野天満宮ゆかりの紙屋川畔にある。臨済宗《りんざいしゅう》妙心寺《みょうしんじ》派の名刹であり、通称『達磨寺』の名で親しまれている。享保十三年(一七一八)大愚《さいぐ》宗築禅師《そうちくぜんじ》を開山とし、荒木光品宗禎居士が開基となり、万海慈源和尚《ばんかいじげんおしょう》が創建したものである。創建には十年の歳月を要したといわれている。開基の荒木氏は両替商であり、武家の開基になる寺院の多い妙心寺派にあっては異色の禅刹《ぜんさつ》である」
 次郎が語る「キリスト教とイスラム教はもとをたどれば同じ宗教だ。キリスト教ではイエスがイスラム教では厶ハンマドが伝達者であり、その伝えの違いが別の宗教になったものだ。釈迦の仏教は『絶対神』を認めていない。したがって神の言葉はない。釈迦が語ったのは、自分で考え、自分で見いだした悟りの道なのだ」
 「それではお経は何なの」と友子がたずねる。
 次郎がつづける「お経は釈迦が弟子たちに語った、悟りのための手引書。しかし、これらがすべて釈迦の言葉ならいいのだが、実際には釈迦の死後、長い年月の中で多数の無名の著者が『釈迦の教え.!として、自分の思いを書き表わしてきた蓄積なのだ」
 友子「大乗仏教のことだね」
 次郎「釈迦の死後五百年たってインドに『われわれを助けてくれる不思議なカがあり、それが多くのものを一挙に救い上げるという神秘的な大乗仏教《だいじょうぶっきょう》がおこり、これが釈迦の仏教と同時に中国に入り、後に日本には大乗仏教が中心的に入ってきた」
 友子「そこで…」
 次郎「ここは私に云わせて。そこで人々は気に入った大乗経典《だいじょうきょうてん》を選び『これこそが本当の釈迦の仏教だ』と主張したのだ。その結果、日本に多数の宗派が生まれた。十三宗五十六派以上ある」
 友子「成立時期の古いものから上げれば奈良仏教と呼ばれる法相宗《ほっそうしゅう》、華厳宗《けごんしゅう》、律宗《りっしゅう》、平安時代に広まった天台宗《てんだいしゅう》と真言宗《しんごんしゅう》。浄土教の流れをくむ融通念仏宗《ゆうづうねんぶつしゅう》、浄土宗《じょうどしゅう》、浄土真宗《じょうどしんしゅう》、時宗《じしゅう》。禅宗《ぜんしゅう》の臨済宗《りいざいしゅう》、曹洞宗《そうどうしゅう》、黄漿宗《おうばくしゅう》、そして日蓮宗《にちれんしゅう》です」
 次郎「だるま寺の所属する臨済宗は『ただひたすら座禅を組むその行為が悟りである。』と禅宗は座禅を重視するのだが、参禅者たちが壁を背にして座っておれば臨済宗、各自壁に向かつて座っていれば曹洞宗だ。また禅問答は臨済宗だけだ」
 最後に、起上り達磨の由来を引用しておきます。
 「インドから中国へ禅を伝え、禅宗の初祖となった達磨大師は、今日、日本では『だるまさん』として親しまれています。達磨大師は西暦五二七年。インドから海路三年かかって中国に渡られ、面壁九年《》めんぺきくねん、手も足もなくなり、忍苦の修業をして禅宗の開祖となる。日本ではこの達磨を七転八起の起上り小法師に変えて、独特の発展をさせたのです」

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2017年5月、6月号掲載