今昔西成百景(017)

◎木津勘助ゆかりの―敷津松之宮神社

 今日は、診療所近くの敷津松之宮神社(西成分社)の祭礼の日、それにちなんで、神社に関連する、知らぜざる義民のエピソードをひとつ。

 私は二十三才で日本共産党の専従となり、今日に至るわけだが、最初の三年間は、当時浪速区にあった木津川地区委員会の事務所に市電で通っていた。降りる停留所の名前が勘助町」。昼休みによく立ち寄る「敷津松之宮大國主神社」の境内には、かつてこのあたりに住んでいたといわれる木津勘助翁銅像(昭和二十八年十月に再興)が建っていた。
 神社の由緒略記によれば、「木津勘助は俗名で、中村勘助義久という。天正十四年(一五八六年)に相模國足柄山の郷士に生まれ、青年の頃より豊臣家に仕え、今の三軒家北岸に軍船の港づくりに従事し、また率先して木津川の開拓工事に尽瘁(じんすい)し大阪繁栄の基ともなる水運の便と堤防を強化して洪水の害を防ぐ」など、その功績は高く評価されている。銅像はこのときの活躍ぶりを示し、右手に設計図を持ち脚絆姿の威勢のよい姿である。

大飢饉に庶民救済のため命を賭けた

 とくに勘助を有名にしたのは、寛永十六年(一六三九年、勘助五十三才)の大飢饉の義侠である。銅像の碑文を訳すと、「三代将軍家光の寛永十八年(一六四一年)は天候のせいで大凶作。徳川実記によると、餓死するもの道をふさぎ、ー衣覆うことなしに倒れ伏すもの巷に満ち、さながら生地獄の如し」とあり、飢饉がいかに物凄いものであったかを物語っている。
 「この窮状をなんとか救わんもの」勘助は各村の庄屋らと奉行所に日参して貯蔵米の放出を陳情し続けるが、奉行は幕府の許しがないとの理由で応じてくれない。
 勘助は、家財の一切を投げ出し救済にあたるが、遂に死を覚悟して、米蔵を襲い五千余俵を奪って窮民に分け与える。奉行所に自首した勘助を助けんと、各村の庄屋たちが減刑運動をおこし、その結果、死一等を減じ勘助島に流すという軽い処分であった。
 翁は晩年に至まで黙々と川浚え工事や新田開発に精を出すなど、平穏な余生を送り、万治三年(一六六〇年)の十一月二十六日、七十五オの天寿を全うして没し、木津『唯専寺』に眠る、となっている。私は当時、こんなふうに地域に貢献できる生き方にあこがれたもので、先輩たちも「木津勘助は、いまでいう日本共産党や」などとよく話題にしていた。

権力の非情

 しかし事実は、木津勘助は米蔵破りから十九年も過ぎた万治三年、幕府は「米蔵を破った罪科は極めて重い」との理由で斬死の刑を宣告、同年十一月二十二日遂に刑は執行されたのである。「西成郡史」にも、年表に「木津勘助斬られる」との見出しつきで載せている。
 銅像が最初に建てられたのは、一九二一年(大正十一年)十一月、天皇制権力のもと、たとえ義民であっても処刑されたら犯罪者、その銅像は公然と建てられないとの配慮と、幕府といえども民衆の願いには逆らえなかった、という希望的観測の結果「平穏な余生を送り天寿を全うした」という歴史の事実とは違うものとなったのではないか。
 処刑されたとする「西成郡史」のその日は十一月二十二日、天寿を全うし没したとする銅像のその日は十一月二十六日、この四日間に何があったのか謎である。
 寛永の町人一揆、木津勘助の米蔵破りの物語は亨保六年(一七ニー年)道頓堀の角座で上演されている。木津勘助の没後六十一年目である。しかし、歴史的事実からみれば、寛永時代、堂島はまだ葦におおわれ、米会所ができたのも後のこと、南難波の御用蔵が造られたのも後のことであるという。
 それでは木津勘助はいったいどこの米蔵を襲ったことになるのだろうか。
 私は思う。木津勘助は一人ではなく何人もいたのではないか。世のため人のため、たとえ権力にたいしてでも勇敢に闘っていく人を、この地域では時代は変わっても木津勘助とよび、たたえたのではないか。
 いま、日本共産党以外は「オ—ル保守」というなかで、かつて自民党一党ではやりたくてもやれなかった悪法を次ぎつぎつくり出し、国民に耐えがたい苦難を押しつけるという異常事態がおこっている。こんな時こそ、無数の木津勘助が大阪に、西成に求められている。
 敷津松之宮神社西成分社が松二丁目にある。

(一九九六・二)

南大阪歴史往来(012)

南大阪歴史往来(十二)

◎哀愍寺《あいみんじ》(上住吉二ノ十四)

 住吉大社の東、旧熊野街道に面して、ふるいお寺が今も多く残っているが、その中の一つ「哀愍寺」は、お寺の横に「ちぎり地蔵尊」があり、そのことでも目を引くお寺である。今も神仏両方をお祭りしている住吉神宮寺の名残り「西之坊」の向いにある。
 かって新聞に掲載されたことのある哀愍寺の三十七代目住職片山法道氏の話によると「哀愍寺」というお寺は、群馬県、滋賀県、住吉と三つあり、群馬県で玉念上人という方が開山。武田信玄の帰依を得て全国行脚に出かけ、住吉の地にとどまって永正十四年(一五一七)開山したもの。怜法院覆護山哀愍寺といい、本尊は鎌倉期作の阿弥陀如来である。

織田信長が寺にやってきた

 この哀愍寺が歴史の舞台になったのは、織田信長の天下統一の時。「往生集」という本には、次のように残っている。
 ある時、日蓮宗の信徒三人が「浄土宗では救われない」と言いだして論争が起きる。そこで信長は玉念上人を含む両宗の高僧を哀愍寺に集めて論争させ、みずから裁判官になり、浄土宗に軍配を上げ、日蓮宗の僧三人は破門、信徒三人は打首となつた。「浄土宗、日蓮宗のどちらがいい悪いという問題ではなく、信長は信仰の世界でも自分の勢力を誇示したかっただけでしょう」と片山住職の弁。
 しかし、これを読んで、私は疑問が生じてきた。というのは、そもそもこの時代は、信長が浄土真宗本願寺のある石山城の強奪を企み、十年間にわたる世に言う「石山戦争」元亀一年〜天正七年(一五七〇〜一五七九)の真っ最中。信長は本願寺の一向一揆の門徒に手こずり、さまざまな和平交渉を進めていたが、ー方浄土真宗にあらゆる点から一番近いのが、浄土宗であることを意識し、今もし浄土宗が反信長に立てば大変なことになると、わざと浄土宗に軍配を上げたのではないか。いや、ひょつとしたら両宗の争いも信長が最初から仕組んだのではないか、と私は推理する。

宗教団体に補助金出す米国

 しかし宗教界を支配するための、信長のアメとムチの政策も天正十年(一五八二)の本能寺の変ですべてご破算になってしまう。
 アメリカのブッシュ政権は原理主義色の強いキリスト教の教団に、年間二千三百億円からの補助金を出しているという。政教分離の憲法の立場を踏みにじって特定の教団を宗教戦争に駆り立てることは中東での石油の強奪というブッシュ政権の本質をごまかすためであり、国と時代は違つても独裁者のやり口は似たようなものである。そして、ブッシュのーの子分である小泉首相も創価学会という謀略を得意とする「宗教団体」を利用している。今や彼らそれぞれの「本能寺」が迫ってきていることを、歴史の予言として知るべきである。

公約を守らない自民・公明

 話は変わって、「哀愍寺」との関係を見てみよう。
 明治維新による「廃仏き釈」(寺院などの破壊運動)でどのお寺も大変な時、今の地にあった真言宗のお寺の尼さんが「自分はこの寺を維持することが出来ない、買ってほしい」という話をもちかけ、向かい側にあった哀愍寺がこの地に移ってきた。真言宗であれば地蔵尊のあるのは当然のことで、現存する「ちぎり地蔵」はその名残という。
 この地蔵尊は「ちぎり地蔵」「千切地蔵」また「十徳地蔵」とも呼ばれ、かつては独特のわら人形が売られ、縁日が出て多くの人で賑わった。「ちぎり」の意味は契約を結ぶ「契り」、信心すれば「十徳」を契約どおり実現してくれるという。「十徳」とは、「女人安産・水火安全・諸病消除・諸願成就・寿命長遠・衆人結縁・神明加護・旅路加護・極楽往生・悪夢退散」又、「ぬいぐるみ地蔵」とよばれる手づくりの素朴な地蔵さんの背中に願いを書いて、堂内に安置すればその願いが叶うという。ぬいぐるみはお寺で買えるとのこと。
 さて、選挙になれば各党は十徳(公約)を並べる。自民党のキヤツチフレーズは「改革なくして財政再建なし、改革には痛みがともなう」であり、公明党は「福祉の党」であった。ところが財政再建どころか国・地方の借金は一千兆円にもなり、福祉は後退するばかりで痛みだけが押しつけられた。国民にとつてはまさに十徳どころか十損である。

今昔西成百景(016)

◎「盆踊り」「地蔵盆」

 政府は八月末にきめた「総合経済対策」で銀行の不良債権処理のため、銀行の担保になっている土地を、税金を使って買い上げる機関の設置を打ち出した。
 東京でも大阪でも、中小の不動産業者はほとんど銀行への利払いがとまっている状態という。業者は安く売って回収しようとしても、銀行から「時機を待て」とストップがかかる。かくて売りも、貸しもしない〃幽霊マンション〃や空地が、西成でも出現しているのである。

銀行の不始末を税金で救済とは

 銀行は不動産の担保の評価をはるかにうわまって過大に融資をしてきたから、担保を処分しても全額回収できない。今度の政府による不良債権の買い上げは銀行にとっては願ってもないことで、高めの価格で売れればそれだけまた儲かる…
 今年の夏は記録破りの猛暑だった 熱帯夜を打ち破れとばかり、各地で恒例の盆踊り大会や町内安全をねがう地蔵盆の行事が行なわれた。自・社・公・民四党なれ合いの大阪府・市政がすすめている「好きやねん大阪・西成」運動にはもってこいの風物詩。しかし、この府・市政の庶民の街つぶしの典型である、〃地上げ〃行為には何と無策であったことか。
 盆踊りの見物の中に、地蔵盆の提灯の下で、地上げに追われたかっての住民の「里帰り」した顔がちらほらしていた。
 「地上げは庶民いじめであると同時に、何より老人泣かせであります。借地借家人は何も悪いことをしたわけでもない。法律上も所有者がかわっても引き続き住む権利は認められている。それであるのにまるで虫けらのように出ていけと迫られる。長年にわたって築いてきたこれまでの生活基盤を失いたくない。ここで死にたい。暴力には屈したくない。こんな怒りをみんなもっています。そして老人にはひとしおその思いがつよくあります」 二年余前の府議会での私の知事への質問の一節である。質問の発端となった、天下茶屋で地上げを苦にして自殺した八十六オのおじいちゃんの長屋も、税金で銀行から買い上げるのか。
 土地や株に莫大な投機資金を注ぎこみ、バブル経済をつくりだして、国民に甚大な被害を与えた大銀行が、今度は税金で〃救済〃してもらおうという、こんな手前勝手なことは絶対に許せない。
 いま必要なのは、一番不況の打撃をうけている中小業者に手を差し伸べることである。これらの顛末、あらいざらいを、河内音頭にでもうたいこんで力のかぎり訴えようか。
(ー九九二・九)

編者注】
 コロナ禍で、この数年、「平和盆踊り」は開催できていません。また、いつの日にか、新たに復活することを願って止みません。

今昔西成百景(015)

◎千本松渡船

 一九六八年から五年間の工事で完成した木津川にかかる千本松大橋は、長さ二四〇〇メ —トル、高さ三七メートル、中央部の支間が一五〇メートルという、天草・若戸・西海・尾道の各大橋についで日本で五番目のノッポ橋。両岸に二階式のラセン状ランプウエ—を採用したのはわが国では初めて。
 建設計画が公表されると、地元では、便利になるが公害も心配だという意見が聞かれた。しかし、橋の完成と同時に渡船は廃止されると知って、それは困るという点で一致した。
 江戸の昔より連綿として続いている、通勤・通学・買い物の足であり、思い出も一杯積んだ渡船が無くなり、代わりに目のまわるような自動車中心の橋。歩いて渡れば三十分もかかろうし、自転車や単車は危険、年寄や病人・障害者などはとうてい渡り切れるものはない。夜間の防犯対策はどうするのか……。
 「市当局は一体何を考えているのか」と、南津守商店街や町会の有志より、南津守三丁目の日本共産党事務所(当時・木津川地区)へ相談があり、私は直ちにそれに応じて、同時に他の行政の課題にも積極的に取り組もうと、みんなで「南津守を良くする会」を作り、十大地域要求を掲げての決起集会も南津守会館で盛大に行なった。今から思えばなんと段取り良く出来たことかと感心するが、それ程要求が切実であったということだろう。
 役員には、細川氏(理髪店)松本氏((豆腐店)細川氏(大番食堂)竹内氏(ヒロ理髪店)小畑氏(長寿荘)松浦氏(住宅)、会長には山下氏(自転車店)がなり、私が事務局を担当した。

みんなで考えた”名文句”

 「橋は出来ても渡しは残せ」という川柳のような言葉は、皆で立看板作りをする中から生まれたものだが、その後運動の合言葉になり、今も語りつがれている。
 廃止反対の請願署名は、橋完成の六ヶ月前に行った。巨大な竜が木津川にまたがっているような建設中の橋を見上げ、粉雪の舞う中、渡船の現場で朝六時から夜十一時までを二日間、一日目は渡船利用者に署名用紙を配り二日目で回収した。ドラムカンに古材を燃やし暖を取ろうとしたが、川風は容赦なく吹きつけた。署名の反響は大きく、西成区だけでなく住吉区や堺市の人も多くあった。労働者の大きな手で「渡船の存続よろしくお願いします」と握手され、地元の人達は感激していた。

市の住民無視は今もかわらず

 しかし大阪市会はこの三千数百の貴重な署名を、いとも簡単に否決してしまつた。廃止に反対し存続を主張したのは日本共産党だけで、他の自・社・公・民の各党は「廃止は決定済み、橋と渡船の共存は前例がない」との理由である。
私達は負けていなかった。橋のオ—プンの前に歩行者だけに開放する日、西成民主診療所の所長以下の協力によって、老若男女のモデルに実際に歩いて橋を渡ってもらい疲労度を調査した。そのデ-夕-を手にして、四方市議と私で市の土木局長と直談判。良くする会の山下会長、役員さんらと共に上京し、国会で運輸省の担当官に、正森代議士の支援で陳情もした。
  その結果、「橋完成後も当分の間は様子を見るために渡船を運行する。利用者が減少すれば廃止する」と市の態度が変化してきた。もちろん珍しがって一度は歩いて橋を渡った人も、二度と遺ることは無かったので、渡船はその後二十年間存続し続け、その間に市も新しい船に替えたりして今日に至っている。
 今年七月に行われた日本共産党第二十回党大会は、今の時期にこそー九六〇年代終わりから七〇年代前半の革新の高揚を再現することを決定した。私にとってはこの千本松渡船存続の大衆闘争に参加したことが、その時期に重なるものであり、私のその後の候補者活動のスタ—卜にもなっている。
(ー九九四・一一)

今昔木津川物語(011)

西成・住之江歴史の海路シリ—ズ(一)

◎高灯籠《たかどうろう》(日本最古の灯台)(浜口西一)

 住吉大社がある上町台地は、前方後円墳《ぜんぽうこうえんふん》の帝塚山《てづかやま》、茶臼《ちゃうす》山、勝山古墳《かつやまこふん》などがあるところで、難波京《なにわのきょう》のおかれていたところでもある。

上町台地《うえまちだいち》は大阪|文化発祥《ぶんかはっしょう》の地《ち》

 熊野詣で知られる熊野街道が、台地の西端で南北に伸びており、それに沿って高津《たかつ》神社、生国魂《いくたま》神社、四天王寺《してんのうじ》、住吉大社があり、中世《ちゅうせい》の石山寺《いしやまでら》、近世《きんせ》の大坂城もこの台地に存在した。
 上町台地は、南北十二キロ、東西二・五キロの細長い台地で、法円坂《ほうえんざか》付近《ふきん》が二十ーメートルと最《もっと》も高く、住吉では十メー卜ルほどになる。この台地とほぼ並行《へいこう》して南へ伸び、大和川を越えて堺市の三国《みくに》ケ丘へ続いて、我孫子《あびこ》台地(平均十メートル)があり、古代《こだい》は共に深い森林《しんりん》の中であった。

住吉細江《すみよしほそえ》や墨江津《すみのえづ》

 上町台地と我孫子台地の間のくぽ地を流れるのが細江川(細井川ともいう)でその川下は大阪|湾《わん》からの入江になっていて、住吉細江と呼ばれた。
 この奥《おく》に日韓《にっかん》交易《こうえき》の港《みなと》として、北の難波津とともに古代大阪の要津《ようづ》となった墨江津があり、遣唐使船《けんとうしせん》も住吉神社に祈祷《きとう》してここから発着《はっちゃく》した。交易品《こうえきひん》は長尾《ながお》街道を通って奈良の都に運ばれたが、港でも市が開かれて住吉の繁栄《はんえい》を築いたという。港《みなと》を支配していたのが地元の豪族《ごうぞく》津守氏、子孫は明治時代まで住吉大社の神主となった。

天下の絶景《ぜっけい》あられ松原《まつばら》

 住吉細江の入口は北が長狭浦《ながおうら》、南が霰《あられ》松原で、幅約百メートルの水路が五百メートルほど東へ割《わ》り込み、松林と丘に囲《かこ》まれた良港だったといわれている。
 沖は住吉津、出見浜《でみのはま》、敷津浦《しきつうら》などと呼ばれる青い海で、難波の八十島《やそじま》が波に見え隠《かく》れし、その間を白い帆《ほ》を上げた船が往《ゆ》き来《き》し、白砂青松《はくしゃせいしょう》の浜辺《はまべ》が南北に果《は》てしなく伸びていた。この景観《けいかん》は昔から和歌に多く読まれているが、戦前にも、戦後は堺泉北《さかいせんぼく》臨海《りんかい》工業|地帯《ちたい》が造成《ぞうせい》されるまでの間、海水浴や潮干狩《しおひが》りで堺の白砂青松の浜辺を知っている者として、その万分の一位は見当《けんとう》がつく。
 海岸線はほぼいまの阪堺線《はんかいせん》あたりとみてよいとすると、紀州街道と重なって想像《そうぞう》できるわけだが、古代で考えれば、矢張《やは》り西成-住之江のつながりは「歴史の海路」となるのではないだろうか。

高灯籠は漁民《ぎょみん》が献灯《けんとう》

 鎌倉《かまくら》時代|末期《まっき》に建てられた住吉の高灯籠は、いまの阪神高速《はんしんこうそく》道路の近く、かつての十三間堀川《じゅうさんげんぼりがわ》の畔《ほとり》にあったわけだから、約八百年の間に自然《しぜん》の力で、陸地化《りくちか》が西へ約六、七百メートルすすんだことになる。
 高灯籠は住吉津の漁民らが、住吉大社への献灯《けんとう》と航海安全《こうかいあんぜん》を祈って住吉の浜に建てたといわれている。高さが石積《いしづ》みを含めて十六メートルもあり、日本|最初《さいしょ》の灯台《とうだい》であった。

今昔木津川物語(010)

西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(五)

住吉大社《すみよしたいしゃ》

 住吉大社は不思議《ふしぎ》な神社である。「別格|官幣《かんぺい》大社」という評価《ひょうか》をもらっておきながら、権威を押しつけるような雰囲気はあまり感じさせない。初詣《はつもうで》や夏祭りでの雑踏《ざっとう》が庶民的《しょみんてき》な「すみよっさん」のイメージを定着させたということもあるのか。

住吉津の地主神

 さて住吉大社の祭神《さいしん》は底筒之男《そこづつのお》・中筒之男《なかづつのお》・表筒之男《うわづつのお》の三|神《しん》と神功皇后《じんぐうこうごう》の四|柱《はしら》であり、住吉|大神《おおかみ》というときは筒之男《つつのお》三柱の総称である。
 住吉三神はすべてに「筒男《つつのお》」がつくことから、住吉|津《つ》(港)の地主神《とこぬしのかみ》を意味するものと解釈されている。古代《》こだいに住吉神社と称されるものは、摂津《せっつ》・播磨《はりま》・長門《ながと》・筑前《ちくぜん》・壱岐《いき》・対馬《つしま》・陸奥《むつ》の七ヶ国にある。これは難波《なにわ》から朝鮮半島《ちょうせんはんとう》への海上の道に沿ったものであり、事実、遣唐使《けんとうし》が派遣《はけん》されるときには、その船に、主神《しゅしん》とよばれる摂津の住吉神社の神職《しんしょく》が乗船《じょうせん》するのが例《れい》であり、津守氏《つもりし》が任命《にんめい》されることになっていた。このようにみれば、住吉神社は海上交通を守る神とともに、古代国家の対外政策《たいがいせいさく》と密接に結びついた、軍神という側面も持っていたことになる。

津守氏《つもりし》からも歌人《かじん》が輩出《はいしゅつ》

 「遣唐使が停止《ていし》され、難波津《なにわづ》の整備がすすみ、 住吉津が衰退《すいたい》し、平安京《へいあんきょう》遷都《せんと》が行われると、徐々に住吉大神に対する信仰《しんこう》の変化《へんか》がみられ、九世紀中頃には朝廷《ちょうてい》から祈雨《きう》・止雨奉幣《とめうほうへい》の派遣が始まり、後には豊饒祈願《ほうじょうきがん》も併せ行われるようになった。また、王侯《おうこう》・貴族《きぞく》が住吉大社|参詣《さんけい》のとき、広々とした海浜《かいひん》の白砂青松《はくしゃせいしょう》を目《ま》の当《あ》たりにして感動《かんどう》し、その気持ちを歌に託《たく》し競《きそ》いあい、住吉大社に奉納《ほうのう》する習慣《しゅうかん》が生まれるなど和歌《わか》の神として崇敬《すうけい》された。後には和歌だけではなく、社頭《しゃとう》で和歌《わか》・俳句《はいく》も行われ連歌では宗祇《そうぎ》が津守氏の主催《しゅさい》で行った百韻《ひゃくいん》や、 貞亨《じょうきょう》元年《がんねん》(一六八四)井原西鶴《いはらさいかく》が社頭で行った一昼夜ぶっ続けで二万三千五百|句《く》を詠んだ『大矢数俳諧』は有名である」(住吉区史)
 住吉神社|神主《かんぬし》津守氏は住吉神社及び住吉地方に、歴代《れきだい》にわたって密接な関係を持ってきた。住吉の津《つ》を守ることから津守という名になったわけだが、十六代目は神主として船に乗り帰国《きこく》できなかったとの記録《きろく》もある。三十九代|国基《くにもと》は和歌の名人であり、当時の権力者たちと和歌の贈答《ぞうとう》で懇意《こんい》となり、息子達を次々と要職《ようしょく》につけている。

南朝《なんちょう》の行宮《あんぐう》や徳川家康《とうがわいえやす》の本陣が

 南北朝《なんぼくちょう》の対立では津守氏は南朝方に結びつき、後《ご》村上天皇は住吉神社を行宮とし八年後に住吉行宮で没《ぼつ》した。
 戦国《せんごく》時代の争乱《そうらん》では摂津《せっつ》守護職《しゅごしょく》であった細川《ほそかわ》氏の内紛《ないふん》から、住吉も戦地となり以後石山合戦の終結《しゅうけつ》までの約七十年間衰退荒廃《すいたいこうはい》するしかなかった。特に住吉は南の堺と北の天王寺の間に位置し、兵を移動する絶好《ぜっこう》の場所にあることから、いやおうなく被害《ひがい》を被ることになった。
 その後も、大坂《おおさか》冬《ふゆ》の陣《じん》では家康は住吉神社神主津守氏の館《やかた》に入って本陣を置《お》いた。大坂城|攻撃《こうげき》の重要拠点《じゅうようきょてん》とみなされたのである。
 徳川時代は政治も関東《かんとう》に移り、住吉は農業《のうぎょう》を営《いとな》む寒村《かんそん》になってしまう。大坂からの住吉詣をする人で賑わうのみであった。明治政府は神官《しんかん》や神職《しんしょく》の世襲《せしゅう》を廃止《はいし》し、神社の神主である津守国美も免職《めんしょく》され、改めて少宮司《しょうぐうじ》に任命《にんめい》されている。
 住吉大社の変遷《へんせん》をみてみれば、時々《とくどき》の権力《けんりょく》の意向《いこう》に振《ふ》り回《まわ》されながら、何《なん》とか企業努力《きぎょうどりょく》で生き延《の》びようとする、地場産業《じばさんぎょう》を守る中小企業のようで、そこにどことなく親しみを感じさせるものがあるのではないだろうか。
 私にとっては、戦時中《せんじちゅう》は第一|本宮《ほんぐう》の前でラジオ体操《たいそう》を、戦後《せんご》は太鼓橋《たいこばし》の下はプールがわり。青年運動では正月や祭りに露店《ろてん》を出して資金《しきん》稼《かせ》ぎ、平和運動をもりあげるための参道《さんどう》での署名《しょめい》とカンパ。子供を、連《つ》れての散歩《さんぽ》。そして今は郷土史《きょうどし》めぐり、と本当にお世話《せわ》になっている。「すみよっさん」これからもたのんまっせ、と手を合わせる次第《しだい》である。

今昔西成百景(014)

◎梅雨入り

 五月雨が降っている。梅雨の入りももうすぐである。この頃になると、かって南津守四丁目、今の商店街の南側にあった、ドブ川の上につくられた飲食街のことをふと思いだす。
 昭和三十年前後、私は十九オ、木津川筋の造船所で社外工として働いていた。そして、無権利な状態にあった社外工の労働組合をつくるために同志達と連絡をとり合っていた。まるで小林多喜二の「工場細胞」や、徳永直の「太陽のない街」の世界である。
 ホルモン屋の焼きめしは、肉のかわりにホルモンが入っていて、独特の味でおいしいかった。豚足を売る店が何軒かあったが、脂だらけの柔らかいのと、石けんのように固いのがあって塩を付けてたべた。雨がはげしくなると雨漏りがして、ドブロクのびんをぬらしていた。飲み屋の裏に卓球場があって、昼休みにやったこともある。

なぜか造船所での思い出は雨と夜勤

 当時名村造船所では、雨がはげしくなると、創業者の社長がステッキを持って現場を見廻りに出てきた。赤線を何本もいれた、大きなヘルメットをかぶっていた。職制が率先してとび出し、大きな八ンマーで鉄板をたたいたりした。しかし、船台のかげから出ようとしない労働者もいた。
 労組結成の早朝、下請け会社の社長の郷里から集団就職してきていた十数人の少年達が準備会からの脱会を申し入れてきた。「四国には仕事がなくて……。許して下さい」と小さな頭を下げた。
 私はビラの束をドブ川に沈めて、雨の中を自転車をとばして出勤した。事務所の名札はすでにはずされていた。
 今はドブ川飲食街も立ち退き跡地は道路となり、造船所も他県に移転してしまった。
 西成区には大きな下水処理場はあるのに、路地に入れば市の下水管が入っておらずに、集中的な大雨や梅雨にあふれたり、つまったりするところがけっこう多い。簡単な手続きで、市が無料で立派な下水施設をしてくれ、跡はきれいに舗装もしてくれる。私はいつもこのことを強調しているので、梅雨になればあちこちから相談が入る。そんな中にかっての社外エ仲間もいて、旧交をあたためあうこともある。
(ー九九四・五)

今昔西成百景(013)

◎玉出

 玉出西一丁目元外科医院の跡地にパチンコ店の建設が計画されているが、地元の町会や PTA はあげて反対し署名連動などを行なっている。要望書には「この計画の周囲一帯の玉出地区では、従来から地域の住民の努力により閑静な住宅環境が維持されてきたところです。なかでも、パチンコ店が計画されている敷地の北側は”ゆずりはの道”として整備されており、またスク—ルゾ—ンとしても近隣の児童・生徒の通学路としての通行の安全が確保されるべき付近の住環境上枢要な場所であります」とかかれている。
 反対の会の人は、玉出には別の場所にも数軒のパチンコ店が営業されようとしており、このままいけば玉出は「パチンコの街」になりかねないと話す。
 西成税務署が発表した平成五年度区内高額納税者ベストニ〇中、パチンコ業者は四名。この深刻な不況の中でなぜパチンコ屋だけがもうかるのか。残業なし、仕事なしの人達が、”一発逆転”をねらうのと、女性客の増大が原因であろうが、資金面では店の中で利用者のためにローンの斡旋までやられているとの話もある。これで「健全娯楽」のはずがない。

当局と業界のマッチポンプ

 パチンコ店急増のうらには、当局による「規制緩和」があるのではないか。かって府警のトバクゲ—ム機汚職が発生したとき、府議会で追求すべく資料を調べて驚いたことがあった。パチンコ業界の組合の幹部になんと多くの府警幹部の OB が天下っているかということである。しかも今回の問題の場所への出店計画者は、警備会社だという。これも府警との結びつきの強い業界である。府警をゆるがしたトバクゲ—ム機汚職から十年、「歴史はくりかえす」でなければよいがと思う。
 玉出地区は道路も広く、公園も整備されているのは、戦後、戦災復興土地区画整理事業を行なったからであり、多くの住民の努力の賜物なのである。
 伝説によれば、海神の娘豊玉姫に恋人ができたことを祝って、海神から贈られた宝珠を埋めた場所から「玉出」の由来がきているとあるが、はっきりしているのは勝間村にあった生根神社の字が玉出であったことによるものである。決して後世のパチンコ業界繁栄のためにネ—ミングしたものではないことを付言しておく。

(ー九九四・八)

南大阪歴史往来(009)

◎「初辰さん」

 住吉大社第一本宮の東側、高さ約二十㍍幹回り約八㍍樹齢約七百年、大阪市の指定保存樹にもなっている、楠の老大樹を背に鎮座するのが、楠珺理社である。祭神は宇迦御魂神(うがのみたま)日本名は倉稲魂尊といい、「稲荷大明神」という名で全国に祀られている。素佐之男尊と奇稲田姫の第六子である。

四十八回で「始終発達」とは

 住吉のこのお稲荷りさんは特に、商売繁盛の神「初辰さん」として親しまれ、毎月初辰の日には大いに賑わっている。樹に棲まうという巳さんの霊力を信仰し、四十八回の月参りに「始終発達」とかけて参詣する人が絶えない。社頭で羽織を着て片手で人を招く「招福猫」(まねき猫)を受けて帰ることができる。
 住吉大社の北方向、かって住吉神宮寺のあった広場、通称「桜畑」の一隅に種貸社がある。祭神は楠珺社と同じ宇迦御魂神である。この神は農耕の神であるが、子宝が授かるとして信仰されている。ここでは「種貸人形」がもらえる。
 住吉大社の南横にある浅沢神社の更に南側に、細井川をへだててこじんまりと祀られているのが大歳神社である。祭神は大歳神。もとはここから約五十㍍西にあったのを、明治二十二年当所に移した。
 大歳神が五穀豊饒・収穫の神であることから、商人の節季のときの集金に霊験あると信仰されている。
 当社には人形はないが「ス夕—」がある。というのは当社拝殿右横に小祠があり、石灯籠の柱の上に丸石が置かれてある。これを「お愛し星」とよび、この石を持ち上げてみて軽く感じると願いが叶うという。初め置かれていた石は隕石だといわれ「星」の扱いがなされていたとのことである。
 そしていつの頃からか「種貸社」で資本を授かり、「楠珺社」で商売繁盛を願い「大歳神社」で金の円滑を頼む、という順拝が盛んになってきた。

三祭神は出雲一族の超人物

 しかし、私が先ずここで注目したいのは、三神神社の祭神についてである。楠珺社と種貸社の祭神は共に宇逝御魂神で稲作の研究に力を入れ、農民から慕われたという。
 大歳神とは京都の八坂神社の記録によれば、父素佐之男母奇稲田姫の間に生まれた八人中の第五子で、後に初の大和の大王となった天照国照大神のことで、父と共に九州平定をやったので、九州地方に「大歳神社」が多い。
 そしてなによりも、大和と周辺にある大神(おおみわ)神社—三輪明神、石上(いそのかみ)神社、大和(おおや
まと)神社、熊野本宮大社、賀茂別雷(かもわけいかずち)神社、日吉(ひえ)神社などの有名神社の主祭神が大歳神即ち、天照大神の前の天照大神である天照国照大神だとということで,ある。
 日本書記や古事記で「大物主は大国主の別名である」と書かれているのはウソで、大神神社で大物主と大国主が並んで祀られている以上、これは別人である。

勝ち組日向一族歴史をつくる

 日向一族の天照大神を「皇祖」とするために、対抗する大先輩の出雲一族の神々を変名したり抹殺したりする、歴史の偽造を日本書紀や古事記でやってきたのに、今でも民衆に親しまれているのは、出雲一族のお稲荷さんや大歳さんであるというのは、歴史の皮肉として面白い。
 古事記のできたのは西暦七ニー年で、古代とはとうてい云えない時代で、各氏族各地の歴史書もあった。当時全国に祀られていた神社は約三千から五千位で、その内の出雲一族を祀っているのが約八割で日向一族は約二割位であったという。それぞれの由来もあったはずである。
 そこでこの割合を逆転させようとして、日本最初の天皇である天武や藤原鎌足の子の藤原不比等らが、永年かけて神社への攻撃・圧力、系図の没収・破棄を行い、ついには大々的な歴史の捏造として古事記・日本書紀を持ち出してきた。つじつまの合わない部分は全て「神話」にしてごまかすという、悪質なやりかたをとったため、日本の歴史はまともに教えることのできない代物になってしまったのである。

明治以後の戦争の歴史はダメ

 明治になり「王政復古」の時来たれりとばかり、今度は「天皇は現人神」という絶対主義的天皇制の圧政で、以後八十年間押し通してきたが、結果は二千数百万人の人命を奪って、無残な敗北を喫してしまう。その時点で日本が世界に行なった公約が「平和憲法の遵守」なのである。ところが最近、憲法を改悪し日本を再び戦争のする国に復活させようという策動が、活発にやられてきている。しかし、この道はいつか来た道。絶対に避けなければならない、破滅への道なのである。
 歴史的に見ても好戦勢力は少数である。そこで彼等は様々な策略を巡らす。これを見抜き、平和を願う多数派に呼び掛けることにより展望は必ず開けると思う。

事態は順拝だけでは打開不能

 私はここでもうひとつ問題にしたいのは、今の中小零細自営商工業者の暮しと営業の問題は、今までのような三社順拝ではすませないほど、事態は深刻だということだ。
 私の地元の西成区では店舗の半分が空きという商店街もあり、酒屋・米屋が廃業続出という昔では考えられなかったようなことが、起こっている。「かなわぬときの神頼み」ではだめだ。大企業は空前の大儲け、競争万能主義はついにスピード争いとなりJR 西日本は、大事故を起こしてしまった。
 今、人々のやらねばならないことは団結だ。徹底的に団結することだ。答えは必ずそこからでてくる。「はったつ」ではなく悪政に「はらたつ」こと、本当に怒りに立ち上がることだ。

今昔木津川物語(009)

西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(四)

◎大海《だいかい》神社 (住吉二)

 生根神社の正面鳥居を南へ行けば、熊野街道と紀州街道を結ぶために、大正期に元の材木川を埋め立ててつくられた住吉|《しんみち》新道に出る。横切れば、目の前が大海神社の北の門。道路から高い分だけ数段登ると、そこはすでに平安《へいあん》の昔にかえっている。

浦島《うらしま》太郎のモデル

 大海神社の祭神は海幸《うみさち》・山幸《やまさち》の神話《しんわ》で知られる豊玉彦命《とよたまひこのみこと》と豊玉姫命《とよたまひめのみこと》の親子で、私の小学生のときには教科書《きょうかしょ》に挿《さ》し絵《え》つきでのってあった。
 兄の海幸彦が大切にしていた釣針《つりばり》を失ってしまった弟の山書は、海底《かいてい》にさがしに行き豊玉姫の協力を受ける。兄弟の争《あらそ》いはその後も激しくなり、山幸が危《あや》うくなったときに豊玉姫が持参の「潮満珠《しおみちのたま》」で海潮《かいちょう》を呼び寄せ難《なん》を逃《のが》れる。
 その珠《たま》を沈《しず》めたところということでこの辺りを玉出島《たまでしま》とよび、住吉でも古来《こらい》より最《もっと》も早くひらけたところといわれている。仁治《にんじ》二年(ーニ四二)にこの玉出島出身の勝間大連《こつまおおむらじ》が勝間村(こつまむら・現西成区玉出)を開発した。
 大海神社の本殿は住吉大社の本殿と同型同大《どうけいどうだい》の住吉造りで、重要文化財に指定されている。もともとは住吉大社の神主|津守氏《つもりし》の氏神《うじがみ》で、かって境内は藤《ふじ》と萩《はぎ》の名所であった。永年の間住吉大社の陰《かげ》にかくれていたので、浮世離《うきよばな》れしたおもむきを残している。人手があまり入らず樹木《じゅもく》がうっそうとしているのも都会ではめずらしい。
 海幸・山幸の神話はお伽話《とぎばなし》「浦島太郎」のひとつだといわれており、かって近くに「玉手箱《たまてばこ》」という地名があったというのもおもしろい。

まぼろしのご本尊は天下茶屋へ

 ここで特に記しておきたいことは、生根神社から大海神社までの間にかって三千佛堂という寺院があり、秘佛《ひぶつ》阿弥陀如来《あみだにょらい》が安置《あんち》されていたが、明治初年の廃佛毀釈《はいぶつきしゃく》で廃寺《はいじ》となった。本尊は天下茶屋の安養《あんよう》寺に移転されたが、空襲《くうしゅう》で焼失《しょうしつ》してしまったという、いまでは世間からほとんど忘れさられているひとつの事実である。
 大海神社を南に出ると通称「桜畠《さくらばたけ》」といわれる広場があり、終戦直後には毎年の様に盛大な盆踊りがやられ、私もよく見物に出かけた。
 仮装《かそう》して踊る人もあり、敗戦の悲惨《ひさん》さと終戦の喜びとが交《ま》ざりあった複雑な雰囲気《ふんいき》のなかで、踊りの輪《わ》が幾重《いくえ》にもふくらんでいった光景《こうけい》を今でも、夢のなかの一場面のようにおぼえている。
 実はこの「桜畠」にも明治までは、住吉神宮寺という天平宝字《てんぴょうほうじ》二年(七五八)に創建された豪壮《ごうそう》な寺院が存在していたのである。
 本尊には薬師如来《やくしにょらい》が祀られ「新羅寺」ともいわれ、「古今著聞集《こんせきちょぶんしゅう》」にも名が見える格の高い寺でもあり、一休禅師《いっきゅうぜんじ》も応仁《おうじん》の乱《らん》を避《さ》け住吉に八年間居住した頃によく参籠《さんろう》したという。

廃佛毀釈《はいぶつきしゃく》は住吉大社にも

 この寺も明治の廃佛毀釈で堂宇は《どうう》破壊《はかい》され廃寺となってしまった。「桜畠」の東側の森の中にある住吉大社の末社《まっしゃ》のひとつである招魂社《しょうこんしゃ》が元神宮寺の唯一《ゆいいつ》の遺物《いぶつ》で「旧護摩堂《きゅうごまどう》」であったという。その廂《ひさし》に葵《あおい》の紋《もん》が刻《きざ》まれているのが、神宮寺が天台宗《てんだいしゅう》東叡山《とうえいざん》に属していたことを物語っているといわれている。
 ちなみに廃佛毀釈とは明治の新政府が、江戸時代における仏教中心の宗教政策をやめ、神道《しんどう》中心主義を採用《》さいよう、これにより政府《せいふ》の権威《けんい》を高めようとしたもの。神仏混淆《しんぶつこんこう》を排し神社からの仏教的|要素《ようそ》の一掃《いっそう》をはかるため、日吉《ひえ》神社、石清水八幡宮《いわしみずはちまんぐう》をはじめ各地で仏堂や仏像・仏具・仏画の破壊をほしいままにして多くの文化財を抹殺するという歴史に残る暴挙《ぼうきょ》を行ったのであったが、住吉大社でも例外《れいがい》ではなかったというわけである。