がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 十八


◎ 十八、誓願寺に「西鶴の墓があった!」

 今日の二人の史跡巡りは、大阪市中央区上本町四丁目の誓願寺に来ている。
この寺に墓がある井原西鶴は、近松門左衛門や松尾芭蕉と並び、元禄時代に町人世界を写実的に表現し、明治以降の作者にも強い影響を与えた浮世草子作者である。また、俳諧師でもあった。
 西鶴の墓が世に知られたのも、西鶴に傾倒していだ明治時代の文人幸田露伴が、境内の無縁塔にまじっていたのを発見したことが端緒になっている。
 井原西鶴(寛永十九年・一六四一年)は大坂の富裕な町人であった。
 しかし、「僧にもならず世間を自由にくらし」と当時から云われていたように、単に楽隠居ではなく、町人社会からもある程度自由に生きて、愛欲と金の世界を描きだした。
 今日は友子から会話を始めた。
 「西鶴の最初の浮世草子『好色一代男』は、江戸で松尾芭蕉が『風雅』を求めて新しい動きを始めたことに対して、西鶴は『転合』精神で新しい世界を開いたのね」
 次郎はそれに答える。
 「一代男は『源氏物語』の滑稽化であり、好色の英雄・世之介を生み出した。世之介は九州から奥州まで遍歴して、地方の性風俗・売春風俗を誇張、滑稽化しながらもリアルに哀れにとらえている」
 友子も負けじとこう話した。
 「一方で、島原・新町・吉原という三都の遊里での恋を、実在の吉野太夫をモデルにして描きだしている。実説によれば、吉野は富商灰屋紹益に千三百両で身請けされ、寛永八年に退郭し灰屋紹益の妻となったけど、謙虚な人柄だったらしい。京都市北区の常照寺には吉野が寄進したと伝わる赤門があり、墓地に夫婦の墓があるのね」
 「西鶴はその後、『諸艶大鑑』『好色五人女』『本朝二十不孝』『好色一代女』、説話物として『西鶴諸国ばなし』『懐硯』、町人物として『日本永代蔵』『世間胸算用』がある」
 「西鶴の方法には、記録映画の手法に近いものがあり、小道具を拡大して貧民街の生活を浮かび上がらせるなどリアルさがある。矛盾に満ちた現実を、悲喜劇的にたくましく生きていく庶民のエネルギーが支えになっているのね」
元禄六年(一六九三年)、西鶴は五十二歳でその生涯を閉じたが、その年の冬、門人が遺稿集「西鶴置土産」を出版している。
 辞世の句は「浮世の月見過ごしにけり末二年」、最後の病床で西鶴は、この置土産を書いていたのであろう。

 帰り道、次郎はお決まりの近況報告を行った。
 「私は、最近『認知症の人のつらい気持ちがわかる本』を熟読しているよ。理解すれば寄り添い方と介護のコツが見えてくる、と書かれているが、納得だね」
 友子は明るい表情で「次郎ちゃんは何でも積極的に取り組むからえらい!感心するよ」と優しく手を叩いた。
 「なんで俺が…と、被害者意識だけでは心身共にもたないから、自衛の策だよ。友ちやんと史跡巡りでストレス解消も出来るし、本当に感謝しているよ」
「私の方こそ、ありがとう。今まで知らなかったことが、毎回のように理解できてびっくりの連続。これからもよろしくね」
「こちらこそ、ではまたね」
 次郎は頭を軽く下げ、電車の改札へと向かった。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 十五

◎十五、江戸の世界に誘う草津宿本陣

 今回の場所は次郎が今、認知症の兄の介護で住み着いている草津にある「草津宿本陣」。
 友子に「歩いてきたの?」とひやかされた次郎は「いや、草津線を一駅だけ乗ってきた」と答えた。
 さっそく友子を我草津駅から歩いて十分の本陣へ案内した。
 説明書にはこう記されている。
 「江戸時代街道沿いに、大名・公家・幕府役人などの宿泊旅館である本陣を中心にさまざまな施設が集まっていた。草津宿も東海道と中山道が合流する交通の要所。本陣ニ軒・脇本陣ニ軒・旅籠七十軒余りを構え、多くの旅人で賑わっていた。本陣屋敷は建坪四百六十八坪を有し、桟瓦葺き平屋妻入りの建物からなる。表門をくぐると左手には番所が置かれ、中央に式台を持った玄関、その先には長い畳廊下が延びている。そして畳廊下の両側に従者、最も奥に主客の休泊する部屋及び主客専用の湯殿や上段雪隠を配している。屋敷裏手には、厩、土蔵、避難用門があり、屋敷の周囲にめぐらされた高塀や堀などが広大な敷地を護っている」
 二人は案内書の示すようし時間をかけて見て回った。本当に江戸の世界に入っていくような気がして、次郎はおもしろさを感じていた。
 「こんなふうにほぼ昔のままで残っているのは全国でもあまり例がない。江戸時代の参勤交代には本陣は無くてはならないものだった」
 友子は「参勤交代って正確にはどういうことなの?」と次郎に聞いた。
 「江戸時代の大名の数は二百七十位。関ヶ原の戦い以前から徳川氏に仕えて大名になった、五万石以下の譜代大名が多かったけど、大・中の大名もかなりいた。それらの大名統制のために、一定の期間諸大名を江戸に参勤させた制度のことだ」
 次郎は続ける。
 「一六三五年(寛永十二年)武家諸法度の改正で制度化された。多くは在府・在国一年交替が原則。同時に大名は妻子を人質とすることになり、道中の費用や江戸屋敷の維持などの膨大な出費に悩まされた。幕府にとっては大名統制策として有効であったんだ。一方、経済機構の整備、文化の全国交流、江戸の繁栄など諸方面に大きな影響を与えた。一八六二年(文久二年)幕政改革の一つとして大大名は三年に一年、他は三年に一度百日在府と改正したけど、このことによって幕府の大名統制は緩んだんだ」
 友子は次郎に疑問を投げかけた。
 「ニニ七年間もやっていたのはすごいね。大名行列に何か規制はなかったの?」
「参勤交代で大名が江戸と国もとを往復する基準は、武家諸法度で百万石以下二十万石以上は二十騎以下と規定した。しかし、実際にははるかに大規模で、多い場合は数千名、少なくても百名以上。諸藩は威を張り見栄をかざつたんだよ」
 友子は続けて「幕府は大名が浪費して潰れるのを待っているのね。それにもう幕末近しではないの?」と聞いた。
 「この年だけでも坂下門外の変、寺田屋騒動、生麦事件:.大政奉還、徳川幕府崩壊まであと五年だからね」
 友子は頷きながら本陣の柱にそっと手を添えた。

 二人は草津宿本陣から少し離れた商店街を歩いていた。
 今日の帰り道も友昨は次郎の兄を気にかけた。
 「その後お兄さんは?」
 次郎は思い出したように話し始める。
 「以前は兄もこの商店街に自転車で来ていたらしいけど。最近はスーパーで目覚まし時計を五台も買ってきたよ」
 友子はびっくりした表情で「安かったから配るつもりかしら」と眩いた。
 次郎は微笑みながら友子に「またね」と挨拶し、友子も手を上げてそれに答えた。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第58回

◎広隆寺ー国宝第一号の弥勒像で有名

 嵐電嵐山本線の太秦広隆寺駅前にあるこの寺は、京都における最も古い寺院のひとつで、日本書紀によると、大陸からの帰化人である秦河勝が推古11年(603)に新羅、任那の両国から送られた仏像を祀ったのがはじまりだという。
 その後、弘仁9年(818)と久安6年(1509)の二度にわたり建物が焼失し、現在のものは永承元年(1046)に建てられた講堂が最も古い。
 霊宝殿にある本造の宝冠弥勒菩薩半珈思惟像は飛鳥時代の作といわれ、その日本的な徴笑に魅せられたのか、1970年ごろにいち高校生によつて右手指を折られてしまった。
 この寺には同じく、もう一体の今にも泣きだしそうな弥勒菩薩があり宝髻弥勒とよばれている。
 今は寺の隣に、日本映画発祥の地ということで、東映太秦映画村が昭和50年に開設され、時代劇の世界を体験できるテーマパ—クとして、さまざまなイベントが行われている。
 「霊宝殿での守衛さんが少し厳しく感じたのは、過去にそんなことがあったのだね」と次郎がつぶやく。
 「太秦は秦氏によって平安京以前から開かれていた。レトロな嵐電で嵐山を正面に見据えながら、寺社を巡るそぞろ歩きも」と友子。

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2021年5月号収録

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がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 七

◎廬山寺は「紫式部邸阯」にある

 廬山寺の沿革にはこう記されている。
 「廬山寺は京都御所に隣接しており、それは鴨川の西側の堤防に接しており、明治維新までは、宮中の仏事を司る寺院四ヶ寺の一つであった。明治五年九月、太政官布告をもって総本山延暦寺に付属する。昭和二十三年園浄寺として元の四宗兼学の道場となり、今日に至る」
 元々この地は、紫式部の曾祖父の中納言藤原兼輔から伯父の為頼、父の為時へと伝えられた広い邸宅である。紫式部は百年ほど前に兼輔が建てた『古い家』で一年の大部分を過ごしていたといわれる。
 この邸宅で藤原宣孝との結婚生活(二年で死別)を送り、一人娘の賢子を育て、日本文学史上の傑作といわれる『源氏物語』を書き上げたのである。
 地下鉄今出川駅を上がれば、同志社女子大の前に出る。若い学生たちが立ち止まったりしている中を、八十歳の次郎と友子がいそいそと紫式部邸址に向かう。何となく華やいだ気分になってくるのは健康的に良いことではないか。
 「紫式部はこんな御所に隣接した、京都のど真ん中で暮らしていたとは知らなかった。源氏物語は石山寺で書いていたのではないの」と、次郎。
 「あれは伝説であり、もしあったとしても一時的なものでしょう」と、友子も興味ありげだ。
 お寺の中にも紫式部色は強く、庭も「源氏庭」と名付けられている。
 友子は次郎に近付いて小声で「紫式部は藤原姓であり、夫亡き後宮仕えをすすめ、その紫式部の文学生活を物心両面にわたり援助をしたのも、時の最高権力者藤原氏だったのよね」と話す。
 「当時紙なども高価なもので強力なスポンサーなしでは本は出せない」と次郎は答える。・
 友子は重ねて「ではなぜ本の題名を『藤原氏物語』にしなかったのだろう。藤原氏のライバル源氏の宣伝をなぜしてやるの」と疑問を投げかける。
 「そこが歴史のおもしろさなんだ」と次郎は友子に顏を寄せて語る。
 「『源氏』とは、天皇の次男ニ二男で天皇を継げなくて臣下になった場合に付けられる名前だが、事情が変わってその後天皇になるかもしれない立場なのだ」
 次郎はつづける。
 「一方、藤原氏はいくら権力を独占しても、代々娘を天皇に嫁がせて天皇の母にはなれても、天皇にはなれない立場。そこで源氏をことあるごとにイメージダウンさせておかなければならない」
 「それで?」と友子も乗り出す。
 「友ちゃん、源氏物語の主人公・光源氏をどう思う?」
 「おんなたらし。女性を次々に悲惨な目に遭わせていく。しかも、政治家なのに庶民の暮らしなどには全くの無関心」と友子。
 「こんな国民にとっては百害あって一利なしの家系が源氏なんですよ、と『源氏物語』は藤原氏の思惑を十二分に伝えてくれている」
 「紫式部は利用されたのね」と、友子は少し淋しそう。
 次郎はそんな友子を見て、小さく首を振った。
「いや、大変な重圧の中で紫式部は鴨川の流れを見つめながら、自分しか書けないものを後世に残したのではないか」
 二人が紫式部邸址を後にして歩いていると、次郎は思いついたように言った。
 「今出川駅で認知症の兄の好物、鯖ずしでも買って帰るわ」
 友子はそれを聞き「私もそうしょう」と頷いた。
 「またね」と二人、鯖ずしを手に持って別々に歩き出した。

・大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 未収載

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がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第54回、第55回

◎石清水八幡宮と「荒城の月」

 京阪八幡市駅前の道を南に約三分歩くと、今日の行先である石(いわ)清水八幡宮の一の鳥居に到着する。
 駅前から登山ケーブルが運行されているので、高齢者の二人には大いに助かる。
 由来にはこうある。
 「石清水八幡宮は男山(一四二メートル)の頂、鳩ケ峰から谷を挟んだ東尾根に座し、山全体が境内である。応神天皇・神功皇后・比咩大神の三柱をまつり、官幣大社であった。都の裏鬼門である西南を守護し、伊勢神宮につぐ国家第:の宗廟、国家鎮護の神として崇敬されてきた」
 「社伝によれば、ハ五九年(貞観元年)に奈良大安寺の僧行教が豊前の宇佐八幡宮で神託を受け、清和天皇の命により神殿六棟を男山に造営し、実権は行教の出身氏族紀氏が握らこととなった。明治維新まで僧による神前読経が行なわれ、神仏混淆の当時にあってもきわめて仏教色の強い神社であった。江戸幕府の庇護により江戸中期には四十を超える坊舎が立ち並び、壮観な宗教景観を有していたが、一八六八年(明治元年)の神仏分離令により残っていた二十三坊全て廃絶し、山内景観は一変した」と。
 由来を見て、友子が反応する。
 「灯が消えてしまった。明治維新政府のやつた事なのね」
 次郎が答える。
 「日本に仏教が入ってきた時には神道との争いがあったが、背景は政治の問題なので、奈良時代には仏教信仰と固むの神祇信仰信とを融合調和する神仏混淆説か唱えられ、仏菩薩がけ日本では仮に神の姿で現われる。阿弥陀如来は.八幡神、大日如来は伊勢大神と考えられるようになった。しかし、江戸時代国学の隆盛につれ、仏教的要素を神道から除き、神道の優位性を強調する運動が激しくなり、 ついに明治維新には排仏希釈<ママ 廃仏毀釈?>まで進んだのだ」
 友子が驚く。
 「打ち壊しのことね」
 次郎が続ける。
「一八六八年(明治元年)ー」)]の神仏判然令により、神官・平田派国学者らを中心に、神仏分離、神社における仏堂・仏像・仏具などの破壊や除去が各地で行われた。これに対して、排仏反対の民衆の動きや、信教自由の主張が高まり、その後信教自由の保護が各宗に通達された。しかし、この運動により政府は政治優先の思想を普及させることができ、その後の侵略戦争に宗教界を全面的に駆り出すことができるようになった」
 友子は「恐ろしい歴史があるのね。だから政治と宗教の分離は絶対に必要なのね」と納得した。
 次郎が頷く。
「この男山を登るといつも『荒城の月』が歌えてくる。なにか落城的な感じが…」
 友子が驚きつつ言う。
 「神社内には『エジソン記念碑』があって、トーマス・エジソンが男山付近で採取された真竹でフィラメントをつくり白熱電球を完成させたことを記念してー九三四年(昭和九年)に造立されたと、びっくりね」
 「今日も勉強になったわ」と一日の感想を話していた友子だが、やはり最後は次郎の介護について思い遣った。
 お兄さん、認知症の進行はあるの?
 次郎が答える。
 「夜間不穏症状が出ているのか、夕方から不機嫌になる傾向が最近よく見られるんだ」
 友子は心配そうに「疲れがたまってくるのではないの?」と返した。
 「それもあると思うけど…」
 少し暗くなった次郎に、友子が明るく言う
 「次郎ちゃんは夜間陽気症状で対抗して!」
 次郎は友子のジョークに笑いながら「それはもともとあるので…」と答えた。
 今日も明るい表情で、手を振る二人であった。

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2020年12月号 大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2021年1月号収録

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がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第57回

◎京都屈指の絶景を舞台からー清水寺

 清水《きよみず》さんと親しまれ、桜も紅葉も、雪景色も、新緑や若葉のころも観光客がたえない。
 国宝・重文建築がずらりと並ぶが、とくに「清水の舞台」は有名。
 坂上田村麻呂が延暦十七年(七九八)に創設した観音霊場で、西国三十三ケ所十六番目の札になっている。
 音羽山中腹にあり、山中から湧き出す名水がその名の由来。釘を使わず、柱を縦横に組む舞台造で支えられている本堂には、本尊の千手観音像が、秘仏で一般公開はされていない。
 門前町の坂を上りつめると仁王門、その右に八脚赤塗りの西門、左前に馬駅や鐘桜がある。門を入ると三重塔、経堂、田村堂、朝倉堂が並ぶ。以上はすべて重文で、さらに本堂の舞台から正面に望める子安塔、東に音羽山を背にした釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院など計十五塔の重文建築がある。その大半は江戸時期に再建されたもの。
 山腹だけに展望のよさも魅力。京都市街のほぼ南半分が見渡せ、愛宕山を盟主にする西山連峰も一望できる。
 帰路は三年坂から二年坂、八坂道を下ると八坂塔、法観寺の五十塔で、高い建物の少ない頃は市中からよく見えた。
 「清水寺はいつか時間をかけてまわりたい」と次郎。「足が動くあいだに」と友子。

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2021年4月号収録

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がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第56回

◎法起寺ー小さなお寺に大きな望み

 長谷寺の門前町に、隠れ寺の風情である法起寺は、西国三十三ヶ所巡りの創始者という伝説を持つ徳道上人を祀っている。
 徳道上人は長谷寺の開基でもあり、ここを晩年の穏棲地にした。長谷寺の門前町にある小さな番外札所だが、西国霊場の歴史のなかでの存在感は大きい。
 本堂の右に納経所があり、奥に徳道上人の供養塔という十三重石塔が建っている。
 実は、徳道上人は官僧ではなく、庶民信迎のリ一ダーともいえる私度僧だった。高級官僚へのさそいをけって、民間で押し通した徳道上人の生きざまは、庶民のあこがれの的であったはずである。
 そんな徳道上人は伝説によれば、一度病死した。あの世で閻魔大王に会い、衆生済度のため三十三の観音霊場をひろめよと宝印を授けられ、息を吹き返した。
 それから西国巡礼の宣伝に努めたが、思うようにはならなかった。後に花山天皇が西国巡礼を再興した。
 徳道上人が庶民信仰を説き、それが盛んになることを念じたのは疑いない。
 「徳道上人は何か後世のー休さんに通じるものがあるね」と、次郎。
 「小さなお寺に大きな望み」だね、と友子。
 「今日は一日で、長谷寺と法起寺のニケ所もまわれて良かった」と、二人。

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2021年3月号収録

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今昔木津川物語(057)

◎波切不動尊 (西成区聖天下ー 一六)

 聖天下一丁目にある波切不動尊は、水かけ不動明王とも呼ばれている。昭和十四年七月十日、現在の北津守地区で発掘され、大きさは四尺七寸、同年西宝寺のそばに祭られた。

戦時中は空襲の難のがれに

 戦時中数度の空襲で周囲は焼失したが、不動明王は難を免れたことなどから日ごと信者が増え、不動さんは願いをこめてかけられた水で黒びかりしている。
 今から三百年程前までは海中であり、その後津守新田として造成された土地から、こんなに立派な仏像がどうして掘り出されてきたのかという、歴史の謎が浮かび上がってくる。

信長鉄砲を受け命からがら

 考えられることの一つは天正年間 (一五七二)、本願寺門徒が織田信長と戦った際、当時石山本願寺は毛利氏と結び毛利の兵船八百艘に糧粟二万俵を積んで木津川に入らんとし九鬼嘉隆らが兵船三百余艘でこれを遮り、石山方は木津・桜の岸などの諸塞兵を出してはげしく戦い、遂に石山軍勢が勝ちを制して糧食を石山城に入れた。当時、信長は足に鉄砲を受け、必死になって現在の出城通りから天王寺に逃げ帰っている。

老若男女決死のたたかいを

 このときに、石山方は木津川河口にありて、海上との連絡をとらんがために木津砦を設けている。四方八町の砦には本願寺木津総門の老若男女が各我家を棄て籠城し、中に高櫓をたて見張りをしたが、その石垣は飛田墓地の五輪石塔を夜中に引き抜いてきたものであったという。しかして、その地より今も墓石を掘り出すことありと云えば、飛田墓地より運び来りて石垣に利用せしものたらん、とその後永らく伝えられてきている。
 織田信長は大阪にとってはまったくの侵略者であった。
 鬼のごとき信長とたたかうために、わらをもすがるおもいで、飛田墓地から不動明王を持ち出したのかもしれない。それがその後の新田づくりで地中に埋もれて、四百年後に台風で姿を現してきたとか…。

市場・商店街と四方さん

 日本共産党の大阪市会議員を西成区で五期二十年間つとめた四方棄五郎氏は、選挙戦の打ち上げの演説会をいつも地元の波切不動明王横の西宝寺をかりておこなったが、聴衆には市場・商店街の人が多かった。
 四方さんはつねに市場・商店街がさびれるということは、街から活気と人情と文化がなくなっていくことだと、大スーパーの横暴をきびしく批判していた。

ス—パ—と小泉で大被害が

 その四方さんが永眠されて早六年。今年の九月十一日が七回忌だという。この間に西成区には大スーパーが次々に進出し、 地元の市場,商店街にははかり知れない打撃を与えた。これに追い打ちをかけたのが「小泉不況」の襲来。
 「構造改革なくして景気の回復はなし」とお題目のように同じ言葉をくりかえし、批判は一切許さない。というのであれば、信長流独裁者としかいいようがない。四方さんが愛した市場や商店街は今やシャッ夕—通りと化し、貸し店舗の看板だけが寒風に揺れているのである。

波切さんに悪政除けを願う

 悪政の被害を全国一こうむっているのが大阪だとすれば、わが西成の景気は全国一深刻だという事になりかねない。今度は波切不動尊に「悪政除け」になってもらって、そして願いだけでなく、被害者は全員立ち上がってたたかおうではないか。四方さんどうか見守っていてください。

今昔木津川物語(055)

◎万代池 (住吉区万代三)

 熊野街道沿いに南へ、阪堺電車上町線の帝塚山三丁目駅から帝塚山四丁目駅へ行くほぼ中間の東側に、万代池がある。
 今は人家が立て込んで、街道より少し東へ入ったところになっているため、見逃してしまうかもしれないから、注意が必要だ。
 しかし、発見するや初めての人なら、思わず目を見張って「ほお一」とか「あれ一」と声を上げてしまうだろう。市内ではめずらしい、周囲約七百蓊の巨大な楕円形の池で、真ん中に小島もある、堂々たる風格の代物だ。

感動のない人いらっしやい

 最近物事にあまり感動しなくなっている人は、ぜひとも訪れてみたらよい。後悔はしないと思う。
 池の畔に等間隔で植えられた染井吉野の桜の樹が、四月の初めに一斉に開花して、やがて満開となり、春の風に花吹雪となり、歩道にピンクのじゅうたんをつくる。鏡のような池の面はその情景を忠実に逆さまに映している。市街地の中の花見では、私は文句なしにここが「日本一」だと確信する。

桜の花には何の罪もないが

 しかし、万代池も池面に映る永い歴史を、さまざまな思いでみてきたのではないだろうか。池の北側の広場には、大きな「忠魂碑」がいまもある。戦中、多くの若者が、いや最後には父親までもが、この池を家族や親戚、友人たちとゆっくりと一回りして、万感の思いを胸に、あの侵略戦争に出征軍人としてかりだされていった。「桜の花のようにいさぎよく死んでこい」といわれ、かれらが 最後に仰いだ万代池の桜。池の北側に十年程前まであった、府立女子大の先輩たちもよく小旗を手に、出征の列を見送ったと聞く。

敗戦で花よりダンゴの時代

 戦後、池の柵は薪として持ち去られ、桜の花も忘れて人々は、池の魚に群がつた。どじょうの化け物のような大物を釣って、みんなで食べるといっていた人は果たして無事だったのか。
 しばらくして、池に貸しボートが登場した。地元の新制中学の生徒が、男女でボートに乗っていたことが大問題になり、友人たちは退学処分反対の対策を考えていたが、「厳重注意」だけで終わったということもあった。当時、流行歌では「湯の町エレジー」が大ヒットしていた。
 日本の経済成長にしたがって、花見もしだいに豪華になり、カラオケのセットも業者が出張してやるようになり、池面に歌声が響き渡ったりした。
 そして今は、大型開発による税金の無駄遣いで財政赤字の府は、女子大跡地をマンション用地に売り払うため、後に入っていた府立貿易専門学校を廃校にしようとしている。

古代は古墳か崖の割れ目か

 古代この池には大小の古墳がひしめきあっていた。今でも近くに帝塚山古墳が市内で唯一、前方後円墳の形のまま残っている位だ。
 万代池も古墳で中の小島が古墳で、池が周壕だという話もあり、小島が貧弱なのは長年の間に波に浸食されたというのだろうか。
 他に、上町台地の割れ目を塞いで池にしたという説もある。

曼陀羅経で退散させた魔物

 伝説として、この池には不思議な魔物が住んでいて往来の人々を苦しめるというので、聖徳太子がこの池で曼陀羅経をあげて魔物を退散させた。万代池の名前の由来はそれからきているということである。池の中央に今も、古池龍王が祀られているところをみると、魔物とはやはり龍であったのか。
 万代池の「まんだ」は奈良時代の「地名は好字二字にせよ」との勅令によるものと思うが、万代はその時の当て字だと思う。もともと「まんだ」とは古地名にありアイヌ語ではないか。一体、アイヌ語で「まんだ」とは何なのか。それがわかれば、魔物の正体も判明するかも知れない。

今昔木津川物語(053)

◎阪堺電車 上町線

 平安時代中期以降鎌倉時代にかけて「蟻の熊野詣」といわれる程、王朝貴族から庶民にいたるまで盛んであった、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、那智大社)への道は、京都の永観堂を発ち船で天満の渡辺の津(松坂屋付近)に着いて、四天王寺、阿倍野王子神社、住吉大社、遠里小野を通過して、堺から和歌山に至るものであった。
 今では、この熊野街道も住吉区に入る少し前から、府下に残る唯一の路面電車である阪堺電車上町線と平行して、しばらくは幅広い道路を南下する。

チンチン電車元は馬車鉄道

 上町線は天王寺から住吉公園の間の約五㌔を途中九つの駅に止まりながら、約二十分かけて走り抜ける、一両編成のチンチン電車である。しかし今ではチンチンと発車の合図を送る車掌のいないワンマンカーである。
 上町線は明治三十年五月に、四天王寺〜上住吉間を馬が車両を引き軌道を走る大阪馬車鉄道として発足した。明治四十年に電化、大正二年六月住吉公園まで開通した。

船場商人が帝塚山宅地造成

 当時の沿線の状況は「住吉の岸の姫松」という、松林の茂った昼でも薄暗い場所であった。船場の繊維関係の経営者らが、このあたり一円を住宅地にしようと「東成土地建物株式会社」をつくったが、イメージが悪くて売れない。そこでエリー卜教育を目指すグループと組んで、帝塚山古墳の東側に帝塚山学院を創設、大正六年五月に開校した。
 土地会社の思惑は当たって、以後「高級住宅地の帝塚山」として発展して行った。
 浪華の南ひと筋に
 連なる丘のここかしこ
 みどりの森の影清く
自然の恵みゆたかなる
野こそ我らの庭なれや
   (庄野貞一詞)
 これは昔の帝塚山学院の校歌だが、開校当時の付近の状況がよく現わされている。もちろん今は、大邸宅に替わって中小のマンションが林立し、帝塚山古墳や万代池等の名所旧跡も電車の車窓からでは瞬間的に見えるだけである。

上町線の魅力の秘密とは

 ところが上町線の魅力の秘密は、実は最後の五分間位から始まるのである。
 帝塚山四丁目駅から終点の住吉公園駅までは、枕木を敷いた専用のレールの上を電車は走る。先ず、駅を離れると電車はゆるい上り坂を左へ曲がりながらコトコトと確かめるように登りだす。両側には草花も咲いている。終戦直後にはここで野菜をつくる人もいた。そんな思いにひたっていると、突然前方に青空が広がり始め、電車が半分飛び出したような錯覚に陥りはっとすると、電車は右に急回転して停車していた。神ノ木駅である。目の下には南海高野線が十両近く連結して驀進している。しかし、神ノ木駅は高架ではなく土手の上にしっかりと造られている。

タイムトンネルの中を行く

 電車は今、上町台地の西端に爪先で立っているみたいだ。前方には急な坂が曲がりくねって待っている。地形的に高い建物は建てられないのか、風景は三十年位あまり変わっていないように思う。生根神社の鎮守の森の背景に、住吉大社の鬱蒼とした森が見える。
 神ノ木とは住吉大社では松ノ木を神木としており、近くに明治二十年頃まで樹齢千年余の松の大木があったことから付けられたものである。

百年のジェットコ—スター

 さて、電車は意を決したかのようにブレーキを外した。最初はゆっくりとすべるように動きだしたが、すぐに加速し始めた。沿線の緑が赤が黄が目に飛び込んでくる、電車は右へ大きく力—ブしてその反動を使って左へまた大きくカープを切った。ゆれる乗客、きしむ車体、レールが光って流れる。そして気が付くと、電車は住吉大社の北側の参道の前の「住吉駅」に無事着いていた。賢明な読者の皆さんはすでに感じておられる通り、これは間違いなく昔のジエツトコースタ—である。百年前に我々の先輩達はこんな素敵なものを残しておいてくれていた。毎日の生活の気分転換に、一度乗ってみては。ひよっとしたら、あなたと車内でお会いするかも知れない。
 さて熊野街道の方は、帝塚山四丁目駅から上町線と離れて坂を徐々に下がり始め住吉大社の裏口、東側に達する。この辺りには歴史的な神社や仏閣が数多くあり、それぞれがほぼ昔のままの姿で今も人々に訴えていることはすごい事だと思う。また、街道の面影を残す代表的な地域でもある。