今昔木津川物語(022)

西成・浪速歴史のかいわいシリ—ズ(五)

篠山ささやま神社 (元町二—九)

 大坂における常設市場としては、古くは天満てんまの青果市場せいかいちばうつぼ干魚かんぎょ市場、雑喉場ざこば生魚せいぎょ市場、木津難波の青物あおもの市場が有名であるが、その中でももっとも木津難波きづなんば市場が新しい。

金で買った特権とっけんふりかざし

 徳川時代には、青果は天満、干魚は靭、生魚は雑喉場と限定げんていされ、市場は年々幕府ばくふ巨額きょがく上納金じょうのうきんし出し、そのわり取扱品とりあつかいひん独占どくせんの特権をもらい、生産者の直売ちょくばいなどはきびしく禁止されていた。
 しかしそのためには、すべての青果物はわざわざ天満まで搬出はんしゅつせねばならず、その手間てまや費用の点で、難波・木津・今宮の百姓ひゃくしょうたちは永年にわたり苦しんできた。

子守歌こもりうたが今も証言しょうげん

 大坂の子守歌に「ねんねんころいち天満の市よ、大根だいこそろへて船に積む、船に積んだらどこまでいきやる、木津や難波の橋の下」というのがあるが、大根の生産地である木津村・難波村の人も、わざわざ天満市場を経由けいゆした大根を買わねばならなかったということを、歴史的れきしてきに証言したものになっている。

畑場はたば八ヵ村の悲願ひがん宿願しゅくがん

 かつて畑場八ヵ村としょうされた、勝間こつま中在家なかざいけ今在家いまざいけ今宮いまみや木津きづ難波なんば西高津にしたかつ清堀きよぼりの村々は村内水利すいりに乏しく、全面畑場にして水田すいでんは全く存在そんざいしないという状態だった。また、この辺りの地質ちしつ質であり根菜類こんさいるい栽培さいばいにはてきしていたということもいえる。いずれにしてもこれらの村々の百姓としては、市場いちば問題は自らの死活しかつ問題として、自然しぜん立ち上がらざるをえなかったわけである。
 かくて難波・木津・今宮の百姓たちは、道頓堀どうとんぼり南側や湊町みなとまち大通りなどで立ち売りをおこなったが、そのつど天満市場からの苦情くじょうで幕府も弾圧だんあつに出てきたため、なかなか地元での市場の設置せっちみとめられなかった。

人情にんじょう代官だいかん篠山十兵衛じゅうべい奮闘ふんとう

 難波八阪やさか神社に残る古文書こもんじょによれば、正徳しょうとく四年(一七一四)より文化ぶんか六年 (一八〇九)まで実に九十五年のかんにわたり、苦情くじょうの出るたびにえながら、ひそかに立ち売りをつづけ、度々たびたび嘆願書たんがんしょを出し、ついに、代官篠山十兵衛のじん力によって文化ぶんか六年六月二十七日(一八〇六)次の条件じょうけんきで立ち売りが許されることになった。
 「市立いちだち似寄によりの儀致間敷事いたしまじきそうろうこと他所たしょ他村たそん荷主にぬし青物あおものたりそうろうとてけっして村内そんないに立ち入れざる事。十三ひん(大根・菜類なるい茄子なす人参にんじん冬瓜とうがん白瓜しらうり南瓜なんか西瓜すいか若牛芽わかごぼうねぎ分葱わけぎ芋類いもるいかぶら)に限り土附つちつきのまま一荷いっか不足ふそくの分だけ村内そんない物青あおもの<ママ>渡世とせいの者へ譲渡じょうとし、十三品のも一相成候分あいなりそうろうぶんならびに十三品外の青物は此迄通これまでどうりり、天満市場に差し出し申可事もうしべきこと。右いささかも違背いはいなき様致すべき事」という、大変厳しいものであった。
 しかし、当時としてはまこと異例いれい出来でき事でもあった。

善政せんせい責任せきにんを負い自刃説じじんせつ

 で、今宮村への朝役ちょうやく神役しんやく奉仕ほうしに対する課役免除かやくめんじょ恩典おんてん寛政かんせい八年(一七九七)に二百数十年ぶりに実現させたという偉業いぎょうを紹介したが、その斡旋あっせんを行ったのが新代官篠山十兵衛であったのだ。度重たびかさなる住民の立場に立った行政を幕府よりとがめられ、一説いっせつによればその後責任を負い自刃したとの話もある。

現代西成百景(その二十三)弘治こうじ—伊藤村長父子の義侠ぎきょう」参照。

今も毎年篠山祭り

 この時に免許めんきょを与えられた難波村百姓市場が、その後木津難波魚青物市場へと発展はってんし今日に至っているのである。地元の人は篠山代官のとくしのび、難波八阪神社境内けいだいに篠山神社を建て、今も毎年九月二十六日篠山祭りという祭礼さいれいをつづけているという。
 先日、難波八阪神社に参拝さんぱいし、神社の人にたずねると、篠山代官は十数年の長きにわたり代官を勤めた後、佐渡さど金山奉行きんざんぶぎょうとなり五十オで没し墓は佐渡にあるとのことである。

今昔木津川物語(021)

阿弥陀池あみだいけ (西区北堀江三—七)

編者注】今回の投稿は、冊子版「今昔こんじゃく木津川物語」に掲載された「阿弥陀池」の部分です。

 先日次回の「百景めぐり」の下見をかねて、再び西区の史跡を訪ねた。南海汐見橋線で終点の汐見橋駅へ着いて、駅の壁を見上げれば南海沿線の名所・観光地などが、地図の上にマンガ的に画かれている大看板があつた。
 かつては各駅にあったものだが、高架化などのために駅が新しくなり、市内ではここだけにしか残っていない、貴重な「文化財」となつてしまった。しかし、痛みも大分すすんでおり、実物を見ておきたい方はお早く、と云っておきたい。

供養碑は後世に警告している

 浪速区の北西端と西区の境、大正橋東北詰に、「安政元年(一八五四)六月十四日の大地震・津波による惨状を記し次いで地震のときの諸注意を述べている碑が建っている。特に「すべて大地震の節は津波起こらん事をかねて心得、必ず船に乗るべからず」といましめている。地震を恐れて船に逃げていた人が津波で多数犠牲になっている。
 大正橋を渡って大阪ド—厶の方へ行くと、地下鉄の駅で「大阪ド—厶前千代崎」というのがある。長い名前だが、千代崎というのはここの土地の名前だ。木津川にかかる千代崎橋からとったらしい。橋の名前が先といえば、大正区の区名も大正橋からもらっている。

千代崎と西成の千本は姉妹町

 千代崎というのは別にお千代さんが住んでいたわけではなく、実は木津川の河口近くにかってあった防波堤に植えられた松並木のことを「千株の竝松蒼々(なみまつそうそう)として千代の栄えの色を現わし」と表現されていたことによると、西区役所は云っている。これは意外であった。千本松は防波堤とともに、大正時代の造船所建設ブームのなかで破壊され、いまは西成区の町名に「千本」として残るだけである。

落語のおち
「阿弥陀が行け」

 あみだ池へ行った。講談・落語・演劇の題材として取り上げられているが「摂津名所図会」にあるように「世の人寺号を唱えずして阿弥陀池というのみ」とあるように、本当は蓮池山智善院和光寺と称した。江戸時代には本堂の他に観音堂・普門堂・愛染堂などを有する大寺であった。
 境内および周辺には講釈の寄席、浄瑠璃の席・大弓や揚弓・あやつり芝居や軽業の見世物や物売りの店がにぎやかに並んでいたという。今はビルに囲まれた大寺で、ひつそりと静まりかえっていた。

三菱のマ—ク
稲荷神社で発見

 以前に来たときには発見できなかった、土佐稲荷神社にあるという三菱のマークを、今回はついに発見した。「土佐稲荷神社には三菱のマークがある」というのは聞いていたが、どこにあるかは聞いていなかったので、今回も大分時間をかけて探した結果、とうとう賽銭箱の正面に野球のボール位の金色の家紋のようにして、稲の束とともに三菱のマークがさんぜんと輝いているのを見つけた。
 土佐稲荷神社と岩崎弥大郎と三菱財団とのなみなみならぬ関係が一層よくわかった。
 最後に艱公園へ行った。
 「うつぼ公園の一帯は、江戸時代以来海産物を取り扱う問屋・仲買が集中していたところであるが、昭和六年十一月に、これら問屋・仲買が大阪市中央卸売市場に吸収統合されたあと、第二次世界大戦のアメリカ空軍の空襲により荒地となった。戦後、この地に目をつけた在日アメリカ軍が整地し、小型飛行機の離発着場となり、昭和二十七年六月に飛行場が返還された後、大阪市は約九万二〇〇〇平方㍍の大公園を三年後に完成させた」(西区役所発行パンフ)とあるが、大公園の割には一般入園者用トイレの貧弱さにおどろいた。直ぐに改善してほしい。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第1回

◎「日本の仏教伝来の地が西区阿弥陀池」

編者注】2016年3月号の大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」に「がもう健の〉次郎と友子の『びっくり史跡巡り』日記」が始まりました。まずは、その1回目の記事からです。出版本の「今昔こんじゃく木津川物語」にも同一のテーマでの記事があります。こちらの方も次回に公開予定です。まずは、当時の「新連載の紹介」から…

 今月号より連載開始の”次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記”。郷土史家・がもう健さんの書き下ろし作品です。ぎづがわ往来とは一味違った次郎と友子の史跡巡りや掛け合いをお楽しみください。

 南田次郎は大阪駅の待合室で北山友子を待っていた。ここは金沢行きのサンダ—・ハードの発着ホー厶にあるが、ゆっくりとくつろげる場所になっている。
 次郎は認知症で要介護2の兄太郎を介護するため、既に五年も滋賀県草津市に通っているが、今まで何度もこの待合室を休息に利用してきた。
 友子のすらりとした姿がガラス越しに見えたので、次郎は待合室を出た。
 友子は次郎の高校の同級生で放送部にいた。次郎は相撲部の万年補欠選手、友子の落ち着いた声は憶えているが、個人的には特に接点はなかつた。
 数年前の同窓会で、次郎が兄の介護の話をしたところ、実は友子も両親が認知症になり十年近く介護してきたことがあるとのこと、それで話が合い、以後時々二人でお茶会をするようになった。そして今では、次郎がかねてよりライフワークとしてつづけてきた「南田次郎の史跡巡りの会」のメンバーとして、特に下見活動の欠かせない相棒として大活躍してくれている。
 さて今日の二人の行先は、いま朝の連続テレビ小説「あさがきた」の主人公、明治の初めに大阪で大活躍した女実業家広岡浅子の嫁いだ先が西区にあったとのことで、西区の「びっくり史蹟巡り」となった。
 地下鉄西梅田駅をスタート地点として「阿弥陀池」に行った。講談、落語で取り上げられているが「摂津名所図会」に「世の人寺号を唱えずして阿弥陀池というのみ」とあるように、本当は蓮池山智善院和光寺と称し、江戸時代には本堂の他に、観音堂、普門堂、愛染堂なども有する大寺であったとか。
 かっては境内および周辺には、講釈の寄席、浄瑠璃の席、大弓や揚弓、あやつり芝居や軽業の見世物や物売りの店がにぎやかに並んでいたという。きっと広岡浅子らも通ったであろう。
 元々は、元禄十一年(一六九八)信濃善光寺大本願智善が幕府の命により開設した寺で浄土宗の別格尼寺であった。
 「私達が来たのは単にちょんまげ時代を懐古するためではないわね」
 「もちろんそうだよ。実はこの地が欽明天皇(六二九〜六四一)の時、朝鮮より伝来した仏教について、当時の最高権力者物部氏と蘇我氏がその是非を論争。ついに物部氏が仏像を難波の堀江に投棄し寺に火を放った。そのうえ尼僧にも弾圧を加えた。『あみだ池』がその旧地と伝えられるため、千年後に幕令で寺と堀をつくったという。物部氏と蘇我氏の争いはついに武力抗争に発展して、聖徳太子が加わった蘇我氏の勝利となり、その後の日本の行末に仏教が大きく関わってくる」
 「仏教伝来で時代の先端を切ったのが西区の尼さん達だというのと、広岡浅子の奮闘に通づるものがあるのかなあ」
 「今日もお付き合いありがとう。五時に兄がディサービスから帰宅するのでこれで失礼します」
 「ご苦労さんがんばって」
 「ありがとうまたね」

今昔西成百景(028)

◎津守「新田」ー津守神社

 「新田」とは、近世になって新しく開発された土地のことである。木津川・大和川を中心とした大阪湾沿岸では、江戸時代を通じてこの新田の開発が積極的に行われた。津守新田は元禄期(一六八八 一七〇四)に造成され、同時期の他の新田には、市岡新田・泉尾新田・春日出新田などがある。これらは町人請負新田と云われるもので、当時の町人社会の経済力がいかに大きかったかが偲ばれる。

難工事に袴屋八ケ年の努力

 津守新田の最初の請負者は横井源左衛門、金屋源兵衛の二名であったが、土堤が高波にさらわれることとなり、湊屋九兵衛に譲り、湊屋は石堤としたが、又又大風高波のため堤敷石、浪除けはもちろん百姓家までことごとく流失し、遂に親族の挎屋弥助に再び譲ることになった。弥助の工事は古船に大石を積込み、そのまま沈め五、六尺の基礎の上に亀甲型の石垣堤を築き上げるという大工事で、ハヶ年の努力の後、元文五年(一七四〇)漸く完成をみた。時の代官は弥助こそ津守新田の開発者と激賞し、津守新田はその後永く、袴屋新田と呼ばれた。
 そして天明四年(一七八四)津守新田は再び初代炭屋善五郎に譲渡されるに至った。その元祖は淡路白山から大阪にでて、縁あって炭屋の養子になった後分家した人。初代善五郎は自ら津守に移り新田の経営に専念した。津守新田はその後幾度となく拡張され、一般には一六〇町歩と称され、明治七年の調査では約四〇万坪となっている。
 現在、津守小学校内の北西角に「津守新田会所跡」の碑が立てられており「本校庭の位置には、江戸時代津守新田会所があり、新田地主白山氏の庭園は向月庭といわれ、大阪の代表的名園であった」と記されている。

歴史を見てきた津守神社

 津守神社は新田開発のときに勧請され、初めは五所神社、五所大明神といわれ、元禄時代には単に稲荷神社と呼ばれたが、明治四年津守神社と改称し、同五年村社に列した。祭神は天照大御神・稲荷大神・大歳大神・綿津見大神・住吉大神。
 ある日の昼下がり、境内に入ってみたが、表通りの新なにわ筋の騒音も途絶えて、まるで別世界。大木もある。鳥居や石垣に「紀元二千六百年」の文字が刻みこまれているのをみて、かっての出征軍人を送る埸面を連想していた。

風水害とたたかいつづけた住民

 そこで気がついたのだが昭和十一年建立と記されたものも多いということであった。この謎はすぐに解けた。昭和九年九月二十一日大阪を襲った室戸台風のために、津守町方面は、大阪港から木津川一帯にわたる高潮により各所で堤防が決壊し、濁水氾濫したちまち泥海と化し、全町約三千戸はその殆どが浸水床上に達した。しかも土地が低いため容易に減水せず浸水のまま数日を経過したため、同方面の水禍被害は当区中もっとも激甚を極めた。以上のように記録されている風水害により、津守神社は倒壊していたのである。戦後もジェーン台風、第二次室戸台風と津守地区は大きな被害を受けたが、住民は木津川沿岸防潮堤の完成を要求してたたかった。
 今日津守地区の、町づくりでの最大の問題点は、新なにわ筋のダンプ公害と広大な工場跡地ではないだろうか。区民の切実な公営住宅大量建設の要望に応えられるだけの土地が津守に生まれている。抜本的な公害対策を立てるなどを行いながら、こんどは住民による住民のための「新田」づくりにとりくまなければならないと思う。

今昔木津川物語(020)

【編者注】
 「がもう健の郷土史エッセー集」は、2012年9月以降、大阪きづがわ医療福祉生協の機関紙「みらい」に連載記事として、引き継がれています。今後は、機関紙掲載の記事を底本とし(画像も新たに追加)、旧版(出版本)にあった文章もできる限り追加し投稿したいと思いますのでよろしくお願いします。本投稿は、2013年2月号の「みらい」に掲載された分を編集したものです。

吉田兼好よしだけんこう藁打石わらうちいし

 聖天山天下茶屋正円寺の南坂参道入口に「兼好法師藁打石けんこうほうしわらうちいし」がある。
吉田兼好よしだけんこうとは、鎌倉時代末期の歌人・随筆家で本名は卜部兼好うらべかねよし、京都吉田に住んでいたので、この姓を称した。十九オで二条天皇に仕え二十代の半ばに従五位下左兵衛佐ひょうえのすけ(官位)に任じられるなど早い出世で、すでに歌人として、認められていたようである。その後、彼が何故いつ出家したのか、名作「徒然草つれづれぐさ」はいつどこで書かれたのかは殆ど判っていない。正平しょうへい五年(一三五〇年)六十七オ没といわれる。

兼好が密勅を北畠顕家へ

 通説では南北朝の争いで、当時伊賀でくらしていた兼好が南朝の密勅みっちょくを受けて、奥州の北畠顕家きたばたけあきいえのもとに赴いた。その後、顕家が髙師直こうのもろなおと戦った阿倍野のほとりに庵を構え、命松丸めいしょうまるという童と寂閑じゃっかんという僧の三人で、わらを打ちむしろを織って生計を立て、読経三昧に顕家の菩提ぼだいをとむらったという。
 そうだとすると、兼好が阿倍野へ来たのは北畠顕家が討死した暦応六年以後となり、五十五オの頃となるが、顕家はこの年の三月に阿倍野で高師直と戦って負けてはいるが討死はしておらず、同年五月二十二日、南へなかり離れた和泉の石津浜で戦死している。顕家を弔うなら当然和泉へ行くべきはず、と、阿倍野に居たことを疑問視する見方もあるが、私はやはり兼好は阿倍野に居たと思う。

兼好阿倍野説を唱える根拠

 当時、兼好の庵の辺りは手(帝)塚山古墳をはじめ大小のさまざまな古墳が丘をなし、西には玉出の浜も近く活きのよい魚もあり、砂地の畠の作物も豊かにある。また、百年程前まではあれほど栄えた、熊野三山への参詣街道であった熊野街道の、今では草原の中にあり往来する人もまばらという、兼好が筆をとるには最高の環境であった。
 「徒然草」の中に一段だけ政治を厳しく批判したものがある。その内容は、後醍醐ごだいご天皇の「建武けんむ中興ちゅうこう」や「王政復古おうせいふっこ」の実態が、庶民のくらしをいかに痛めつけているかということを指摘したもので、権カから弾圧されるおそれのある内容のものである。
 かって、北畠顕家と楠木正成くすのきまさしげが政権の腐敗を知り、農民への増税を止めよ、税金のムダ使いはするなと激しくそれを批判しながらも、結局は人心の離れた朝廷を保守するために負け戦と知りつつ出陣せざるをえなかったときに、それぞれが後醍醐天皇に諫言かんげんしたものと兼好の一文は同じ立場のものであった。
 伊賀の忍者と関係し、反権力の思いを持っていた兼好が、顕家戦死の石津浜で顕家の菩提を弔う行為をしなかったのは、むしろ当然のことであったと私は推理する。

圧政に悲憤慷慨した兼好

 兼好が四天王寺や住吉大社に反古紙をもらいがてら取材に行ったことが書かれた一文もあり、阿倍野で藁を打ちながら、圧政に悲憤慷慨していたのは事実ではないか。
 「隠棲庵碑」はもとは阿倍野警察署南横を四百㍍ほど西へ入った所にあった。
 「藁打石」は旧松虫通の柘榴塚という小さな古墳の上の、千両松という巨木の根本に置かれており、土地の人は夜啼石とも呼んで触るのも怖がっていたという。

ディサービスセンター「つれづれの里」オープン

 「聖天山さん」の近くにある、私たちのディサービスセンターがその名を公募した結果「つれづれの里」と命名されたことは、兼好の思いをひきついだものといえよう。

今昔木津川物語(019)

西成・浪速歴史のかいわいシリ—ズ(四)

願泉寺がんせんじ唯専寺ゆいせんじ(大国ニーニ・敷津西ニー十三)

 願泉寺はそのでんによると開祖かいそ永証えいしょう小野妹子おののいもこ八男はちなん多嘉丸たかまると称し、聖徳太子しょうとくたいし守屋征討もりやせいばつに加わってこうがあり、太子四天王寺を造営ぞうえいのとき、運河うんが開削かいさくして諸国よりの木材の運搬うんぱん容易よういにした。

定龍が地域を統一

 その後二十七乗教じょうきょうの時蓮如上人れんにょしょうにん帰依きえ本願寺ほんがんじに加わる。天正てんしょう年間本願寺門徒もんと織田信長おだよぶながと戦った時、時の願泉寺住職じゅうしょく定龍ていりゅうは極めて武略な人で木津一難波・今宮・高津たかつ勝間こつま・三軒家等の門徒を指揮しきして一方のしょうとなり、摂河泉せっかせんの間に転戦てんせんし大いに軍功ぐんこうを上げた。その功により、本願寺の願の一字をたまわって願泉寺としょうしたという。
 唯泉寺もその伝によると用命天皇ようめいてんのうおん宇天種みことすえである跡見あとみ赤摂が、聖徳太子の四天王寺建立に際し木津浦きづうらに来たりてすまい草庵そうあんかまえていたが三十三世跡目光重に至って蓮如上人の弟子となって真宗しんしゅうに転じた。本願寺と信長の合戦の際抜群ばつぐんこうをあげ、夭正八年四月顕如けんにょ上人石山退去たいきょの時当寺に一泊の上雑賀さいがに出発したとのこと。

手をたずさえ「魔王まおう」信長とたたかう

 願泉寺、唯泉寺共に聖徳太子と四天王寺造営にゆかりがあり、またその後の石山合戦でも手をたずさえて「魔王」信長と戦い、空襲で焼失したのも一緒で、それぞれ戦後再建された。
足利あしかが時代より木津川口の陸地化がすすむとともに、海浜かいひんであり大坂に入る軍事上の要衝ようしょうの地として、この辺りの争奪戦そうだつせんが盛んに行なわれたのである。

反戦の伝統生かして

 ガイドライン法という名の戦争法が国会で強行採決されると、待っていたとばかりに、海上自衛隊が艦船かんせん二十五隻、航空機二十一機を出動させて、大阪湾での戦後最大規模の軍事演習を実施した。
 歴史に学んで今こそ地域ぐるみの、戦争法反対の発動をゆるさない大運動が必要なのではではないか。

今昔木津川物語(018)

西成、浪速歴史のかいわいシリ—ズ(三)

鉄眼寺てつがんじ瑞竜寺ずいりゅうじ)(元町一―一〇)

 瑞竜寺は、黄檗宗おうばくしゅう萬福寺末まんぷくじまつにて薬師如来やくしにょらい本尊ほんぞんとしている。寛文かんぶん十年(一六七〇)難波村なんばむらの信者らが薬師堂に鉄眼和尚をしょうじてその再興さいこうはかり、瑞竜寺としたが、ぞくに鉄眼寺と言われるのは、この鉄眼の再興による。昔は寺域じいきも広大であったが明治維新後いしんごせばめられた。仏殿禅堂ぶつぜんせんどうのほか天王堂てんのうどう祠堂しどう禅悦堂ぜんえつどうなどゆうしたが、戦災せんさいにて天王堂焼失をまぬがれたほかほとんどの建物を焼失、現在の本堂などは戦後の復興ふっこうによるものである。

一切経いっさいきょう出版しゅっぱんに全力を

 鉄眼は一切経という、仏教に関する書籍しょせきを集めた一大叢書そうしょにして、仏教ぶっきょうこころざしある者にとっては宝物としてとうとばれるものが、巻数かんすう幾千いくせんの多きにつきわが国では出版がきわめて困難であることから、この一切経の出版を一代いちだいの事業として成就せいじゅせんととりくんだ。
 広く各地をめぐり資金しきんつのること数年、ようやく出版に着手ちゃくしゅせんとした矢先やさき、大阪に大洪水こうずいが起こった。

人をすくうのが先だ

 鉄眼は惨状さんじょうのあたりにして「我か一切経の出版を思い立ちたるは仏教を盛んにせんが為め、仏教をさかんにせんとするは、ひっきよう人を救わんが為めなり、喜捨きしゃをうけたるの金を一切経の事についやすも、えた人々の救助きゅうじょもちいるもするところは一にして二にあらず、一切経を世に広むることはもとより必要な事なれども人の死を救うはさらに必要なるにあらずや」と、喜捨せる人々にこころざしげて同意どうい、資金をことごとく救助のようてた。
 苦心して集めた出版費はついに一せんも残らなかったが、鉄眼は少しもくっせず、再び募金ぼきん着手ちゃくしゅして数年、宿願しゅくがんたすのも近いと喜んでいるところへ、再び、近畿きんき地方に大飢饉ききんがあり、人々の困苦こんくは前の出水しゅっすい以上のものとなつた。鉄眼は再びけっし、出版の事業を中止して、其の資金をもって力の及ぶ限り人々を救い又もやー銭も残さなかったという。

第三の募金に人々の感動

 二度資金を集めて二度救援に使ってしまった鉄眼だったが、敢然かんぜんとして第三の募金に着手した。すると意外にも、鉄眼の深大しんだいなる慈悲心じひしんと、あくまで初一念しょいちねんをひるがえさない熱心さが感動をよんで、喜んで喜捨するものが続出ぞくしゅつ製版せいはん・印刷も着々と進んだ。
 かくて、天和げんわ元年(一六八一)鉄眼が最初の募金を初めてから十八年後にいたって、一切経六千九百五十六巻の大出版は遂ついに完成したのである。これが世に鉄眼版としょうせられるもので、一切経の広くわが国に行われたのは、この時よりのことである。この版木は今は京都は宇治うじの萬福寺に重要文化財として保存ほぞんされ、現在でも大般若経はんにゃきょう語録類ごろくるいが印刷されているという。以上が鉄眼寺の由緒ゆいしょである。

現代の「洪水・飢饉ききん

 今、天災ではない人災じんさいとしての、自民党政治のとんでもない悪政の結果、かつてない大不況ふきょうがわが国をおおっている中で、特に大阪が深刻な影響えいきょうを受けていることはかくしようもない事実である。
 昨年の大阪市内の自殺者四百人、内西成区内で八十五人ときく。一昨年より倍
加しているという。
 また、大阪市内の野宿生活者約一万人。大阪城公園も長居公園も昔日せきじつかんはなく、その結果、路上で凍死とうしなどで亡くなる人、年間に市内で約三百人。
 以上は封建ほうけん社会のことではない、自民党が常日頃からほこっている「自由社会・日本」で現実に起こっていることの一部なのである。

見直しは福祉・教育の切り捨てとは

 一方、府政では、中ノ島に財界のための超豪華ちょうごうかな、不要不急ふようふきゅうな国際会議場が、横山知事の公約に反して、七百七億円もかけて建てられている。この税金の額は一万人の野宿生活者が五年間野宿でなく最低生活できるだけのがくである。市は「オリンピックの誘致ゆうち」に、うつつをぬかしている。そして府・市共に、予算の見直しはもっぱら福祉・医療・教育に向けられているといるという。まったくの逆立さかだち政治の横行おうこうは目に余る。
 「鉄眼は一生に三度一切経を刊行かんこうせり」のことばの重みをかみしめながら、瑞竜寺からミナミの雑踏ざっとうへ 足を踏み出したらすでに夕刻ゆうこくであった。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第24回・第25回

◎天智天皇陵(沓塚) 山科

 第三十八代天皇、天智天皇(在任六六八—六七ー)の墓は京都市山科区にある。
 次郎と友子の二人は、今日はこの天皇陵「御廟野古墳ごびょうのこふん」に来ている。次郎等の史跡巡りは、今まで何度も堺や羽曳野の巨大古墳を見てきたので、少しは期待してきたのだが…「幹線道路から長く入り込んだ、大きな露地の奥、という感じだね」「何か天智天皇の墓としては物足りない」と友子も。
天智天皇てんちてんのうは前の名を「中大兄皇子なかのおおえのおうじ」と言い、中臣なかとみ鎌足かまたり(後の藤原鎌足ふじわらのかまたり)と共に蘇我入鹿そがいるかをだまし討ちというクーデターで倒し、後に「大化の改新」を行った人物。
 次郎は語る、「日本の正史とされる『日本書紀』には天智天皇の御陵は明記されていない。天智天皇は病が原因で亡くなったと書かれているのに。また、『日本書紀』にはこれを編纂させた天武天皇の生まれた年が書かれていない。天武天皇てんむてんのうは天智天皇の弟だとなっているのに。平安時代の末期に比叡山功徳院の皇円こうえんという高僧が書いた歴史書『扶桑略記』には、天智天皇は山科の郷に遠乗りに出かけたまま帰ってこなかった。探したが道に天皇の沓が片方、落ちているのが発見できただけで、天皇の姿を見つけることはついにできなかった。仕方がないので、その沓の落ちていた場所を陵とした。と記されている。だから地元の人はこの古墳を『沓塚』と呼んできたとか」「それがここだね」
 「天智天皇てんちてんのうが病死ではなく、遠乗りに出かけた際に殺されて、遺体はどこかに隠されたというのなら、その犯人は一体どこのだれなの」「殺人事件の場合、被害者が亡くなる事によって結果的に利益を得る人物が犯人として疑われるのが普通だが…」
 次郎がつづけて「当時の朝鮮半島は『高句麗・百済・新羅』という三つの国があり、天智は百済派、天武は新羅派で、背景には大国である唐との外交問題がある。結果的には親唐路線を取るべきだと主張する勢力が勝つたことになる」
 「実は天武の方が兄だったの」「となれば、兄であるのになぜ先に天皇になれなかったのかという疑問も出てくるし」
 「この際、『追号』について述べておくけど。天智とか天武てんむとかいう呼び名は、その天皇が亡くなってから贈られる名前で、現在は、その天皇の治世に用いられた元号がそのまま追号として、例えば大正・昭和がそうだけど。でも昔は天皇が亡くなった時に、その天皇の人柄や業績、好みにちなんだものが選ばれて贈られました。例えば平安期の中頃の醍醐天皇だいごてんのうの場合、この天皇が醍醐という食べ物が好物だったからと言われています。基本的には中国の古典から取られているよ」
 「認知症のお兄さんの近況は…」「この間ディサービスに哲学の本を持ち込んで読んでいたらしい」「すごいじゃないの」「朝と夜を取り違えて、夜の九時前にディサービスの迎えの車が遅いと怒ったりしているのが増えてきているが…」「今日もありがとう」「お互いにがんばろう」

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2018年3月、4月号

今昔西成百景(027)特別編「西成の空襲」④

◎治安維持法下を語る
      F.H.さん寄稿

 私の夫F.Y.は、十四オで水平社の活動をはじめ、十六オのとき四・一六事件で逮捕されました。逮捕者の中で一番若かったと思います。
 私は、一九二一(大正10) 年九月四日、浪速区栄町に生まれました。かっての西浜、渡辺村で、逃れてきた大塩平八郎を守ったことを誇りとして語り継いできた村です
 父は靴職人で、半月勘定。一日と十六日に賃金をもらい、給料払いで生活していました。小学校に通ったのは一ヶ月だけです。米を買いに行ったとき「金もって買いに来い」とイヤミを言われ、自分で働きに出ることにしたのです。近所の共同工場で、牛の爪を油で圧縮したものを型抜きしてボタンを作るのがはじめての仕事でした。一日十銭ぐらいもらえました。
 家は八十五軒長屋で、向かいに水平社の事務所があり、三才頃から荊冠旗につかまってデモによくついて行きました。ビラまきを手伝うと、一銭か、二銭くれるのがうれしかったです。
 学校には殆ど行かなかったが、走るのが早く、水泳が得意なので、大会なんかの時は呼び出されました。四年生の時、高師浜から五キロの遠泳があり、十人が泳ぎましたが成功したのは私はじめ四人でした。
 修学旅行には、先生が金を出し合って旅費と、小遣い五円くれてつれていってくれました。当時の五円は大金です。家族や近所への土産も買いましたが、たくさん残して帰り、家のおかずを買うのに使いました。
 十三オのとき母が家出をし、私が十人の所帯を切り盛りしました。友達が化粧をしていても、自分はせず、夜中十二時まで兄の仕事を手伝い、兄が寝てからミシンの稽古をしました。三時近く、風呂屋のおじさんがもう湯落とすでと呼びに来てくれて風呂へ入り、ー時間くらい寝て起き出して朝の支度をしました。そんななかでもほがらかで、みなの世話を良くしました。十六の時には三人の兄に嫁持たしました。古着屋で紋付はかま借りて来たり、三々九度の杯もするなど、世話焼きました。貧乏が強くしてくれました。貧乏人のなかで生まれたことを誇りに思っています。
 嫁に来てくれとYの母親から望まれました。「Yちゃん又ブタ箱やで」と近所でしよっちゆう噂になり、アカになんかあかん、何のとりえもない男やと、 まわりの反対もありました。お母さんはええ人で、近くでおかず屋をしており、やさしくしてくれました。こんなお母さんがほしいと思ったのです。ー九三九年十月十六日に結婚しましたが、Yと結婚したというより、お姑さんのところへ嫁入りしたんです。しかし、嫁入りしてからニヶ月月後に姑さんは子宮ガンでなくなりました。
 水平社の活動家だったYは、治安維持法だけでなく、いろんな名目でしよっちゅう堺刑務所に入れられました。戦争が激しくなった時期には「物資統制違反」で逮捕されたこともあります。
 一九四五年三月八日にYに召集令状が来ました。十二日に最後の面会に行きましたが、憲兵が十人くらいついてまわり、話もできないありさまで、トイレにいっしよに入って声をひそめ手ぶりで話しました。
 三月十四日には大阪大空襲があり、親兄弟九人焼け死にました。私は子供を背負って木津市場に逃げ込みました。歩いていると後ろから「子供が燃えている」と声をかけてくれる人があり、あわてておろして火を消しました。
 堺市の親戚を頼ろうと向かっていたときです。阪堺線の我孫子駅の近くでした。連れになっていた三人の親子が、目の前で米艦載機の機銃掃射撃ち殺されました。子どもがむずかり、一歩おくれたことで命拾いしました。本当に生き地獄でした。戦争では親近者を十一人亡くしています。兄の一人は沖縄の万座毛のガマで焼き殺されています。兄の遺骨をもらいに法務局へ行ったとき、兄を帰してくれと大声でわめき、ブタ箱へ押し込められました。御堂筋でも戦争反対の街頭演説をして、ブタ箱へ入れられました。
 戦争反対の気持ちは教えられたものではありません。
 結婚したときから特高につきまとわれました。太平洋戦争がはじまってから、ゆっくりご飯を食べたことはありません。二人の特高がいつも、ご飯食べる横についているのです。風呂屋までついて来ました。焼け出されて避難した小学校へも来ました。何でこんな目にあわされるんやと何度思ったことか。差別された口惜しさも、特高につけまわされた口惜しさも一緒です。
 夫Yは一九九一年十二月二十一日に死去しました。彼から多くのことを教えられましたが、私は生涯それを守り、今では息子も孫も日本共産党員として活動しています。それが私の最大の誇りです。

編者注】写真は、「御津八幡宮付近から道頓堀方面」(Wikipedia より)

今昔西成百景(026)特別編「西成の空襲」③

◎戦いのつめあと
      K.J.さん寄稿

 太平洋戦争が始まったのは、昭和十六年十二月、私が十オのときでした。
 子どもなのでよくはわかりませんでしたが、 戦いが始まって間もないころは、威勢の良い勝ち戦のニュースばかりで、大人にまじって、自分も強くなったようで、うれしく思っていました。
 そのうちに、 だんだん日常生活が不自由になって、食べ物も衣類もみんな配給制になって、何でも行列しなければ、買えなくなりました。
 お米は一人一日、四・五デシリットルぐらい。ご飯の量を増やすため、 お米の中に大根やさつま芋、大豆をいれて炊きました。白いご飯をおなかいっぱいに食ベるということは、夢にもみられないことになりました。それにお魚も、野菜も配給で、とても栄養を満たす量はなく、みんな大変スリムな体をしていました。
 食べ物ばかりではなく、家庭内の金属類も、鍋や釜だけをのこして、みんな兵器に変えるため供出しました。
 もちろん、繊維製品も例外ではなく、衣料切符というものが発行されて、一年に一人何点と決められ、その範囲内で計画的に買い物をしました。タオルを買えば靴下が買えない。ズボンを買えば、シャツが買えない。だから、母親は、暗い電灯の下でいつも家族の衣類をつくろっていました。
 昼は配給物資の行列に並んだり、乏しい材料で、少しでも楽しい食卓にしようと、それはそれは、大変な苦労をしていました。
 そんな不自由にも必死に堪えて、「欲しがりません勝までは」「ぜいたくは敵だ」の合言葉をかみしめつつ、日本の勝利を信じて、ただただ一生懸命に奉公していました。
 学生でも、勉強はできず、毎日軍需エ場で、勤労奉仕をしていました。
 夜は、灯火管制といって、空襲をさけるため、外にあかりが漏れないように、電灯を黒い布でかこい、窓も全部黒いカカーテンで覆い、 家の中は薄暗く、外は真っ黒でした。今のようにテレビはなく、ラジオだけを頼りに、每夜じっと息をひそめて朝を待ちました。それでも空襲もなく朝まで寝られるのは幸せでした。
 日本本土へも、敵の編隊が飛んできて軍需施設や民家に爆弾を落とし、焼火弾を雨のように降らせ、日本のあちこちで毎日のように損害がありました,大阪に空襲警報がでると、その都度防空壕へ避難しました。
 そのころみんなの服装は、女性はズボンを太くしたようなモンペというものをはき、細長い座布団を二つ折りにしたような、防空頭巾をかぶり、男は学生服に似た型の黄土色の国民服を着て、脚にゲ—トルを巻き、戦闘帽をかぶり、男女とも、肩から鞄をかけ、胸には、自分の住所と名前・血液型を記入した白い布を縫いつけていました。いつどこで負傷するかもわからない毎日でした。
 男は四十二・三才から十八オくらいまでの人は、全部戦線に送られ、毎日どこかで、出征兵士を送る「パンザイ、バンザイ」の行列がありましたし、町内の、あちこちには名誉の戦死をとげられた英霊をむかえる家が増えてきました。したがって、 町は、中高年の男子と、女性と子どもばかりになってしまいました。
 女の人は苦しい家事のほかに男のしていた仕事もしなければならず、銃後の守りといって、 防空訓練や、本土決戦に備えて「えい、や—」と竹槍の訓練もあり各家庭ことに防空壕を掘るよう命ぜられ、家の中と空き地に壕をほり、 空襲警報が発令されると、みんな大急ぎで、 その中へ逃げ込みました。
 その時間が長くなることを考えて、 ご飯やお茶、貴重品を持ち込み、じめじめしてかび臭い壕の中で小さくなって、肩を寄せ合い、息をひそめ、持ち込んだ鉱石ラジオのニュースに耳をそばだてていました。
 そのころは、戦争の状態がますます悪くなり、都会は極めて危険でした。だから老人や子どもは、田舎へ疎開するように命令され、疎開する田舎のない子どもは、集団疎開をして、親と離れ、空腹で淋しい生活を強いられていました。
 昭和二十年、私は十四才になっていました。学徒動員で、軍需品を作る毎日でした。
 その日、三月十四日は、午前零時ごろ大阪に空襲警報が発令され、それはいつになく大がかりなものでした。急いで身支度をして、家族五人が自宅(現在橘三丁目)工場内の防空壕に避難しました。空襲はいよいよ激しく、午前二時ごろ、とうとう我が家に焼夷弾が落ちました.しかもそのうち何発かが家族の避難している防空壕を直撃したのです,壕の中はたちまち灼熱地獄となりました。
 壕内の寒さに耐えるため、 冬服を着て、綿の入った防空頭巾をかぶり、マスク・手袋をつけて避難していましたが、 全身火だるまになり、必死で服や頭巾の火をはらいました。しかし、焼页弾の火はねっとりとへばりつき、なかなか消えません。
 厚い服や、頭巾の部分は、どうにか無事でしたがマスクや手袋はあわてて脱ぎ捨てたものの、薄い布地を通して、顔と両手は既に重いやけどをおっていました。防空壕に居た一家全員が同じようなやけどをおいました。特に母は自分も火だるまになりながら、先に私の火を消そうとしたために、一番重いやけどになってしまいました。結局、父と母と自分は顔と両手に重度のやけどを、兄は耳、姉は左手にそれぞれやけどをおいました。
 もちろん、家も工場も、ほとんど焼け落ちました 夜明けになって、外へ出てみると、 近くの家々も全焼または、半焼で、まだ煙がたちのぼっていました。焦げくさい臭いが一面に立ちこめ、自分たち同様に負傷した人々が、地域の赤十字救援隊へむかって歩いていました。
 自分も救援隊て応急の処置を受けて.すぐに病院数箇所をまわりましたが、どこの病院も満員で、入院させてもらえませんでした。
 しかたなく、みんな重傷の身で、岡山県にいた親戚の女医をたよって必死の思いで岡山までたどりつきました。そこでは大変親切に看護を受け、めいめいが、ある程度体力と気力を回復するまで、治療と援助を受けました。自分は、一年半お世話になって、大阪に帰ってきました。
 二十年八月、日本が戦争に敗れて戦いは終わりました。大変悲しかった反面、もう空襲もないし、防空壕に入ることもない、夜も電灯を明々とつけられる、そんな安心感とうれしさもありました。
 二十一年二月には父が急死しました。戦争までは父が鉄工所を経営し、母が助産婦をしていましたが、母はやけどで両手の機能を全く失いましたので免状があるのに、もう助産婦の仕事をすることもできなくなっていました。父の死で、我が家には収入の道が全くなくなってしまったわけです。
 私は、もう自分が学校をやめて、働くしかないと決心しました。あちこち、五、六社も面接に行ったでしょうか、しかし、どこに行っても赤くひきつ ったケロイドの顔と、みにくく曲がって不自由な両手を見ると、採用してくれませんでした。
 思いあまった私は、西成区役所へお金を借りに行きました。当時、そんな制度があったのです。しかし、まだ一五歳の私に貸してくれるはずもありません。生きていくために、なんとしてもお金を作らなくてはいけない。私はあせり、追い詰められていました。道路工夫でやっと採用され、一生懸命頑張りました。でも、この仕事でも、指の関節が不自由なこともあり、もたもたしていて、口ぎたなくののしられることもたびたびです。また、通勤の途中でも、顔のケロイドが人目につき、「猿がきた、猿がきた!」とばかにされたり、冷たい目で見られたり、悔しいことばかりの毎日でした。つい、その苦しさを母に訴えた時、母は「腕を磨いて、人を見返しなさい」と励ましてくれました。母にこう励まされてからは、ののしりも聞かず、冷たい目も気にかけないで、ただひたすらに働きました。
 それにしても、自分の青春は、焼夷弾を落とされた日を境にして、真っ黒に塗り潰されてしまいました“必死に働く “目標も 、自分の手のなくなってしまった自由を取り戻すことでした。
 昭和二十四年、ようやく手術をうけるだけのお金がたまりました。阪大で何年もかけて、四回の手術を受けました。その結果、右手の機能は、完全に回復しました。しかし、左手のほうは、親指、薬指、小指の三本が伸びないままとなってしまいました。
 顔のケロイドもすこしはましになりましたが、口は三分の一しか開かなくなってしまいました。
 不自由ながら、指を動かせるようになって、戦災で焼け落ちた父の工場跡に、卜タン板で囲んだ工場を復旧しました。使えそうな機械を修理して、ぼつぼつ仕事を始めました。父の時代のお得意様が、同情から、 多少の仕事をまわしてくれましたが、生活はまだまだ苦しく、新しい仕事を求めようと、あちこちの会社を回りました。しかし、ケロイドにひきつる顔と、不自由な手、まだ年若い自分を見ては、だれも仕事をくれません。それでもこりずに何度も何度も訪問を繰り返し、誠意をもって頼みました。そのうち、ようやく人柄をわかってくれたのか、少しずつ仕事がくるようになりました。仕事をさせてもらえば、技量がわかってもらえ、次の仕事もまわしてもらえました。そうして、だんだんとお得意様をふやして、現在にいたっています。
 私は、戦場へは一度も行っていません。それでも、この戦災のために、どんなに苦労をし、血の出るような思いに苦しめられてきたかわかりません。
 今は物資があふれ、 お金持ち日本といわれ、平和に慣れて、人々の行為や考え方に、時に「これでいいのかな」と思うこともあります。
 勉強したくてもできない。おなかがすいても食べ物がない。服がやぶれてもつくろう布さえない。夜は灯もつけられない。レジャ—など思いもよらない。すべてに耐えても命の保証さえない。夫や父親をなくした不幸な家庭、戦争で病気や障害をおった人々 家を焼かれ道端で寝る人々。家族をなくした戦災孤児。こんな生活や、人間たちの姿が私には忘れられません。今日の平和は、この犠牲の上にあることを忘れないでくたさい。
 これからは国際化の時代、世界から笑われない、力強くて、賢い日本を築くのは、君たちの仕事です。どうか戦争を忘れずに、平和のありがたさをかみしめて暮らしてください。