今昔木津川物語(023)

西成—大正歴史のかけ橋シリ—ズ(一)

◎木津(中村)勘助《かんすけ》の実像《じつぞう》

 木津勘助、天正《てんしょう》十四年(一五八六)相州足柄山で新田義貞八代の孫として生まれる。姓は中村、父母とともに木津村(現在の浪速区大国町付近)へ移り住み、木津勘助と呼ばれる。

勘助島(三軒家《さんげんや》)で新田づくり

 慶長《けいちょう》十五年(一六一〇)豊臣《とよとみ》、徳川《とくがわ》両家の間に風雲《ふううん》ただならぬものが漂《ただよ》いはじめ、豊臣方は木津川両岸一帯の防備《ぼうび》と軍船《ぐんせん》繋留場《けいりゅうば》の建設を行うこととし、勘助にその工事を命じる。
 勘助は、大勢の人夫を指揮して早々に工事を終え、豊臣方は勘助に感状をさずけ、以後、勘助の整備したこの島を勘助島と命名、また、民家三軒から出発したこの地を三軒家(現在の大正区)と呼び今に至っている。
 慶長十九年(一六一四)十月の大坂冬の陣、翌|元和《げんわ》元年五月の夏の陣により豊臣方は滅亡《めつぼう》。

東照宮《とうしょうぐう》創建《そうけん》の大役《たいやく》も

 徳川幕府は、家康《いえやす》の孫婿《まごむこ》にあたる伊勢亀山《いせかめやま》城主|松平忠明《まつだいらただあき》を十万石の大名として大坂に転封《てんぽう》させ、大坂復興に当らせた。
 忠明は勘助を呼び、直々《じきじき》に東照宮創建の大役を命じる。二年前にこの世を去《さ》った家康の威光《いこう》を大坂へ残すためである。
 命を受けた勘助は、候補地《こうほち》となった天満川崎村の住民を説得《せっとく》し、自《みずか》らが開発《かいはつ》した勘助島へ田地《でんち》を与えて移《うつ》らせ忠明の要請《ようせい》に応えた。

義人《ぎじん》勘助は実話か

 寛永《かんえい》十八年(一六四一)この年は天候のせいで大|凶作《きょうさく》。飢死《うえじに》する者道をふさぐありさまであったという。この窮状《きゅうじょう》を何とか救わんものと、勘肪は各村の庄屋《しょうや》らと奉行に日参《にっさん》して、貯蔵米《ちょぞうまい》の放出を陳情《ちんじょう》するも、奉行は、幕府の許しがないと応じてくれない。
 勘助はついに死を覚悟《かくご》して米蔵《こめぐら》を襲《おそ》い、五千余|俵《ひょう》を奪《うば》って窮民《きゅうみん》に分け与えるという最後の手段に出た。
その後勘助は、奉行所へ自首《じしゅ》。これまでの勘助の業績《ぎょうせき》があまりにも多いため、幕府に決裁《けっさい》を伺《うかが》う、それまで勘助島に蟄居《ちっきょ》という軽い処分《しょぶん》。しかし、米蔵破りから十九年経過した万治《まんじ》三年(一六六〇)幕府は、勘助の功績《こうせき》を認《みと》めたうえで、米蔵を破った罪科《ざいか》は極《きわ》めて重いとの理由で、斬死《ざんし》の刑《けい》を宣告《せんこく》、同年十一月二十二日に刑は執行《しっこう》され、七十五|歳《さい》の波乱《はらん》に富《と》んだ生涯を終えた。
 しかし一説には、「いくら勘助の勢力が強大でも、長時間にわたり幕府の貯蔵米五千俵を盗み出すのは不可能《ふかのう》だ、それは当時の役人が、幕府の命令を待《ま》って蔵出《くらだ》ししていたのでは間に合わない、そこで勘助の任侠《にんきょう》を見込んで瓷み出させた、だから勘助島|流刑《りゅう[ママ]る?けい》という味な処置になったのだ、戸籍《こせき》上、形式的には断罪《だんざい》として取り扱われたが、事実は平穏《へいおん》な余生《よせい》を送ったのだ」という。

別にお家|再興《さいこう》の悲願が

 そこで、私の推理《すいり》なのだが、木津川両岸における新田づくりの最盛期《さいせいき》は元禄《げんろく》の頃で、津守・加賀屋などすべて両替商《りょうがえしょう》などで大儲《おおもう》けした商人の新たな投資先《とうしさき》としてやられている。幕府には地代金《ちだいきん》が入ってくるし、後々《あとあと》年貢《ねんぐ》も取れるわけである。
 しかし、戦国《せんごく》の時代の新田づくりは主として隠匿《いんとく》武士の再起の拠点《きょてん》づくりとしてやられることが少なくなく、新田義貞八代目が事実とすれば、当然勘助の一家に従《したが》う一|族《ぞく》があったのではないか。豊臣方や松平忠明らの要請に応えられたのも、この勢力が背後に控《ひか》えていたからに違《ちが》いない。
 死後|没収《ぼっしゅう》された田地《でんち》は二十三町余、二百十五石で、当時の中位の村のほぼ一村の広さに近いというものであり、とうてい勘助一人でどうこうできるものではない。また当時、新田をつくっても一年にー、二戸位しか人が集まらなかったそうで、勘助が東照宮創建にあたって川崎村の住民をそっくり勘助島に移らせたことなどは、権力に便乗《びんじょう》しての住民集めともみられ、したたかな勘助のお家再興|戦略《せんりゃく》の一端《いったん》がかいまみられる。そんな勘助が、幕府の米蔵破りなどの暴挙《ぼうきょ》を血気《けっき》にはやってやるはずがない、と私は推理する。おそらく後世《こうせい》の芝居《しばい》の筋がつけ加えられて語りつがれてきたのだろう。
勘助が処刑《しょけい》された時代は幕府は慶安《けいあん》二年(一六四九)検地条例《けんちじょうれい》を出し、太閤検地《たいこうけんち》が六尺三寸平方を一歩としていたのを六尺一分平方にあらため、一層の年貢とりたてをねらい「慶安の触書《ふれがき》」を定《さだ》めている。
 勘助の処刑は、幕府による勘助島の田地没収と一族への弾圧が本当のねらいではなかったのではないか。
 江戸で起こった「慶安の変《へん》」(一六五一)の首謀者《しゅぼうしゃ》由井正雪《ゆいしょうせつ》も楠木正成《くすのきまさしげ》の子孫と称していた。封建《ほうけん》社会の秩序《ちつじょ》が強化され、浪人《ろうにん》が立身出世《りっしんしゅっせ》する余地《よち》のなくなってきたことへの不満は、大坂でも同じことであったはずだ。

【編者注】
同じテーマを扱った文章は、今昔西成百景(017)「木津勘助ゆかりの―敷津松之宮神社」 にもあります。

今昔西成百景(032)

◎天下茶屋の仇討

 「この地で慶長十四年備前の人林源次郎が父・兄の怨敵当麻三郎衛門を討ち本意を遂げたことは、後世天下茶屋の仇討として人口に膾炙されたものである。源次郎の父玄蕃は城主宇喜多秀家に主家の安危を諌めたが、奸臣長船紀伊守の忌むところとなり、長船は当麻三郎衛門をして夜ひそかに玄番の帰途を要して殺害せしめた。長船の悪計は露れて切腹を命ぜられたが、三郎衛門は出奔した。玄番に重三郎・源次郎のニ子あり、父の仇を報ぜんがため、母と下僕二人をつれて仇を求めて国を出たが、母は病んで没し、兄もまた下僕の裏切りから三郎衛門のために殺害された。源次郎は嘗て母の情けにより助命せられたもと同藩の士で、伏見の人形師幸右衛門に頼った。幸右衛門はひそかに木村重成に訴えた。重成これを憐れみ、たまたま淀君の住吉神社参拝の挙あり、大野治長これに従い、その臣となっていた三郎衛門もこれに倍していたので、その知らせを受けた源次郎は幸右衛門とともにその帰路を要して天下茶屋の地に父・兄の仇を報じたものであると伝えられている」(西成区政誌)

武士の「美徳」

 かたち討ち、あだ討ちとも呼ぶが、江戸時代は忠孝の精神にもとづく慣習として手続きをふめば公認された。儒教の影響で、武士の道徳的義務にもなっていた。江戸時代だけでも件数は百件以上に達したといわれているが、実際にははるかに多かったと思われる。
 天下茶屋の仇討ちは、関ヶ原の合戦で西軍が敗北して、豊臣家は二百万石から六十五万石に転落し、一方徳川家康は朝廷から征夷大将軍を贈られ、江戸に幕府を開いて六年目に起こっている。木村重成と大野治長は共に慶長一九年の大阪冬の陣慶長二十年の夏の陣でも一貫して豊臣方の総大将となり、淀君・秀頼と運命を同じくした最も忠実な西国大名である。

豊臣家の復権に

 天下茶屋の仇討ちのあった時は、豊臣家は転落はしたものの、関ヶ原の合戦はいちおう豊臣家は無関係ということで逃げられたとしており、お家再興に幻想をまだもっていたころであった。木村重成と大野治長はこの仇討ちを最大限に利用して、豊臣秀吉ゆかりの殿下茶屋-天下茶屋の名を一世に風靡させると同時に、仇討ちに実質的に助太刀した豊臣グループのイメージアップを計ろうとしたことは、十分考えられることだと思う。事実天下茶屋の名は仇討ち事件によ って一層有名になったといわれている。

仇役が立派な墓に

 ところが意外なことに、今日現場に残されているのは悪人・当麻三郎右衛門の墓だと伝えられる立派な宝塔なのである。場所は天神の森天満宮の境内だが、説明によれば、昭和三十三年まで南へ五 十米の住吉街道沿い「くやし橋」のたも とに建てられていたのが、道路拡張のた め移転したとのこと。「くやし」というのも、当麻三郎右衛門が思わず叫んだ言葉から由来しているとのことだ。
 しかも不思議なことに、「墓」の建立されたのは文政十二(一八二八)と文政十三年のことであり、事件からは実に二二〇年後なのである。

庶民こそ被害者

 結局徳川幕府としては、天下茶屋の仇 討ちが豊臣グループによって演出されたことが、気にいらないということなのだろう。仇討ちは美徳なり、が徳川幕府の 方針だとすれば矛盾は余計に大きくなってくる。
 徳川側による豊臣の残党にたいする追討は、徹底して冷酷なものだった。豊臣びいきは大阪に多く残った。弱いものに 味方する判官びいきの感情は、庶民に共通するものである。しかし、織田・豊臣・ 徳川という三人の独裁者によって命を奪われた、無数の名もなき人々にこそ、哀悼の意が表されるべきではないか。

今昔西成百景(031)

◎幻の緑地公園ー五十年前にあった西成大公園建設の計画

 「本市の緑地計画としては昭和二十二年一月十四日内閣の認可を受けた都市計画公園大小併せて百十二ケ所(八二一八平方粁)がある。その数・面積・配置・連絡・機能をひとまとめにして有機的組織として計画されている。本区内の都市計画公園の予定地としては、北加賀屋公園(桜井町・津守町)の三千七百二十坪・玉出公園(玉出新町通二丁目)の八百四十七坪・西成公園(梅通四・五丁目、梅南通四・五丁目、松通五・六丁目)のー万四千三百九十九坪・津守公園(津守町)の三千六百九十一坪がある」(西成区政誌)

西成にも大規模な公園が必要

 西成区には、住吉公園や住之江公園のような大規模な公園が一つもない。スポ—ツするにも、花見に行くにも、地元を出なければならないということは、街づくりの点ではもちろん、区民の意識の面でも大きな問題だと思う。緑地や災害時の避難場所でも他区と差が生じている。
 ちなみに、私が日頃から声を大にして訴えているところだが、大阪市内二十四行政区中公営のスポーツ施設がゼロというのは、西成区だけなのである。
 それではなぜ、西成には大公園がないのか。先日、南海天下茶屋工場跡地の利用問題で市役所の担当課長と交渉したが、開口 一番彼が言ったことは、「そんな駅前の一等地に公園などは無理です」ということだった。

「集客都市」づくりで地元は無視

 しかし、住吉公園も住之江公園も私鉄や地下鉄の駅前にあり、交通至便で利用者が多いのである。結局、担当課長の考え方は、現磯村市長の提唱する「集客都市づくり」に貢献するような施設なら良い、ということらしい。
 地元にはたいして関係もないマンモス施設を、交通至便な「一等地」に持ち込んで、「西成区民にとっての街づくりの最後のチャンス」を奪ってしまう。そしてみずからは市長のごきげんをとり、出世コ—スに乗ろうとする。そんな役人根性が丸見えで、こっちの気分まで悪くな
ったものである。

現市政は最低の支持率

 昨年秋の大阪市長選挙では、自社公民才—ル与党にかつがれた現市長が当選したとはいえ、わずか有権者比一七・六四%しか得られなかった。もちろん史上最低である。
 忘れもしないことは、投票日の前日の早朝、土曜日で区役所は休みなのに、区長以下の管理職が一丸となって区役所横の地下鉄の駅前に立ち、棄権防止運動をしていた姿である。投票率を相当上げなければ、オ—ル与党候補といえども楽観は許されないとの、新聞報道があったあとのことである。

区民を踏み台にすることは許せない

 歴代区長が最重要課題としてきた、南海天下茶屋工場跡地利用問題、いよいよ具体化の段階にきているのに、だんまりをきめ、一切情報を公開しない。若手のエリ—卜といわれる現区長に、市役所の担当課長らと共通する住民無視の姿勢が感じられて、怒りがわいてくる。区民を踏み台にしての保身は断じて許せない。

区政史の謎

 西成区においても、区の中央部に大規模な緑地公園が必要なことは、五十年も以前から行政も認めてきたことなのである。都市計画公園として、梅南から松にかけて、一辺二百数十米の正方形の大緑地公園が西成公園として建設が計画されていたことからみても、明らかだ。
 せっかくの街づくりの機会を逃してきた、その原因は一体なになのか。西成区政史にも不可解なことが多い。「幻の緑地計画」を何としても、南海天下茶屋エ場跡地で実現しなければと、改めて決意をする。

今昔西成百景(030)

◎「聖天さん」——海照山正円寺

 「聖天山公園内に存在する聖天山古墳は、昭和二十六年に石室が見つかり埴輪や土器・直刀・馬具などの副葬品が出土した確実な古墳である。造営時期は古墳時代の後期、六世紀代と考えられるという。
 この古墳の南側にある、「聖天さん」で名高い正円寺の丘陵は、西向きの前方後円墳の可能性も考えられる。もしそうだとすれば、墳丘長は一〇〇メ —トルを超えるであろう」(大阪市史)
 「聖天さん」と親しまれているのは、西成区と阿倍野区の境にあり、町名としては阿倍野区松虫通三丁目にあたるが、西成区民に長年地元のお寺として馴染まれてきた正円寺のことである。急な階段を昇ると山門にも「海照山天下茶屋天尊」と掲げられている。
 寺伝によると、天慶二年(九三九)権化光道大和尚の開基で般若山阿部寺のー坊で、現在は真言宗東寺派に属する。本尊の大聖歓喜天皇は慈覚大師の作だと伝えられる。

現世利益の「聖天さん」

 聖天山奥の院には、鎮守堂・寄松塚・石切分祠,波切不動明王・弁財天祠・などがあり、そのほかにも、ぼけ封じ地蔵・水子地蔵・水掛け不動明王が参拝者の願いを逃がさじとかまえている。因みにこれら神仏のご利益を挙げてみると商売繁盛・家内安全・産業振興・海上安全・開運出世・芸能上達を願うものであった。
 「聖天さん」はまさに千年このかた、庶民の祈りと願いの場であったといえよう。

遠ざかる海辺

 百度石を廻り疲れて、お寺の庭から西をみれば夕日が海に沈んでいく。人々はここで再び手を合わせる。
 はじめは目の下にあった海岸線も住吉街道ができる頃から遠ざかり始め、江戸時代には十三間堀川の西に迄のびたという。
 海を望見できるところから海照山正円寺と命名されたのだが、「聖天さん」はまた落日信仰の場でもあったのだ。

「聖天さん」ゆかりの人

 以前に毎日新聞の「女の創作」によく入選されていた脇田澄子さんが、千本から「聖天さん」の近くに転宅されてから、もう何年になるか。脇田さんは原稿用紙四枚程度の「掌小説」を作品集にして、毎年手作りで出版されていたが、すでに十号に達するという。先日知人から借りて読ませていただき、感動した。庶民の日常の哀歓がにじみでていて、読み出したら止められない。
 小犬を連れて聖天山公園をよく散歩されている脇田さんの胸のなかに、こんな思いがかくされているのかと、微笑ましい限りである。
 「聖天さん」と民謡をこよなく愛し、三味線教室を開いておられた井佐原幸子さんが、この二月に急逝されたことは、かえすがえすも残念でならない。
 天下茶屋民主診療所を中心にして、西成医療生活協同組合の理事、日本共産党後援会の活動家として永年奮闘されてきた伊佐原さんは、私に民謡の手ほどきをして下さったり、また「現代西成百景」の出版を励ましてくれた得がたい友であった。
 伊佐原さんは、「聖天さん」の坂を登りながら、何を願っていたのだろうか。「もっと心を豊かに、もっとやさしく」を先輩からのメッセ—ジとして受けとめて、「聖天さん」の坂を私は下った。

編者追加】
・「『聖天さん』——海照山正円寺」は、「今昔木津川物語(005)」と「今昔木津川物語(020)」でも案内しています。ぜひご覧ください。
・2024年9月9日9時9分に、組合員の皆さんと「平和のつどい・鐘つき」を聖天さんで行いました。スナップと動画を掲載します。

動画 →

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第16回、第17回

◎仏光寺《ぶっこうじ》と後醍醐《ごだいご》天皇の思惑

 今日は京都市の中心地にある大寺、仏光寺《ぶっこうじ》にやって来ました。「真宗仏光寺の本山。建暦二年(一ニニ二)越後|流罪嗷免《るざいほうめん》後の親鸞聖人《しんらんしょうにん》が山科にー宇《いちう》を創建。順徳天皇より興隆正法寺の勅額《ちょくがく》を賜ったのが起こり。嘉歴《かりゃく》二年(一三二七)七世了源の時、本尊が端光《ずいこう》を放って時の後醍醐《ごだいご》天皇の皇居を照らした、という縁から、阿弥陀仏光寺の勅額を賜り、寺名を仏光寺と改め東山渋谷に移したという。天正十四年(一五八六)豊臣秀吉が、大仏殿方広寺を建てるため、寺地を請われて現在地に移った。境内地は約二万平方メートル、境内の諸堂宇は幕末の兵火以後の再建である」と資料参照。
 友子「ひとつ気になるのが、後醍醐天皇に『寺の本尊が端光を放って皇居を照らした』と申し出て、仏光寺という勅額を賜り寺名を改めたと云うのだけど。なにか裏があるの」
 次郎「瑞光とは、目出度い事の兆しを現わす光。当時は後醍醐天皇が無謀にも天皇親政の復活を夢観て、最初の倒幕計画は事前に発覚して失敗したが再度の計画を立て、奈良東大寺、比叡山、円城寺、高野山、播磨の大山寺、伯耆の大山、越前の平泉寺などに檄をとばし非常に備えていた時期だ。了源の動きもそれらの情勢とは無関係であるまい」
 「なんだか生臭い話なのね」「時の権力者にとっては神社仏閣はその大小を問わず、全て『出城』の感覚だかね。一旦事あれば兵舎に早変わりするんだよ」
「昔はね…」「いや、昭和二十年八月十五日(ー九四五)の敗戦時まで基本的には同じ扱いだったと思うよ」友子が「だから憲法上の政教分離の原則は大切なことなのね」とうなづく。
 次郎「この際京の通り名について勉強しておこう。碁盤の目のように整然と区画されている洛中(市の中心部)は、一般に町名より東西と南北の通称名で云われることが多く、また慣れてくれば通称名の方がわかりやすい。例えば仏光寺の場合、高倉通仏光寺下ル新開町とあるが新開町が正式な町名。髙倉通仏光寺下ルが通称である。高倉通が南北の通り、仏光寺が東西の通り、下ルは南に行くこと。反対は上ルで北に行くこと。これは市中を流れる鴨川のながれによっている」
 なお、東西の通りは京都駅から北に、塩小路・七条・北小路・正面・花屋町・六条・五条・万寿寺・松原・高辻・仏光寺・綾小路・四条・錦小路・蛸薬師・六角・二条・姉小路・御池・押小路・二条。
 南北の通りは、東から西へ、寺町・御幸町.越屋町・富小路・柳馬場・堺町・高倉・間之町・東洞院・東屋町・烏丸・両替町・室町・衣棚・新町となっている。
 「お兄さんの認知症の症状はどうなの」「最近は三日に一度は『暴言』を吐いている。突然に激怒するのでおどろくよ」「何のことで?」「衣食住全般」「どうしてるの」「冷静に話合つて最後は八グするけど…」「また話、聞かせて」「ありがとうバイバイ」

大阪きづがわ医療福祉機関紙「みらい」2017年7月、8月号掲載

編者追加】
 京都は、東西は「通り」、南北は「筋」と称します。町筋の名前をわらべうた(てまりうた)にしたものが、

まるたけえびすにおしおいけ(丸・竹・夷・二・押・御池)
あねさんろっかくたこにしき(姉・三・六角・蛸・錦)
しあやぶったかまつまんごじょう(四・綾・仏・高・松・万・五条)
せきだちゃらちゃらうおのたな(雪駄・魚棚)
ろくじょうさんてつとおりすぎ(六条・三哲)
ひっちょうこえればはちくじょう(七条・八・九条)
じゅうじょうとうじでとどめさす(十条)

です。南北もあることはありますが、略します。
 因みに、当方が生まれた所(母が亡くなるまで本籍)東中筋五条上がる天使突抜二丁目でした。東中筋は、筋と言っても西洞院通の西にある狭い路地でした。生誕記念碑が建つ?(わきゃないわな、てんごいうたら、あかしまへんえ 笑)

今昔木津川物語(022)

西成・浪速歴史のかいわいシリ—ズ(五)

◎篠山《ささやま》神社 (元町二—九)

 大坂における常設市場としては、古くは天満《てんま》の青果市場《せいかいちば》、靭《うつぼ》の干魚《かんぎょ》市場、雑喉場《ざこば》の生魚《せいぎょ》市場、木津難波の青物《あおもの》市場が有名であるが、その中でももっとも木津難波《きづなんば》市場が新しい。

金で買った特権《とっけん》ふりかざし

 徳川時代には、青果は天満、干魚は靭、生魚は雑喉場と限定《げんてい》され、市場は年々幕府《ばくふ》に巨額《きょがく》の上納金《じょうのうきん》を差《さ》し出し、その代《か》わり取扱品《とりあつかいひん》独占《どくせん》の特権をもらい、生産者の直売《ちょくばい》などは厳《きび》しく禁止されていた。
 しかしそのためには、すべての青果物はわざわざ天満まで搬出《はんしゅつ》せねばならず、その手間《てま》や費用の点で、難波・木津・今宮の百姓《ひゃくしょう》たちは永年にわたり苦しんできた。

子守歌《こもりうた》が今も証言《しょうげん》

 大坂の子守歌に「ねんねんころいち天満の市よ、大根《だいこ》揃《そろ》へて船に積む、船に積んだらどこまでいきやる、木津や難波の橋の下」というのがあるが、大根の生産地である木津村・難波村の人も、わざわざ天満市場を経由《けいゆ》した大根を買わねばならなかったということを、歴史的《れきしてき》に証言したものになっている。

畑場《はたば》八ヵ村の悲願《ひがん》・宿願《しゅくがん》

 かつて畑場八ヵ村と称《しょう》された、勝間《こつま》・中在家《なかざいけ》・今在家《いまざいけ》・今宮《いまみや》・木津《きづ》・難波《なんば》・西高津《にしたかつ》・清堀《きよぼり》の村々は村内|水利《すいり》に乏しく、全面畑場にして水田《すいでん》は全く存在《そんざい》しないという状態だった。また、この辺りの地質《ちしつ》が砂《さ》質であり根菜類《こんさいるい》の栽培《さいばい》には適《てき》していたということもいえる。いずれにしてもこれらの村々の百姓としては、市場《いちば》問題は自らの死活《しかつ》問題として、自然《しぜん》立ち上がらざるをえなかったわけである。
 かくて難波・木津・今宮の百姓たちは、道頓堀《どうとんぼり》南側や湊町《みなとまち》大通りなどで立ち売りをおこなったが、そのつど天満市場からの苦情《くじょう》で幕府も弾圧《だんあつ》に出てきたため、なかなか地元での市場の設置《せっち》は認《みと》められなかった。

人情《にんじょう》代官《だいかん》篠山|十兵衛《じゅうべい》の奮闘《ふんとう》

 難波|八阪《やさか》神社に残る古文書《こもんじょ》によれば、正徳《しょうとく》四年(一七一四)より文化《ぶんか》六年 (一八〇九)まで実に九十五年の間《かん》にわたり、苦情《くじょう》の出るたびに地《ち》を替《か》えながら、密《ひそ》かに立ち売りをつづけ、度々《たびたび》の嘆願書《たんがんしょ》を出し、遂《つい》に、代官篠山十兵衛の尽《じん》力によって文化《ぶんか》六年六月二十七日(一八〇六)次の条件《じょうけん》付《つ》きで立ち売りが許されることになった。
 「市立《いちだち》に似寄《により》の儀致間敷事《いたしまじきそうろうこと》。他所《たしょ》他村《たそん》の荷主《にぬし》青物《あおもの》を持《も》ち来《き》たり候《そうろう》とて決《けっ》して村内《そんない》に立ち入れざる事。十三|品《ひん》(大根・菜類《なるい》・茄子《なす》・人参《にんじん》・冬瓜《とうがん》・白瓜《しらうり》・南瓜《なんか》・西瓜《すいか》・若牛芽《わかごぼう》・葱《ねぎ》・分葱《わけぎ》・芋類《いもるい》蕪《かぶら》)に限り土附《つちつ》きの儘《まま》一荷《いっか》に不足《ふそく》の分だけ村内《そんない》物青<ママ>《あおもの》渡世《とせい》の者へ譲渡《じょうと》し、十三品の儀《ぎ》も一|荷《か》に相成候分《あいなりそうろうぶん》並《ならび》に十三品外の青物は此迄通《これまでどうり》り、天満市場に差し出し申可事《もうしべきこと》。右|聊《いささ》かも違背《いはい》なき様致すべき事」という、大変厳しいものであった。
 しかし、当時としては誠《まこと》に異例《いれい》の出来《でき》事でもあった。

善政《せんせい》の責任《せきにん》を負い自刃説《じじんせつ》も

 「現代西成百景(その二十三)弘治《こうじ》—伊藤村長父子の義侠《ぎきょう》」で、今宮村への朝役《ちょうやく》・神役《しんやく》奉仕《ほうし》に対する課役免除《かやくめんじょ》の恩典《おんてん》を寛政《かんせい》八年(一七九七)に二百数十年ぶりに実現させたという偉業《いぎょう》を紹介したが、その斡旋《あっせん》を行ったのが新代官篠山十兵衛であったのだ。度重《たびかさ》なる住民の立場に立った行政を幕府よりとがめられ、一説《いっせつ》によればその後責任を負い自刃したとの話もある。

今も毎年篠山祭り

 この時に免許《めんきょ》を与えられた難波村百姓市場が、その後木津難波魚青物市場へと発展《はってん》し今日に至っているのである。地元の人は篠山代官の徳《とく》を偲《しの》び、難波八阪神社|境内《けいだい》に篠山神社を建て、今も毎年九月二十六日篠山祭りという祭礼《さいれい》をつづけているという。
 先日、難波八阪神社に参拝《さんぱい》し、神社の人にたずねると、篠山代官は十数年の長きにわたり代官を勤めた後、佐渡《さど》の金山奉行《きんざんぶぎょう》となり五十オで没し墓は佐渡にあるとのことである。

今昔木津川物語(021)

◎阿弥陀池《あみだいけ》 (西区北堀江三—七)

編者注】今回の投稿は、冊子版「今昔《こんじゃく》木津川物語」に掲載された「阿弥陀池」の部分です。

 先日次回の「百景めぐり」の下見をかねて、再び西区の史跡を訪ねた。南海汐見橋線で終点の汐見橋駅へ着いて、駅の壁を見上げれば南海沿線の名所・観光地などが、地図の上にマンガ的に画かれている大看板があつた。
 かつては各駅にあったものだが、高架化などのために駅が新しくなり、市内ではここだけにしか残っていない、貴重な「文化財」となつてしまった。しかし、痛みも大分すすんでおり、実物を見ておきたい方はお早く、と云っておきたい。

供養碑は後世に警告している

 浪速区の北西端と西区の境、大正橋東北詰に、「安政元年(一八五四)六月十四日の大地震・津波による惨状を記し次いで地震のときの諸注意を述べている碑が建っている。特に「すべて大地震の節は津波起こらん事をかねて心得、必ず船に乗るべからず」といましめている。地震を恐れて船に逃げていた人が津波で多数犠牲になっている。
 大正橋を渡って大阪ド—厶の方へ行くと、地下鉄の駅で「大阪ド—厶前千代崎」というのがある。長い名前だが、千代崎というのはここの土地の名前だ。木津川にかかる千代崎橋からとったらしい。橋の名前が先といえば、大正区の区名も大正橋からもらっている。

千代崎と西成の千本は姉妹町

 千代崎というのは別にお千代さんが住んでいたわけではなく、実は木津川の河口近くにかってあった防波堤に植えられた松並木のことを「千株の竝松蒼々(なみまつそうそう)として千代の栄えの色を現わし」と表現されていたことによると、西区役所は云っている。これは意外であった。千本松は防波堤とともに、大正時代の造船所建設ブームのなかで破壊され、いまは西成区の町名に「千本」として残るだけである。

落語のおち
「阿弥陀が行け」

 あみだ池へ行った。講談・落語・演劇の題材として取り上げられているが「摂津名所図会」にあるように「世の人寺号を唱えずして阿弥陀池というのみ」とあるように、本当は蓮池山智善院和光寺と称した。江戸時代には本堂の他に観音堂・普門堂・愛染堂などを有する大寺であった。
 境内および周辺には講釈の寄席、浄瑠璃の席・大弓や揚弓・あやつり芝居や軽業の見世物や物売りの店がにぎやかに並んでいたという。今はビルに囲まれた大寺で、ひつそりと静まりかえっていた。

三菱のマ—ク
稲荷神社で発見

 以前に来たときには発見できなかった、土佐稲荷神社にあるという三菱のマークを、今回はついに発見した。「土佐稲荷神社には三菱のマークがある」というのは聞いていたが、どこにあるかは聞いていなかったので、今回も大分時間をかけて探した結果、とうとう賽銭箱の正面に野球のボール位の金色の家紋のようにして、稲の束とともに三菱のマークがさんぜんと輝いているのを見つけた。
 土佐稲荷神社と岩崎弥大郎と三菱財団とのなみなみならぬ関係が一層よくわかった。
 最後に艱公園へ行った。
 「うつぼ公園の一帯は、江戸時代以来海産物を取り扱う問屋・仲買が集中していたところであるが、昭和六年十一月に、これら問屋・仲買が大阪市中央卸売市場に吸収統合されたあと、第二次世界大戦のアメリカ空軍の空襲により荒地となった。戦後、この地に目をつけた在日アメリカ軍が整地し、小型飛行機の離発着場となり、昭和二十七年六月に飛行場が返還された後、大阪市は約九万二〇〇〇平方㍍の大公園を三年後に完成させた」(西区役所発行パンフ)とあるが、大公園の割には一般入園者用トイレの貧弱さにおどろいた。直ぐに改善してほしい。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第1回

◎「日本の仏教伝来の地が西区阿弥陀池」

編者注】2016年3月号の大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」に「がもう健の〉次郎と友子の『びっくり史跡巡り』日記」が始まりました。まずは、その1回目の記事からです。出版本の「今昔《こんじゃく》木津川物語」にも同一のテーマでの記事があります。こちらの方も次回に公開予定です。まずは、当時の「新連載の紹介」から…

 今月号より連載開始の”次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記”。郷土史家・がもう健さんの書き下ろし作品です。ぎづがわ往来とは一味違った次郎と友子の史跡巡りや掛け合いをお楽しみください。

 南田次郎は大阪駅の待合室で北山友子を待っていた。ここは金沢行きのサンダ—・ハードの発着ホー厶にあるが、ゆっくりとくつろげる場所になっている。
 次郎は認知症で要介護2の兄太郎を介護するため、既に五年も滋賀県草津市に通っているが、今まで何度もこの待合室を休息に利用してきた。
 友子のすらりとした姿がガラス越しに見えたので、次郎は待合室を出た。
 友子は次郎の高校の同級生で放送部にいた。次郎は相撲部の万年補欠選手、友子の落ち着いた声は憶えているが、個人的には特に接点はなかつた。
 数年前の同窓会で、次郎が兄の介護の話をしたところ、実は友子も両親が認知症になり十年近く介護してきたことがあるとのこと、それで話が合い、以後時々二人でお茶会をするようになった。そして今では、次郎がかねてよりライフワークとしてつづけてきた「南田次郎の史跡巡りの会」のメンバーとして、特に下見活動の欠かせない相棒として大活躍してくれている。
 さて今日の二人の行先は、いま朝の連続テレビ小説「あさがきた」の主人公、明治の初めに大阪で大活躍した女実業家広岡浅子の嫁いだ先が西区にあったとのことで、西区の「びっくり史蹟巡り」となった。
 地下鉄西梅田駅をスタート地点として「阿弥陀池」に行った。講談、落語で取り上げられているが「摂津名所図会」に「世の人寺号を唱えずして阿弥陀池というのみ」とあるように、本当は蓮池山智善院和光寺と称し、江戸時代には本堂の他に、観音堂、普門堂、愛染堂なども有する大寺であったとか。
 かっては境内および周辺には、講釈の寄席、浄瑠璃の席、大弓や揚弓、あやつり芝居や軽業の見世物や物売りの店がにぎやかに並んでいたという。きっと広岡浅子らも通ったであろう。
 元々は、元禄十一年(一六九八)信濃善光寺大本願智善が幕府の命により開設した寺で浄土宗の別格尼寺であった。
 「私達が来たのは単にちょんまげ時代を懐古するためではないわね」
 「もちろんそうだよ。実はこの地が欽明天皇(六二九〜六四一)の時、朝鮮より伝来した仏教について、当時の最高権力者物部氏と蘇我氏がその是非を論争。ついに物部氏が仏像を難波の堀江に投棄し寺に火を放った。そのうえ尼僧にも弾圧を加えた。『あみだ池』がその旧地と伝えられるため、千年後に幕令で寺と堀をつくったという。物部氏と蘇我氏の争いはついに武力抗争に発展して、聖徳太子が加わった蘇我氏の勝利となり、その後の日本の行末に仏教が大きく関わってくる」
 「仏教伝来で時代の先端を切ったのが西区の尼さん達だというのと、広岡浅子の奮闘に通づるものがあるのかなあ」
 「今日もお付き合いありがとう。五時に兄がディサービスから帰宅するのでこれで失礼します」
 「ご苦労さんがんばって」
 「ありがとうまたね」

今昔西成百景(028)

◎津守「新田」ー津守神社

 「新田」とは、近世になって新しく開発された土地のことである。木津川・大和川を中心とした大阪湾沿岸では、江戸時代を通じてこの新田の開発が積極的に行われた。津守新田は元禄期(一六八八 一七〇四)に造成され、同時期の他の新田には、市岡新田・泉尾新田・春日出新田などがある。これらは町人請負新田と云われるもので、当時の町人社会の経済力がいかに大きかったかが偲ばれる。

難工事に袴屋八ケ年の努力

 津守新田の最初の請負者は横井源左衛門、金屋源兵衛の二名であったが、土堤が高波にさらわれることとなり、湊屋九兵衛に譲り、湊屋は石堤としたが、又又大風高波のため堤敷石、浪除けはもちろん百姓家までことごとく流失し、遂に親族の挎屋弥助に再び譲ることになった。弥助の工事は古船に大石を積込み、そのまま沈め五、六尺の基礎の上に亀甲型の石垣堤を築き上げるという大工事で、ハヶ年の努力の後、元文五年(一七四〇)漸く完成をみた。時の代官は弥助こそ津守新田の開発者と激賞し、津守新田はその後永く、袴屋新田と呼ばれた。
 そして天明四年(一七八四)津守新田は再び初代炭屋善五郎に譲渡されるに至った。その元祖は淡路白山から大阪にでて、縁あって炭屋の養子になった後分家した人。初代善五郎は自ら津守に移り新田の経営に専念した。津守新田はその後幾度となく拡張され、一般には一六〇町歩と称され、明治七年の調査では約四〇万坪となっている。
 現在、津守小学校内の北西角に「津守新田会所跡」の碑が立てられており「本校庭の位置には、江戸時代津守新田会所があり、新田地主白山氏の庭園は向月庭といわれ、大阪の代表的名園であった」と記されている。

歴史を見てきた津守神社

 津守神社は新田開発のときに勧請され、初めは五所神社、五所大明神といわれ、元禄時代には単に稲荷神社と呼ばれたが、明治四年津守神社と改称し、同五年村社に列した。祭神は天照大御神・稲荷大神・大歳大神・綿津見大神・住吉大神。
 ある日の昼下がり、境内に入ってみたが、表通りの新なにわ筋の騒音も途絶えて、まるで別世界。大木もある。鳥居や石垣に「紀元二千六百年」の文字が刻みこまれているのをみて、かっての出征軍人を送る埸面を連想していた。

風水害とたたかいつづけた住民

 そこで気がついたのだが昭和十一年建立と記されたものも多いということであった。この謎はすぐに解けた。昭和九年九月二十一日大阪を襲った室戸台風のために、津守町方面は、大阪港から木津川一帯にわたる高潮により各所で堤防が決壊し、濁水氾濫したちまち泥海と化し、全町約三千戸はその殆どが浸水床上に達した。しかも土地が低いため容易に減水せず浸水のまま数日を経過したため、同方面の水禍被害は当区中もっとも激甚を極めた。以上のように記録されている風水害により、津守神社は倒壊していたのである。戦後もジェーン台風、第二次室戸台風と津守地区は大きな被害を受けたが、住民は木津川沿岸防潮堤の完成を要求してたたかった。
 今日津守地区の、町づくりでの最大の問題点は、新なにわ筋のダンプ公害と広大な工場跡地ではないだろうか。区民の切実な公営住宅大量建設の要望に応えられるだけの土地が津守に生まれている。抜本的な公害対策を立てるなどを行いながら、こんどは住民による住民のための「新田」づくりにとりくまなければならないと思う。

今昔木津川物語(020)

【編者注】
 「がもう健の郷土史エッセー集」は、2012年9月以降、大阪きづがわ医療福祉生協の機関紙「みらい」に連載記事として、引き継がれています。今後は、機関紙掲載の記事を底本とし(画像も新たに追加)、旧版(出版本)にあった文章もできる限り追加し投稿したいと思いますのでよろしくお願いします。本投稿は、2013年2月号の「みらい」に掲載された分を編集したものです。

◎吉田兼好《よしだけんこう》の藁打石《わらうちいし》

 聖天山天下茶屋正円寺の南坂参道入口に「兼好法師藁打石《けんこうほうしわらうちいし》」がある。
 吉田兼好《よしだけんこう》とは、鎌倉時代末期の歌人・随筆家で本名は卜部兼好《うらべかねよし》、京都吉田に住んでいたので、この姓を称した。十九オで二条天皇に仕え二十代の半ばに従五位下|左兵衛佐《ひょうえのすけ》(官位)に任じられるなど早い出世で、すでに歌人として、認められていたようである。その後、彼が何故いつ出家したのか、名作「徒然草《つれづれぐさ》」はいつどこで書かれたのかは殆ど判っていない。正平《しょうへい》五年(一三五〇年)六十七オ没といわれる。

兼好が密勅を北畠顕家へ

 通説では南北朝の争いで、当時伊賀でくらしていた兼好が南朝の密勅《みっちょく》を受けて、奥州の北畠顕家《きたばたけあきいえ》のもとに赴いた。その後、顕家が髙師直《こうのもろなお》と戦った阿倍野のほとりに庵を構え、命松丸《めいしょうまる》という童と寂閑《じゃっかん》という僧の三人で、藁《わら》を打ち筵《むしろ》を織って生計を立て、読経三昧に顕家の菩提《ぼだい》をとむらったという。
 そうだとすると、兼好が阿倍野へ来たのは北畠顕家が討死した暦応六年以後となり、五十五オの頃となるが、顕家はこの年の三月に阿倍野で高師直と戦って負けてはいるが討死はしておらず、同年五月二十二日、南へなかり離れた和泉の石津浜で戦死している。顕家を弔うなら当然和泉へ行くべきはず、と、阿倍野に居たことを疑問視する見方もあるが、私はやはり兼好は阿倍野に居たと思う。

兼好阿倍野説を唱える根拠

 当時、兼好の庵の辺りは手(帝)塚山古墳をはじめ大小のさまざまな古墳が丘をなし、西には玉出の浜も近く活きのよい魚もあり、砂地の畠の作物も豊かにある。また、百年程前まではあれほど栄えた、熊野三山への参詣街道であった熊野街道の、今では草原の中にあり往来する人もまばらという、兼好が筆をとるには最高の環境であった。
 「徒然草」の中に一段だけ政治を厳しく批判したものがある。その内容は、後醍醐《ごだいご》天皇の「建武《けんむ》の中興《ちゅうこう》」や「王政復古《おうせいふっこ》」の実態が、庶民のくらしをいかに痛めつけているかということを指摘したもので、権カから弾圧されるおそれのある内容のものである。
 かって、北畠顕家と楠木正成《くすのきまさしげ》が政権の腐敗を知り、農民への増税を止めよ、税金のムダ使いはするなと激しくそれを批判しながらも、結局は人心の離れた朝廷を保守するために負け戦と知りつつ出陣せざるをえなかったときに、それぞれが後醍醐天皇に諫言《かんげん》したものと兼好の一文は同じ立場のものであった。
 伊賀の忍者と関係し、反権力の思いを持っていた兼好が、顕家戦死の石津浜で顕家の菩提を弔う行為をしなかったのは、むしろ当然のことであったと私は推理する。

圧政に悲憤慷慨した兼好

 兼好が四天王寺や住吉大社に反古紙をもらいがてら取材に行ったことが書かれた一文もあり、阿倍野で藁を打ちながら、圧政に悲憤慷慨していたのは事実ではないか。
 「隠棲庵碑」はもとは阿倍野警察署南横を四百㍍ほど西へ入った所にあった。
 「藁打石」は旧松虫通の柘榴塚という小さな古墳の上の、千両松という巨木の根本に置かれており、土地の人は夜啼石とも呼んで触るのも怖がっていたという。

ディサービスセンター「つれづれの里」オープン

 「聖天山さん」の近くにある、私たちのディサービスセンターがその名を公募した結果「つれづれの里」と命名されたことは、兼好の思いをひきついだものといえよう。