◎安養寺
安養寺(岸里東一丁目)は浄土宗知恩院派一心寺の末寺で本尊は阿弥陀仏、元禄二年(一六八九)三月、西国巡礼を志した官女が当地寺田善右衛門方に滞在中、善右衛門の勧めで大阪一心寺の天誉和尚に弟子入りし、貞誉清薫と名を改めて、剃髪、同寺を創建した。二回の火災、空襲と受難の多い寺だ。
安養寺には文政四年(ーハニー)七〇才没の劇作家佐藤魚丸の墓や、嘉永二年(ー八四九)五七オ没の、大阪相撲の名カ士猪名川の墓がある。猪名川の墓の横「紙治おさんの墓」と刻まれた小碑は、近松門左衛門の最高傑作の一つ「心中天網島」のモデル、紙屋治兵衛に貞節を尽くした妻、おさんのものである。
話は「天満の紙小売商治兵衛は曽根崎新地の妓婦小春にひかれ三年越しの関係となる。妻のおさんはついに小春に直接夫と別れるように頼みこみ、小春はわざと治兵衛に愛想づかし。そのあと小春に身請け話が出て自害しようとするのをみて、おさんは夫に事実を話し小春を身請けさせようとするが、怒ったおさんの叔父五左衛門に無理に連れていかれ、小春と治兵衛は大長寺の薮で心中する」というものである。
おさんが安養寺の尼僧に
この心中事件は享保五年(一七二〇)ー〇月ー四日の夜のことで、おさんの墓に宝暦九年(一七五九)とあるのは、おさんは夫を失ってから三九年生きていたことになるが、夫の一回忌を済ませたあと出家し、晩年は安養寺の尼僧になったと伝えられている。
松の木大明神(太子二丁目)は、今池市場の西裏にあり創建は不明だという。この境内に近松門左衛門の巨大な碑がある。明治三〇年に建立し、四年後に南区より移転したもので、近松の辞世の句も刻まれている。
赤穂浪士討ち入りから四ヵ月目の元禄一六年(一七〇三)四月、曽根崎露ノ天神社の森で心中があり、近松はこれを「曽根崎心中」として五〇才のとき書いた。六七オになって書いた「心中天網島」では、この事件を住吉にいて聞いた近松は早籠を雇って現場へ急行したとつたえられている。近松の「心中物」が、封建社会の束縛の告発から社会性をおびるようになることを恐れた八代将軍徳川吉宗は、享保八年(一七二三)に心中物の上演を禁じる法令をだした。その翌年近松は世を去った。七二オであった。
江戸時代にはあった年貢の減免
NHKの大河ドラマ「八代将軍吉宗」では、庶民派将軍として描かれ、得点を稼いでいるが、実際の吉宗は極端な引き締め政策を取ったワンマン将軍であった。しかしそれでも、当時の洪水・大風雨・旱魅・水損・虫害などに際して、その都度「年貢の減免ありたり」と、年表に書かれている。
今、大阪市の国民健康保険の料金は異常に高く、平均サラリーマンの場合退職すれば一年間は月四万円を、まず覚悟しておかねばならない。しかも最初に三ヵ月分の前納が普通だという。スイス一国の予算より多いと自慢の大阪市だが、庶民にとっては天災と同じような今日の「バブル不況」についての国保料減免を拒否する体質は、吉宗以上だと云わねばならない。この際、大岡越前守にでもお出まし願って、財界と「解同」ベッタリの悪政に正義のお裁きを付けてもらおうか。
(ー九九四・七)