がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第50回

◎西本願寺、東本願寺

 京都駅に近づくと、東西二つの本願寺の豪壮な甍《いらか》が目にとまる。どうして東西二つの本願寺が並んで建てられたのだろう。
 市に<ママ 京都市の?>本願寺は、浄土真宗の開祖親鸞の子、覚信尼が文永九年(ーニ七二)に東大谷にその廟を祀ったところがはじまりだが、織田信長にとって、一向一揆などで実力のほどを示した本願寺門徒は目の上のたんこぶ。大阪石山の本願寺にたてこもる門徒を攻画<ママ 攻略?>したが、なかなか落ちず、天正八年(一五八〇)に正親町天皇の勅裁によって時の法王、顕如とやっと和解した。ところがその長男、教如はこえ<ママ これ?>に同意せず、そこで顕如上人は義絶した。
 本能寺の変によって、天下は秀吉のものとなった。天正十九年(一五九一)に顕如が秀吉に請願し、京都七条堀川に十万余坪の土地の寄進をうけて建ったのが西本願寺である。
 顕如の子、教如が父から義絶されて以来不遇をかこち、自ら隠退していたが、慶長五年(一六〇〇)に関ヶ原の合戦で豊臣方が敗退し徳川家康の天下になると、大津に家康を迎えその苦衰を訴えたので、後陽成天皇の勅裁を得て慶長七年に京都烏丸に土地を寄進され、ここに東本願寺を建てた。
 「それぞれお家の事情があったのね」と友子。
 「家康の本願寺派の勢力分断策もあったと言われている」と次郎。

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2020年7月号
(新刊本未収載)

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 二

◎小町伝説は「いじめ」伝説

 次郎はJR京都駅ゼロ番ホームの待合室で、大阪から来る友子を待っていた。大阪駅と同じように、ホームにある規模の大きな待合室は京都駅でも、金沢行きのサンダーバードが発着するこのホームにあるだけだ。
 紫色のコートがよく似合う友子の姿が見えたので、次郎は待合室を出た。
 「友ちゃんはいつ見てもかわいいね」
 「そんなこと言ってくれるのは次郎ちゃんだけや」
 あいもかわらぬ挨拶を交わし合い、二人は改札を出て地下鉄に乗るための階段を下りていった。途中、烏丸御池駅で 東西線に乗り換えて、九つ目の小野駅で下車した。
 そう。今日二人が下見に行くお寺は、世界三大美人のひとり、小野小町ゆかりの随心院である。駅から歩いて約十五分、中規模のお寺だが、梅園や裏の林を巧みに取り入れてゆっくりとした作りになっている。
 二人はお寺の中にある説明書きに目を向ける。
 由緒には、「当山は、真言宗善通寺派の大本山にして、弘法大師御入定後、百二十一年、弘法大師より八代目の弟子にあたる、仁海僧正の開基にして、一条天皇の正歴二年(九九一 年)に奉請してこの地を賜り一寺を建立されました」とある。
 小野小町との関係については、こう記されていた。
 「古来、小野と呼ばれていたこの地は、小野氏の栄えたところであり、小野寺と称する小野一族の氏寺の遺蹟が近年発見されました。小町は小野たかむらの孫にあたり、書家の小野道風は小町の従兄にあたる人です。小町の生涯は判然とはしませんが、弘仁六年(八一五年)頃生まれ、平安朝初期、仁明天皇が東宮であられた時より崩御されるまでお側に仕え、特に盛艶優美、詠歌の妙を得た小町は東宮の寵幸を一身に受け、仁明天皇が御年四十一歳にで崩御された後、小町も 宮仕えをやめて、小野の里に引きこもり晩年の余生を送ったと伝えられています。また、この地に語り伝えられる最も有名なものは深草少将、百夜通い(ももよがよい)の話です。小町を慕って小野の里に、雨の夜も雪の夜も通いつづけたが九十九日目の夜、降る雪と発病により最後のひと夜を前に世を去った深草少将の伝説です。後世六歌仙の第一人者と評され、小倉百人一首の『花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに』はあまりにも有名です。七十歳を越して亡くなったと伝えられています」
 説明に目を通した後、友子は口を開いた。
 「当時の貴公子から小町に寄せられた千束の文を埋めた文塚や、文を下張りにして作った文張り地蔵尊や小町が朝夕この水で粧をこらしたといわれる化粧の井戸は残っているけど、小町の墓はこのお寺にはないのね」
 「随心院の拝観コースの最後に大きな日本地図が掲げられ、東北から九州にかけてなんと二百七十力所ものところに 小町の墓や供養塔があるという。これは本当にびっくりや」
 「一体どういうことなの」
 「小町は死後千年も経ってから、激しい誹謗と中傷の嵐にさらされるのだ」
 「……」
 「小野小町の事跡としては、史実的には古今和歌集(九百十年前後)にある十八首の歌だけなのに、江戸時代の半ばに出版された『小町草紙』には、彼女の出自をはじめとして多情・ 好色・騒慢、その結果零落して全国を放浪し、最後はのたれ死んだという作り話が満載された。そして、小町はついに謎に包まれた女性に成り果てたのだよ。その後も小町伝説は謡曲や仏教の説話にも使われて、無残なまでに貶められていく」
 「それと、地域の客寄せのために勝手に墓を増やしていったのね」
 「いじめの古典版だが、その背後には歴史の思惑と恐ろしい権力を実感するな」
 「それはそうと私は次郎ちゃんから一通の文も貰ってないのだけど」
 「……」

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」未収載。

編者注】
 2024年11月、がもう健の郷土史エッセー集の新刊が出版されました。今後、新刊本収載の項目に関しては。底本は、新刊本とし、未収載の項目は、従来通りとします。旧稿は、本文、挿絵ともに、順次修正してゆきます。
 本文、挿絵とも、二次利用はご遠慮ください。

今昔木津川物語(040)

◎生国魂《いくたま》神社(天王寺区生玉町)

 生国魂神社々伝によれば「第一代|神武《じんむ》天皇御東征に際し、上町台地の北端である『難波之𥔎《なにわのさき》』に大八州の神霊として生国魂大神を鎮祭された」となっている。

元は石山本願寺の隣りに

 明応《めいおう》五年(一四九六)、蓮如《れんにょ》上人が「石山本願寺」を、生国魂神社の隣接地に建立する。「石山御坊」とも称した石山本願寺は、やがて本願寺教団の拠点となり、織田信長との「石山合戦」を十年近く行なうが、天正八年(一五八〇) 信長の攻略に屈し、要塞堅固・荘厳《そうごん》美麗《びれい》とうたわれた本願寺は灰燼《は<ママ か?>いじん》に帰した。
 信長亡き後、豊臣秀吉は石山本願寺の跡に難攻不落《なんこうふらく》の大阪城を築く。天正《てんしょう》十ー年より築城に入るが、 まず城域内に含まれる生国魂神社を現在地に移し、社領三百石を寄進して社殿を造り替えた。天正十三年九月九日に遷座《せんざ》奉祝祭が行われ、以後九月九日は生国魂神社の例祭日となった。
 その後、社殿は元和六年(一六一五)の兵火、明治四十五年の「南地の大火」昭和二十年三月の戦火と再三罹災に会うがそのつど復興してきている。

異様な感じの「生国魂造」

 生国魂神社の本殿は「生国魂造」と称する。他に例を見ない建築様式であり、現在の本殿も、往時の規模を踏襲《とうしゅう》して建てられたものである。すなわち、五間四面棟高六十尺の本殿と七間四面の幣殿の屋根は一つの流造で葺きおろし、正面の屋根に千鳥破風・すがり唐破風・さらに千鳥破風の三破風を据えたもので、天正年間の豪壮な桃山文化の遺構を伝えたものとされている。
 私は先日、つくづくとその本殿を見上げて「出雲大社と感じが似ている」と思わずつぶやいたのだが、住吉大社や他の氏神さんとも違う、むしろ異様な建物を見たというふうであった。
 高さを誇っているようでもあるが、何か近寄りがたい。権威ではなく不思議な恐れさえ感じられたのである。

「大物主」とオオクニヌシ

 その理由は、祭神について調べることで判明した。
 生国魂神社の祭神は、生島・出島神二座を主神とするが、相殿神として「大物主神」を祀っているのである。
 生島神、足島神とは「大八州の霊」であり、日本列島全体の国魂ということになる。国魂とは、古代人がそれぞれの地域に存在したとみなした神霊のことである。
 一方、それに対して、「大物主神」とは、大和三輪に祀られている神だが、いまの神道では出雲のオオクニヌシと同一人物とさている。なぜ出雲の神を大和で祀らなければならないか、という疑問に対して梅原猛氏は、もともと大和三輪の先住民であった大物主が、大和朝廷に敗北して「国譲り」をしたあと、出雲に流され祀られるようになったと述べている。大和朝廷は大物主の怨霊によるタタリを恐れて「大きな神殿(出雲大社)を建て丁重に祀った」ということになるのではないだろうか。
 生国魂神社にもし最初から「大物主神」が祀られていたとすれば、同神社建立の目的は、大物主の怨霊の大和への帰国阻止にあったと思われる。

小泉首相の靖国神社参拝

 時の権力者が、ライバルを無実の罪に陥れ、そのタタリを恐れて神社・仏閣を建立した例は、日本の歴史では結構多い。天満宮しかり、奈良の大仏もそう云われている。そしてその効果はほとんどなかったというのも、歴史の回答である。
 小泉首相の靖国神社公式参拝も結局は、東条英機などのA級戦犯への参拝であったという歴史の回答は、もうすでに出されている。

今昔木津川物語(039)

◎四天王寺 (天王寺区四天王寺一)

 四天王寺は推古天皇元年(五九三)現在の地に聖徳太子の発願により建立された。
 用明《ようめい》天皇の後継者争いで蘇我馬子《そがのうまこ》厩戸皇子(後世になって聖徳太子と呼ばれる)らが、物部守屋を滅ぼした戦いの際、厩戸皇子は楓の樹を切り取り、四天王の像を作り、頂髪にそれを置き「今もし我をして勝たしめるならば、寺塔を建てよう」と誓願し、馬子も誓い、諸兵を督励《とくれい》し攻めて勝利した。その時の約束を果たしたもの、と寺の縁起で書いているが、今では疑問視されている。
 しかし、守屋滅亡の経過や戦いの場所、守屋の財産投入によって四天王寺が建立された事実からみて、全てが作り話とは云えない。

再三の災害、室戸台風、空襲

 四天王寺式といわれるその伽藍《がらん》は、塔婆が前面に、金堂がその背後にあり、法隆寺の塔婆と金堂が左右に並列するのと違っている。
 創建当時の四天王寺は、敬田院・悲田院・施薬院・療病院からなっていたが、再三の火災をうけ、そのたびに主要伽藍が焼けた。
 享和元年(一ハ〇ー)の雷火による災害のあと、大阪の淡路屋太郎兵衛の発願で喜捨が集められ、文化九年 (一ハーニ)再興供養が営まれ、その時の姿で近代に入ったが、昭和九年(ー九三四)室戸台風で塔と中門が倒れ、二〇年三月の空襲で伽藍の主要部分を焼失した。

夕陽ヶ丘で「日想感」信仰

 平安末期から鎌倉時代にかけてのあいつぐ戦乱は、人々に現世否定、浄土への再生・憧憬となって現れた。阿弥陀や浄土の姿を思い浮かべることによって、浄土に再生することができると説く浄土教では、それには一六種の方法があり、その第一は日想観であるとした。
 太陽が西に沈むのを見て極楽を思うわけで、当時、上町台地の西端はそそり立つ崖の上になっていて、各地で「タ陽ヵ丘」と呼ばれていた程で、その上に立ち大阪湾を一望すれば、はるか西海に沈む落日の荘厳さは、見るものに現世の苦しみを逃れて、西方浄土に生きたい気持ちをかりたてるものがあった。

救いを求めて庶民が病者が

 そして彼岸の中日には、四天王寺の西門は極楽の東門に向かっていると信じられ、四天王寺が浄土信仰の霊地となっていった。
 四天王寺の特徴は、救いを求めて集まってくる人々の大部分が、あいつぐ戦乱や苛酷な収奪からはじき出された、庶民であり病者たちであった。
 四天王寺の近くに、一心寺・大仏念寺・長宝寺などがあるのは、この地域が当時の浄土信仰の拠点であったことを示している。

小泉支持は切実な要求付き

 さて、目を現代に転じたら、マスコミの調査によれば小泉内閣は、異常な位の高い支持率だという。調査の仕方や、マスコミの世論誘導的な報道の仕方にも大いに問題があると思うが、私は小泉首相はとんでもないくわせものだと指摘したい。なぜなら彼は、「自民党を変えて日本を変える」と公約して首相になった。人々は「これが一番てっとり早い」と考えて支持したのであって、決して白紙委任したわけではない。むしろ「景気回復・リストラ反対・将来不安の解消」という切実な要求付きの支持なのである。そしてこれらは必然的に自民党的政治のやり方を抜本的に変えなければ実現できないものばかりなのだ。

自民党的政治を変えないと

 ところが小泉首相は「自分が当選したことは自民党が変わったということなんだ」と詭弁を弄し、公約に早速違反し、KSD汚職や機密費問題については追及しないという態度である。
 そして「日本を変える」として持ち出してきたものは、元々古い自民党がやりたくても国民の批判を恐れ出せなかった最悪のシナリオ。
 すなわち、中小企業ーー〇万〜三〇万社を倒産させ失業者を三百万人も増加させる。福祉・医療の更なる改悪。新たに高齢者から老人保険料の料金を取る、健保本人を三割負担にする。消費税の大幅引き上げ。憲法を改悪しアメリカの手先としての海外派兵。首相公選で独裁的な権カ確保。
 これでは自民党は少しも変わっていない。政・官・財の癒着も反省もなく続けられていくし、小泉内閣の高支持率のかげで自民党の高笑いが聞こえてくるではないか。

公約違反に国民の総反撃を

 いま、夕陽ヵ丘から見下ろしても、都会の喧騒とゼネコン・大銀行をボロもうけさせるだけに終わった、府、市立の「赤字発生巨大ビル」の林立をまのあたりにするのみ。荘厳な気持ちになるどころか、自・公・民オ—ル与党の悪政を思い起こし、怒りがこみあげてくる。
 今やらねばならないことは、あきらめや逃避ではなく、たたかいに立ち上がること。そして四天王寺にこめられた、これまでの何億という人々の願いを実現することこそが、本当の意味での「浄土への再生」ではないであろうか。

今昔木津川物語(038)

◎天王寺の坂 (夭王寺区夕陽丘町)

 「現代西成百景・今昔木津川物語」を書き始めて早や八年、今月で七十九号になった。
 郷土史を庶民の立場から見直すことによって、昔の人の伝えたかった本当のことを知りたいという思いからであったが、結果的には住む街に新たな愛着が生まれることにもなり、 思わぬ人から感謝されたりしている。
 最初は西成での百景を考えていたが、すぐそれでは視野がせまくなるということに気が付いた。西成区は阿倍野、住吉、住之江、大正、浪速、天王寺というそれぞれ特色のある六つもの行政区にかこまれためずらしい区なのである。その特徴を生かさない手はないとこれらの地域を貫く「木津川」にご登場を願ったわけである。
 「西成・阿倍野歴史の回廊」「西成・住吉歴史の街道」「西成・住之江歴史の海路」「西成・大正歴史の掛け橋」「西成・浪速歴史の界隈」と、下手なごろ合わせみたいなものを続けてくると、最後はやはり「西成・天王寺歴史の階段」ということになるか。

「坂めぐり」は名所めぐり

 事実、天王寺には有名な坂(階段)が数多く存在している。その紹介を昭和三十年(ー九五五)に発行の「天王寺区史」からすると「真言坂。この坂だけは高津表門筋から電株道を横切って生玉北門に達する坂で、坂の両側に真言宗の十坊があったところからかく名付けられる。市電下寺町停留所から生国瑰神社へ上る坂は生玉新道といわれる。源聖寺坂。下寺町の源聖寺南側から上り齢延寺と銀山寺の間に出る。その中腹に「こんにゃくの八兵衛』という祠があった。ハ兵衛とは狸で、買物をしてこの前を通ると、八兵衛さんにこんにゃくなどをとられるからかくいわれる。夕陽丘新道。これは第二次都市計画事業として昭和十二年(ー九三七)頃に新につけられたもの。
ロ縄坂。
摂津名所図絵大成には『坂の名義詳ならず。道の曲がれるによりて名づくるなるべし』とある。摂陽群談では蛇坂と書く。愛染坂。一名|勝鬘《しょうまん》坂といわれる。遊行寺南側より上り勝鬘院門前に至るところからこの名がある。その他に新清水に登る清水坂。安居天神へ詣る天神坂。合邦《がっぽう》が辻で有名な逢坂(電車道)などがある」
 昭和五五年(ー九八〇)七月一日ロ縄坂の上に織田作之助の文学碑ができた。
 小説「夫婦善哉《みょうとぜんざい》」で一躍世に出た織田作之助は、 ユニ—クな発想と主人公らが大阪弁を使いこなす小説を次々に発表し受けたが、 惜しくも三十四オで他界してしまった。
 天王寺区上汐町四丁目の通称河童(ガタロ) 横町で大正二年に生まれた織田作之助は旧制高津中学校に学んだが、毎日のようにこれらの坂を利用していたのだろう。

脇田さんと「織田作」とは

 しかし私は、「織田作」ときけばすぐに連想するのは、今も天下茶屋の「聖天さん」の近くに住んでおられる脇田澄子さんの、昭和六十年(ー九八五)に書かれたエッセー「織田作さんの後ろ姿」のことである。
 昭和十八年(ー九四三)の暮れ、脇田さん一家は天下茶屋から高野線の北野田に疎開し、お父さんが駅前で慣れない風呂屋をはじめたところ、近くの新しい借家に疎開して来た織田作さんが何回か入浴に来たとのことである。風呂屋といつても石炭の配給のあるときしかできず、営業は週ー、二回で結局は一年位で休業してしまったのだが。当時脇田さんは堺市の国民学校訓導(現在の小学校教論)になって一年目、夕方母と交代して番台に座っていたとき「着物姿の長髮長身の男がさっと番台の横をとおって行った。うつ向き加減の広い額に、はらりと垂れた前髪、やや異口の感じの考え深そうな目、而長の吉白い頰に刻まれた縦じわなどか、一瞬のことですのに、私の脳裏にやきつきました」と脇田さんは書いている。
 昭和十九年(一九四四)の八月の終わり頃、織田作さんが浴衣を裏返しに着て帰られたことがあったそうだ。「こんなとき妹なら、なんのためらいもなく「もしもし織田作さん、浴衣が裏返しになっていますよ』と声をかけたでしょうに、私にはそれが出来なかった」と脇田さんは悔やんでいる 同時に脇田さんは、その年の二月に、ニオ年下の文学好きで物おじしない妹を、あの時期に腹膜炎のこじれカらなくしてしまったことも 、深く悔いておられることが直接ふれていなくても心に伝わってくる作品だ。
 脇田さんがその後半世紀にわたって、教職にあるときも退いてからも、ひたむきに反戦平和と文学活動にたずさわってこられた原点がここにあるのではないかと私は思う。
 「天王寺の坂」の話から思わぬ方向に発展してしまったが、階段をゆっくりと昇って行くとき、人はさまざまなことを想い浮かべるものではないでろうか。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第14回、第15回


◎達磨《だるま》寺

 次郎と友子の「びっくり史跡巡り」は今日は法輪寺(達磨《だるま》寺)に来ている。由来は「この寺は洛陽円町、北野天満宮ゆかりの紙屋川畔にある。臨済宗《りんざいしゅう》妙心寺《みょうしんじ》派の名刹であり、通称『達磨寺』の名で親しまれている。享保十三年(一七一八)大愚《さいぐ》宗築禅師《そうちくぜんじ》を開山とし、荒木光品宗禎居士が開基となり、万海慈源和尚《ばんかいじげんおしょう》が創建したものである。創建には十年の歳月を要したといわれている。開基の荒木氏は両替商であり、武家の開基になる寺院の多い妙心寺派にあっては異色の禅刹《ぜんさつ》である」
 次郎が語る「キリスト教とイスラム教はもとをたどれば同じ宗教だ。キリスト教ではイエスがイスラム教では厶ハンマドが伝達者であり、その伝えの違いが別の宗教になったものだ。釈迦の仏教は『絶対神』を認めていない。したがって神の言葉はない。釈迦が語ったのは、自分で考え、自分で見いだした悟りの道なのだ」
 「それではお経は何なの」と友子がたずねる。
 次郎がつづける「お経は釈迦が弟子たちに語った、悟りのための手引書。しかし、これらがすべて釈迦の言葉ならいいのだが、実際には釈迦の死後、長い年月の中で多数の無名の著者が『釈迦の教え.!として、自分の思いを書き表わしてきた蓄積なのだ」
 友子「大乗仏教のことだね」
 次郎「釈迦の死後五百年たってインドに『われわれを助けてくれる不思議なカがあり、それが多くのものを一挙に救い上げるという神秘的な大乗仏教《だいじょうぶっきょう》がおこり、これが釈迦の仏教と同時に中国に入り、後に日本には大乗仏教が中心的に入ってきた」
 友子「そこで…」
 次郎「ここは私に云わせて。そこで人々は気に入った大乗経典《だいじょうきょうてん》を選び『これこそが本当の釈迦の仏教だ』と主張したのだ。その結果、日本に多数の宗派が生まれた。十三宗五十六派以上ある」
 友子「成立時期の古いものから上げれば奈良仏教と呼ばれる法相宗《ほっそうしゅう》、華厳宗《けごんしゅう》、律宗《りっしゅう》、平安時代に広まった天台宗《てんだいしゅう》と真言宗《しんごんしゅう》。浄土教の流れをくむ融通念仏宗《ゆうづうねんぶつしゅう》、浄土宗《じょうどしゅう》、浄土真宗《じょうどしんしゅう》、時宗《じしゅう》。禅宗《ぜんしゅう》の臨済宗《りいざいしゅう》、曹洞宗《そうどうしゅう》、黄漿宗《おうばくしゅう》、そして日蓮宗《にちれんしゅう》です」
 次郎「だるま寺の所属する臨済宗は『ただひたすら座禅を組むその行為が悟りである。』と禅宗は座禅を重視するのだが、参禅者たちが壁を背にして座っておれば臨済宗、各自壁に向かつて座っていれば曹洞宗だ。また禅問答は臨済宗だけだ」
 最後に、起上り達磨の由来を引用しておきます。
 「インドから中国へ禅を伝え、禅宗の初祖となった達磨大師は、今日、日本では『だるまさん』として親しまれています。達磨大師は西暦五二七年。インドから海路三年かかって中国に渡られ、面壁九年《》めんぺきくねん、手も足もなくなり、忍苦の修業をして禅宗の開祖となる。日本ではこの達磨を七転八起の起上り小法師に変えて、独特の発展をさせたのです」

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2017年5月、6月号掲載

今昔木津川物語(035)

◎土佐藩住吉陣屋跡(住吉区東粉浜ニ)

 上町台地の西端の急な坂を降って、地理学的に云えば、いわゆる微高地に立つ東粉浜小学校から、西へ百㍍行けば、チンチン電車として親しまれている、阪堺線が南北に走る旧紀州街道に出る。この街道から東部、東西約百四十㍍、南北約三百六十㍍のほぼ長方形の地域は、旧粉浜村陣屋前といわれたところであるが、ここに幕末維新期に、土佐藩住吉陣屋があったことを知る人は少ない。
 まして、坂本竜馬・中岡慎太郎・後藤象二郎等の有名人らが、足しげく通つていたなどと想像する人はもっと少ないと思うのだが、その可能性の確率は案外高いのである。
 「幕府は万延元年(一八六〇)九月、大坂湾岸防衛のため土佐藩に対し、中在家村・今在家村(粉浜村の旧名)錯雑地にー万七十九坪余(約三・三㌶)の土地を与え陣屋を構築させた。土佐藩では後藤象二郎を普請奉行に、職人をはじめ木材・石材等にいたるまで土佐から運び込み、文久元年(一八六一)五月完成させた。絵図面によると、陣屋は西側紀州街道沿いを正面に、東側(上町台地西崖)を除く三方面にほほ半周する形で堀を巡らせていた。
 正面の橋を渡った正門すぐに陣屋本殿、その東側に武芸所(文武館)、士大将・士分用宿舎は北側に間口三十五間の平屋建二棟を、郷士以下足軽宿舎は上町台地沿いに南北間口七十二間の二階建一棟、その他厩舎・火薬庫・射撃場・操練場などを備え、約三百人が常駐していた。任務の一端として、木津川口千本松付近から対岸にかけて鉄鎖をわたし、それを上げ下げして船の航行を制限するなど防備に努めたという」(住吉区史)

坂本・中岡・後藤のトリオ

 坂本竜馬は文久二年(一八六二)三月土佐を脱藩したのち諸国をまわり、中岡慎太郎と協力して薩長の接近をはかり、慶応二年(一八六八<ママ 正確には一八六六)一月、京都において西郷隆盛《さいごうたかもり》と桂《かつら》小五郎との会見を実現させ、薩長同盟という事業を成し遂げた。
 後藤象二郎は竜馬が脱藩の罪をおかしているが、今後土佐藩にとって重要な人物になるとの思いから、慶応三年(一八六七)四月、藩命により罪を許し、海援隊長に任命した。また、中岡慎太郎も同時に脱藩の罪を許され、陸援隊長となり海・陸双方から藩を応援することになった。
 坂本竜馬も当時「私一人にて五百人や七百人の人をひきいて天下のためをはかるより、土佐藩二十四万石を引きいて天下国家のためにつくす」といっているので、藩への復帰は矛盾のないところであった。

テロの嵐の犠牲に

 万延元年(一八六〇)三月の桜田門外の変以後、文久二年(ー八六二)四月に寺田屋の変、八月に生麦《なまむぎ》事件、十二月イギリス公使館焼き討ち事件などのテロ事件が続発、京都では京都守護職の配下であった近藤勇らの新撰組は、尊攘《そんじょう》派の志士たちをねらって、手当たり次第に斬り殺した。
 このように激動する情勢の最中に、大阪に新たに造られた、まるで城のような土佐藩住吉陣屋は、三百人の常駐体制といい、京都をにらんでのことであり、志士達が血相を変えてひんぱんに出入りしていた、とみるほうが自然ではないか。
 木津川口千本松付近は、当時は「天の橋立」と並び賞されるような、松の並木が連なる堤防が川の中程まであったから、対岸との間に鉄の鎖を張って、船の出入りをチェックしたとしても、三百人もいるはずはなかったと思われる。
 しかし、坂本・中岡共に慶応三年 (一八六九)<ママ、正確には一八六七>京都で暗殺された。

いま自由民権運動の流れは

 土佐藩は大政奉還《たいせいほうかん》という「無血革命」をなしとげることで、大きな役割を果たしたが、その後の明治新政権樹立では薩摩・長州に権力を独占されてしまった。薩長を中心とする藩閥専制《はんばつせんせい》に対立して、その後土佐で自由民権運動が進んでいった。
 土佐藩住吉陣屋跡の近くに住んでおられる、日本共産党元衆議院議員の正森成二さんが最も尊敬される方と常々云っておられた、高知県から一貫して衆議院に出ておられた、日本共産党の山原健二郎さんらにこそ土佐の坂本竜馬やその後の民権運動の伝統が引き継がれているのではないだろうか。
 土佐藩陣屋跡の真向かいに日本共産党の地区委員会の事務所がお世話になっているが、先の総選挙ではこの事務所から、小林みえこさんが出馬し、当選は逸したが好成績を得た。
 小林さんの演説はいつ聞いても力強く、心を打つものがある。歴史の歯車を大きく回すために共にがんばりたい。
 尚、後に陣屋は撤去されて主な建物は京都白川に移築、石垣は近くの生根神社の石垣に転用された。跡地は茶畑に、大正時代には草競馬場にも一時なったという。

今昔木津川物語(034)

◎帝塚山古墳 (住吉区帝塚山西二—八)

 南海高野線帝塚山駅下車西へすぐのところにある帝塚山《てづかやま》古墳《こふん》は、五世紀代のかなり古い時代の古墳とみられ、前方後円墳《ぜんぽうこうえんふん》として原形を止める大阪市内唯一のものである。
 上町台地の崖に沿って立地し、その墳丘《ふんきゅう》は二段築成で前方部は西南の方向に向き、全長で百二十㍍、 後円部直径五十七㍍、前方部幅五十七㍍、高さは後円部十㍍に前方部八㍍。墳丘をめぐる周壕跡《しゅうごうあと》は幅二—三㍍が確認されている。また墳丘には円筒埴輪や葦石が認められるが、古墳の内部本体については不明。

今は国の史跡で入れない

 昭和三八年(ー九六三)に国指定の史跡になり、現在は高いさくをはりめぐらせ、入口には厳重な鍵がかけられていて、特別の許可がなければ入れない。
 帝塚山という名称の起源については諸説あるが、摂津誌では「陵墓大玉手塚、小玉手塚ともに住吉村玉出岡にあり地に因って墓の名とする」とかかれており、のち玉を略して手塚—帝塚となったというのが、昔、玉出という地名が、住吉神社から北へこの辺りまで一円にあったのかと面白い。

大伴金村は古代史の超大物

 さて、何人が埋葬されているかという点では、大伴金村説が有力である。大伴金村とは、第二十五代|武烈《ぶれつ》天皇時代の大連(むらじ)で、武烈天皇に子孫がいなくなったので、応神《おうじん》天皇の五世の孫といわれる人を越前から連れてきて、継体天皇にしたという、古代史の仕掛人の一人である。しかし継体天皇は皇位についても二十年間、大和に入れなかったというから、金村の強引なやり方に反感を持つ氏诙の箋合が強力であったとうかがえる。
 金村はその後引退して住吉の地に住んで、勢力を広げた。金村か大伴一族の誰かが埋葬されている可能性が高い。

小帝塚は里山の中に

 この塚は、もと大帝塚と小帝塚があり、今の帝塚山古墳の西南へ少し離れたところに小帝塚があった。この古墳の前方部は北北西を向き、全長二九・七㍍の小さな古墳であった。
 実は、大帝塚山も小帝塚山も、私の子供の頃の絶好の遊び場であった。特に小帝塚山は小学校の背後の里山山頂にあり、塚の前は第二運動場のようになっていて、ドッチボールや三角野球などよくやった。
 古墳の端に、松の大木が横に伸びていて、子供たちはそれを馬の鞍に見立てて順番に乗ってゆするので、木の皮がはげてつるつるになっていてよくすべった。
 里山一円は、山あり谷あり、野あり池ありで、まるでバランスよく作られた自然の公園であった。枝を折ってチャンバラごっこの刀にしようが、山芋を掘って持って帰ろうが、誰も怒らなかった。
 夕方にはトンボとり。糸の両端に色付きのセロハン紙で大豆ほどの小石をくくり、空に放りあげると色々なトンボが糸にからまって落ちてくる。取れなかった子には分けてやって、西の空が茜色に染まる頃には、大きな子が人数を確かめてみんなで山をおりた。

軍につぶされた古墳の運命

 戦時末期に、小帝塚山は里山もろとも軍の大規模な高射砲陣地となり、立入禁止で突貫工事。この時に古墳は跡形もなくつぶされてしまった。子供たちの楽園は一瞬にして、銃剣を捧げ持つ兵隊に囲まれた恐ろしい場所となった。
 敗戦後、小学校の高学年であったわたしたちは、毎日のように高射砲陣地の後始末をやらされた。食料はもちろんあらゆる物資が、兵隊たちに我先にと持ち去られた後の、砲弾から兵隊の寝ていた布団まで、栄養失調の細腕でぶら下げて、何回も山を上り下りした。
 その後は、里山を段々畑に変えてしまつた程の、開墾、そしていもづくり。一部では稲も植えた。
 新制中学の入学の写真は高射砲の発射台がバックになっている。それはまるで鉄とコンクリ—卜でつくられた「昭和の古墳」であったが、七、八基もあり各組のそれぞれしばらくは教室となった。
 堅牢《けんろう》な高射砲陣地は、その後何年もかかって破壊され、中学校になって今に至っている。
 大帝塚山にはむしろ中学生になってからの方がよく上った。草の上に寝そべって、友人と本を読んだりして時を過ごしたものだ。
 最近見たある郷土史の本に「小帝塚古墳というのもあったらしい」とふれられていたので、あわてて記憶にある部分だけをかいた。もっとよく調べて、いつか詳しくかいてみたい。

今昔木津川物語(033)

◎玉出四ヶ寺(西成区玉出西)

 今も玉出にある光福寺・長源寺・誓源寺・善照寺は俗に玉出四ヶ寺と称し、 織田信長と本願寺派の間の石山合戦の際には、この玉出四ヶ寺が勝間村(玉出の旧称)に本願寺派の砦をつくり、出城の砦と協力して信長の軍勢とたたかったという歴史がある。

「勝間御堂」の光福寺

 昭和四三年発行の「西成区史」には、光福寺は吉祥《きっしょう》山光福寺と号し、真宗仏光寺派に属する。創始は、同寺によれば嘉祥《かしょう》元年(八四八)小野たかむらの発願により、奈良興福寺の別院として住吉玉出の里に創建、松林山興福寺と号したが、元応《げんおう》元年(一三一九)門信徒の要請により建物のすべてを勝間村に移し光福寺と改めた。元弘二年(一三三二)時の住職円槿上人、真宗仏光寺派了源上人に帰依《きえ》し宗派を真宗と改めこれを当寺の中興とした。寺宝・古文書等は元和元年(一六一五)大坂夏の陣を避けて高野山に疎開させたところ疎開先で火災にあい、そのほとんどを焼失、さらに太平洋戦争で残る諸物品も堂宇と共に戦火を受けすべて焼失した。
 なお旧幕時代には仏光寺門跡に所属する院家寺院として摂津の国院家や「勝間御堂」と称された。院家とは門跡寺院に所属する寺院のみが称し得る名称で、国院家とはその地方を代表する門跡寺院所属の寺とい、っことで、当時は大名等と同等の資格を有したという。
 境内四百八十八坪にして本堂外六棟存す。
 また境内墓地に「大江先生の墓」なるものがあり、これは大江元定(通称島右衛門)の墓で、無端斎藤土肥安信(積翠堂と号す)を師とし、揚心神道流の剣柔二道にすぐれ、吉田流の弓術をよくし後紀州侯に召抱えられ、勝間村に道場を開いて多くの子弟を薫陶した。寛政十一年(一七九九)九月五七オで没した。

片桐検地が善照寺で休息

 善照寺は浄土真宗本願寺派に属し旭日山と号する。慶長二年(一五九七)創建|元和《げんな》四年(一六一八)十一月四日本願寺派に属する。
 慶長一四年(一六〇九)片桐市正当地を検地の際休息所に使用し、その礼として三畝十四歩の土地を与えたと伝える。享保《きょうほ》二年(一七一七)本堂改築、明治十四年寺坊改築、さらに昭和十二年書院鐘楼等新築し諸設備を完備したが、二〇年三月十三日の戦災のため本堂・庫裏-書院を焼失。境内二百十三坪にして本堂外四棟を存す。

最初の小学校が長源寺に

 長源寺は海東山と号し、真宗大谷派に属す。開基は誓願寺と同じであり、明治六年二月には勝間村最初の小学校仮校舎として使用された。戦災で焼失。境内三百六十四坪、本堂外七棟を存す。
 誓願寺は天来山と号し、西本願寺末にして永禄元年顕如法主の直弟円信の創建なり。境内二百七十六坪、本堂外四棟を存するも、 戦災で堂宇を焼失。

明治維新の犠牲者も

 又、大正四年発行の「西成郡史」によれば、幕末の頃光福寺より一偉僧を出しぬ。名は宗中、学徳高く大志あり、二条・近衛諸家に出入りし、南船北馬《なんせんほくば》殆ど席の暖まるなく、四方志士の間に奔走し、尊皇《そんのう》の大儀を唱う。明治十年薩南に事起こるや密かに官命を帯び危難を冒して深く敵地に入り、辛うじて使命を達したる後不幸遂に敵兵に捕われ、同年五月二十八日殺されぬ。時に三三オなり。墓は日向国諸縣郡本荘村字十日町宝光寺境内にあり。後鹿児島県より其|横死《おうし》を哀れみて吊祭料及遺族扶助金を下賜せられたり、とある、
 玉出四ヶ寺がそれぞれ創建後、石山合戦・大坂夏の陣・明治維新・太平洋戦争と戦火をあびながら、「勝間千軒」の菩提《ぼだい》寺として一貫して存在してきた姿には感動させられるものがあるし、又それを守ってきた住民も素晴らしいと思う。

日本共産党と宗教者

 今年十一月に日本共産党の第二十二回大会が行われたが、その中で宗教者の党員は「生きとし生けるものの命と心をなによりも尊重し、ウソいつわりを許さない、常に弱者の立場に立つ慈悲の心、博愛の精神、このような宗教者の信条を、現代日本の政治において託せる政党は日本共産党しかありません。この数年間、多くの宗教者が共産党にたいする偏見の壁を乗り越えて、常に注目し関心を持ちはじめています。この大会を力に、日本の民主的改革へ国民多数の結集を図るため、宗教者の分野で大いに対話・共同をすすめていく、 ロマンあふれる活動をくりひろげていきたいとおもいます。合掌」という発言をしていた。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第10回、第11回

◎千本釈迦堂は「おかめ堂」?か

 次郎と友子は今日は、京都市上京区五辻通にある、京都市内としては最も古い、貴重な遺構である大報恩寺(千本釈迦堂)に来ている。
 次郎は数年前に、年末の大根焚きの行列に並んだことはあったが、本堂の拝観は出来ていなかった。友子は初めてだ。
 市バス「上七軒」で下車、七本松通りを南に突き当たったところが千本釈迦堂だ。全体は町の中にある氏神さんのような感じだが、国宝の本堂はやはり堂々として、歴史の重みを感じさせる。
 寺の沿革によれば「今から約八百年前に鎌倉初期安貞元年(ーニニ七)義空上人によって開設された。本堂は創建時そのままのものであり、応仁・文明の乱にも奇跡的に戦火を免れ、京洛最古の建造物として国宝に指定されている。義空上人は、藤原秀衡の孫にあたり、十九歳で叡山澄憲僧都に師事、十数年の後この千本の地を得て、苦難の末本堂を始め諸伽藍を建立した」。
 突然、友子が大きな声を上げた。「本堂に向かって右の塚におかめが座っている。こんな相撲取りのようなおかめを見るのは初めてや」
 「おかめ塚」の由来については寺の沿革では「本堂建立の際、棟梁である高次が、かけ替えのない柱の寸法を切り誤ってしまった。これを見た妻のおかめがいっそ『ますぐみ』をほどこせば」というひと言。この着想が結果として成功をおさめた。
 安貞元年十二月二十六日、厳粛な上棟式が行なわれたが、この日を待たずして、妻は自ら自刃して果てた。女の提言によって棟梁としての大任を果たし得たということが、世間にもれ聞こえては…。『この身をいっそ夫の名声に捧げましょう』と。
 次郎が語る。「しかし結果としては、実は妻の提言だったということを今日までの八百
年間、おかめは世間に知らせ続けてきたことになっている。おかめが一番恐れていたことを、寺はなぜやっているのか。本当に不思議なことだ」
 友子も語る。「棟梁の妻たる者が、上棟式という祝いの日を目前にして自刃するなどとは考えられない話だ。『おかめよくやつた』とは到底誉めてやれない」
 二人は本堂に入ると、御本尊の釈迦如来像は扉を閉じておられたようだが、本堂の前にもおかめ像。しかも本堂の横の部屋にはまたおかめの巨大像。その前には各地から集められた各種のおかめ人形がびっしりと置かれている。
 「これではまるで、おかめ堂だ…」次郎は思わず叫んだ。友子は再びおかめ塚に行っていたが帰ってきて「昭和五十四年建立と書かれていた。最近なのだ」と不思議そうにつぶやいた。
 次郎は語った。「伝説というものは何かしらうさんくさくて、背後にも、よからぬたくらみがあって、それで不当に得をする者の世論誘導の印象を受けるのだが。今回の『おかめ伝説』の場合はどうだろうか」
 次郎は友子の手をとって。
 「でも、大根焚きに集まった女性たちはみんな元気で明るかったから、一方的に夫の犠牲になるような時代錯誤はもうとっくに過去の遺物になっているのではないかなあ…」
 「友ちゃん帰りに京名物の『にしんそば』でもたべよう」「賛成です」友子の声は明るかった。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2016年12月、2017年2月号掲載