今昔木津川物語(007)

西成、住吉歴史の街道シリ—ズ(二)

粉浜《こはま》の閻魔《えんま》地蔵堂《じぞうどう》(東粉浜三-五)


 勝間街道の住吉側からの出発地点は東粉浜三丁目にある、地元では「六道《りくどう》の辻《つじ》の閻魔さん」とよばれて親しまれている、閻魔地蔵尊のお堂であった。場所は上町台地の西の坂を下りたところで、道路が六方向に集中する一角にあったが、戦後|交差《こうさ》部分が拡張《かくちょう》されたため七方向の道路が集まるところになった。
 交通の要所《ようしょ》にもかかわらず、裏道《うらみち》になってしまったために自動車がほとんど通らず、町並みも戦前の建物が八割方を占め、現代の奇跡《きせき》を見ているような、不思議な空間と時間を生んでいる。

四百年間、 勝間を守って

 閻魔|大王《だいおう》という恐ろしい冥界を支配する死の神と、地蔵|菩薩《ぼさつ》という一番優しい仏さんが一体となっている閻魔地蔵尊のお顔は、自然石《しぜんいし》に彫られた大人のそれ位で、黒光りに変色していた。こまごました細工《さいく》は一切なく、粗削りの中にも現代の抽象画《ちゅうしょうが》のような、見る人に様々《さまざま》にかんがえさせるものであった。
 掲示されたものによれば「本尊閻魔地蔵は難波の浜辺におわしましたが、われを住吉大社へとのお告《つ》げにより背負《せお》われて、住吉へはこばれました。ところがこ
の地までくるとどうしたことかにわかに重くなられ、ここにとどめてまつられるようになりました。
 尊像《そんぞう》には天文七年(一五三八)の銘《めい》が刻まれていますから、四百三十五年前で戦国争乱《せんごくそうらん》の世でした。内陣《ないじん》の本尊《ほんぞん》は石造《いしづくり》の座像《ざぞう》で、お姿は閻魔大王の憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》でしやくをもっ ておられ、お地蔵さまというイメージとはちがっていますが、閻魔は地蔵菩薩の化身《けしん》といわれていますので、いつしか近郷近在《きんごうきんざい》の人びとに霊験あらたかな閻魔地蔵として、崇められるようになりました」とある。
 天文七年とは大坂では十一年におよんだ、織田信長と一向宗《いっこうしゅう》の本山石山|本願寺《ほんがんじ》との石山合戦が終わりをつげ、顕如《けんにょ》らが大坂を退去した後、石山本願寺は三日三|晩《ばん》燃《も》えつづけ、すべての堂舎《どうしゃ》が焼《や》け落ちた前の年のことである。この仏像が難波にあったということであれば、当然石山合戦とは無関係ではあり得ず、あわただしい情勢の中で、作者は粗削りな作品の中に後世《こうせい》の平和を願ったとよみとれないだろうか。

心のいやされる時空

 がたがたと戸を開けて中に入ると、右手のちよつとした畳《たたみ》の間に女の方がお堂の守をされていた。近頃は神社でも無人《むじん》のところが多いのに、ここはいつ来てもだれかがおられるので、ローソクや線香《せんこう》のたえることがない。掃除《そうじ》がゆきとどいて柱や板もすべて黒光りしている。床にも打水《うちみず》がされていて気分が落ち着く。白いカバーのかけられた小さな座布団《ざぶとん》に腰掛《こしか》けて、いろいろお聞きすると親切《しんせつ》に答えてくださる。先日も縁起書《えんぎしょ》を少し余分《よぶん》にお願《ねが》いすると、わざわざさがして、追いかけてきて下さった。今時《いまどき》こんなところはちょっとなく、閻魔堂でのひとときは本当に心のいやされる時間だといえる。
 実は私の一家は戦後疎開先から引き上げてきて、この閻魔堂の近くに住み、私はここで少年時代を過《す》ごしたのであった。その家は今も地元のお母さんたちが運営《うんえい》する乳児《にゅうじ》の共同保育所としてそのままの姿で残っている。東粉浜での思い出は語りつくせない程あるが、例えば戦後いち早く地蔵盆が盛大《せいだい》に復活され、この辻で盆踊りや演芸《えんげい》大会が何日もやられ、大人《おとな》たちが目の色をかえて取り組んでいたこと。縁日《えんにち》には数多くの露店《ろてん》も出てにぎやかな中で、お堂の中では山伏《やまぶし》たちが、炎《ほのお》を天井に吹き上げながら護摩をたくのを、石の玉垣《たまがき》にぶらさがって顔を真つ赤にして見ていた子供たち。
 夾竹桃《きょうちくとう》の木の下に毎日来た紙芝居《かみしばい》。タ焼けの中に友達が一人づつ家から「ごはんやでー」とよばれてきえていき、やがてだれもいなくなったお堂の前の小さな広場……。
 堂内に掛けられた地獄絵《じごくえ》は大正時代に信者《しんじゃ》が描《か》いて持ってきたものだそうで、昔と同じところに今もあったが、子供の頃の印象《いんしょう》からすればうんと小さく感じられた。子供心に夢にまで見たこんな絵を、昨今《さっこん》世間を騒がせている官僚《かんりょう》や銀行のエリート・自民党らの政治屋は見て育ったのだろうかと、お参《まい》りに来ていた人たちと話し合った。

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今昔西成百景(009)

先々代の診療所のお話です。写真は、先代。

◎民主診療所

 黒田革新府政誕生の一年前、一九七〇年に西成民主診療所は、潮路二丁目五番地につくられた。「西成にもやっと民主的な医療機関ができた」と、建設委員会の人々や区内各民主団体の代表は、喜びと期待に胸ふくらませて開所式にのぞんだ。

戦前の無産者診療所のたたかいをひきつぐ

 「民診」は医療活動のかたわら、地域活動にも積極的に取り組む方針を生かし、ただちに近くの児童公園廃止反対の運動に参加、四方理事長の市会初当選も力になり公園存続に成功。西成民主診療所「民診」は一挙に地域に根付いた存在となった。今もその公園は子供のあそびば。
 木津川にル—プ橋が架けられることになり、連綿とつづいていた千本松渡船の廃止が市で決定された。しかしこの橋はあくまで自動車中心の橋で、人が歩いたり自転車で渡ったりはできない。「民診」では所長を先頭に総出で現場へ行き、老若男女のモデルに歩いて渡ってもらい、各人の疲労度を測定し科学的デ—タを作成。「橋はできても渡しは残せ」の名文句で広がった住民運動と協力してついに市の決定を撤回させた。今日も多くの人を乗せて渡船は通っている。
 自民党政府は「高齢者社会の到来に備えるため」と称して消費税を導入しておきながら、一方で医療を営利企業の市場にかえる目的をもって医療法改悪を行ない、次いで老人保険法の改悪を矢つぎばやに出してきた。
 「民診」は、厚生省のこのようなやり方は「国が医療を捨てるとき」と、追及バクロし署名や集会、デモで区民に訴えた。
 「民診」のモットーは「いつでも、どこでも、だれでも安心して医療を受けられるように」である。創立以来二十三年の間に「民診」の理事などで地域で奮闘され物故された方々は、西口喜代松(今宮)・松本正堅(南津守)・松本克義(潮路)・佐藤虎喜(橘)・本間のぶえ(梅南)・福井由数(出城)の諸氏である。それぞれの方々と「民診」の結びつきを回想すれば正に走馬燈の感がある。
 今、「民診」もいよいよ建て替えの時期をむかえ、六月末上棟式、十月新設開所のはこびで工事が進められている。その間は医療生協会館で診療はつづく。
 西成になくてはならない存在となった「民診」は、新しい建物でより大きな活動を目指している。(一九九三・六)

南大阪歴史往来(003)

◎一運寺 住吉(二ノ六)

 住吉大社の裏にある大海神社と、東西の道路をはさんで建っている古いお寺が一運寺である。この道路は大正時代に、熊野街道と紀州街道を結ぶために、元の材木川を埋めたてて造られたものである。また材木川そのものも、住吉大社建設のときに、資材を運ぶために掘られたものだという。

弘法大師や親鸞も訪れたお寺

 一運寺は法性山と号し、浄土宗知恩院末。本尊阿弥陀如来座像(約一㍍)は定朝作という。伝えによると一運寺は推古天皇や聖徳太子の創建というから、住吉大社に次ぐ歴史のある寺院となる。宝徳二年(一四五〇)良公上人が再興したが、元和元年(一六一四)大坂の陣に罹災した。
 住吉大社に近いことから高僧の来訪も多く、伝教大師・慈覚大師・弘法大師また浄土宗の祖法然や親鸞も訪れているというが、おそらく宿泊したのではないか。しかしそのような経歴をほこることもなくひっそりと建っている一運寺を私が初めて知ったのは、たしか小学校二年生の頃で、友達から「あの寺には赤穂四十七士のお墓がある」と聞いておどろいたことをいまでも覚えている。

赤穂浪士の名を暗記した先輩

 昭和十八年(一九四三)戦争もミッドウェイ海戦以降、日本軍は連戦連敗だったが大本営発表は、連戦連勝のウソで塗り固められていた。私は上級生たちが、歴代天皇の名をむりやり暗記させられているのを、恐れをもってみていた。自分は暗記ものに自信が無かったからである。
 しかし一方先輩達は、赤穂浪士の名前は実に楽しそうにそらんじているのであった。
 私の当時の担任は、師範学校新卒の男の先生であった。住吉公園の南、浜口町にあった先生の家へ正月にあそびにいくと、お母さんがお餅やみかんをだして下さり、先生が忠臣蔵の一節を朗読してくれた。
戦時下にもかかわらず、忠臣蔵だけは娯楽として認められていたのは、忠臣は愛国に通じると軍部が思い込んでいたからか、散りぎわを特攻隊とにているとしていたのかは分からないが。

帰ってこなかった先生や先輩

 私の担任の青年教師は、自分の宿直の日に希望者にかぎり数学の補習を宿直室でやってくれた。「これからは数学の必要な世の中になる」というのが先生のくちぐせだったが。私達はなにか冒険気分で夜の学校に何回かかよったものである。
 昭和十九年(一九四四)になると、学童疎開で次々に子供たちは学校を去り、担任の先生も最後の出征軍人として秘密の内に入隊していった。
 街では、息子が特攻隊に志願する家々で、特配の酒が飲みかわされ、軍歌が大声で合唱されていたが、真ん中で一人青くなって座っているのが明日入隊する本人であった。私達はそれをものかげからのぞきみては、なんとなく沈んだ気持ちになっていたものである。

天野屋利兵衛が建立を依頼か

 戦後大分たってから一運寺を初めて訪ねると、境内には大石良雄・大石主税・寺坂吉右衛門の墓があり、当寺の西北二百㍍のところにあった竜海寺に四十七士の墓があったが明治維新の廃絶のとき三基のみここに移されたと説明されてあった。そして、竜海寺の墓は天野屋利兵衛ゆかりの人が建立したものだが、その時期、目的は不明とのことであった。
 天野屋利兵衛とは広辞苑によれば「江戸中期の大坂の狭商[ママ 豪商か?]。大坂北組名主。赤穂浪士のために兵器を調達し、後、自首、追放」とある。
 一運寺の南、大海神社の裏に私の中学時代の友人が住んでいた。父親は軍人ですでに戦死していて、彼が当主であり豪邸に三・四人で住んでいた。遊びにいっても迷うくらい広かった。彼はその後地域でPTAの会長などをしていたが、残念なことに若くして亡くなった。
 一運寺は他のお寺のようにビルになったり、門を閉ざしたりはしていない。いつも昔のままの雰囲気を保っている不思議なお寺だ。「一運」とは仏教では何か特別なものを意味する言葉なのか。私は知らないが、私には一度しかない人生を道半ばでいってしまった、心やさしい人たちへの思い出の一隅なのである。

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今昔西成百景(008)

◎旧市電通り

 「旧市電通り」とは、昭和二年に阪堺電鉄が芦原橋から堺三宝間までチンチン電車を開通させていたのを、昭和十九年大阪市がこれを市電として買収し、昭和四十三年まで主として沿線の工場労働者旧市電通り(津守1丁目付近)の通勤電車として走らせていた、府道尼崎堺線のことをさす。
 西成区内には、北津守・鶴見橋通・津守神社前・宝橋通・南津守・造船所通という停留所があった。
 南津守停留所を東に行けば飲食店の立ち並ぶ小さい商店街があり、その北側に日本共産党木津川地区委員会の白と焦茶のツ—トンカラ—という瀟洒な三階建の事務所があった。
 造船所通り停留所から名村造船所への近道として、細い道を西へ行けば両側に池があり、夜勤帰りの労働者がよく釣り糸をたれていた。その近くの芦原に「ー坪二千円」とかかれた大看板が出ていた。当時月給が一万円程度であったと思う。
 年末ともなれば市電通りのあちこちの工場の前に赤旗が立ち、腕章をはめた労組員がビラを配るのが見慣れた風景。川筋の「師走」。
 今から二十数年前は、「津守格差」といわれる位、市電通りをはさんだー円は行政サ—ビスの立ち後れた地域であった。南津守商店街の有志と共に「南津守をよくする会」をつくり、十項目の地域要求の実現を目指して住民運動を展開した。その成果として、千本松渡船の存続・浸水の抜本対策・道路舗装・上下水道・児童公園の建設等がある。
 今日では津守一帯も大きく変化した。主な企業は移転・倒産でなくなり、一部は住宅地になった。あの、労働者で沸き立っていた、「木津川筋」という独特の世界は今はない。そして、大阪でも屈指の自動車公害の道路と化した旧市電通り沿道の住民は、新たな要求をかかげて結集しつつある。
(ー九九一・九)

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今昔木津川物語(006)

◎西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(一)

勝間《こつま》街道

上町台地の西端を熊野三山めざして南北《なんぼく》に伸《の》びる熊野街道は、「蟻の熊野詣」といわれるほど庶民もよく歩いたとされているが、やはり王朝貴族らの華やかでぜいたくな道中が頭に浮かぶ。そしてタ日に映《は》えて茜色《あかねいろ》にすっぼりと染《そ》まった行列は、腐敗《ふはい》と陰謀《いんぼう》の匂《にお》いを残して夢《ゆめ》の中の出来事のように、ゆらりゆらりと無言《むごん》で進んで行くのである。
上町台地の裾《すそ》に熊野街道に並行《へいこう》して足利《あしかが》時代にできた紀州街道は、商人が交易《こうえき》のために利用したり住吉詣の道であると同時に、秀吉が堺政所《さかいまんどころ》へ往来したり、紀州徳川家の参勤交代に使われた政治と経済の幹線《かんせん》道路であった。
江戸末期に住吉大社|神主《かんぬし》の津守氏《つもりし》へ紀州徳川家の姫君が嫁《とつ》いできたときの盛大《せいだい》な行列や、堺事件で土佐藩士《とさはんし》が切腹《せっぷく》のため送られていった話なども伝えられている。
紀州街道にはいつも朝日がさしていた。

庶民の生活道路《せいかつどうろ》、歴史は古い

紀州街道から東へ熊野街道へ行くほぼ同じ距離《きょり》を西にとれば、勝間街道と出会《であ》う。難波《なんば》を起点《きてん》とし南へ木津《きづ》・今宮《いまみや》・勝間・粉浜《こはま》の各村《かくむら》を経由《けいゆ》して住吉大社の手前《てまえ》で紀州街道と合流《ごうりゅう》する勝間街道は、農民や職人《しょくにん》・行商人《ぎょうしょうにん》の行き交う、真昼《まひる》の太陽が照りつける庶民の汗がしみついた生活の道路であった。
西成区史によれば勝間街道は江戸時代の初めに出現したというが、それはおかしい。例えば勝間村をとってみても、その開発《かいはつ》は隣《となり》の粉浜村よりは少しおくれているが鎌倉時代とみられ、吉川英治著「私本太平記《しほんたいへいき》」にも南北朝時代に「木妻《こつま》百軒」とよばれるところに、具足師《ぐそくし》の武具工場《ぶぐこうじょう》とその下請仕事《したうけしごと》をやる者が数多く住んでいた、となっている。
天正時代に織田信長と本願寺の一向ー揆の門徒《もんと》が有名な石山合戦というのを行ったが、門徒は木津の願泉《がんせん》寺・出城《でしろ》・勝間と三つの砦《とりで》を構え戦《たたか》った。そのときすでに勝間には光福《こうふく》寺・誓源《せいがん》寺・善照《ぜんしょう》寺・長源《ちょうげん》寺という浄土真宗《じょうどしんしゅう》の四つの寺があったという。街道もなしにこんな活動がやれるはずがない。
幕末には「勝間千軒」とよばれるほどになっていた勝間村は、この村の綿《わた》で木綿を生産し「勝間木綿《こつまもめん》」として全国に出荷《しゅっか》し、関西の木綿相場《もめんそうば》を支配したときもあったという。畑地《はたぢ》八《はち》か村の中では「勝間なんきん」が有名になるなどにくわえて、諸国を行商《ぎょうしょう》する「勝間商人《こつまあきんど》」が活躍《かつやく》し、その経済力《けいざいりょく》で生根《いくね》神社の台《だい》がくを十四台も支《ささえ》えてきたのであろう。しかし大正四年の町制移行《ちょうせいいこう》のときに「勝間商人」はすばしっこいとの評判《ひょうばん》を嫌《きら》って「玉出町《たまでちょう》」にしたとの話も残っている。尚、玉出町の中心部分、元勝間千軒のほとんどがー九四五年三月十三・十四日の空襲《くうしゅう》で灰塵《はいじん》に帰したことを付言《ふげん》しておく。

ル—卜に諸説《しょせつ》あり

いま市販《しはん》の西成区の地図《ちず》をひらいてみても、勝間街道については国道二十六号線に沿って南下し、住吉区に入ったところで紀州街道と合流し終わってしまうようにしか書かれていない。これでは勝間村のはるかかなたを街道が通っていたことになり、粉浜村もすこしかすめているだけで「勝間・粉浜を経て紀州街道に合流」とする古文書《こもんじょ》や、「勝間村中央を北へ今宮村に至る」という西成|郡史《ぐんし》にも反《はん》することになるのである。
地元の古老《ころう》は勝間街道は岸里《きしのさと》小学校の辺《あた》りから東へ曲がり南下《なんか》し、勝間村を経て西粉浜に入り東粉浜へと向かったという。
目的地への最短距離《さいたんきょり》を走る新幹線《しんかんせん》的街道ではなく、あくまでも各駅停車《かくえきていしゃ》の生活道路だったのだということを行政《ぎょうせい》にも理解《りかい》させ、勝間街道の再評価《さいひょうか》をさせなければならない。
私は勝間街道は一旦《いったん》勝間村に入り、その後は粉浜村の真《ま》ん中を通って南海《なんかい》粉浜駅前から阪堺線《はんかいせん》の走る紀州街道と合流するもそこに止《とど》まらなかったと思う。ひきつづき旧道を閻魔地蔵堂《えんまじぞうどう》から奥《おく》の天神《てんじん》(生根神社)を経て大海神社《たいかいじんじゃ》、そして住吉神宮寺跡を横切《よこぎ》って住吉大社に東側からお参りするという、地元の人たちが長年やってきた住吉詣の道こそが、本来の勝間街道だという説を支持したい。何となれば、街道には行き先の名前が付けられていてこそわかるのであり、熊野街道・紀州街道しかりである。勝間街道は決して勝間村だけの道路ではない、とすれば一体どういうことになるのかということであるが、実は終点の奥の天神や大海神社辺りの昔の地名が古妻・古間・木積などとよばれていたということである。玉出島とも言われていたという。西成区の勝間村、今の玉出は玉出島の里長《さとおさ》が来て仁治《にんじ》年間(一ニ四〇)開拓したからという説がある。

勝間街道を歴史街道として残せ

いずれにしても今日、熊野街道は各所に立派な石碑《せきひ》が建ち、大阪市のマンホールの蓋《ふた》にまで古地図《こちず》が刻み込まれて案内《あんない》されている。紀州街道も歴史の道として様々な標識《ひょうしき》が出され、だんじりの岸和田市などでは町並み保存までして大切に扱かわれている。
ひとり勝間街道のみ沿道にはただー枚の標識板もなく、このままでは歴史から抹殺《まっさつ》されることはまさに時間の問題となっている。
勝間街道が無視されていくということは、この地域での庶民《しょみん》の歴史もないがしろにされることにつながり、結局は権力《けんりょく》者の行列だけが街道の記録《きろく》に残されていくということになるのではないだろうか。勝間街道ガンバレとみんなではげまそうではないか。

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編集者注】「勝間《こつま》街道は、西成民主診療所の正面を南北に伸びています。写真中央、右側は、現在の道路です。がもう健さんの言われるとおり、江戸時代にできたという街道には、道標もなく、人々が行き交い、日々の営みを送った昔を偲ぶよすがもありませんが、「郷土史」から見えてくるものがあり、感慨深いものがあります。診療所付属のデイケアには「こつま」と名称を付けました。(現在は休止中)介護施設再開の暁には、ふたたび「こつま」となづける予定です。

今昔西成百景(007)

◎由緒ある西成区名

 私は現在手元に、「西成郡史」「西成区史」という二冊の郷土史の本をもち、それを参考にして、行政から見た歴 史ではなく、庶民の歩みを少しでも追っ ていきたいという立場から、敢えて予断の謗りをおそれず、筆を進めている。一二九一頁もある大正九年編纂の「西成郡史」をひもとき、まず最初に不思議に思うことは、西成郡の北の部分は淀川を挟んで現在の西淀川区・淀川区・東淀川 区・北区・此花区・福島区に当たり、次に大阪市の東区・西区・南区・北区の全 四区を飛び越えて、現在の西成区と住之 江区の一部が西成郡の南の部分に成って居ることだ。西成郡の多数派は決して西成区では無かった訳である。それでは、一体どうして少数派であった南部が西成という名を引き継いだのか。
 大阪市は大正時代に至って第一次世界 大戦の勃発等から経済界は空前の活況を呈し、その工業生産はわが国第一位となり、海運に於いても神戸・横浜をはるかにしのぐという有様で、大正十三年には すでにその人ロ一四三万人を突破し、接続町村も非常な勢いで増加した。そこで 当時の関市長は将来の都市計画の立場か ら、内務省が淀川以北はなかなか認めなかったが、遂に東成・西成の両郡四四ヶ町村の一挙編入を実現した。

歴史と伝統のある町

 大阪市は新編入四四ヶ町村を、五区の 行政区画に分けることにした。今宮町、玉出町、津守村、粉浜村の四ヶ町村で府 が市会に諮問の際は住之江区であったが、第三区の原案城東区が旧郡名東成を残して東成区と改められたため、市会答申で西成郡の区名も残すべきであるとして、西成区の名となり、これが最終的に決定されたのである。
 「西成区史」は「元来東成・西成の郡名は、奈良時代の元明天皇の和銅六年(七一三年)郡郷の名は好字で表しかつ二字を用うべしとされたことによって、それ迄の難波大郡・難波小郡がそれぞれ 東成(東生)西成の郡名に改められたものである。そしてその際の境界はおおむね上町台地の屋稜線であった。しかし当時の西成郡は小郡の名が示す様に、その区域未だ小であったが、年月が経るに従い陸地造成並ぴに市街地の形成は屋稜線の東側より甚だしく、今日の大阪市の殆ど全区がこの地域に発達した。従って西成郡の区域としては必ずしも現在の西成区域にとどまらなかったが、大正十四年の大阪市編入当時、北部の西成郡諸町村が、東淀川・西淀川に分割され、南部の諸町村においてこの由緒ある西成の名を残すべしとされたためである」と記している。

極楽区

 好字とは、めでたい文字の事であるが、「西成」とは、どこがどうめでたいのか。東成は、太陽に向かって実がなる、という事であれば、西成は矢張り、西方浄土を指しているのであろう。極楽浄土を区名にしている所は、全国でも例がないのではないか。因みに元明天皇は女帝、この時代全国で国分寺が建てられたが、農民は人夫として強制的にかりだされた。
 今大阪市は、日本共産党以外の自社公民オール与党体制の長期化で完全になれあっている。去る九月十八日、大西総務局長は次期市長選で現市長の後継者当選の為に、「選挙違反ぎりぎりまで、あるいは勇み足も有ろうかと思いますが、全力を尽くしたい」と事実上「市役所ぐるみ選挙」を指示する発言を行なった。その場に同席していた西尾市長はあとで 「私も同感」「今度はまだおとなしかっ た」などと居直っている。今年は西成区区政七十年、区の行事が「市役所ぐるみ選挙」で汚されないよう、全市民的な監視を強めなければならない。
(一九九五.一〇)

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南大阪歴史往来(002)

◎大和川の川違《たが》え(その二)

 川違え賛成派は河内・讃良・茨田・若江・渋川の農民たち。反対派は舟橋・太田・若林・瓜破・木本・淺香山・住道・植木等新川予定筋の農民と大和川、石川筋で舟運にたずさわる二百十一隻の船仲間とその問屋筋である。

万年代官が甚兵衛と現地へ

 後世「人情代官」と呼ばれた万年長十郎は、うずたかく積まれた請願書の中から幾通もの川違え関係を発見し、さっそく甚兵衛らを呼び出してくわしく聞いた。その後代官は甚兵衛と共に大和川筋を新川予定地も含めて再三視察した。反対派は田地が川底になる地域の総代庄屋西村市郎右衛門をせきたてて、奉行所への強い交渉を求めた。
 元禄十四年(一七〇一)二月、万年長十郎は甚兵衛を伴なって江戸表へ旅立った。これまでも再三、老中まで甚兵衛らの請願を取次ぎ、自分からも意見書を送り川違え促進を努めてきたが、今度は老中と直談判してでも決定させようという決心からだった。
 二月末江戸に着いたが、勅使下向で幕府は忙しくその上三月には赤穂の殿様の殿中での刃傷事件で、川違えどころではなくなっていた。

幕府川違え決定反対派敗北

 甚兵衛は江戸で万年長十郎からの連絡を待って二年目に入った。その間に大和川の堤防決壊、河内またもや大洪水の報が届いた。これでは年貢米も取れない。ここにきて幕府はやっと大和川の川違えを決定した。世間では赤穂浪士の吉良邸討入り、その後の四十七人の全員切腹などがさわがれていた。
 元禄十五年十一月、反対派の総代庄屋西村市郎右衛門は奉行所に呼ばれ、かねてより提出していた川違え反対の請願書が全て返された。

姫路藩に工事の金も人も

 元禄十六年十月二十八日、大和川川違え工事の人事が現地に正式に伝えられた。大目付大隅守忠香、小姓組伏見主水為信、大阪奉行所代官万年長十郎、以上三名を普請奉行に、姫路藩主本多中務大輔忠国を国役お手伝いとしてであった。
国役とは、江戸時代に幕府が諸大名の財政力を弱化させると共に忠誠心を示させ、あわよくば取りつぶしの口実を見付ける一種の謀略で、そのうち最も重要なものが河川の治水工事で、国役普請とよばれた。
 大和川川違え工事費の総額七万一千五百三両の内、幕府が出すのは三万七千五百三両で、残りの三万四千両を姫路藩が支出するのだが、実際はもっと多額の金が必要であった。幕府は工事完了後に、新田の権利金としてその何倍もの金が入ってくるし、その上今後の年貢米の増収を考えると、全く笑いが止まらない。しかも諸大名の力を弱めることができる。万年長十郎らもその利点を大老らに十分て説得したことであろう。

藩主急逝し藩の危機を救う

 一方、姫路藩にしてみればまさに寝耳に水で、何の関係もない他国の河川修理に藩命をかけさせられる。大変な貧乏くじを引いたものである。
 藩主忠国は国家老と共に先ず大阪の豪商で後に旧大和川跡地の新田で最大の地主になり大儲けする鴻池家に多額の借金をして工事を始めた。藩主政武は名も忠国と改めて、この重責を全うし藩の危機を救わんと陣頭指揮をとるも、姫路藩に割り当てられたところは浅香山の丘陵地で、堅い岩盤を打ち砕いて進む最大の難所、後世の人のいわく「浅香の千両曲がり」であったのだ。有効な道具や機械のないままに工事が遅れてくる。気疲れからか藩主忠国が病に倒れ三月下旬に急逝してしまうのである。二月十五日からエ事が始まったばかりであるのに、余程の無理難題を幕府から押しつけられていたのであろう。しかし、この藩主の突然の死によって、結果として姫路藩は救われたことになるわけで、自刃説も出たところである。
 幕府では改めて国役工事の大名を追加した。岸和田藩主岡部美濃守宣就・三田藩主九鬼長門守隆雄・明石藩主松平佐平衛直常・姫路藩主本多忠孝。計七十九丁(約九㌔)の再分担を藩主の死亡とはいえ幕府がよくやってくれたことだ。当時の権力者柳沢吉保に姫路藩から大金が運ばれたのではないかと、様々な噂がながれたという。
 新大和川は淺香山丘陵などの難所以外は掘らずに堤防を積み上げていくやり方をとっので、工事は工期八か月という早さで完了した。宝永元年(一七〇四)十月十三日式典後新大和川に通水した。

明暗分けた義民

 数年たったある旱魃の年のこと。今までの川が新大和川で切断され一滴の水も流れてこない地域が出てきた。総代庄屋西村市郎右衛門らは、毎日のように代官所や奉行所へ新大和川の堤防より水を引いてくれるように嘆願したが許してもらえなかった。ついに西村市郎衛門は近郷二十数ヵ所所の庄屋と相談の上、自分ー人が責任を負って、新大和川に水門を掘って水を引き入れた。稲田は正気をとりもどしたが、市郎右衛門は捕らえられ大坂城内で処刑され家族は離散した。
 万年長十郎は異例の抜擢を受け堤奉行に就任し、甚兵衛は川違えの功績により名字帯刀を許され、特別に新田づくりの権利を与えられ九十ニオで天寿を全うした。

付記】
 今日3月20日には、がもう健さんへのインタビューの準備にために、話をうかがいました。最近の「郷土史」では、官製の「市史・区史」を始めとして、本当の史実がどんどん削られゆく現状に憤りを感じること、例えば明治天皇が二度も「天下茶屋公園」に「行幸」に来た事実など、日露の戦いに「国威高揚」のためではなく、その頃近くで「隠居生活」を送っていた、自分の乳母に遇うためだったのではなど、興味深い話を聞かせていただきました。「郷土史」「地方史」は古臭い「逸話」に終わることなく、特に若い人が、明日への希望を培う寄《よ》す処《が》にしてほしいと熱っぽく語られました。最後に、まだまだ書きたいところが山程あるそうで、ご一緒に訪《たず》ねることを約して、プレインタビューを締めくくりました。インタビュー本番では、思ってもみないお話が飛び出すかもしれません。どうぞ、お楽しみにしてください。


注記】本文、画像、動画の二次使用はご遠慮ください。

今昔木津川物語(005)

◎西成・阿倍野歴史の回廊シリ—ズ(五)


松虫塚と海照山正円寺 (松虫通一-十ー・聖天下二)

 阿倍野区松虫通一 丁目にある「松虫塚」は昭和五十六年の都市計画道路(木津川《きづがわ》平野《ひらの》線)の工事にひっかかり、削《きず》りとられるところであったが、地元住民の保存への運動があり、結局道路の方が若干迂回してつくられた。

塚の由来《ゆらい》に静《せい》と動《どう》

 この塚の由来についてはいろいろな説があるが、ここでは二つだけあげておこう。
 一つは謡曲《ようきょく》「松虫」に謡われている物語で、”昔ふたりの男友達が虫の声を聞きにこの地に来たが、一人が月の光の中で鳴《な》く松虫の声に聞きほれて草むらに分け入る。あとの一人は残って草の上で寝ていたが、友達が帰《かえ》らないので見にいくとに伏《ふ》して死んでおり泣く泣く土中に埋《う》めて「松虫塚」と名づく“というもので、何の変哲《へんてつ》もない話だが、男同士の恋慕《れんぼ》に近い情《じょう》を表しているとの見方《みかた》もある。
 もう一つの話は、後鳥羽上皇の官女《かんじょ》で松虫・鈴《すず》虫の二人が、法然上人《ほうねんしょうにん》に帰依《きえ》して出家《しゅっけ》し、庵《いおり》を結んで生涯《しょうがい》を送った跡とするものである。
 松虫・鈴虫といえば一二〇七年の「承元《じょうげん》の法難《ほうなん》」で法然《ほうねん》と親鸞《しんらん》は追放処分、松虫・鈴虫の二人を出家させた弟子《でし》四人が死刑になるという、浄土宗《じょうどしゅう》が受けた歴史的な弾圧事件での主人公たちではないのか。吉川英治の小説「親鸞」では松虫・鈴虫の二人は犠牲者の後を追って自害《じがい》して果《は》てることになつているのだが。
 武士と農民、商工業者が成長した鎌倉時代は、宗教の上でも、武士や民衆《みんしゅう》を対象《たいしょう》とする新しい仏教が次つぎに起こった。法然の浄土宗はだれでも仏の前では平等《びょうどう》であり「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》」と念仏を唱えさえすれぱ極楽往生《ごくらくおうじょう》できるという、貧《まず》しい人々を救《すく》うものであったが、朝廷と旧仏教の勢力からは迫害《はくがい》された。
 「承元の法難」以後約三百年たって、大坂石山寺を拠点《きょてん》として一向一揆《いっこういっき》の戦いが、織田信長を相手に約十年間にわたってやられた上町台地の一画であればこそ、松虫塚に法然や親鷲ゆかりのものを求めたのではないだろうか。
 幕末のころ、大坂の狂言作者《きょうげんさっか》西沢一|凰《おう》が「松虫・鈴虫両尼の墓前に花を手向《たむ》け『あたら花 坊主《ぼうず》にしたり 芥子《けし》二本』とよんだ」と記されているのをよめば、大坂では松虫・鈴虫|伝説《でんせつ》がよく知られていたと思われる。

地元の「夕陽ヶ丘」

 海照山正円寺は地元では「聖天《しょうてん》さん」の名で親しまれているが、もとは天狗《てんぐ》塚ともいわれ、昭和二十六年|大師堂《たいしどう》北方五十メートルの崖切《がけき》れの地下二メートルのところから、数十の巨石《きょせき》に囲《かこ》われた古墳を発見し土器《どき》、刀剣《とうけん》、金具類《かなぐるい》を出土したという。
 正円寺の前身《ぜんしん》は、天王寺村誌に「阿倍野千軒の一|房《ぼう》たりしものならんか、般若山《はんにゃざん》阿部寺と号《ごう》したりといへり。大坂夏の陣の戦火その他の厄にかかること数々」とある。
 上町台地より西海を見渡せるところから、海照山正円寺と号し現在は真言宗東寺派《しんごんしゅうとうじは》に属する。

歩いて歴史の”なぞ“を解《と》く

 さて、西成区から阿倍野区にかけてさまざまな史跡をみてきたが、共通《きょうつう》するものとしては、ひとつひとつの史跡に当時の支配者《しはいしゃ》、権力者《けんりょくしゃ》の側と庶民の側からという二つの見方、考え方があり、いくら昔のことだからといって、今|一色《いっしょく》に塗《ぬ》りつぶしてはならないということである。注意してみてみると、先人の残したシグナルを発見することもありうるからである。
 そして今、歴史のねつぞうが、マスコミを使って大々的にやられようとしていることを考えれば、たとえ郷土史《きょうどし》といえどもあいまいにしてはならないと思う。
 今回見てきた史跡は、いずれも全国区クラスの話題性《わだいせい》のあるもので、この地域の歴史と伝統《でんとう》を感じさせるものだった。数時間歩いて回れば、千数百年の各時代を「体験《たいけん》」できるわけだから、こんな恵まれた環境《かんきょう》を生かさなければ損だ、というのも私の郷土史|探求《たんきゅう》の理由のひとつでもある。

今回も、当地にちなんだ動画を追加します。存分にお楽しみください。

付記】
当生協ののデイサービス「つれづれの里」は、聖天さんの近くにあり、兼好「徒然草」から名前をいただきました。

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今昔西成百景(006)

◎幻の川・十三間堀川

 十三間堀川は一六九八年に木津川の水を引き入れて、用水と作物をはこぶために地主たちが費用を出し合って今の粉浜までつくられた。といっても今や埋め立てられ、その上を阪神高速道路が走っている幻の川。
 一九七〇年三月の万国博覧会開幕にむけて高速道路の突貫工事が行なわれたが、それまで長い間十三間堀川はゴミと悪臭の川として放置され、かつては屋形船も浮かんでいたというおもかげもない無残な姿をさらしていた。住民の「何とかしてほしい」という声を逆手にとって、埋め立て即高速道路建設と進んでいったのは、いかにもできすぎたやり方だと今からでは思われる。
 しかしこの高速道路は完全な欠陥道路である。振動・騒音・排ガス公害での住民からの苦情はたえないし、公団自体も年中補修工事をやってそのことを証明している。
 川のなかへじゃぶじゃぶと道路をつくって行っただけでなく、その道路の下には、堺臨海工業地帯へ行く工業用水の巨大な鉄管が納められていたのを多くの住民がみている。
 軟弱な地盤のうえに、ドテッ腹に大穴を開けられているようなことでは、高速道路も足のふんばりようがないのではないか。
 昔、住民がお上へ上納金を差出して許可を受け、みずから費用を出し合ってつくった十三間堀川、今では大企業のために行政が税金を使って埋め立て便宜をはかってやり公害だけを住民に残していった。大企業べったりの大阪府・市政の典型の一つだろう。
 十三間堀川ぞいの家の板べいに「赤旗」新聞を張り出してがんばっていた、今は亡き「植野のガラス屋のおっちゃん」の思い出と共に、かつての十三間堀川の姿はいつまでも忘れない。
(一九九一・七)

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南大阪歴史往来(001)

◎大和川の川|違《たが》え(その一)


 大和川で小魚を釣っては空缶に入れて持ち帰り、母にコンロで焼いてもらったり、土手でトンボとりをしていて、気が付けば夕日が川口に沈みつつあり、あわてて友達と別れて帰宅したことなどがよくあった。
 川の中ノ島のようなところで砂遊びに夢中になっていると、いつのまにか潮が満ちてきて、ずぶぬれになって岸にはい上がってきたこともあった。
 子供の頃の大和川の思い出は、なぜか少しこっけいでそしてちよつぴり淋しかった。

青春の川は清流だった

 高校は大和川を南へ渡ってすぐの、南海電鉄高野線浅香山駅の前にあり、毎日車窓から川の流れと、砂地や堤を見ていた。
 体育祭の応援の練習にクラス全員で川原にやってきて授業に遅れておこられたり、親友と人生や文学について議論するなど、私にとってその頃の大和川は矢張り「青春の川」、であったような気がする。
 そして当時の大和川はけっこう清流であった。
 「浅香の千両曲り」という呼び方は後から知るのだが、大きな川にしてはかなりの急カーブで、私達の学校の北側に入りこんで来ていた。裸足になって川に入れば底はこまかい砂で心地よく、膝の辺りをさざ波がしげきし、太陽の光が川面に反射してまぶしかった。両岸には桜の樹が適当な間隔で立ち並び、四月には満開で祝ってくれた。土手には野の草花が咲き乱れ、しかし蓬(よもぎ)の葉を摘み取る人もいない。川の水はほとんど無臭である。堤防の分も入れると幅は約三百㍍もあり長さは見渡せるまで、見上げれば青空ははるか彼方。川の中に立てばこれらの風景がすべて一人で独占できた。
 時たま小鳥のさえずりと鉄橋を渡る電車のひびき。それも瞬間のもの。私はこんななんでもない大和川が大好きだった。
 その大和川がその後三十年たって、全国一汚れた川として一躍有名になっていようとは、「諸行無常」としか言いようのない、なんともやりきれない気持ちになる。

「大運河」をめぐる争い

そしてこの大和川にかって「元禄の川違(たが)え」という一大公共事業をめぐって五十年間に渉る住民間の激しい争いと、権力者達の策謀が逆巻く濁流があったことを、今となっては知る人も少ないのではないか。
 大和川は奈良県は初瀬川上流の笠置山地のつげ高原を源とし、奈良盆地の水を集めて大阪府と奈良県の間にそびえる、生駒山地と金剛山地の境目にある亀ノ瀬を通って、大阪平野に流れだし、南からの支流を合わせて上町台地を横切り、西に流れて大阪湾に達する一級河川である。

昔の大和川は「暴れ川」

 この川は今でこそ大阪府下では柏原市・藤井寺市・堺市・大阪市と流れているが、実は元禄十七年(一七〇五)までは、現在の八尾市・東大阪市・大東市を横切り、大阪城の北で淀川に合流していた。
 当時の大和川は流れがゆるやかで曲がりくねっているために、川底に砂がたまりやすく、洪水を繰り返す大変な天井川であり、暴れ川でもあった。
 そのために今から千二百年位前、地方長官であった和気清曆呂が大和川の水の一部を上町台地を割って海へ流す大工事を行なったが成功せず、「河掘口」「堀越」という地名だけを今に残している。

甚兵衛が幕府に対策を要求

 永年の懸案であった大和川の付け替えによる抜本的な治水対策を行なえと、幕府に対して要求して立ち上がった人物が、河内郡今米村(今の東大阪市今米)の庄屋をしていた甚兵衛である。
 旧大和川の川筋一帯は元々低湿地で水はけが悪く、大雨の降るたびに洪水の被害を受けていた。幕府は堤防を高くするだけで、ついには川底が周囲の田地より三㍍もたかくなってしまっていた。
 甚兵衛は二十オ前に父が亡くなってからその遣志を受け継ぎ、川違えの具体的な調査を行い、これによって多くの新田が生まれ、ひいては幕府も大増収になることなども提案し、江戸幕府や大阪町奉行所に五十年近く願い続けた。地元でも促進運動をした。
 当然のこととして、新川の予定地になる村や字や田地が潰されるところや、旧大和川で生活していた多くの船頭や漁師達は猛反対をした。
 川違え賛成派,反対派と親子二代にわたるたたかいに終止符を打ったのは、貞享四年(一六八七)に大阪町奉行所代官に万年長十郎が任命されたことによる。

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