今昔木津川物語(010)

西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(五)

住吉大社すみよしたいしゃ

 住吉大社は不思議ふしぎな神社である。「別格官幣かんぺい大社」という評価ひょうかをもらっておきながら、権威を押しつけるような雰囲気はあまり感じさせない。初詣はつもうでや夏祭りでの雑踏ざっとうが庶民的しょみんてきな「すみよっさん」のイメージを定着させたということもあるのか。

住吉津の地主神

 さて住吉大社の祭神さいしん底筒之男そこづつのお中筒之男なかづつのお表筒之男うわづつのおの三しん神功皇后じんぐうこうごうの四はしらであり、住吉大神おおかみというときは筒之男つつのお三柱の総称である。
 住吉三神はすべてに「筒男つつのお」がつくことから、住吉(港)の地主神とこぬしのかみを意味するものと解釈されている。古代こだいに住吉神社と称されるものは、摂津せっつ播磨はりま長門ながと筑前ちくぜん壱岐いき対馬つしま陸奥むつの七ヶ国にある。これは難波なにわから朝鮮半島ちょうせんはんとうへの海上の道に沿ったものであり、事実、遣唐使けんとうし派遣はけんされるときには、その船に、主神しゅしんとよばれる摂津の住吉神社の神職しんしょく乗船じょうせんするのがれいであり、津守氏つもりし任命にんめいされることになっていた。このようにみれば、住吉神社は海上交通を守る神とともに、古代国家の対外政策たいがいせいさくと密接に結びついた、軍神という側面も持っていたことになる。

津守氏つもりしからも歌人かじん輩出はいしゅつ

 「遣唐使が停止ていしされ、難波津なにわづの整備がすすみ、 住吉津が衰退すいたいし、平安京へいあんきょう遷都せんとが行われると、徐々に住吉大神に対する信仰しんこう変化へんかがみられ、九世紀中頃には朝廷ちょうていから祈雨きう止雨奉幣とめうほうへいの派遣が始まり、後には豊饒祈願ほうじょうきがんも併せ行われるようになった。また、王侯おうこう貴族きぞくが住吉大社参詣さんけいのとき、広々とした海浜かいひんの白砂青松はくしゃせいしょうたりにして感動かんどうし、その気持ちを歌にたくきそいあい、住吉大社に奉納ほうのうする習慣しゅうかんが生まれるなど和歌わかの神として崇敬すうけいされた。後には和歌だけではなく、社頭しゃとう和歌わか俳句はいくも行われ連歌では宗祇そうぎが津守氏の主催しゅさいで行った百韻ひゃくいんや、 貞亨じょうきょう元年がんねん(一六八四)井原西鶴いはらさいかくが社頭で行った一昼夜ぶっ続けで二万三千五百を詠んだ『大矢数俳諧』は有名である」(住吉区史)
 住吉神社神主かんぬし津守氏は住吉神社及び住吉地方に、歴代れきだいにわたって密接な関係を持ってきた。住吉のを守ることから津守という名になったわけだが、十六代目は神主として船に乗り帰国きこくできなかったとの記録きろくもある。三十九代国基くにもとは和歌の名人であり、当時の権力者たちと和歌の贈答ぞうとう懇意こんいとなり、息子達を次々と要職ようしょくにつけている。

南朝なんちょう行宮あんぐう徳川家康とうがわいえやすの本陣が

南北朝なんぼくちょうの対立では津守氏は南朝方に結びつき、村上天皇は住吉神社を行宮とし八年後に住吉行宮でぼつした。
戦国せんごく時代の争乱そうらんでは摂津せっつ守護職しゅごしょくであった細川ほそかわ氏の内紛ないふんから、住吉も戦地となり以後石山合戦の終結しゅうけつまでの約七十年間衰退荒廃すいたいこうはいするしかなかった。特に住吉は南の堺と北の天王寺の間に位置し、兵を移動する絶好ぜっこうの場所にあることから、いやおうなく被害ひがいを被ることになった。
 その後も、大坂おおさかふゆじんでは家康は住吉神社神主津守氏のやかたに入って本陣をいた。大坂城攻撃こうげき重要拠点じゅうようきょてんとみなされたのである。
 徳川時代は政治も関東かんとうに移り、住吉は農業のうぎょういとな寒村かんそんになってしまう。大坂からの住吉詣をする人で賑わうのみであった。明治政府は神官しんかん神職しんしょく世襲せしゅう廃止はいしし、神社の神主である津守国美も免職めんしょくされ、改めて少宮司しょうぐうじ任命にんめいされている。
 住吉大社の変遷へんせんをみてみれば、時々とくどき権力けんりょく意向いこうまわされながら、何なんとか企業努力きぎょうどりょくで生きびようとする、地場産業じばさんぎょうを守る中小企業のようで、そこにどことなく親しみを感じさせるものがあるのではないだろうか。
 私にとっては、戦時中せんじちゅうは第一本宮ほんぐうの前でラジオ体操たいそうを、戦後せんご太鼓橋たいこばしの下はプールがわり。青年運動では正月や祭りに露店ろてんを出して資金しきんかせぎ、平和運動をもりあげるための参道さんどうでの署名しょめいとカンパ。子供を、れての散歩さんぽ。そして今は郷土史きょうどしめぐり、と本当にお世話せわになっている。「すみよっさん」これからもたのんまっせ、と手を合わせる次第しだいである。

今昔西成百景(014)

◎梅雨入り

 五月雨が降っている。梅雨の入りももうすぐである。この頃になると、かって南津守四丁目、今の商店街の南側にあった、ドブ川の上につくられた飲食街のことをふと思いだす。
 昭和三十年前後、私は十九オ、木津川筋の造船所で社外工として働いていた。そして、無権利な状態にあった社外工の労働組合をつくるために同志達と連絡をとり合っていた。まるで小林多喜二の「工場細胞」や、徳永直の「太陽のない街」の世界である。
 ホルモン屋の焼きめしは、肉のかわりにホルモンが入っていて、独特の味でおいしいかった。豚足を売る店が何軒かあったが、脂だらけの柔らかいのと、石けんのように固いのがあって塩を付けてたべた。雨がはげしくなると雨漏りがして、ドブロクのびんをぬらしていた。飲み屋の裏に卓球場があって、昼休みにやったこともある。

なぜか造船所での思い出は雨と夜勤

 当時名村造船所では、雨がはげしくなると、創業者の社長がステッキを持って現場を見廻りに出てきた。赤線を何本もいれた、大きなヘルメットをかぶっていた。職制が率先してとび出し、大きな八ンマーで鉄板をたたいたりした。しかし、船台のかげから出ようとしない労働者もいた。
 労組結成の早朝、下請け会社の社長の郷里から集団就職してきていた十数人の少年達が準備会からの脱会を申し入れてきた。「四国には仕事がなくて……。許して下さい」と小さな頭を下げた。
 私はビラの束をドブ川に沈めて、雨の中を自転車をとばして出勤した。事務所の名札はすでにはずされていた。
 今はドブ川飲食街も立ち退き跡地は道路となり、造船所も他県に移転してしまった。
 西成区には大きな下水処理場はあるのに、路地に入れば市の下水管が入っておらずに、集中的な大雨や梅雨にあふれたり、つまったりするところがけっこう多い。簡単な手続きで、市が無料で立派な下水施設をしてくれ、跡はきれいに舗装もしてくれる。私はいつもこのことを強調しているので、梅雨になればあちこちから相談が入る。そんな中にかっての社外エ仲間もいて、旧交をあたためあうこともある。
(ー九九四・五)

今昔西成百景(013)

◎玉出

 玉出西一丁目元外科医院の跡地にパチンコ店の建設が計画されているが、地元の町会や PTA はあげて反対し署名連動などを行なっている。要望書には「この計画の周囲一帯の玉出地区では、従来から地域の住民の努力により閑静な住宅環境が維持されてきたところです。なかでも、パチンコ店が計画されている敷地の北側は”ゆずりはの道”として整備されており、またスク—ルゾ—ンとしても近隣の児童・生徒の通学路としての通行の安全が確保されるべき付近の住環境上枢要な場所であります」とかかれている。
 反対の会の人は、玉出には別の場所にも数軒のパチンコ店が営業されようとしており、このままいけば玉出は「パチンコの街」になりかねないと話す。
 西成税務署が発表した平成五年度区内高額納税者ベストニ〇中、パチンコ業者は四名。この深刻な不況の中でなぜパチンコ屋だけがもうかるのか。残業なし、仕事なしの人達が、”一発逆転”をねらうのと、女性客の増大が原因であろうが、資金面では店の中で利用者のためにローンの斡旋までやられているとの話もある。これで「健全娯楽」のはずがない。

当局と業界のマッチポンプ

 パチンコ店急増のうらには、当局による「規制緩和」があるのではないか。かって府警のトバクゲ—ム機汚職が発生したとき、府議会で追求すべく資料を調べて驚いたことがあった。パチンコ業界の組合の幹部になんと多くの府警幹部の OB が天下っているかということである。しかも今回の問題の場所への出店計画者は、警備会社だという。これも府警との結びつきの強い業界である。府警をゆるがしたトバクゲ—ム機汚職から十年、「歴史はくりかえす」でなければよいがと思う。
 玉出地区は道路も広く、公園も整備されているのは、戦後、戦災復興土地区画整理事業を行なったからであり、多くの住民の努力の賜物なのである。
 伝説によれば、海神の娘豊玉姫に恋人ができたことを祝って、海神から贈られた宝珠を埋めた場所から「玉出」の由来がきているとあるが、はっきりしているのは勝間村にあった生根神社の字が玉出であったことによるものである。決して後世のパチンコ業界繁栄のためにネ—ミングしたものではないことを付言しておく。

(ー九九四・八)

南大阪歴史往来(009)

◎「初辰さん」

 住吉大社第一本宮の東側、高さ約二十㍍幹回り約八㍍樹齢約七百年、大阪市の指定保存樹にもなっている、楠の老大樹を背に鎮座するのが、楠珺理社である。祭神は宇迦御魂神(うがのみたま)日本名は倉稲魂尊といい、「稲荷大明神」という名で全国に祀られている。素佐之男尊と奇稲田姫の第六子である。

四十八回で「始終発達」とは

 住吉のこのお稲荷りさんは特に、商売繁盛の神「初辰さん」として親しまれ、毎月初辰の日には大いに賑わっている。樹に棲まうという巳さんの霊力を信仰し、四十八回の月参りに「始終発達」とかけて参詣する人が絶えない。社頭で羽織を着て片手で人を招く「招福猫」(まねき猫)を受けて帰ることができる。
 住吉大社の北方向、かって住吉神宮寺のあった広場、通称「桜畑」の一隅に種貸社がある。祭神は楠珺社と同じ宇迦御魂神である。この神は農耕の神であるが、子宝が授かるとして信仰されている。ここでは「種貸人形」がもらえる。
 住吉大社の南横にある浅沢神社の更に南側に、細井川をへだててこじんまりと祀られているのが大歳神社である。祭神は大歳神。もとはここから約五十㍍西にあったのを、明治二十二年当所に移した。
 大歳神が五穀豊饒・収穫の神であることから、商人の節季のときの集金に霊験あると信仰されている。
 当社には人形はないが「ス夕—」がある。というのは当社拝殿右横に小祠があり、石灯籠の柱の上に丸石が置かれてある。これを「お愛し星」とよび、この石を持ち上げてみて軽く感じると願いが叶うという。初め置かれていた石は隕石だといわれ「星」の扱いがなされていたとのことである。
 そしていつの頃からか「種貸社」で資本を授かり、「楠珺社」で商売繁盛を願い「大歳神社」で金の円滑を頼む、という順拝が盛んになってきた。

三祭神は出雲一族の超人物

 しかし、私が先ずここで注目したいのは、三神神社の祭神についてである。楠珺社と種貸社の祭神は共に宇逝御魂神で稲作の研究に力を入れ、農民から慕われたという。
 大歳神とは京都の八坂神社の記録によれば、父素佐之男母奇稲田姫の間に生まれた八人中の第五子で、後に初の大和の大王となった天照国照大神のことで、父と共に九州平定をやったので、九州地方に「大歳神社」が多い。
 そしてなによりも、大和と周辺にある大神(おおみわ)神社—三輪明神、石上(いそのかみ)神社、大和(おおや
まと)神社、熊野本宮大社、賀茂別雷(かもわけいかずち)神社、日吉(ひえ)神社などの有名神社の主祭神が大歳神即ち、天照大神の前の天照大神である天照国照大神だとということで,ある。
 日本書記や古事記で「大物主は大国主の別名である」と書かれているのはウソで、大神神社で大物主と大国主が並んで祀られている以上、これは別人である。

勝ち組日向一族歴史をつくる

 日向一族の天照大神を「皇祖」とするために、対抗する大先輩の出雲一族の神々を変名したり抹殺したりする、歴史の偽造を日本書紀や古事記でやってきたのに、今でも民衆に親しまれているのは、出雲一族のお稲荷さんや大歳さんであるというのは、歴史の皮肉として面白い。
 古事記のできたのは西暦七ニー年で、古代とはとうてい云えない時代で、各氏族各地の歴史書もあった。当時全国に祀られていた神社は約三千から五千位で、その内の出雲一族を祀っているのが約八割で日向一族は約二割位であったという。それぞれの由来もあったはずである。
 そこでこの割合を逆転させようとして、日本最初の天皇である天武や藤原鎌足の子の藤原不比等らが、永年かけて神社への攻撃・圧力、系図の没収・破棄を行い、ついには大々的な歴史の捏造として古事記・日本書紀を持ち出してきた。つじつまの合わない部分は全て「神話」にしてごまかすという、悪質なやりかたをとったため、日本の歴史はまともに教えることのできない代物になってしまったのである。

明治以後の戦争の歴史はダメ

 明治になり「王政復古」の時来たれりとばかり、今度は「天皇は現人神」という絶対主義的天皇制の圧政で、以後八十年間押し通してきたが、結果は二千数百万人の人命を奪って、無残な敗北を喫してしまう。その時点で日本が世界に行なった公約が「平和憲法の遵守」なのである。ところが最近、憲法を改悪し日本を再び戦争のする国に復活させようという策動が、活発にやられてきている。しかし、この道はいつか来た道。絶対に避けなければならない、破滅への道なのである。
 歴史的に見ても好戦勢力は少数である。そこで彼等は様々な策略を巡らす。これを見抜き、平和を願う多数派に呼び掛けることにより展望は必ず開けると思う。

事態は順拝だけでは打開不能

 私はここでもうひとつ問題にしたいのは、今の中小零細自営商工業者の暮しと営業の問題は、今までのような三社順拝ではすませないほど、事態は深刻だということだ。
 私の地元の西成区では店舗の半分が空きという商店街もあり、酒屋・米屋が廃業続出という昔では考えられなかったようなことが、起こっている。「かなわぬときの神頼み」ではだめだ。大企業は空前の大儲け、競争万能主義はついにスピード争いとなりJR 西日本は、大事故を起こしてしまった。
 今、人々のやらねばならないことは団結だ。徹底的に団結することだ。答えは必ずそこからでてくる。「はったつ」ではなく悪政に「はらたつ」こと、本当に怒りに立ち上がることだ。

今昔木津川物語(009)

西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(四)

大海だいかい神社 (住吉二)

 生根神社の正面鳥居を南へ行けば、熊野街道と紀州街道を結ぶために、大正期に元の材木川を埋め立ててつくられた住吉新道しんみちに出る。横切れば、目の前が大海神社の北の門。道路から高い分だけ数段登ると、そこはすでに平安へいあんの昔にかえっている。

浦島うらしま太郎のモデル

 大海神社の祭神は海幸うみさち山幸やまさち神話しんわで知られる豊玉彦命とよたまひこのみこと豊玉姫命とよたまひめのみことの親子で、私の小学生のときには教科書きょうかしょつきでのってあった。
 兄の海幸彦が大切にしていた釣針つりばりを失ってしまった弟の山書は、海底かいていにさがしに行き豊玉姫の協力を受ける。兄弟のあらそいはその後も激しくなり、山幸があやうくなったときに豊玉姫が持参の「潮満珠しおみちのたま」で海潮かいちょうを呼び寄せなんのがれる。
 そのたましずめたところということでこの辺りを玉出島たまでしまとよび、住吉でも古来こらいよりもっとも早くひらけたところといわれている。仁治にんじ二年(一ニ四二)にこの玉出島出身の勝間大連こつまおおむらじが勝間村(こつまむら・現西成区玉出)を開発した。
 大海神社の本殿は住吉大社の本殿と同型同大どうけいどうだいの住吉造りで、重要文化財に指定されている。もともとは住吉大社の神主津守氏つもりし氏神うじがみで、かって境内はふじはぎの名所であった。永年の間住吉大社のかげにかくれていたので、浮世離うきよばなれしたおもむきを残している。人手があまり入らず樹木じゅもくがうっそうとしているのも都会ではめずらしい。
 海幸・山幸の神話はお伽話とぎばなし「浦島太郎」のひとつだといわれており、かって近くに「玉手箱たまてばこ」という地名があったというのもおもしろい。

まぼろしのご本尊は天下茶屋へ

 ここで特に記しておきたいことは、生根神社から大海神社までの間にかって三千佛堂という寺院があり、秘佛ひぶつ阿弥陀如来あみだにょらい安置あんちされていたが、明治初年の廃仏毀釈はいぶつきしゃく廃寺はいじとなった。本尊は天下茶屋の安養あんよう寺に移転されたが、空襲くうしゅう焼失しょうしつしてしまったという、いまでは世間からほとんど忘れさられているひとつの事実である。
 大海神社を南に出ると通称「桜畠さくらばたけ」といわれる広場があり、終戦直後には毎年の様に盛大な盆踊りがやられ、私もよく見物に出かけた。
仮装かそうして踊る人もあり、敗戦の悲惨ひさんさと終戦の喜びとがざりあった複雑な雰囲気ふんいきのなかで、踊りの幾重いくえにもふくらんでいった光景こうけいを今でも、夢のなかの一場面のようにおぼえている。
 実はこの「桜畠」にも明治までは、住吉神宮寺という天平宝字てんぴょうほうじ二年(七五八)に創建された豪壮ごうそうな寺院が存在していたのである。
 本尊には薬師如来やくしにょらいが祀られ「新羅寺」ともいわれ、「古今著聞集こんせきちょぶんしゅう」にも名が見える格の高い寺でもあり、一休禅師いっきゅうぜんじ応仁おうじんらんけ住吉に八年間居住した頃によく参籠さんろうしたという。

廃仏毀釈はいぶつきしゃくは住吉大社にも

 この寺も明治の廃仏毀釈で堂宇どうう破壊はかいされ廃寺となってしまった。「桜畠」の東側の森の中にある住吉大社の末社まっしゃのひとつである招魂社しょうこんしゃが元神宮寺の唯一ゆいいつ遺物いぶつで「旧護摩堂きゅうごまどう」であったという。そのひさしあおいもんきざまれているのが、神宮寺が天台宗てんだいしゅう東叡山とうえいざんに属していたことを物語っているといわれている。
 ちなみに廃仏毀釈とは明治の新政府が、江戸時代における仏教中心の宗教政策をやめ、神道しんどう中心主義を採用さいよう、これにより政府せいふ権威けんいを高めようとしたもの。神仏混淆しんぶつこんこうを排し神社からの仏教的要素ようそ一掃いっそうをはかるため、日吉ひえ神社、石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうをはじめ各地で仏堂や仏像・仏具・仏画の破壊をほしいままにして多くの文化財を抹殺するという歴史に残る暴挙ぼうきょを行ったのであったが、住吉大社でも例外れいがいではなかったというわけである。

大阪きづがわ医療福祉生協総代会開催!

 2024年6月23日、第13回通常総代会が開催されました。その中で、がもう健さんの郷土史エッセーを紹介する機会がありましたので、掲載します。

 今までの総代会の討議をお聞きして、このきづがわ医療福祉生協が、以前にも増して、一段と高いところに立っているととひしひしと感じますので、私の発言はいささか蛇足に過ぎない感もありますが…
 とりあえず、今日は私のためにかくも盛大にお集まりいただき(笑い)ありがとうございます。こうした機会で皆さんにお話できるのも最後になるかもしれませんので、心してお聞きください。今日の総代会のテーマとほとんど違う話で、こちらもご了解ください。
 さて、さる3月に事務の人にビデオを撮ってもらいながら、大阪きづがわ医療福祉生協の初代理事長のがもう健さんのインタビューをしました。以下、インタビューのハイライト(再掲)です。


 がもうさんは、西成をはじめとする、医療福祉生協の定款地域でもある大阪市南部を中心とした郷土史を探求・研究し、2冊の冊子を出版されています。いみじくも、その一冊が、この会場のある阿倍野区の図書館にも収められていると聞きます。そこでは、大阪きづがわ医療福祉生協の南北をつなぐ木津川に寄せるがもうさんの思いから始まり、ここ阿倍野にゆかりのある安倍晴明神社‐大河ドラマ「光る君へ」では、少し山師ぽく胡散臭く描かれていることが興味を引きますが‐のがもうさんらしい紹介もあります。更に印象深いことに、先代の西成民主診療所も、きちんと「郷土史」のなかに位置づけられていることです。私事にわたることながら、写真の診療所に赴任して30年近くにもなり、今更ながら不明を恥じるばかりですが、大袈裟に言えば、遠く古代の昔からここに暮らす人々の願い、希望に寄り添ったものであることを身に沁て感じるところです。決して悲観的になるわけではありませんが、こうした願い、希望も達成できなかった、叶わなかったことのほうが、叶ったことよりずっと多いことでしょう。でも、そのことは、今日の総代会を期に、必ずや次の一歩の踏台になることも同時に確信します。その中では、「西成民主診療所」という名称も、愛着は重々あるとは思いますが、新しい名称に変更することも検討の必要性があると個人的には思っています。今後のご討議に期待します。
 最後に、がもう健さんの「今昔西成百景」のあとがきから引用して、発言を終わります。ご静聴ありがとうございました。

「地獄極楽この世にござる」「神も仏もないものか」と云いたくなるような話が、 每日のようにとびこんでくる今日この頃。遠い祖先より人々はこの地で、一体 何をしてきたのか、またそれが歴史上どうなのか。このことを探求する以外に確信のもてるものはないのではないか。戦争とか災害とか貧困とかが、「暗い話」としてその資料が抹殺され、記録が歪曲され、人々の記憶からも消し去られようとしているときに、 あえて「後向き思考」でいろんなことを再検討してみることでこそ、本当の意味での「明日への展望」が生まれる。郷土史がただ単なる「故郷自慢」ではなく、地方史として真剣な再検討がもし全国で始められたならば、 世直しのうねりと必ずなりうる。こんな大きな希望をもつて、 こんな小さな本をまた出した次第です。

今昔西成百景(012)

◎天津橋

 一九七〇年の大阪での万博開催にむけて、阪神高速道路堺線が突貫工事で十三間堀川を埋め立てて、一本足スタイル、全部セメントでつくられた。今、阪神大震災での阪神高速神戸線の崩壊で、全く同じ条件でつくられた堺線の安全性が問題になつている。
 十三間堀川は、元禄十一年(一六九八)河村瑞軒の設計になるという長さ四四町(約四・八キロ)、幅十三間(約二三・七メートル)木津川の水を引いて堺の北で海に注がしめた。南大阪における唯一の運河として、二百数十年の間治水と運輸交通に大きな役割を果たし、南大阪発展に奮闘した西成の名物のひとつであった。


十三間堀に十四の橋

 かって十三間堀川には、数多くの橋が東西に架けられていた。西成区内のを北からあげてみると、万才・浜津-豊津,長橋・鶴見・梅津・松栄・中津・汐津・国勢・南津・天津・育栄・長崎・回生橋となる。
 その中でも、命名の由来が推測しがたいもののひとつに、「天津橋」がある。千本通と南津守を結ぶところであるが、かつては主要道路が交叉する交通の要所であった。私の記憶では、幅も広い道路の延長のような、頑丈なコンクリ—卜づくりの橋で、自動車もよく通っていた。

「天津橋」の跡、今は阪神高速の真下に

 千本と津守から一字づつ取れば「千津」になるし、地元の勝間村を飛び越えて、天王寺村や天下茶屋の名を付けることはなかったはず。まして当時は徳川の時代、宿敵豊臣秀吉を持ち上げるような、「殿下茶屋”天下茶屋」をわざわざ借りてきたとはとうてい考えられない。謎は益々深まるばかり。
 そこで、以下は私の大胆な推測になるが。「天つ風 雲の通ひ路吹きとじよをとめの姿しばしとどめむ」、これは小倉百人一首に出てくる、舞姫を天女にみたてた僧正遍昭の歌であるが、「天津乙女」とは、静岡県の三保の松原に舞い下り、羽衣を忘れた天女のことである。羽衣伝説は、この他にも全国の美しい松原のあるところには多く在り、堺市の「羽衣駅」も、かつての白砂青松の地であった泉州の海辺から生まれたものである。それでは、西成に天女が舞い下りて来るようなところがあったのか、ということであるが、それがあったのである。

かつては景勝の地

 「今の木津川千本松渡船場あたりは東に津守新田が拓け、景勝の地であった。天保三年(ー八三二)、八七〇余間(一六〇〇メ—トル)の堤を築いて松を植え列ね千本松と称し、船や汐干狩りに多くの人々が遊んだ。丹後の天の橋立、駿河の三保の松原にも比せられる名所であった」と物の本には書かれている。昔の人は、西成にもロマンがあるということを、後世の私たちに伝えるために、「天津橋」と言う命名でメッセージを送ったのではあるまいか。
 十三間堀川についても、「明治の初年頃までは両岸に松や柳の並木が在り頗る風情に富み、大阪より楼船を浮かべ、道頓堀川より船で住吉に遊ぶものが多かった」と伝えている。
 今、「天津橋」の跡地は、振動・騒音・排気ガスの阪神高速の真下になる。公害だけでなく、交通事故の多発地点でもあり、先日も知人が死亡事故に遭い痛恨の想いをした。かつて先人がこの地に「天津乙女」を夢みたとしたら、この百年間は住民にとって一体何であったのか。区役所はさかんに「好きやねん西成」とキャン・ペーンをはるが、止まらない人口の減、特に子供のいる若い世帯が少なくなっている現実をみれば、今の西成は決して住みやすい街ではない。子供の笑い声の絶えない、老若男女のバランスのとれた西成の街づくりのために、先人に負けず、草の根運動でがんばろう。
(ー九九五・五)

南大阪歴史往来(008)

◎浅沢神社(上住吉二ノ十ー)

 住吉大社境外末社、祭神市杵島姫神。祭神は本来は海神であるが、女神から弁財天と神仏習合し、芸能の神として崇敬されている。


昔は浅沢小野の風情の名勝

 かつては清水のわく大きな池があり、奈良の猿沢の池、京都の大池と並ぶ近畿の名勝地であった。特に美しく咲き乱れる杜若(かきつばた)は有名であった。
 しかし、明治維新以後は無格社となり、ほとんど民有地となり荒廃していた。その後大阪松島の人清水某氏が当社を深く信仰していたところ家運隆昌し、松島でも屈指の資産家となったとして、明治三十四年池を浚浚渫、社殿の修復を行い灯籠を奉納するなど面目を一新させ、現在見るように堀の小島に鎮座するようになった。明治四十一年五月には改めて境外末社となった。
 松島の清水某氏が何の商売で大金持ちになったかは不明だが、大阪の松島といえば大歓楽街であり、いわゆる遊廓の関係ではなかったかと思ってしまう。

広島の厳島神社と同じ神様

 堀の小島に本殿があるというのも祭神をみれば当然のことで、市杵島姫社とはあの有名な安芸の宮島、海の中の神社広島県の厳島神社の主祭神「市杵島姫」のことで、今ではイツクシマと発音しているが、昔はイッキシマといわれていた。
 民間の歴史研究家原田常治氏が七十ニオになってから、日本書紀の八割、古事記の五割以上はウソだという立場から書いた古代史によれば、市杵島姫は日向の大日霊女貴尊(ひみこ・後の天照大神)の第五子で父は日向に攻略に来た素佐之男尊である。
 市杵島姫がなぜ海の女神になったかと云えば、西暦二百三十年に大和に養子として東したひみこの孫伊波礼彦尊((後の神武天皇)が、暇乞いのあいさつに来たときに、航路の平安を祈願したことによるもので、初めは一人であったものが後に二人の姉が加わって海の三女神となり全国のとくに海、航海に関係のあるところに祭られるようになった。

杜若と和歌の名所は今は区花

 住吉大社は海上守護の神という抽象的な神に対して浅沢神社の神は、実在していた人物を女神にしたであろうという点で、また杜若の名所でもあり、古来より多くの和歌が
ここでよまれている。
 すみよしの
   浅沢水に影みれば
   空行く月も草がくれつつ
     津守国助
 いかにして
   浅沢沼のかきつばた
   紫ふかくにほひ染むらん
     藤原定家
 いざや子ら
   若菜摘みてん根芹生ふる
   浅沢小野は里遠くとも
     藤原俊成
 この杜若は、現在地元住吉区の「区花」になっている。

人身御供が海をしづめる

 日本の古代交通はほとんど船であった。海が荒れ出したら、何か魔物でも住んでいるのではないかと思われた。その魔物の怒りをしずめるため場合によっては女性が船から飛び込んで、人身御供になり海をしずめることもたびたびあった。
 伊波礼彦が生駒で長髄彦に追われ、大阪湾を逃げて熊野へ向う途中でも、海が荒れてだれかが海へ飛び込んで人身御供になっているはずだ。
 戦前の日本では、女性が親の借金や家族の病気の治療費のために苦界に身を沈めた話が多い。大阪松島の歓楽街でも、そんな話は山程あったはずだ。果たして女神は守ってくれたのかどうか。
 先日、久しぶりに浅沢神社を訪れ、玉垣を調べてみたがほとんどが最近新しく造り替えられていた。ただ一本特に太く古いのがあって、そこには深々と「松嶋清月楼」と彫りこまれていた。

今昔西成百景(011)

◎出城通り

 出城通りという地名は、天正年間、本願寺の一向一揆の門徒が織田信長と戦ったとき、木津川口の防衛のために城を築いたのが由来であるという。

権力とたたかった一向一揆

 天正四年(一五七六年)五月七日、信長は出城通りの戦いで、足に鉄砲を受け、天王寺にかけ入っている。もし、本願寺の門徒の射撃がもう少し正確であれば、出城通りで日本の歴史は大きく変わっていたかもしれない。
 大阪では東西の道路を「〇〇通り」とよび、南北の道路を「〇〇筋」とよぶ、ということは、四十年前に、関目の自動車教習所の教官より聞いた。この教皆所では同時に、警察官である試験官に賄賂を贈らなければ合格をしないことも公然と教えられ、一人反発して退所した思い出がある。
 出城通、長橋通、鶴見橋北通、鶴見橋通、旭北通、旭南通、梅通、梅南通、松通、橘通、桜通、柳通、潮路通、新開通、千本通、田端通、玉出新町通、玉出本通、姫松通、などが西成にあるが、地名の由来からして出城通りが、相当古いのではないかと思う。
 柳通りから浪速区までの北半分は、大正時代にはすでに碁盤の目のように区画整理がされていて、地名も梅、松、桜と華やかで、まるで「小京都」だという人もあれば、その辺に花札の「いの、しか、ちょう」がひそんでいないかと茶化す人もいる。

木津城を築いて織田勢を撃退する

 次に願泉寺(浪速区大国二)に伝わる古文書より、出城砦に関する部分を紹介しておく。
 「信長の本願寺と出入りの節は敵勢を紀州鷺の森の御堂へ推寄せ申さぬ様木津総門葉老若男女は各我家を棄てて西の海の浜に四方八町の埒を結び門戸厳しく小屋建て籠居す高櫓の石垣は飛田墓地の五輪石塔を夜中に引き取りて石垣とす昼は男子は田畑に出でて耕作す其時は刀或は槍を以て用心をす夜は女子番を勤む月の夜は竹の末を切りとぎりて水にひたし立て掛けて城内を守るに月の光に映じて槍と見ゆ夜戦にて其竹にて寄手のもの多数を殺す其他陥穴を以て数百名を殺す寄手は天王寺茶臼山に陣を取り出でて戦ふなりある夜葱び者木津城に入り来る其時大将定龍之を知りて夜半の鐘を明け七つ寅刻に撞きしにより忍びのものとく帰るこの鐘持ち帰りたるに寛永年中火災の早鐘によりて破れ損ず件の城今は畑となれり宇して出城という」
 その後、この辺りより墓石が掘り出されることがあると、木津川城を築いたとき、飛田墓地より運び来て石垣に利用したものではないか、と云われてきていたと伝えられている。

今昔木津川物語(008)

◎ 西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(三)
生根いくね神社(おくの天神社)(住吉二)


 東粉浜の間魔地蔵堂の前を旧道をたどって東南の方向へ進み、上町線の小高こだかくなっている踏切ふみきりを越えてしばらく行くと、左手に生根神社、別名奥の天神社の西側の鳥居に出会う。
 神社は上町台地のがけ上にあるが、その崖の石垣いしがきには現在、幕末ばくまつの頃近くの東粉浜小学校の敷地しきちを含めて、紀州街道沿いの区域くいきから北にかけて約ー万坪の広さであって、明治になり解体かいたいされた土佐とさ藩の石垣が使われている。神社の正面にまわるため坂道をのぼると中ほどに旧西成郡と東成郡の境界きょうかいを示す石碑が建っている。
 鳥居をくぐって境内にはいると、樹齢じゅれい五百年以上のもちの木の大木があり、歴史の古さを感じさせる。
 神社の本殿ほんでん慶長けいちょう十一年(一六〇六)九月淀君よどぎみの寄進による片桐且元かたぎりかつもと奉行ぶぎょうにより造営され、現在大阪府指定の有形ゆうけい文化財として、切妻千鳥破風木造桧皮葺きりづまちどりはふこづくりひわだぶきうるしりの建造で、桃山時代の重要な建築様式ようしきを残しており、旧住吉大社領内りょうないの社殿では、今はもっとも古いものとなっているといわれている。
 秀吉の死から二年後の慶長けいちょう五年(一六〇〇)石田三成いしだみつなりらの起こしたせきはらの戦いは東軍とうぐんの勝利に終わり、事実上天下の主導権しゅどうけんをにぎった家康は慶長八年には征夷大将軍せいいたいしょうぐん宣下せんげをうけて江戸に幕府をひらいた。
 かくして豊臣とよとみ氏と徳川氏との地位ちい逆転ぎゃくてんし、秀頼ひでより摂津せっつ河内かわち和泉いずみの六十五万七千石の一大名に転落てんらくした。
 しかし、おちぶれたとはいえ秀頼は三国無双さんごくむそう名城めいじょう大坂城をもち、城内にたくわえられた莫大ばくだい金銀財宝きんぎんざいほう(もちろん全国の民百姓からしぼりとったり、朝鮮ちょうせんから略奪りゃくだつしてきたもの)は徳川打倒のための軍資金ぐんしきんとして十分なものであった。

軍資金流出りゅうしゅつを迫られて

 家康はまず豊臣家の財力ざいりょくうしなわせようとはかり、太閤(秀吉)の菩提ぼだいとむらうためと称して、しきりに社寺の修理、造営を秀頼にすすめた。慶長七年から同十五年までの大坂城内の財産がそこをつくまでの八年間に、有名な社寺しゃじだけでも四、五十ヶ所、それ以外に淀君よどぎみの名で住吉大社の太鼓たいこ橋まである。
 生根神社の再建も家康の意図いとくわだてを見抜けず、家運の挽回ばんかい神仏信仰しんぶつしんこうにたよりまんまと軍資金を流失りゅうしつさせていつた秀頼母子の悲劇の歴史の証人だと思えば、戦国の世の血なまぐさい風が、今もこの崖の上を吹き抜けているような気がする。
 生根神社の祭神は少彦名命すくなひこのみことで「だいがく」で知られている玉出たまでの生根神社はここの分社である。

管公かんこうは後からまつられた

 現在の地に中世、管原道真すがわらのみちざねまつられ、大海神社の奥にあたるところから「奥の天神」として有名になり、元の生根神社の存在があやうくなったために、明治になつて一時途絶とだえていた生根神社の名を復活させたという。
 政争にやぶれた文人ぶんじん政治家、管原道真の怨霊おんりょうは物すごく、それをしずめるために日本全国に一万をこえる管原道真を祭神とする、天神さんや天満宮てんまんぐうがつくられたというのだから大規模である。大阪府下だけでも約七百の神社のうち百四十社ほどに道真が祀られているという。
 道真の神号しんごうが「天満大自在天神てんまんだいじざいてんじん」であることから天満宮の名が起こったが、天満とは「道真の瞋恚しんい天に満つ」ということだと伝えられている。広辞苑こうじえんによれば瞋恚とは「ほのおえ立つような、はげしいいかり、うらみ、またにくしみ」となっており、天満の天神さんとはこの最大級たいだいきゅうはん権力の思いが、天に満つる天の神という意味となり、学問の神や受験の神、歯痛はいたの神様だけではすまなくなるのである。
 少彦名命は医療いりょうの神といわれているし、今日の自民党内閣や横山府政による医療制度の大改悪などについては、二人の神様でなんとか反対してもらえないかと言えば、それこそ「かなわぬときの神頼かんだのみ」だと、どこからかおしかりをうけそうである。

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