西成・浪速歴史のかいわいシリ—ズ(五)
◎ 篠山神社 (元町二—九)
大坂における常設市場としては、古くは天満の青果市場、靭の干魚市場、雑喉場の生魚市場、木津難波の青物市場が有名であるが、その中でももっとも木津難波市場が新しい。
金で買った特権ふりかざし
徳川時代には、青果は天満、干魚は靭、生魚は雑喉場と限定され、市場は年々幕府に巨額の上納金を差し出し、その代わり取扱品独占の特権をもらい、生産者の直売などは厳しく禁止されていた。
しかしそのためには、すべての青果物はわざわざ天満まで搬出せねばならず、その手間や費用の点で、難波・木津・今宮の百姓たちは永年にわたり苦しんできた。
子守歌が今も証言
大坂の子守歌に「ねんねんころいち天満の市よ、大根揃へて船に積む、船に積んだらどこまでいきやる、木津や難波の橋の下」というのがあるが、大根の生産地である木津村・難波村の人も、わざわざ天満市場を経由した大根を買わねばならなかったということを、歴史的に証言したものになっている。
畑場八ヵ村の悲願・宿願
かつて畑場八ヵ村と称された、勝間・中在家・今在家・今宮・木津・難波・西高津・清堀の村々は村内水利に乏しく、全面畑場にして水田は全く存在しないという状態だった。また、この辺りの地質が砂質であり根菜類の栽培には適していたということもいえる。いずれにしてもこれらの村々の百姓としては、市場問題は自らの死活問題として、自然立ち上がらざるをえなかったわけである。
かくて難波・木津・今宮の百姓たちは、道頓堀南側や湊町大通りなどで立ち売りをおこなったが、そのつど天満市場からの苦情で幕府も弾圧に出てきたため、なかなか地元での市場の設置は認められなかった。
人情代官篠山十兵衛の奮闘
難波八阪神社に残る古文書によれば、正徳四年(一七一四)より文化六年 (一八〇九)まで実に九十五年の間にわたり、苦情の出るたびに地を替えながら、密かに立ち売りをつづけ、度々の嘆願書を出し、遂に、代官篠山十兵衛の尽力によって文化六年六月二十七日(一八〇六)次の条件付きで立ち売りが許されることになった。
「市立に似寄の儀致間敷事。他所他村の荷主青物を持ち来たり候とて決して村内に立ち入れざる事。十三品(大根・菜類・茄子・人参・冬瓜・白瓜・南瓜・西瓜・若牛芽・葱・分葱・芋類・蕪)に限り土附きの儘一荷に不足の分だけ村内物青<ママ>渡世の者へ譲渡し、十三品の儀も一荷に相成候分並に十三品外の青物は此迄通り、天満市場に差し出し申可事。右聊かも違背なき様致すべき事」という、大変厳しいものであった。
しかし、当時としては誠に異例の出来事でもあった。
善政の責任を負い自刃説も
で、今宮村への朝役・神役奉仕に対する課役免除の恩典を寛政八年(一七九七)に二百数十年ぶりに実現させたという偉業を紹介したが、その斡旋を行ったのが新代官篠山十兵衛であったのだ。度重なる住民の立場に立った行政を幕府よりとがめられ、一説によればその後責任を負い自刃したとの話もある。
・現代西成百景(その二十三)弘治—伊藤村長父子の義侠」参照。
今も毎年篠山祭り
この時に免許を与えられた難波村百姓市場が、その後木津難波魚青物市場へと発展し今日に至っているのである。地元の人は篠山代官の徳を偲び、難波八阪神社境内に篠山神社を建て、今も毎年九月二十六日篠山祭りという祭礼をつづけているという。
先日、難波八阪神社に参拝し、神社の人にたずねると、篠山代官は十数年の長きにわたり代官を勤めた後、佐渡の金山奉行となり五十オで没し墓は佐渡にあるとのことである。















